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井戸の怪

 元久は親の仇といえど、五つも年下の少女を殴打し、踏み付けにしたことに気分が悪かった。

 最愛の妹、鈴ともよく似ているまほろ。鈴は目元が父親似だが、まほろは元久の記憶に薄っすらとある母と恐ろしくよく似ていた。十三を過ぎた辺りから、ほぼ瓜二つと言っても過言ではない。

 まさか、母を奪っておきながら、その恋しい母に暴力を振るったような気分にさせるなど、腸が煮えくり返って死んでしまいそうなほど憎い。


 元久の見合いは今日、これから片手の指の数と同じになる。

 最初の女は隣の山の田舎娘で、声が大きくお転婆で好かなかった。二番目は鈴の紹介であったが、醜女だった。三番目もまた鈴の紹介で都会のハイカラ娘だったが、小さな村になど住めぬと見合いの最中に帰ってしまった。四番目は記憶に無いほど印象に残らない女だった。


 元久には好いた女がいる。

 その女の名はハツ。この屋敷で下女として働いている。

 ハツはとびきりの美人でもなければ、秀でた才能も無い。どちらかというとやや忘れっぽく、おっとりしている。

 元久にとっては、それら全て、欠点も含めて何より愛らしく見える。誰よりも自分を理解し、優しく包み込んでくれる。

 家格や財力、顔の良し悪しよりも、元久はハツの内面に惹かれている。と、本人は思っている。


 飲水を汲み上げる井戸の裏で、毎日逢瀬を繰り返すうちに、元久はハツへの想いを更に大きくしていた。ハツのように包容力に富んだ愛らしい女性を妻にしたら、きっと死ぬまで幸せだろう。ハツ以外、元久にはありえない。だが、それは叶わぬようなので、適当に妻を一人決めたらハツには妾として側にいて貰うことにした。

 ハツは初めのうちは照れていたが、最近は子供の話までするようになった。

 正式に夫婦にはなれないが、ハツと子のことは生涯責任を持って世話をすると誓うと、それならば妾でも構わないので、側に居させて欲しいと願ったのだった。


 これから見合いだと言うのに、別の女と会っている元久は一途で誠実なのか、そうではないのか。叶わぬ恋に溺れる哀れな人間か、それともただの屑なのか。


「ハツ、まだか、ハツ……」


 それにしても、飲水を汲み取る井戸だというのに今日はなぜだかここら一帯が生臭い。まるで腐った魚と、糞尿をかき混ぜたかのような凄まじい悪臭がどこからか漂ってくる。

 近くに野良猫の死骸でもあるのだろうか?

 元久は井戸の周りをぐるぐると歩き、中も覗いてみたが、それらしいものは見当たらない。ただ、井戸の奥から異臭がしてくることだけは確かだった。


「あら、元久さん。何してらっしゃるのですか? 井戸なんかのぞき込んで」

「おお、ハツ。いや、妙な臭いがしたので確認していただけさ」

「妙な臭い、ですか? どのような?」

「ハツは感じないか?」

「はい、特には……」


 嘘など吐くはずのないハツがそう言うのなら、気のせいなのだろうか。

 いいや、しかし、気のせいだとしたら何かの病気かもしれない。鼻の中に何か良くないものでも溜まっているのか。


「元久さん、今日はお見合いと聞きましたけれど」

「ああ……どうせまたろくでもない女さ」

「まあ、そんな風に言っては、失礼ではないですか」

「なあハツ、俺にはやっぱり、ハツしか愛せないよ」


 元久は膨よかなハツの腰に手を回す。恥ずかしそうに微笑むハツの唇に口付けでもしようと引き寄せた刹那、元久はまたあの臭いが強くなったことに気付いて、閉じかけた瞼を開く。

 ハツの向こう見える井戸から、轟々と音が聞こえてくる。少しずつ大きくなっていくそれに、更に爪でカリカリと何か引っ掻くような音が加わった。

 これは何かが這い上がってくる音だ。井戸からそれが出て来ようとしている。


「あ、ああ……」


 井戸の縁に指が引っ掛けられる。血の通っていない青く見える手。生きた人間のものでないことは明白だった。

 一歩、またもう一歩と後ずさる元久のおかしな様子にハツが頭を傾げた。

 まるで何にも気付いていない。いつもと変わらぬ朗らかな笑顔。


「元久さん? どうかされましたか?」

「あ、ああ、あ」


 元久はその光景に、ただ井戸に人差し指の先っぽを向けることしかできない。

 井戸から悪臭と共に不自然に出てくる長い黒髪、白すぎる腕と聞き取れない不思議な言語。

 風もないのに、ぱらぱらと紙が翻るような音がやたらと響く。まるで耳の中で起きていることのように鮮明に。

 蝿の羽音のようなブンという音までもが小刻みに耳へ近付いたり離れては蠢いている。肺が小さくなったように、元久は浅く息を吸っては吐いてを繰り返した。


「井戸? 井戸がどうかしたのですか?」


 振り返ったハツには、何が見えるのだろう。いいや、何も見えてなどいない。

 井戸の怪異は元久を探している。元久を呪おうとしている。顔に紙を一枚貼り付けた女のような男のような、人のようなそれは井戸から這い出ると、こちらに向かってズルズルと進みだした。

 元久の想像していたよりも胴がやたらと長く、まるで大蛇のように井戸の中へ続いている。


「うわああ!! や、やめろォ!! 来るな!!」


 逃げようにも上手く体が動かず、元久は地べたに尻もちをついた。凄まじい、得体の知れぬ空気のような、気配のような……霊力やら妖気というものは、これのことをいうのだろう。


「■■■■■■■■■」

「なんだ!? なな、なに、を、何を言っている!」

「ママロテヲダママヲ」

「ひいっ!!」


 ベチャ、と水に濡れた肉塊が地面を歩く音が迫り、元久は口から心の臓が今にも出てしまいそうなほど暴れる鼓動に息すらまともにできない。


「うあああああ!!!」


 絶叫し、愛する女さえ置き去りにして地面を這って逃げ出す。耳からあらゆる音が離れない。追いかけられている。ひと目も憚らず、ようやく玄関の土間に転がり込んで、上がり框に手をかけた。

 ベチャ、ベチャ、という手で地面を歩く音はすぐ近くまで来ていたが、ソレは土間までは入って来ない。

 戸のすぐ外には、人間ではない、あまりにも長すぎる体のそれがしばらく佇んでいたが、ほんの一瞬、瞬きの間に消えていた。

 元久は助かった。これが彼を襲った最初の怪異であった。


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