魔術師の教本と、名もなき個体差 1 〜驕れる魔術師と、目の前の一匹〜
1.
ガタゴトと、車輪が石畳から土の街道へと変わった時のことだった。
一人と一匹は旅の途中、次の街へと向かう大型の乗合馬車に揺られていた。
荷台には商人の荷物と共に数人の客が乗り合わせていたが、その中の特等席とも言える御者台のすぐ後ろの席を陣取っているのは、豪奢なローブを着込んだ若い女魔術師だった。
彼女は膝の上に分厚い教本のようなものを広げ、真新しい杖を握りしめながら、周囲の乗客たちに聞こえよがしな声で解説を始めていた。
「皆様、ご安心くださいませ。わたくしはこの度、辺境伯様の私兵として召し抱えられることになった、三級魔術師のセリアと申します」
やけに『辺境伯様』という言葉を強調するその姿勢から、召し抱えられることになった件について、鼻にかけたくて仕方ないようだ。
「この季節、この街道に出るゴブリンは、群れをなさないはぐれ者ばかり。加えて、彼らは『火を極端に恐れる習性』があります。……ですので、このように」
セリアが杖を振るうと、街道の茂みの向こうで様子を窺っていた数匹のゴブリンの足元で、ボンッ!と派手な炎が弾けた。
突然の炎と熱気に驚き、ゴブリンたちは蜘蛛の子を散らすように森の奥へと逃げ帰っていく。
「おお……!さすがは魔術師様だ!」
「これでこの道中も安心だわ」
乗客たちが安堵の声を上げ、称賛の拍手を送る。
セリアは満足げに胸を張り、教本のページをペラリと捲った。
だが、馬車の最後尾、荷物の隙間に陣取っていた一人と一匹の反応は、ひどく冷め切っていた。
『……おいコロ。なんだあのうるさい女は』
「さあね、護衛のつもりなんじゃない?」
『旅芸人の間違いではないか?』
「まぁ、旅芸人だろうと護衛だろうと、乗客が安心するならそれでいいんじゃないかな」
『紙の匂いと、自分を賢く見せたいという浅ましい匂いが混ざって、鼻が曲がりそうだ』
ウルが不機嫌そうに鼻先を前足で擦る。
「とはいえ、言ってることは、間違ってないよ。……今のところは、ね」
『フン。あんな見栄えだけの火魔法、ただの威嚇にしかならん。魔物という生き物を分かっていない、いけすかない匂いがする』
コロは干し肉を齧りながら、窓の外の鬱蒼とした森へと視線を向けた。
「あの本にはね、『標準的』なことしか書いてないんじゃないかな」
『標準的、だと?』
「そう。人類が適当に何体か見て、勝手に計算して、平均をとっただけの、この世界に一匹も存在しない『ただの幻』」
『ほう。なるほどな……』
「是非ともアッシュウルフのページを見てみたいね」
『それは見ものだな』
「どうする?『私たち人類の香水の匂いや、驕り高ぶった態度に滅法弱いです』って書いてあったら」
そう言い終わる前からクスッと笑ったコロに対し、ウルは右前足でコロの足を軽く叩いてみせた。
『フン。ついでに『臭さが度を越していたら即座に喉笛を噛みちぎられます』とでも追記しておけ』
「ははは、そうしないとね」
クスクスと笑いながら目尻を拭うコロの視線が、ふと馬車の外の景色へと向けられる。
『何より、急に火球をぶつけられて驚くのは、なにもゴブリンだけではないと思うがな』
「ははは、身も蓋も無いね。……何にせよ、森の中にいるのは、血と肉を持った『目の前の一匹』なんだけどね」
コロの氷藍色の瞳が、森の奥でギラリと光る、逃げ遅れたゴブリンの目を捉えていた。
「……そろそろ、あの『本』の通りにいかなくなる頃だと思うよ」
コロの予言めいた呟きを証明するように、馬車の進行方向の茂みが、ガサガサと大きく揺れた。
乗客たちが悲鳴を上げそうになる中、御者台のセリアは「来なさい!」と意気揚々に杖を構えた。
だが、飛び出してくるかと思われた茂みの隙間から見えたのは、ギョロリとした濁った目玉だけだった。
そのゴブリンは馬車とセリアをじっと見つめた後、何かを値踏みするように鼻を鳴らし、再び森の奥へとゆっくり姿を消していった。
「ふふっ、見ましたか皆様。わたくしの放つ魔力に恐れをなし、尻尾を巻いて逃げていきましたわ!」
セリアが勝ち誇ったように胸を張ると、乗客たちからは再び「おおーっ!」と拍手が沸き起こる。
