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元・魔物の少女と魔狼の異世界観測記 〜狼の鼻と、神の余暇〜  作者: 三沢 七生


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三十秒の静寂と、嘘のない熱 4 〜選別の阿吽と、幸福な腹〜

4.


雑貨屋の主人の言葉に従い、裏通りのさらに奥、煤けたレンガ造りの建物の合間にある小さな店を訪ねたコロとウル。


風に揺れてキイキイと音を立てている吊り看板には、ペンキの剥げかけた銀色の狐の紋章。

扉を開けると、そこには『銀狐の革細工店』という名前の通り、銀髪の混じった老獣人が、眼鏡越しに鋭い視線を落としていた。


「……ほう。この脂を、革を殺さずに抜いてくれだと?」


銀狐の職人は、脂でガビガビになった手袋を手に取ると、突き放すような声を出す。


「嬢ちゃん、悪いこたぁ言わねえ。こりゃ新品を買った方が早いぜ。手間を考えりゃ、そっちの方が安上がりだ」


しかしコロは揺るがなかった。

彼女は職人の目を真っ直ぐに見据えて言い放つ。


「革は、新品を買えばいいってもんじゃないよ。これは愛着がある手袋でね。……破れたわけでもないのに捨てるなんて、単なる『勿体ない』じゃない。まるで、まだ動ける相棒を道端に捨てるような、寝覚めの悪さを覚えるんだ」


職人の手が、ピタリと止まった。

一瞬の静寂の後、老獣人はクククと喉を鳴らし、今日一番の鋭い光を瞳に宿した。


「……相棒、か。はっ、全くだ。道具を『使い捨ての消耗品』だと思ってる連中には、一生かかっても出せねえ言葉だ」


職人は手袋をカウンターに置くと、ニヤリと笑った。


「よし、いいだろう。三千リト……と言いたいところだが、今の言葉が気に入った。千五百リトで受けてやる。その代わり、脂の一滴まで完璧に抜いて、新品より馴染むように仕上げてやるよ。……そうだな、夕方くらいに取りに来な」

「ありがとう。助かったよ」


小さく微笑みながら、カウンターに銀貨と銅貨をジャラっと載せるコロ。




店を出て、夕暮れの街を歩きながら、コロは財布を振り、満足げに口角を上げた。


「……ふふ。狙い通り。あの職人なら、ああ言えば安くしてくれると思ったけど。まさかあそこまで負けてくれるとはね」

『おいおい、あの言葉は全部「交渉」だったのか? 随分と芝居がかったことを言うと思ったが』


ウルが呆れたように鼻を鳴らす。

コロは少しだけ照れくさそうに笑い、自分の指を曲げる動作をした。


「半分は本当だよ。革製品は馴染んだものを使う方が、関節の動きに無駄がなくて効率がいいもんね。捨てる選択肢なんてさ、最初からないよ。……ただ、あの『寝覚めの悪さ』って表現は、彼のような古い職人のタイプには特効薬だったってだけ」


ウルは尻尾で軽く、コロの背中を撫でるように叩いた。


『……全く、お前はどこまで計算ずくなんだ。……だが、嘘がないのも事実、か』


二人は、ドブ川で無残に洗われていたあのドレスの残骸を、もう二度と振り返ることはなかった。




「……よし。お婆さんとさっきのおじさんのところへ行くのは夕方だね。それまでまだ、たっぷり時間があるよ」


コロは、まだ冷たい朝の空気を吸い込みながら、隣を歩くウルの横顔を見た。

薬草屋も革職人も、どちらも職人たちの「仕事終わり」に合わせる必要がある。

効率を愛するコロにとっては、その空白時間をただイタズラに浪費するのは、許しがたい損失だ。


『ふん。コロのことだ、どうせまたどこかの煤でも吸いに行くつもりだろう?』

「正解。……軍資金はいくらあっても困らないからね。生存コストの更新だよ」


二人が向かったのは、街の中央にある広場の一角。

そこには、他国で見られるような高価な羊皮紙や、植物を原料とした安価な漉き紙(すきがみ)の依頼書ではなく、厚手の木の板に墨で書き殴られた依頼書が並ぶ、無骨な「掲示板」が立ち並んでいた。

