その後2
「発情はひと月先になると思っていたけど、違ったようだね」
「わか、な、くて、」
自分がどういう状態かわからないのだと言いたいのに、唇が震えてうまく伝えることができない。もどかしさとせり上がってくる快感、それに抑えがたい興奮で涙がぽろぽろとこぼれた。そのせいで大好きな康孝さんの顔が滲んで見えなくなる。
「珠希くん、落ち着いて。琴祢にすぐ帰って来いと言われて驚いただけだよ。それにこの香り……これが珠希くんの発情の香りか。こんなふうに誘われたら止められなくなりそうだ」
「んふ」
頬を撫でられただけだけなのに気持ちがよくて高い声が漏れてしまった。こんな媚びるような声は恥ずかしくてたまらない。みっともなくて隠れてしまいたいくらいなのに、もっと触ってほしい気持ちが勝って大きな手に自分から頬を押しつけていた。
「やす、た、さん、」
名前を呼ぶと康孝さんの手が少しだけ震えたのがわかった。視線を向けると小さく唸るような声が聞こえてくる。
「やす、たか、さん……?」
「緊張して手が震えてしまうな」
僕の頬を包んだまま、指先で耳たぶを撫でられて「ふぁ」と声が漏れる。
「珠希くんの香りも声もたまらない。もう何度も肌を重ねているというのに……発情だというだけでこんなに興奮するとは自分でも思わなかった」
康孝さんの手が前髪を掻き分け、何かを確かめるように額を撫でた。それだけで背中がブルッと震えて熱い吐息が漏れる。熱く大きな手が目尻を拭ったかと思えば、そのまま輪郭をたどるように顎へとすべっていく。
「んっ」
声を漏らすたびに体が熱くなった。これ以上熱くなるのが怖くて無意識のうちに唇をグッと噛み締める。
「唇を噛んだりしないで」
「で、も……んっ」
「声も我慢しなくていい。もっとその声を聞かせてほしいくらいだ」
「ふぁ」
耳元で囁かれて目眩がした。肌が粟立ち心が震える。
「いつもはほのかに感じる珠希くんの香りが、いまはわたしを覆い尽くすほど濃くなっている。いつもの奥ゆかしい香りも好きだけど、発情したときの香りはまるで百合の花のようだね」
「はつ、じょ、て、」
「珠希くんはいま発情している」
「まだ、さき、なのに」
「時期がずれることもある。……あぁ、なんていい香りだろう」
首筋をクンと嗅がれて顔が熱くなった。
「Ωの香りが一気に花開いたようだ」
康孝さんの色っぽい声に、体の内側からぶわっと熱いものが膨れ上がった。それがパンと弾けて体の外へと飛び散っていく。
(そうか、僕はついに康孝さんと一つになれるんだ)
心や体だけでなく、もっと根本的なところで一つになるのだと思った。そうすれば、もう誰にも分かたれることはない。そう思うだけで歓喜に震え、気がつけば康孝さんにしがみついていた。口からは「はやく」と掠れた声が何度も漏れる。
「次に発情したときにうなじを噛む、そう決めたことは覚えているかい?」
何を言われたのかよくわからないまま、それでも「はやく」とうわごとのように口にした。
「あぁ、もうすっかり発情に呑み込まれてしまっているようだね。きっとわたしの声もよく聞こえていないんだろう。それでも確認しておきたいんだ。珠希くん、ここを噛んでもいいかい?」
首飾りの上からうなじを撫でられて「ひぁ」と声が漏れた。静電気のようなビリビリしたものが背中を駆け上がり、体のあちこちがビクビク震える。お腹の奥はますます熱くなり、尻たぶが濡れたような気がした。
「……たかさ、が、ほし……」
康孝さんがほしくてたまらない。逞しい体にしがみつきながら必死に香りを嗅いだ。この香りで体の隅々まで満たしてほしい。それだけじゃない。体の奥を康孝さんの熱で埋めてほしくて仕方がなかった。そうして誰にも触れさせたことがない僕のうなじを思い切り噛んでほしい。