だが、最後尾の荷台では、ウルが呆れたようにため息を吐いていた。
『……おいコロ。あれはただ『満腹で面倒くさかった』だけに見えたが……』
「うん、昨日あたりに大きな獲物を狩ったばかりでお腹いっぱいなんじゃないかな。あの目も、怯えてるっていうより『今は別に食べなくてもいっか』って目だったね」
『あんな女の魔力など、これっぽっちも気にしていないぞ』
「まぁ、乗客が安心できるなら、ハッタリでも何でもいいんじゃないかな」
コロは氷藍色の瞳で森の奥を一度だけ見つめると、再び干し肉を齧り始めた。
それから馬車は森を抜け、見晴らしの良い広大な平原へと出た。
遮るものが何もない青空の下、御者が「ここで少し馬を休ませます。ご用の方はお手洗いと水分補給を」と休憩を告げる。
乗客たちが背伸びをしながら馬車の外へと降り立つ中、セリアは教本を片手に、まるで演説でもするかのような態度で広場の中央に立った。
「皆様、ここなら安心です。教本によれば、この地域のゴブリンや魔物たちは警戒心が強く、日中のこういった『開けた場所』には決して姿を現しません。なぜなら、上空から襲ってくる別の魔物や、遠くからの弓矢の的になるからですわ」
その解説は、たしかに教科書通りで理路整然としているようだ。
乗客たちは「なるほど」「さすが魔術師様、よく勉強されている」と感心しきりだ。
「それに、先ほどの森での一件でお分かりでしょう?わたくしのような優秀な魔術師が目を光らせていれば、魔物の方から避けて通るのです!」
得意げに語る彼女の姿を、少し離れた岩に腰掛けた一人と一匹は冷めた目で眺めていた。
『……いちいちキャアキャアとうるさい女だ』
「ああして知識をひけらかさないと気がすまないんだろうね」
『ああ。今度は「私は安全です」という、無根拠で甘ったるい匂いを撒き散らしている』
「『決して姿を現さない』かぁ……」
コロは水筒の水を一口飲み、どこまでも続く平原をぐるりと見渡した。
「自然界に『絶対』とか『決して』なんて言葉はないのにね」
『全くだ。それに、この平原の草の丈……あの女が言うほど、見晴らしが良いわけでもないぞ』
「だね。犬くらいの背丈なら、すっぽり隠れちゃうくらいには草が伸びてる。……それに、お腹が空いて死にそうな時は、空の魔物がどうとか、弓矢がどうとかなんて、いちいち考えない魔物の方が多いよ」
コロは小さく肩をすくめた。
本の中にしか『正解』を持たない彼女は、足元の草の匂いも、風が運んでくるかすかな獣臭にも、まったく気づいていないようだ。
「でも今はまだ、ウルの存在を恐れるくらいの神経は残っているみたい」
『フン。それをあのうるさい女の手柄にされるのは不服だな』
「私もああしてペラペラ喋ろうか?『わたしくの相棒のような優秀なアッシュウルフが目を光らせていれば〜』って」
『……バカバカしい』
コロの予言めいた呟きを証明するように。
セリアが「安全です」と断言したはずの、昼下がりの開けた平原。
その少し背の高い草むらのあちこちから、複数の不気味な影が、ジッと様子を伺っていた。
「さぁ皆様、十分に休まれましたら馬車へお戻りください。この先も、わたくしが完璧にお守りいたしますわ」
セリアが優雅に教本を閉じ、乗客たちを促そうとした、その時だった。
カサッ……と、風とは違う不自然な音を立てて、セリアの背後の草むらが揺れた。
「……え?」
セリアが振り返るより早く、草むらから数匹のゴブリンが飛び出してきた。
彼女曰く、日中の開けた平原には決して現れないはずの彼らが、白昼堂々、剥き出しの牙から涎を垂らしながら、無防備な乗客たちへ向かって駆け出してきたのだ。
「ひぃぃっ!?」
「ま、魔物だぁっ!」
悲鳴を上げて馬車へと逃げ惑う乗客たち。
セリアは一瞬呆然としたものの、すぐに気を取り直して杖を構えた。
「お、落ち着きなさい!本の通り、火で追い散らして差し上げます!『火炎』ッ!」
ボンッ!と、ゴブリンたちの鼻先で派手な炎が弾ける。
だが――彼らは止まらなかった。
「……ギィヤァァァァァッ!!!」
炎を突き破るように、一匹のゴブリンが怒り狂った咆哮を上げてセリアに突っ込んできたのだ。
よく見れば、そのゴブリンの身体には、以前に受けたであろう古い火傷の痕がケロイド状に残っている。
