一人の恋
時を超え、場所を超え、恋する者たちに降り注ぐ朱い月光。ある人はそれを災悪の前兆とし、ある人はそれを奇跡の前触れと思う。悲劇を照らす朱い月と、それを捜し求める男。最後は、そんな物語……。
シューマは時空について研究する科学者だ。彼の技術はトップレベルで、彼によって作られた転送装置は世界中で利用されている。その彼も、未だに試験運転すら出来ない機械がひとつある。数年前に作成された時空転送装置。時と世界を移動することが可能と、理論的には出ているが、いまだ試す人がいない。失敗すれば、どうなるか分からないからである。しかし最近になって、シューマはこれを試したくて仕方なくなっていた。夢で、またあの朱い月を見たのだ。
子供の頃に見た朱い月は、何よりも美しかった。大人になっても忘れることが出来ず、シューマはなんとかもう一度その月を見たいと願っていた。そして何度も迷った末に、旅に出ることにした。時空転送装置を使った、時空を跨ぐ旅だ。シューマは様々な時代と世界を渡り歩いた。目的はただ一つ、もう一度あの朱い月を見るためだった。ふと立ち寄った世界を、シューマは月を見上げて歩いた。銀色の月が今にも朱く染まってくれるのではないかと、そう期待しているかのようだった。上を見て歩いているわけだから、当然足元がおぼつかない。シューマは思いっきり躓いてしまった。土をはたきながら起き上がると、目の前を一人の男が建物の壁にもたれて座っていた。月を見ながら泣いている。
「あの、良く月を見てるんですか?」
シューマは痛む膝を擦りながら、しゃがんでその男に問いかけた。
「ああ」
少し掠れた声が返ってきた。
「朱い月、見たことありませんか?」
シューマは興奮していた。もしこの男が朱い月を見ていたのなら、過去に戻るだけでいい。男は鋭い目でシューマを睨んだ。
「あるさ。あの月は死んでも忘れないよ。不吉だよ。あの月が出た日に、おれの大切な女が死んだんだ」
男は吐き捨てるように言うと、また月に向き直った。シューマは何も言えなくなって、その場から立ち去った。
その世界の過去にも行ってみた。正確な日時を知らなかったシューマは、数十回も過去に戻る作業を繰り返すことになった。そしてついに、シューマは朱い月を見ることが出来た。大分若くなったあの男の身におきた悲劇も、見えてしまった。
「朱い月か……。不吉、なのか?」
疑問が芽生えたシューマは、今まで以上に真剣に朱い月を探すようになった。たくさんの世界で、たくさんの恋人を失った人を見つけた。彼らはみんな、朱い月を見ていた。いくつも世界を巡った後、シューマは最も月に近い世界にたどり着いた。
「君は、悲劇を招いているのかい?」
シューマは手に持ったお酒を月に向かって高く挙げて訊いた。答えを期待しているわけじゃなかった。彼の月に対する愛は、朱い月への恋心は、揺らぎ始めていた。
「~~~~~~」
月から何かが聞こえた。シューマは驚いて月を見上げた。月の光が、一筋だけ濃くなって、シューマの上に降り注いだ。
それは月の思い出だった。遥か高いところから、命巡る人々を覗く。月は短い命を生きる人々が愛おしかった。その命の限りに誰かを愛す人間が、可愛くて仕方がなかった。でも、全ての恋が果実を実らすわけではなかった。彼らの恋は、自分たちに、他の人に、その世界に、砕かれてしまった。月は、その恋が砕ける前から、それが砕けることを知っていた。全てを見ているからだ。恋人たちが、その片割れを失って、嘆き悲しんで、生きる希望を失っていくところを、月はただ見ていた。助けてあげることも出来ずにただ見ていた。もし自分に身体があるとすれば、彼らを救うことが出来ただろうか。そう考えながら見ていた。別れの日、優しい月は決まって静に涙を流した。それは悲しい涙であり、寂しい涙であり、悔しい涙であり、憐れむ涙であった。しかし月の涙は朱色だった。淡く儚い朱色だった。永遠泣き続けた月は自分の涙に溺れて、淡く朱に染まってしまった。それでも月は何も出来ない。助けることも、自助の方法を教えることもできない。月はにできるのは、それらを全部見届けて、幸せになれと願うしかなかった。
シューマンは泣いた。月がかわいそうで、その悲しみが自分のもののように思えた。揺らぎ始めた月への気持ちは再び固まって、しかも以前よりも強くなった。月の思い出から戻ってきて、シューマンは笑った。月を見上げて、素晴らしい笑顔で笑った。人以外のものに恋してしまった。触れるどころか、近づくことすらままならない相手だ。しかも、単なる愛ではなかった。シューマンは真剣だった。真剣に、月を自分の唯一の恋人として見ていた。
「好きだ。僕は君を愛している」
柔らかく細められた目で、月を見つめた。
「たとえ届かないとしても、一生触れることが出来ないとしても。僕は君を愛し続けるから」
夜空に向けたシューマンの笑顔は何よりも輝いていた。何処からか雲が流れてきて、月の下側を少しだけ隠した。それはまるで、月が恥ずかしがっているようだった。
あの月への告白から数十年。シューマン月に一番近い世界から一歩も出なかった。おかげで元いた世界では大騒ぎになっていた。有名な化学者が行方不明になったのだ。当たり前といえば、当たり前である。シューマンは月に一番近いところで、月にひたすら語りかけて、その一生を終えた。この恋は悲しいだろうか。たしかにシューマンは一生を独りで過ごしていた。ずっと一人で、月を見つめて。返ってこない言葉をかけ続けて。でも、シューマンは恋することに満足していた。月を愛し、見つめ続けることに幸せを感じていた。唯一寂しく思うことがあるのだとすれば、それは触れられないこと、月が隠れてしまう日があることだろうか。
シューマンが亡くなったのは真昼のことだった。眠るようにして、穏やかに亡くなった。月は太陽の陰に隠れて、その姿を見せることはなかった。この時の月が朱色だったかどうか。誰も見ていない。