「うな、か、んで」
僕の首筋に鼻を埋めている康孝さんの頬に自分の頬をすり寄せた。早く、早くと急く気持ちのまま「噛んで」と乞い願う。
「もちろんだ。わたしのほうから噛ませてほしいと跪きたいくらいだ」
耳たぶを甘噛みされて腰が震えた。太ももを擦り合わせながら、気がつけば康孝さんの体にお腹を擦りつけている。
「本当は式に関係なく噛みたくて仕方がなかった。それなのに年上振って強がって……あぁ、でも今回は駄目だ。我慢できるはずがない。愛しいΩに誘われて断れるαはいない。ようやく、ようやく珠希くんをわたしだけのΩにできる」
これから康孝さんに噛まれ、僕はようやく康孝さんのものになるのだ。魂が震えるのを感じながら、康孝さんの背中をめいっぱい抱きしめた。
その後、康孝さんは別人のように性急に僕を組み敷いた。これまでの優しく甘い行為とは違い、情熱的な仕草で僕を翻弄する。僕は恥ずかしいと思う間もなく何度も高い声を上げ、暴力的なまでの快感に身も心も呑み込まれた。
(熱い、体中が熱くてどうにかなってしまう)
枕に埋めていた顔を何とか左側に向け、はふはふと必死に息をする。
(気持ちいい、気持ちいい、気持ちがよくて死んでしまう)
過ぎる快感に涙が滲んだ。気持ちがいいことが恐ろしくて、大きな枕を必死にわしづかむ。
「珠希くん、首、外すよ」
「んっ!」
耳元で囁かれて体が震えた。それを宥めるように肩に口づけられ、少しだけ力が抜ける。
金属が擦れる音がした。あぁ、首飾りが外される……そう思うだけで心臓が壊れそうなほどバクバクし始める。期待と興奮で何も考えられなくなる。
「これからここを思い切り噛む。いいね?」
「んぅ、はや、く……か、んで……」
むずがる僕に「可愛い」と囁いた康孝さんが、顕わになったうなじに唇を這わせた。たったそれだけで「あぁ!」と悲鳴のような声が上がる。
(気持ちいい……!)
それはこれまでのどんな行為とも比べものにならないほどの快感だった。快楽の素をうなじから直接注ぎ込まれているような感覚に全身がブルブルと震える。そんな僕を抑えつけるように、康孝さんがまたうなじに口づけた。
「珠希くん、わたしだけのΩになって」
囁く声に心臓が飛び跳ねた。うなじに触れている硬い感触にこめかみまでドクドクとうるさくなる。
「噛むよ」
低い声にブルッと震え、同時に耳がキンとして興奮が最高潮に達した。
ズクッ。
最初に感じたのは硬いものが皮膚に食い込む感触だった。「あっ」と思った次の瞬間、強烈な痛みに目の前で何かが弾け飛ぶ。これまで経験したことがない痛みに悲鳴すら漏れない。見開いた目には閃光が映り、まるで花火のように何度も弾け飛んだ。
「ぃ……――っ!」
うなじに食い込む歯に全身が強張った。あまりの痛みに意識が飛びかける。ところがすぐに違う意味で目を見開くことになった。
「ぁ……なに……」
体の奥に強烈な痺れを感じた気がした。強張っていた体がヒクヒクと小刻みに震える。噛まれているうなじがカッと熱くなり、快感とは別の熱が一気に全身へと広がるのがわかった。
「ぁあ――……!」
とんでもない感覚に悲鳴のような叫び声を上げてしまった。うなじで膨れ上がった快感が体の隅々まで行き渡り、炭酸水の泡が弾けるように全身で新しい快感が次々と生まれる。あまりにも強烈な感覚に訳がわからなくなった。
「や、いや、やめ……っ! も、きもちい、の、や、だ……!」
あまりの快感に怖くなった僕は、這い上がろうと必死に腕を伸ばした。逃げないとこのままでは気持ちよすぎて死んでしまう。そう思ってシーツを掴んだものの、逃がさないと言わんばかりにうなじを強く噛まれてベッドにぺしゃりと沈み込む。
