第一章【七】前世と『あなたと執事クロニクル』
深い森のなかに、その湖はあった。
斜めに差し込む陽光が水面をキラキラと輝かせている。
ぴちゃん、と遠くで魚が跳ねた。
湖を覗き込めば、底が見えるほど透明な水をしている。
「……綺麗」
「そのうち飽きる」
レイブランドの抑揚の無い声に、ノアは彼を振り返った。
「だったら尚更、今の感動を大切にしたいです」
「必要ないな」
口が悪い人だ。
初めて会話をした日、ノアはそう思った。
実際、口が悪いのは間違いない。
だが数日一緒にいて、レイブランドはただの偏屈な男ではないと知った。
今も言葉だけ聞けば嫌味に聞こえるが、彼は『飽きる』という湖をうっとり眺めるノアの隣で、ノアが満足するのを待ってくれているのだ。
(優しさが不器用な人なのね)
「そろそろ行くぞ。迷子になっても知らんからな」
「あ、はい。これから先生の家に向かうんですか?」
ノアは、レイブランドを『先生』と呼ぶことにした。
ジョーンズは「名前で呼べばいいのに」と笑っていたけれど、名前で呼べば、親密な感じがして憚られたのだ。
レイブランドは優しい。
不器用だが、とてつもなく優しいのだ。
そんな彼を名前で呼んだり、ため口で話したりすると、そのまま彼に甘えてしまいそうになる気がして怖かった。
ノアにはやらなければならないことがある。
だがそれはノアがやらなければならないことであって、レイブランドやジョーンズを巻き込むわけにはいかないのだ。
「そうだ、着いてこい」
レイブランドは、湖のすぐ近くにある大木のほうに歩いていく。
ノアは遅れないようにレイブランドのあとを着いて行こうとしたが、彼は大木をくるりと回り込んだところで早々に立ち止まった。
「どうかしたんですか?」
慌てて駆け寄ると、レイブランドは木造りの家を見ていた。
大木に寄りかかるようにひっそりと存在するその家は、童話に出てきそうな温かみで溢れている。
「ここだ」
レイブランドは、無表情のまま湖を指で指し示す。
「あそこに転移して、大木を目印に、その裏側が我が家だ」
「……思っていたより近いですね」
「そうか」
「たぶん、そうそう迷子にはならないかと。それにしても、とても素敵な家です!」
「世辞は必要ない。さっさとなかを案内する。特訓はおいおい始めるから、まずはここでの生活に慣れるように」
「はい!」
元気よく返事をした。
レイブランドの家は、外から眺めるよりも広く感じた。
厨房、居間、それからレイブランドが個人で使っている部屋。
さらに空き部屋が二つあって、空き部屋の片方をノアが使うことになった。
母屋から少し離れたところに、レイブランドが研究用に使っている小屋がある。
薬剤がたくさん保管されているようで、なかには入らせて貰えなかったが、レイブランドはそこに籠もることが多いそうだ。
「……よかった、ここなら情報が入らなそう」
宛がわれた部屋で一人になったとき、ノアは呟いた。
一人になるたび、目を閉じるたび、夜がくるたび、ベリス家がどうなったのか気になってしまう。
ライラのことも、アリザナ国のことも、あらゆる現状を知りたくてたまらない。
だからこそノアは自制して、あえて情報が入ってこないよう心がけていた。
知ってしまえば、きっと落ち着かなくなる。
焦って行動し、本来やるべきことすら全うできなくなるかもしれない。
それでは駄目なのだ。
かつてのように、貴族としての権力も、財力もないノアは、ただの無力な少女でしかない。
だからこそ、考えることは大切だ。
(今は、静かに指輪を守るのよ)
自分に言い聞かせる。
(指輪を処分して、魔術師として力を蓄えたら……そのときこそ)
お姉様、とノアを呼ぶライラを思い出して、胸が締め付けられるように傷んだ。
だがすぐに、記憶のなかのライラは、業火のなかでカラビアルを蹴りつけた姿に変わる。
ノアは軽く首を振って思考を追い出した。
疑問、恨み、後悔、そういったものは今のノアから排除すべきだ。
宛てがわれた部屋は、ベッドの他に本棚や机、椅子、壁には燭台まである。
物がないので生活感はないが木でできた家は暖かく、とても気に入った。
ベッドに寝転ぶと、途端に疲労が押し寄せてくる。
(そういえば、時空転移は体に負荷がかかるって言ってたっけ)
身体がだる重いのはそのせいかもしれない。
少しだけ休憩しよう。
ノアは、目を閉じた。
夢をみた。
夢のなかのノアは、会社帰りに横断歩道を渡っていた。
そこで、バイクにひかれて、苦しくて、痛くて……死にたくないと、絶望が胸を占める。
「いやぁぁぁぁ――――ブッ」
ぐわん、と頭が揺れた衝撃で目をひらく。
荒い呼吸を整えながらサッと視線を向けると、レイブランドがベッド脇に座っていた。
部屋はほの暗くて、ドア付近にある燭台の蝋燭に火が灯っていた。
寝すぎてしまったらしい、窓の向こうは真っ暗だ。
「起きたか」
「あ……夢」
体を起こそうとして、口のなかにピリッと痛みを感じた。
意識すると、口のなかよりも頬のほうが痛くて、顔をしかめる。
恐る恐る自分の頬に手を当てると熱を持っていた。少し腫れている。
「……殴りました?」
レイブランドが、ふんと鼻を鳴らした。
「呼びかけても、揺すっても、軽く叩いても起きんから、少し強めにいっただけだ」
「……そうですか。起こしてくださってありがとうございます」
