第二十五話 開かずの禁書庫
大陸最大都市、王都ミズガル。
駅に降り立った瞬間からアークの足取りは重かった。石畳の広場に立ち並ぶ白い石造りの大聖堂と貴族街。見覚えのある街並みが、記憶の底に沈めていたものを容赦なく引きずり出してくる。
「……アーク」
シオンがそっと手を握ってくる。
「大丈夫」
答える声が、自分でも分かるほど硬かった。
シオンはそれ以上何も言わず、ただ手を握る力を少しだけ強めた。
大聖堂を中心に、貴族街、商業区、職人街が同心円状に広がるこの街で、ひときわ目を引くのが、中央にそびえる王立図書館だった。石造りの巨大な建物は大聖堂に勝るとも劣らない威容を誇り、国内外から集められた蔵書の数は学術都市ヴィディアルの比ではないという。
「大きいね」
シオンが見上げながら呟いた。
「ああ」
短く答えながら、アークは溢れてくる過去の記憶を必死に押し留めていた。この街のどこかに自分を閉じ込めていた屋敷がある。その空気そのものが、古い傷を疼かせていた。
アイゼルを発つ前、アークはシャンテに手紙を送っていた。王立図書館の禁書庫を調べるつもりだと伝え、紹介状と入館許可の手配を頼んでおいた。
受付の職員はあらかじめ届いていたらしい一枚の書状とアークの顔を見比べ、形ばかりの確認を済ませる。腰に佩いた神殿騎士の剣――貴族の名が刻まれたルカの形見も、身分の証を補強したのだろう。
禁書庫の扉は、あっさり開かれた。
「……拍子抜けだな」
「それだけアーク達が信頼されてるってことじゃない?」
シオンの軽口に、アークはようやく少しだけ肩の力を抜いた。
禁書庫の扉をくぐると、何層にも重なる書架が見渡す限り続いていた。
一冊ごとに古語の崩し字と格闘するだけで、日が暮れた。
「これは……終わりが見えないな」
扉の向こうから戻ってきたアークに、シオンは苦笑する。
「少しずつでいいよ。私はここで待ってるから」
禁書庫への立ち入りは、身分の無いシオンには開かれない。扉の外、閲覧室の片隅に置かれた椅子が、いつしかシオンの定位置になった。
その日から、禁書庫通いの日々が始まった。
重い扉の奥から戻ってくる彼の目の下には、日を追うごとに色濃い隈ができていった。
「……待たせてごめん」
「お疲れ様。ごはん食べて宿に帰ろう」
シオンはそれに気づいていたが、何も聞かなかった。
時々、アークの肩がほんの一瞬だけ強張ることがある。
貴婦人の一団とすれ違うとき。
香水の甘い香りを感じたとき。
ルカに似た栗毛色の長い髪が視界に入ったとき。
シオンはそのたびに少しだけアークに体を寄せた。そうすればアークから力が抜け、また二人で歩き出せた。
そんな穏やかな生活を積み重ね、街の空気に慣れるにつれ、アークの警戒も少しずつ解けていった。
ある日二人は、図書館の中庭のベンチに並んで腰を下ろした。魔力灯に火が灯り始める夕刻。橙色の光が噴水の水面に滲んでは揺れる。
アークは何かの魔法陣を書き記した紙を広げていたが、視線はさっきから同じところで止まったままだった。
アークの肩に頭を預けていたシオンが、アークの手に触れた。
「……アーク、大丈夫?」
「ん?……ああ」
シオンはそれ以上は聞かず、また目を閉じた。しばらく、噴水の水音だけが二人の間に響いていた。
少し長くなったシオンの髪が風に吹かれ、アークの頬を撫でる。
「髪、このまま伸ばして」
アークがぽつりと言った。
「……アークが結ってくれるなら」
「ああ。練習するよ」
指先でシオンの髪をそっと梳く。結べるほどの長さなどまだないけれど、シオンは幸せそうに目を細めていた。
その横顔をアークは見つめる。ふいに言葉が喉元まで出かかった。
――実は、調べていることがあるんだ。
言えばきっと驚かれる。もしかしたら怖がらせるかもしれない。
今はまだ、言えなかった。
髪を絡めていた手で彼女の頭をそっと引き寄せる。触れるだけの短い口づけをして、そのまま体を包み込んだ。
――もう少しだけ、時間がほしい。
遠く、王城の灯りが見える。アークは、腕の中の体温を強く抱き寄せた。
二週間が過ぎた。
核が見せたあの本には、まだ辿り着けていない。それでも収穫がなかったわけではない。
魂の性質を見分ける術。離れた相手の居場所を探し当てる術。二人の人間を目に見えない糸で結びつける、婚姻の儀礼魔法。どれもアークが求めているものとは少しずつ違う。だが組み合わせれば、あるいは重ね掛けすることができれば、形になるかもしれない。
アークはそのすべてをノートに書き写し、宿に帰れば机で断片同士を繋ぎ合わせる。
魂や契約にまつわる魔法書は、一般の禁書庫で調べられる限り調べ尽くした。それでも核心の術式そのものには、どうしても辿り着けない。
ふと、禁書庫の奥の黒い扉が思い出された。
『特別収蔵区画』
王立図書館の館長、もしくは、それに准ずる権限を持つ者の許可が要る。
アークは正式な手続きで閲覧の申請を出した。
返答はなかなか来ない。催促すれば、「検討中」とだけ繰り返される。理由も見通しも何一つ示されないまま、申請は宙に浮いている。
「あの区画に入ることができたら…」
ポツリと言葉が溢れたアークの声を、シオンは黙って聞いていた。
それからも、二人の日々は穏やかに過ぎていく。
夕食を食べ、宿までの道を二人で並んで歩き、他愛のない会話を交わす。それは学術都市で過ごした日々とよく似ていた。
――このまま、何事もなく済むかもしれない。
アークはそう、思い始めていた。