そのゴブリン、火を恐れるどころか、過去に火で酷い目に遭わされたせいで「火を見ると逆に怒り狂って見境がなくなる」という、ただの『変わり者』だった。
「え……っ!?な、なぜ!?ゴブリンは火を恐れるはず……ッ、きゃああっ!」
そんなことなど、つゆ知らず。
セリアは慌てて杖を振り回し、間一髪でゴブリンの爪を弾き返したが、バランスを崩して地面に尻餅をついてしまう。
「こ、こんな時は……そうだわ、音!ゴブリンは大きな音に敏感です!『爆音』ッ!」
パニックになりかけたセリアが、教本の次のページの内容を叫びながら魔法を放つ。
鼓膜が破れんばかりの爆音が平原に響き渡り、火傷のゴブリンはたまらず耳を塞いでうずくまった。
「ほ、ほら見なさい!やはり教本通り……」
安堵の息を吐いたセリアの言葉は、最後まで続かなかった。
爆音の直後だというのに、別のゴブリンが、まったく怯む様子もなくセリアの背後へと迫っていたのだ。
「嘘でしょ!?な、なんで音が効かないの!?」
そのゴブリンの耳は、生まれつきなのか、あるいは喧嘩で失ったのか、完全に潰れて塞がっていた。
つまり、ただの『耳が聞こえない個体』である。
音による威嚇など、最初から何の意味もなかったのだ。
「計算が合わないわ!本にはこう書いてあるのに!なんなの、この出来損ないたちは!」
セリアは完全にパニックに陥り、土にローブを汚しながらヒステリックに叫び始めた。
そこに、さらにもう一匹。
他のゴブリンよりも一回り大きな個体が、馬車の方へと駆け出した。
火を放っても、音を鳴らしても、その個体は微動だにしない。
ただ、落ち窪んだ目で馬車に乗る乗客たちを見つめ、飢えに狂った獣の目をしている。
『……あれはただの腹ペコだな。死ぬほど腹が減っていて、空の魔物どころか、俺への恐怖すら忘れているだけのマヌケだ』
少し離れた岩の上から、ウルが退屈そうにあくびをしながら呟いた。
魔物の一般的な習性も、種族としての警戒心も何もない。
「ゴブリンって、ああなると言葉が通じないから嫌なんだよね」
『全くだな』
ただの『その日その時の気分』や『生い立ち』による、名もなき個体差。
それが、現実のリアリズムだ。
「ど、どうして……っ!おかしいわ、本にはこんな例外、一つも……!」
馬車を護るどころか、自分が逃げることすらできず腰を抜かすセリア。
「ひ、ひぃぃ……っ!」
死の恐怖に顔を引きつらせ、セリアはギュッと目を閉じた。
だが、いつまで経っても鋭い爪が彼女の肉を裂くことはなかった。
ズバァッ!という肉を断つ鈍い音と共に、ドサリと重たいものが目の前に崩れ落ちる。
「え……?」
恐る恐る目を開けると、先程まで彼女に迫っていた火傷のゴブリンが、脳天から真っ二つに叩き斬られて絶命していた。
そして、ゴブリンの首から噴き出した生温かい返り血が、セリアの青ざめた顔と真新しいローブにべっとりと降りかかる。
「きゃああっ!?」
「おっと、悪いな、魔術師の嬢ちゃん。ちょっと近すぎたか」
崩れ落ちたゴブリンの後ろに立っていたのは、使い込まれた革鎧を着た、人間族の青年だった。
その手には、血濡れた無骨な剣が握られている。
「おーい!こっちは終わったぞー!」
馬車の方から、別の野太い声が響く。
見れば、馬車に群がろうとしていた腹ペコのゴブリンや、耳の潰れたゴブリンも、乗合馬車に最初から同乗していたもう一人の傭兵風の男によって、あっさりと片付けられていた。
「ああ、こっちも終わった!」
青年は、今まさに倒したばかりのゴブリンの服で剣を拭いつつ、そう声を張り上げて応えると、慣れた手つきで鞘に収めた。
そう、彼らはこの乗合馬車が正規に雇っていた『本職の護衛』たちだったのだ。
わざわざ客である魔術師の手を借りるまでもなく、最初から彼らが対処する手はずになっていたのである。
「なんだ。ちゃんと本職が乗ってたんだね。……やっぱ護衛は護衛に、だね」
『だな。これで少しは静になるか……』
立ち上がりかけていたコロは、ポンポンとお尻の埃を払うと、すっかり平和を取り戻した馬車へと歩き出した。
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