素直に謝る。
頬に添えた手が震えた。
まだ夢の恐怖がノアを包み込んでいる。
「うなされていたようだが」
「あ……はい」
「……話を聞こうか」
レイブランドはどこか遠慮がちに言った。
ノアは彼がこれまでとは違う、ラフな白シャツとグレーのズボンを穿いていることに気づく。
ジョーンズの家にいたときは、もっと魔術師らしい格好――ローブや黒系統の服装――だった。
ここは、レイブランドの家だ。
そう思うと、やっと夢が夢なのだと理解できて、ほっと安心する。
レイブランドの手が伸びてきて、ノアの頬に触れた。
途端に薬草の苦い匂いがして、にゅりにゅりと頬に薬品を塗りこまれる。
彼の手が離れる頃には、頬の痛みは引いていた。口内を切った傷はすぐに治るだろう。
「……死ぬ夢を見たんです」
「ほう?」
「バイクに轢かれて……」
「ばいく?」
ノアは、レイブランドに夢のことを話した。
現実感が強い夢で、以前にも見たことがあることも。
「夢のなかの私は、別の女の人なんです。でも……なんだか、へん。その人の記憶が私のなかにあって、今は……あの人も、私自身みたいで……」
我ながら何を言っているのかわからない。
それでも、この奇妙な感覚をレイブランドに伝えたくて、ノアは懸命に言葉を紡いだ。
ひと通り聞き終えたレイブランドは、真剣な表情でぽつぽつと話し始める。
「……前世の記憶か」
「前世? それって、輪廻転生とか、そういう話ですか」
「そうだ。生き物には魂がある。この魂は、生き物が死ぬと記憶を消されて新しい体に宿るんだ」
レイブランドは、そう断言した。
そのように言われている、といったぼんやりした口調ではなく。
「それは、魔術師の間では常識なんですか?」
「常識といえば、常識だ」
レイブランドは考えるように、指でコツコツとベッドの縁を叩いた。
「魔術師には特異能力を持つ者がいる。かなり希少能力だが、人の魂を視る能力を持った魔術師がいるのだ」
彼らは魂の流れが視えたり感じ取れたりするという。
そんな、魂を視ることのできる能力を持つ者たちいわく、時折『前世の記憶』を持ってうまれてくる者がいる。
そういった者の大半が、何度も同じ夢を見るなどの特徴を持つという。
「……前世、ですか」
「可能性の一つだ。そのうち、専門家――特異能力を持つ魔術師を紹介しよう」
「はい、お願いします」
レイブランドに前世の記憶だと言われて、ノアは不思議と納得できた。
恐怖から開放されたように、身体が弛緩してぬくもりに満たされる。
(あれは、もう終わったことなのね)
夢のなかの女は、バイクの事故で死んだ。最後まで、死にたくない思いでいっぱいだった。
しかし、今はノアとしてこの世界で生きている。
理解するなり、夢の女の記憶がこれまでより遥かに鮮明に流れ込んできた――。
(……彼女、野坂理奈っていうのね)
これまでわからなかった名前が、ぱっと頭に閃いた。また多くの記憶が流れ込んできて、ノアはそれらを穏やかな心地で受け止める。
まるで同化するような感覚だった。
(私は、ノアディーア・ベリス。それに……『野坂理奈』でもある)
レイブランドはノアの脈を取ると、立ち上がった。
「このまま休むように」
「はい、あの……駆けつけてくださったんですか?」
レイブランドが起こしてくれなかったら、朝まで悪夢に苦しんでいたかもしれない。
感謝を込めて聞いたノアに、レイブランドは心底嫌そうな顔をした。
「叫び声がうるさかったから、見にきただけだ」
「ありがとうございます」
ふん、と鼻を鳴らすと、レイブランドはさっさと部屋を出ていった。
振り返ることも無く、おやすみもない辺りが、レイブランドらしい。
ノアは、再びごろんと横になる。
じっと天井を眺めていたが、のろのろと起きて蝋燭の火を消した。
仄暗い部屋に一人だ。
ぼうっと窓の向こうを見たあとベッドに戻った。
(……部屋に一人)
既視感を覚えた。
野坂理奈だった頃の記憶……にはないから、気のせいかもしれない。
(なんだか、寂しいわね)
屋敷にいた頃、ノア専属の侍女だったメリーを思い出す。
これまで、メリーのことはあまり考えないようにしていた。
メリーも大広間で毒殺されていたため、思い出すと辛くて堪らなくなってしまう。
(会いたいわ、メリー……)
――『怖い夢を見たんですか? 大丈夫ですよ、あたしがいますから!』
――『もうっ、お嬢様はほんとうに仕方のない方ですね。無理は禁物ですよ』
メリーの声を思い出して、ノアは瞳を潤ませた。
思えば、生活の多くをメリーが支えてくれていたのだ。
(以前の私なら、平民の生活なんて出来なかったかもしれないわね)
自分でも驚くほどに、違和感なくジョーンズの家で過ごしていた。
常識で考えれば、公爵令嬢がいきなり平民の暮らしをするなど有り得ないだろう。
ノアがあっさりと馴染めたのは、おそらく『前世』の記憶があるからだ。
意識していなくても、前世の経験は心身に残っているのである。
(……私はきっと、貴族じゃなくても生きていける)
野坂理奈だった頃は、ただのOLだったのだから。
(でも、できるならまたメリーに会いたい)
無理だとわかっている。
けれど『おはようございます、お嬢様!』と明るい笑顔で起こしてくれる彼女が無性に恋しかった。
◇
「おはようございます、お嬢様」
(……ん?)
