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包丁を突きつけられてなお射抜くように真っ直ぐ見つめる視線に“曰く”の方が顔を強張らせる。
「どうせできないと思ってるけど、もしできるなら殺していいよ」
そう煽ると、図星を突かれたのか“曰く”は唇を噛み締める。
が――
「私は特に未練もないから、死んでもあなたみたいに彷徨うこともないし」
淡々と続けたその一言に“曰く”の表情から煮え滾っていた怒りが消えた。
“曰く”はその虚しい表情のまま包丁にかざしていた手を力なく下ろすと、首元に突きつけられていたそれは私の胸元にゆっくりと降りてきた。
ゆっくりと降下するそれを両手で受け止めたのを見届け、“曰く”はその場に力なく項垂れる。
まぁできないだろうと思っていたけど、案の定できなかった。
この“曰く”は単に行儀の悪い地縛霊なだけで悪霊ではない。この世に、誰かに恨みを抱いて幽霊になりながらも留まっているわけではない。
こいつに誰かの命を奪うようなことはできないと確信していた。
まぁそれもこの際どうでもいい。
「……とにかく、私はこの部屋を出て行かないから」
いい部屋だし、おかげさまで家賃も安いし。
“曰く”の方はもはやこちらに言い返す気力も無さそうだが、そもそもこちらは言い負かそうと思って話はしていない。このまま彼女の心を砕く言葉を投げかけ続ければうっかり成仏してしまうかもしれないが、今の私にとってそれは最善策ではないからだ。
“曰く”と私は共犯関係にある。
私はいい部屋に安い家賃で住まう口実がほしい。そしてその原因たる彼女と意思疎通が取れる上、私の方はそれをどうしようもなく忌避したいなどと思っていない。
祓おうと思えば然るべき手段をとればいいが、私としては祓うまでもないものだと思っているので“心理的瑕疵”の実態としてこの部屋に留まり続けてくれた方が何かと都合がいい。
だが“曰く”にも彼女の主張する領分がある。今後この部屋で共生していくのであればどこかしらで折り合いをつけなければならない。
そして私の方はその準備はとっくにできている。
「ていうか私、あなたのことを無視しようとも排除しようともしてないんだけど、それじゃ不満なの」
それまで虚しく俯いていた“曰く”はハッとしたように顔を上げた。
私はこの部屋で最初に“曰く”に声をかけてしまってから、彼女を無視するようなことはしていない。
目覚めればおはようと言うし、寝るときはおやすみと言う。
でかけるときはいってきますと言うし、帰ってくればただいまと言う。
ただ彼女が自分の主張に必死でそれを聞き流していただけだ。
「えっ……と 特に不満は……ない……です」
つまりこの問答は、歪な共生をこれまで悉く獲り逃してきたために無意識に選択肢から外していた彼女の空回りだ。
別に必要以上に仲良くしようというつもりはないが、必要最低限のコミュニケーションをとれる同居人としてお互い不自由なく暮らしていければそれでいいだろう。
こちらからすれば人語は通じ、あわよくばポルターガイストの恩恵にあやかり、お金がかかるどころか家賃を引き下げる口実になる。そのために多少話し相手になるくらいワケはない。
「はい この話終わり」
「はい……」
つい数瞬前にはこの世の全てに絶望したかのような虚無の表情をしていた“曰く”の顔には幽霊でありながら朗らかな生気を感じさせる微笑が浮かんでいる。顔が忙しない奴だ。
「……まぁ、今後夜中に起こすのだけはやめて」
睡眠はきちんと摂っておきたいし。
「あぁ~……ごめんなさい アレは何か~眠れないから夜中暇で~……」
聞くや否や、言いかけた“曰く”の顔面めがけて包丁の刃を思いっきり突き立てた。
「っでぁああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
「……なんてね」
断末魔の悲鳴を上げて“曰く”は固まるが、包丁は彼女の頭をすり抜けて空を突いただけだ。
「どうせ刺さらないし無駄なんだけど……まぁ、今後はやめてね」
お互いの領分をハッキリさせるためにしつけは必要だろう。
どちらが優位か示しをつけるには最初に強く出るのが肝心だ。
「怖ぁい」
“曰く”は涙目でこちらを見据え、幽霊らしからぬ一言を力なく呟いた。