「ひぃ!」
食い込む歯の感触に目の前で星が瞬いた。すべてがチカチカ光って何も見えなくなる。息もできず必死に口を開いたところで、甘い香りが口から肺へと大量に入ってきた。
(これ……康孝さんの……)
大好きな康孝さんの香りが次々と体の中に入ってくる。
「ぁ……ぁ……」
体中どこもかしこも康孝さんでいっぱいになった。僕と康孝さんが一つに重なっているような感覚に体の奥がきゅううっと切なく痺れる。
「珠希、くん、」
「っ」
「珠希くん、」
「……っ」
「珠、希く、ん、」
「ぁ……!」
体の深く切ない場所に熱を感じた。あぁ、僕はいま間違いなく康孝さんと一つになったのだ。体も心も喜びであふれかえる。
「康孝、さん」
「珠希くん、これできみはわたしだけのΩだ」
「僕が、康孝さんの、Ω」
「そう。そしてわたしは珠希くんだけのαだ」
「僕の、α」
嬉しい、嬉しくてどうにかなってしまう。康孝さんのものになれた喜びで体が震えた。
「発情は始まったばかりだ。発情中は誰にも邪魔されない。二人きりで過ごし、思う存分お互いを求め合おう。もちろんうなじも何度でも噛んであげよう」
「ふぁ!」
「気持ちがよくて怖いと泣いても止めないからね」
康孝さんにうなじを吸われ、僕の体は再び燃え上がるような快感に呑み込まれた。
強烈な快感と痛みから始まった康孝さんとの発情は、それから四日間続いた。僕は大好きな香りの中で康孝さんを全身で受け止め続けた。
(あぁ、なんて幸せなんだろう)
初めて誰かと過ごす発情で、僕は快感と興奮、それに泣きたくなるような幸福を知った。
発情を終えて三日が経った。昨夜は口づけはしたものの、抱きしめて眠るだけにした。体を休めようという康孝さんの提案に納得したからだけれど、少し物足りなく感じるのは僕がいやらしくなってしまったからだろうか。
(なんて浅ましいんだろう……でも、そういう僕もいい、なんて言ってくれるから……)
つい調子に乗って僕から何度も康孝さんを求めてしまった。発情の最中だったとはいえ、うろ覚えの行為に顔が熱くなる。
(それにしても、寝ている顔もやっぱり綺麗だな)
康孝さんの寝顔を見るのは久しぶりだ。じっと見ていると瞼が少し震えていることに気がつく。
(そろそろ目が覚めそう……)
思ったとおり、ゆっくりと瞼が開いた。そんな様子でさえ美しくて、つい見惚れてしまう。じっと見つめていると、何度か瞬きをした康孝さんがまだ少し眠そうな目で僕を見た。
「あぁ、今日もいい香りがするね」
そう言ってふわりと微笑む康孝さんからもいい香りが漂っていた。その香りを嗅ぐだけで体がポッと熱くなる。あれだけ熱を吐き出したのに、僕はやっぱりふしだらになってしまったのだろうか。でも、そんな僕でさえ康孝さんは好きだと言ってくれる。
「おはようございます、康孝さん」
「おはよう。体はどうだい?」
「大丈夫です。……あの、そんなにひ弱そうに見えますか?」
「うん?」
少し眠そうな顔で首を傾げる康孝さんに「いつもそう聞かれるから」と小声で答えた。一瞬きょとんとした康孝さんが「あぁ、違うよ」と微笑む。
「いや、それも少しはあるかな。珠希くんは食が細いせいか随分華奢だろう? それなのに、わたしの思うままに抱いてしまって大丈夫か心配になるんだ」
「そ……うですか」
思ってもみなかった返事に顔が熱くなった。同時に「少しくらいひどくしてくれてもかまわないのに」なんて思ってしまう自分が恥ずかしくなる。
