第65話 猫が出かけるとねずみが踊る
この国には「猫が出かけるとねずみが踊る」ということわざがある。
鬼の居ぬ間に洗濯。怖い相手が不在中の休息。恐ろしい存在のいない間にほっとくつろいで、肩の力を抜くことをさす言葉だ。
王都の中心街を貫く目抜き通りに面した一帯は、国内でも屈指の高級住宅地である。
富裕層がこぞって居を構える華々しい街並みの中でも、ひときわ人目を引く壮麗な豪邸を所有するのは、資産家として知られるヴァルテン男爵。
瀟洒にそびえ立つ男爵邸の内部では今、主人一家が出かけた後の使用人たちが、猫が出かけた後のねずみのように安堵し、詰まった息を抜き、疲れた羽をそっと休めていた。
今日は年に一度、夏至の到来に合わせて開かれる王国の建国記念パーティーがある。
男爵夫妻と令息の三人も王家から招待を受け、そろって王宮に出向いている。
その準備のために朝早くから使用人たち、特に女主人付きのメイドたちは上へ下への大忙しだった。
この日のために新しくあつらえたドレスとアクセサリーを合わせたヘルミーネが、今になってこれは気に入らないから替えろだとか、あれはセンスが悪いから仕立て直せだとか、無理難題を言い出すわ。
婚約者のクレーフェ伯爵令嬢を迎えに行くために早く出なければならないはずのマティアスが、これまた今になって嫌だ面倒くさいだとか、何でわざわざ行かなきゃいけないんだとか不平不満を言い出すわ。
そんな二人ほど手はかからないが、当主のアウグストもまたあからさまに億劫そうで、妻をエスコートするのがいかにも嫌そうに、深々とため息をつく始末だわ。
それぞれに厄介な三人を三人ともなだめ、取りなし、何とか機嫌を取って身支度を済ませ、予定の時刻に間に合うように馬車を出立させることができたのは、ひとえに使用人たち一同の努力と苦労のたまものだ。
馭者とアイコンタクトをかわし、遠ざかる馬車を見送りながら、使用人一同が深々と頭を垂れること数分。
馬車の影が街道の先へと消えた瞬間。
全員がにぎったこぶしを高く突き上げ、こみあげる解放感を噛みしめた。
執事や従僕たちは襟元をゆるめ、メイドたちはエプロンを外し、猫が不在の間のねずみさながらに、うきうきと踊りながら屋敷へと舞い戻った。
主人たちの身支度のために後回しにしていた自分たちの食事をゆっくりと味わい、とっておきの菓子を出してこっそり摘まみ、ほっと一息をつく。
さすがに酒盛りとまではいかないが、めいめいに羽を伸ばして、この貴重なひとときの平和をのんびりと過ごした。
とはいえ、もちろん普段の仕事を怠るわけにはいかない。
ヘルミーネが帰宅した時に、怠けていたことが伝わったならば盛大に雷が落ちる羽目になる。
普段なら許されない私語を楽しみながら、使用人たちは手分けして、目につく場所を中心に掃除を済ませていった。
馬丁が厩舎を掃き終えたのと、メイドが館内を拭き終えたのと、正門の警護についていた守衛があわてふためいた様子でエントランスホールに飛び込んできたのは、ほぼ同時刻だった。
「た、大変だ!」
──奥様たちがお戻りだ、との急報がもたらされて、使用人たちのつかの間の自由時間は、あえなく終焉を迎えた。
まだ宴もたけなわの時刻なのに、主人である男爵一家が急に屋敷に戻ってきたのだ。
それも出かけた時と同じ三人だけではない。大切な客を招いている──との知らせだった。
けたたましく馬がいななく声が重なり、あわただしく正門の扉が開かれる。
「早く! 早く晩餐の用意をなさい!」
馬車からいち早く降りてきたヘルミーネがわめき立てる。
急な命令を受けた厨房の料理人たちは、おろおろと狼狽した。
──今日の晩餐は要らない、と事前にヘルミーネ自ら宣言していたこともあり、下ごしらえや調理どころか、食材の仕入れさえしていない。
「お客様を満足させるような最高の料理を用意しなくては、ただではおかなくてよ!」
そう錯乱めいた剣幕でどやしつけられて、あたふたと右往左往する使用人たちの前に、もう一台の馬車がゆるやかに停止した。