シャーッとカーテンがひらく。
朝日が顔にあたって、ノアは咄嗟に布団をかぶった。
(……なんだか、めちゃくちゃ寝た気がするわ。なのに、まだ体がだるい)
うーん、と大きく伸びをして、布団から出た――ところで、眠気が吹っ飛んだ。
(……誰?)
ベッドの足側に立ち、じっとノアを見つめる男がいる。
アーモンド色の髪を頭に撫で付けた、執事服の男だ。
端正な顔立ちをしており、じっとノアを見つめる瞳には優しさが篭っている。
(あ、もしかして先生の家の使用人さん……ううん、違う。一人暮らしだって言ってたじゃないの)
ならば、この男は誰だ。
ノアは警戒して、ベッドのうえでジリジリ後ろに下がる。
「……誰なの?」
「お嬢様の最推し、マロン号でございます」
「は?」
「マロン号でございます」
何言ってんの、と男を睨むと。
男は驚くほど優雅な動きで、その場に傅く。
そして、うっとりした瞳でノアを見上げた。
「この度は、わたくしをお呼び下さり光栄の極みでございます。このマロン号、全力で命を賭し、執事としての責務を果たす所存です」
言い終えると、男の瞳はうっとりしたものに変わる。
(…………マロン号?)
どこかで聞いた覚えがあるような……そんな気がする。
(あ! 思い出した。『執クロ』だわ)
前世で大好きだった『あなたと執事クロニクル』というアプリゲームの話だ。
絵が綺麗だから、という理由ではじめたアプリだったが、ノアとて最初から重課金者だったわけではない。
序盤はチュートリアルに則って、ちまちまとプレイの方法を学んだ時期があった。
あなたと執事クロニクルは、よくある育成ゲームだ。
キャラクターをガチャで手に入れて、立派な執事に育てるというものである。
色々とつっこにどころの多いゲームだったが、やり込み要素がとても素晴らしく、ノアはすぐに嵌まってしまった。
独自の要素の一つに、プレイヤーとは別に『登場キャラクターの名前を変更できる』というものがある。
ノアはチュートリアルのとき、初回無料ガチャで手に入れたオーソドックスな見た目のキャラクターの名前を変更したのだ。
それが『マロン号』である。
デフォルト名は、やたら長い横文字の名前だったのだが、ノアが『マロン号』に変えてしまったというわけで。
これは誰しもが陥る罠なのだが、この登場キャラクターの名前変更、一キャラにつき一回で固定されてしまうのだ。
ゆえに、マロン号はそれ以後ずっとマロン号だった。
しかもこの名前、ノアがふざけて入力したわけではなく、ランダムデフォルト名である。
ノアは、改めて目の前の男を見た。
(あのゲームのキャラクターに、似ている……気がする)
というよりも、そっくりだ。
ただ、立ち絵や過去シナリオを読んだ限り、もっとクールなイメージだったのだが。
「……どういうこと?」
ぽつりと呟いた。なぜゲームのキャラクターが目の前にいるのだろうか。
マロン号は嬉しそうに目を細めて、ぽっと頬を染める。
「お嬢様、なんでもご命令ください。このマロン号、命を賭してお嬢様に尽くします」
彼はそう言って、蕩けるように微笑んだのだった。
ブクマ、評価、閲覧ありがとうございます。
恋愛要素がまだ入りきらない……そのうちガッツリ入ってきます。
この話、元のタイトルを『大魔術師ノアは乙女ゲキャラを召喚する』といいまして。
話がシリアスっぽくなるので、なろう長編に書き直す際、タイトルをかっこよさげなものに変更しました。
うーん、前のタイトルのほうがよかったかな。
次は、明日か明後日に更新です。