「ここに来てからは食べる量も少しずつ増えてきているけど、それでも片手で両手首を掴めるなんて細すぎるだろう? いや、それはそれで興奮はするんだけど、あぁ、そうじゃない。そういうことじゃなくてね……」
美しい顔が天井を見る。少し言いよどむように口を閉じた康孝さんがチラッと横目で僕を見た。
「いつもね、腰を掴んだときにドキッとするんだ。あまり乱暴に扱っては壊れてしまうんじゃないかと怖くなる」
「こ、壊れたりは、しないと、思いますけど……」
「それにわたしは全体的に大きいだろう? そういった意味でも傷つけてしまわないか心配になってね」
大きいという言葉に淫らな記憶が蘇り、一気に顔が熱くなった。収まったはずの発情がぶり返しそうな感覚がして慌てて「落ち着け」と心の中で言い聞かせる。
「ぼ、僕はΩですから、そう簡単に、こ、壊れたりはしないと思います」
早口でそう答えながら窺うように康孝さんを見た。いつの間にかこちら向いていた康孝さんの顔がぽかんとした表情に変わっている。
(とんでもないことを口走ってしまった)
いくらなんでもいまのは恥ずかしすぎる。慌てて「あの、いまのは」と訂正しようとしたけれど、康孝さんの大きな手に頬を包まれて言葉が止まった。
「珠希くんは奥手だと思っていたけど、そうでもないのかな」
「や、康孝さんのほうこそ、」
からかい口調ではなかったというのに、恥ずかしさのあまりつい責めるようなことを言ってしまった。ハッとしたものの、康孝さんは「わたしは昔からこんな感じだよ」と笑っている。
「だから必死に抑えていたんだ。そうしないと婚約早々暴走してしまいそうだったからね。そんなことをしては奥ゆかしい珠希くんに嫌われてしまいかねない。ようやく婚約者になることができたのに嫌われたら大変だと臆病になってしまった」
頬に触れていた指が優しく目元を撫でた。それだけでうなじがゾクッと痺れる。
「僕は奥ゆかしくなんてありません。だって……僕のことなんて気にせず、康孝さんのしたいようにしてくれたらいいのに、そんなことを思っているくらいですから」
目尻を撫でている手に指を絡ませた。そうしてキュッと握り締め頬に押しつける。
「まいったな」
「康孝さん?」
「一緒にいるだけで誘惑されてしまうというのに、そんなふうに言われたら本当に箍が外れてしまいそうだ」
「誘惑なんて、僕には……」
そんな魅力はない。思っていても口にしなかったのは、僕を想ってくれている康孝さんを否定してしまう気がして嫌だったからだ。
「珠希くんは魅力的だよ。こうして花開いたきみを見たら誰もが夢中になるだろう」
「そんなこと……」
「いいや、きみはとても魅力的だ。これまで花開かなかったのは好きな香りに出会っていなかったからだ。でも、これからは違う。わたしがそばにいる限り珠希くんはどんどん魅力的になっていく……と思っているんだけど、自意識過剰かな」
「そんなことありません。だって僕は康孝さんが大好きだから、康孝さんの香りだから、こんなに惹かれるんです」
そう言える相手がいるのはなんて幸せなのだろう。
(僕はこんなに幸せでいいんだろうか)
ほんの少しそう思った僕に気づいたのか、康孝さんがにこりと微笑んだ。
「わたしたちが出会ったのは運命だったんだよ。香りに気づく前から気になっていたのがなによりの証拠だ。わたしがαではなく珠希くんがΩでなくても、わたしはきみを求めてやまなかったと断言できる」
体を起こした康孝さんが僕に覆い被さった。そうして「わたしだけの珠希くん」と囁きながら唇に口づける。
(あぁ、僕は康孝さんが大好きだ。こんなに好きになる人はほかにいない)
大好きな香りを感じながら、僕は万感の想いを込めて康孝さんを抱きしめた。




