第139話 時間をかけて急げ
この国には「時間をかけて急げ」ということわざがある。
急がば回れ。急いでいる時ほど横着するべきではない。
丁寧に、慎重に、時間をかけて目の前のことを片付けるべきだ──という意味だ。
「こ、これは……」
管財人のモニカが気まずそうに持ってきた、厚い帳簿。
そこに記載された数字を追いながら、ルカは頭が急速に痛み出すのを感じた。
「こんな途方もない金額を……まさか本当に……?!」
「……はい。そうなのです」
ルカは頭を抱え、モニカも深くうなずく。
目を疑うようなすさまじい金額が計上されているのは、マティアスとナターリアの結婚に関する予算だった。
ルカは今回初めて知ったことだが、ヘルミーネはマティアスの結婚に際して、クレーフェ伯爵家に莫大な援助を約束していたらしい。
「僕が婚約していた時の数十倍にも膨らんでいるんだけど……どうしてこんな法外な金額が……?」
「はい。私もお止めしたのですが、奥様が何がなんでも決済しろと強くおっしゃって……」
桁を間違えているのではないかと思うほどの莫大な金額に、ルカは痛みの増す頭を押さえた。
ヘルミーネはもともと、マティアスの慶事ならば予算は惜しまずに祝ってやろうと張り切っていた。
加えて、クレーフェ家との話し合いがこじれるにつれて、何が何でも自分の意向を通さないことには我慢がならなくなったようだ。
ナターリアに伯爵位をあきらめさせ、ヴァルテン家に嫁ぐことを了承させるためなら手段は惜しまない。
そのために男爵家が使える方法は、要するに金しかない。
クレーフェ家よりも優位に立ちたい、格下と舐められたくない意地もあって、これほど破格の出資に踏み切ることにしたのだろう。
さらに、結婚そのものに使うはずだった金額も並大抵ではなかった。
相場というものを度外視した派手な結婚式。王族にでもなったつもりかと疑うような豪華な披露パーティー。
愛息子の結婚に浮かれたヘルミーネの、主役にでもなったつもりかと頭を抱えるような、高額な衣装と宝飾品の購入予定リスト。
「……モニカさん、この支払いについては……」
「マティアス様がリートベルクで身柄を拘束されたとの一報が入った時点で、早急に手続きを凍結しました。大丈夫です、一銭も動かしてはいません」
モニカの迅速な判断によって、実際に支払う前に差し止めることができたと聞いて、ルカは胸をなでおろした。
ヘルミーネが購入しようと吟味していた高額なドレスや宝石類も、すでにキャンセルの手続きが完了したらしい。
「よかった……ありがとう! モニカさん!」
この過度の支出をさし止めるだけでも、相当の金額がヴァルテン家に残る。
止めた出費でヴァルテン家の使用人たち全員に充分な慰労金を支払うことができるし、リートベルクのために使える予算も大幅に増えるはずだ。
婚約破棄の原因はマティアスにあるため、クレーフェ伯爵家側が違約金を求めてくる可能性もあったのだが、結果としては何の催促もなかった。
ナターリアは間違いなく怒っているはずなのだが、おそらく父である伯爵が制してくれたのだろう。
娘の傲慢さを詫び、君の幸福を願っている──と言ってくれたクレーフェ伯爵は、マティアスがヴァルテン家の人間ではなかった以上、血のつながりのないルカに慰謝料を請求するような真似を潔しとしなかったのだ。
「……伯爵、ありがとうございます!」
ひと安心した後は、さらに別の仕事が待っていた。
爵位の放棄に関する作業。
領地の返納に関するやり取り。
財産の相続についての手続き。
使用人たち全員への手当ての支給。
本邸や別荘や家具家財一式の売却。その他ありとあらゆる資産整理。
ヴァルテン家の手がける様々な事業についても抜本的な整理が必要だった。
ルカにとって高祖父にあたる初代男爵は経営の天才といっていい辣腕家で、様々な事業を興し、大きな成功を収めた。
貴族に叙せられて以降、ヴァルテン一族の人間は徐々に第一線から遠ざかり、父のアウグストに至っては完全に名ばかりの総帥であったが、トップはトップだ。
実質上、現場を担ってくれている幹部たちと話し合いの場を持ち、ある事業は継続を決めて裁量権を彼らに委ねる。ある事業は解体を決めて従業員たちに不利益のないよう配慮する。
リートベルクに移ってもこれまで通り続けていけると判断した事業については、ルカ自身が総裁の座を受け継ぐことにした。
幸いなことに大きなトラブルは起こらなかったが、付随する各種手続きの量たるや並大抵ではない。
次から次へと息継ぎするひまもなく降ってくる書類の束は、いくらこなしてもきりがなかった。
「もうだめ……。限……界……!」
限界なのは諸々の雑務の煩雑さではない。終わりの見えない激務でもない。
アレクシアがいないことである。
アレクシアと出会って以来──それは恋をして以来、と同義なのだが──こんなに長い期間遠く離れているのは初めてだった。
それも片想い期間中ではなく、正式な婚約者になった今になって、だ。
恋しくて、さみしくて、会いたくて会いたくて震える。
「会いたいいぃぃぃ……!」
手紙のやりとりはしているが、我慢にも限界がある。会いたい。早く会いたくて仕方ない。
ルカはリートベルクから届いた手紙を抱きしめて頬ずりし、くんかくんかと匂いを嗅いだ。
アレクシアの香りがする。するような気がする。すると思いたい。
わずかな残り香だけでも貴重な栄養源になる程度には、アレクシア不足も深刻である。
目のかすみ、癒されない疲労、心の栄養失調とそろそろ肉体的にも精神的にも限界が来ていた。
これ以上彼女と物理的に離れていたら、本気で寂しくて死んでしまう。
だが、この国には「時間をかけて急げ」ということわざがある。
急がば回れ。急いでいる時ほど横着するべきではない。
丁寧に、慎重に、時間をかけて目の前のことを片付けるべきだ──という意味だ。
急ぐあまりにミスを重ね、提出した書類が差し戻しになったり、修正のためにかえって手間を取られたり、辺境に帰った後に不備が見つかってまた王都に出向くはめになったりしたら目も当てられない。
ここはぐっと耐えて、正確性を期すことが肝心だ。
アレクシアと再会して、その後はもうずっと離れずにいるために。
今は立つ鳥跡を濁すことなく、すべてを滞りなくこなし、時間をかけて急がなくてはならない。