先にタラップを降りてきたのは、貴公子然とした爽やかな青年だった。表情は硬いが、まなざしは優しい。
青年は均整の取れた背筋を伸ばして立つと、使用人たちの方向を振り仰ぎ、明るい蜂蜜色の髪を揺らしてかすかに微笑んだ。
「……ルカ様……!?」
使用人たちの間に、驚愕が走った。
すっかり見違えているが、見間違えはしない。
惚れ惚れとするほど涼やかな好青年は、一年前にこの館を追放されたはずの、ヴァルテン家の長男だった。
「ルカ様!? なぁ、あれってルカ様だよな?」
「しっ! 黙れ!」
ひそひそと耳打ちしあい、目元をうるませる従僕たちを、執事が口に指を当てて叱りつけた。
ルカは降りたばかりの馬車の中を見つめて、愛おしそうに手をさし出す。
彼の手を取って、優雅に男爵邸に降り立ったのは、見慣れない若い令嬢だった。
固くひきつったヘルミーネの表情から、この女性が今夜の主賓なのだと、誰もが瞬時に察する。
「──男爵夫人。お気遣いは無用です」
すらりと高い背丈。その長身によく映える、銀糸の縫い取り刺繍をあしらった繊麗なドレス。
凛とした空気をまとった黒髪の令嬢は、長い睫毛にふち取られた青藍の瞳で、急き立てるヘルミーネを悠然と見下ろした。
たたずんでいるだけなのに美しく、微笑んでいるだけなのに迫力がある。
「王宮で軽食を頂きましたので、晩餐は必要ありません。どうぞおかまいなく」
実際は何も口にする暇など無かったのだが、アレクシアはそう断りを入れながら首を振って、強い口調で使用人たちを脅しているヘルミーネの口をやんわりと封じた。
猫が帰ってきた屋敷の中を、ねずみたちはばたばたと駆けずり回る。
興奮状態のヘルミーネが甲高い声で命じている内容は、大きく二つ。
一つは招いた客人を丁重にもてなすこと。
そしてもう一つは、彼女がかばうように寄り添っている息子のマティアスを手厚く看病することだった。
マティアスは外傷はないものの、魂が抜けたかのように虚脱した状態だった。うつろな目は焦点が合っておらず、特注の夜会服も葡萄酒の色に染めたままで、すっかり茫然自失としている。
体格のいい従僕ふたりが左右から肩を貸して、マティアスを自室に運び込む。
すみやかにお抱えの医師が呼びつけられ、数人のメイドたちが付きっきりで介抱にあたった。
「マティアス様が担ぎ込まれたぁ!? 王宮でいったい何があったんだよ!?」
「それどころじゃない! ルカ様がお帰りになったんだ!」
「はぁ? ルカ様が!?」
「それもお一人じゃない! 婚約者とご一緒にだ!」
「こん……やく……?!」
若い下男たちはどよめきに揺れながら、見合わせた目をぱちぱちと瞬かせた。
「ルカ様の婚約者って言えばクレーフェ伯爵家のナターリア様……は違うよな。今はマティアス様の婚約者なんだから」
「リートベルク辺境伯令嬢だそうだ」
ささやかれた名前に、その場にいる全員がごくりと息を飲んだ。
「……リートベルク辺境伯……って、あれだよな?」
「世にも恐ろしい、辺境の“野蛮令嬢”……」
口にするだけで身の毛がよだち、顔がこわばり、血の気が引いていく。
恐怖に青ざめた使用人たちの中で、一人の男が大きくかぶりを振った。
「いやいや! 俺は出迎えの時に見たぞ! 驚くほどお綺麗な姫君だった!」
「俺もだ。確かに背は高いが、噂に聞くような粗暴な蛮人には見えなかった……むしろ……」
──あんな美しい女性は見たことがない。真剣な顔でそう言いかけた時だった。
「何をしている! 控えろ!」
家令が足早に下男たちを追い立てた。壁側に下がって控えているよう指示し、彼ら自身もまたそろって頭を下げて、丁重に主賓を出迎える。
「リートベルク辺境伯令嬢。ようこそヴァルテン家へお越しくださいました」
家令は回廊を先導しながら、吹き抜けになった広いダイニングホールへと案内した。
「心ばかりですが、粗餐をご用意させていただきたく存じます。どうぞこちらへ──」