職人の街フェルムにおいて、紙は贅沢品であり、燃料にもなる木材こそが日常のようだ。


コロは並んだ木板を、選別するように淡々と眺めた。

その瞳が、隅に追いやられた一枚の古い木板で止まる。


『ん?その板には、なんと書いてある?』

「えーとね、第二集積場、選別済み鉱石の運搬。一往復一箱、五十リト」

『なんだ、ガキの使いではないか』


ウルはマズルを歪ませつつ「フン」と小さく鼻を鳴らした。

しかしコロはというと、木板を指で軽く弾いてみせる。


「……ウル、これ。ここに書かれた以上の稼ぎが期待できそうだよ」

『ほう。ただの箱運びが、どう化けると言うのだ?』

「現場に行けばわかるよ。……ウルの鼻の力を、少しだけ貸してね」


コロはウルに向けて小さく微笑んだ。




第二集積場は、鉄鉱山から運び出されたばかりの大量の「ズリ(クズ石)」が山を成す、埃っぽい現場だった。

本来の仕事は、熟練の職人が選別を終えた「一級品」や「二級品」の入った重い木箱を、倉庫まで運ぶだけの単純な力仕事だ。


「……ああ? 運び屋か。悪いが、今は仕事にならねえよ」


現場監督のドワーフは、山積みの石を前に苛立たしげに鼻を鳴らした。


「選別作業が追いついてねえんだ。運ぶ中身がなけりゃ、箱運びの出番もねえ。……向こうで油でも売ってな」


見れば、選別台の前では数人の職人が、石の重さや光沢、音を一つずつ確認し、苦悶の表情で選り分けていた。

どうやら彼らが、この集積場のボトルネックの原因のようだ。

石ころを手にとっては、眉間にシワを寄せてジッと眺めている姿が散見される。

しかし、どこからともなく未選別の石が容赦なく次から次へと運び込まれてきている。


「ねえ監督。……箱を運ぶだけじゃなくてさ、選別そのものを手伝わせてもらえないかな。もちろん、今の職人さんたちより速く、正確にやるよ」

「……はっ!冗談言うな、嬢ちゃん。選別は十年やって一人前の職人の仕事だ。素人が混ざれば、後の鋳造で全部パーに――」


その言葉が終わるより速く、ウルが足元に転がっていた拳大の石を、鼻先でツンと跳ね飛ばした。


『……ふん。煤と脂に塗れてはいるが、こいつには深い土の奥の、いい匂いが詰まっているぞ』


石は放物線を描き、正確に監督の手元と収まる。

ウルはツンと澄ました顔をして、コロの隣に座っている。


「どう?この子の鼻は、石の中に眠っている『純粋な鉄』の匂いだけを抽出できるんだ。……私がそれを仕分ける。箱運びよりずっと効率的でしょ?」


監督は半信半疑だったが、山積みになったズリの山を見て、吐き捨てるように言った。


「……勝手にしな!ただし、ミスが一回でもあれば即刻クビだ。……おい、場所を空けてやれ!」


監督の言葉に、コロは小さく微笑みながらウルの頭をそっと撫でた。

ウルの尻尾がふわっと地面を撫でる。




そこからは、選別場の職人たち全員が手を止めて見守る、異様な光景となった。

ウルが山のような石の前に立ち、マズルを微かに動かす。

その金色の瞳は、大量の石の中から特定の「匂い」を持つものだけをロックオンしていた。


『……これは「一級」だ』

「分かった」

『ああ、ついでにそれもだ。二級かもしれんから判断してくれ』

「うん」


未選別のズリの前に鎮座したウルが前脚で石を弾く。

鉱石を入れる木箱の前で立っていたコロは、視線を送ることなく、ウルの動作と空気の動きだけで、次に飛んでくる石の軌道を予測してキャッチする。


彼女は受け取った石を、一瞬だけ掌の重さで確認し、迷いなく「一級」「二級」の木箱へと放り込んでいく。


「さっきのは一級でいいよ」

『分かった。じゃあこれは二級か?』

「うん、だね」


カチャ、カチャ、カチャ。

一切の無駄がない、阿吽の呼吸。

会話も合図も必要ない。

ウルが「嗅ぎ分け」、コロが「選別する」。

ただ、完成された一つのシステムのように、石の山がみるみるうちに処理されていく。


「……おい、嘘だろ。あの狼も嬢ちゃんも、石の光沢さえ見てねえぞ」

「あの狼……石の中身が見えてるのか?」


この「阿吽の呼吸」を前にして、それでも選別に混ざるのは、むしろ邪魔をする形になると思ったのか、選別をしていた者たちは、監督の指示のもと、別の現場へと向かっていた。




通常、数人がかりで一日かかる量を、一人と一匹は午前中のわずかな時間、日がてっぺんに登る頃には、あらかた片付けてしまった。


最後に残ったクズ石の山を前に、ウルは「フン」と鼻を鳴らして首を振った。


『……終わりだ。これ以上、価値のあるものは混ざっていない』


コロは作業員から手袋についた細かい砂を払い、呆然と立ち尽くす監督の前へ歩み寄った。


「……仕事終了。箱運びの報酬に、選別技術料を上乗せして……合わせていくら貰えるかな?」


監督は黙って、ずっしりと重い皮袋を差し出した。

それは、本来なら数日かけて支払うはずだった人件費。

それが、たった二人の「ハック」によって清算された瞬間だった。




監督のドワーフは、ずっしりと重い皮袋をコロに手渡した後もしばらくの間、空になった選別台と、そこに鎮座する巨大な狼を交互に眺めていた。


やがて、彼は短く太い指で自身の頭をガリガリと掻くと、豪快な笑い声を上げた。


「……はっ!まさか、この道三十年のベテラン共が束になっても敵わねえ仕事を、こんな小娘と野良犬……いや、熟練の職人がたに片付けられちまうとはな!鍛冶の精霊もさぞやたまげてるだろうな」

『……ふん。野良犬扱いは心外だが、正当な報酬を払う判断力だけはあるようだな、短足族は』


ウルが不遜に鼻を鳴らすが、監督はそれを「頼もしい唸り声」と受け取ったのか、さらに上機嫌にコロの肩を叩いた。


「おい、嬢ちゃん。時刻はちょうど昼だ。これだけ稼いでもらったんだ、工員たちの食堂で良ければ一食奢らせろ。……お前のその『相棒』の分もな」

「……食堂。うん、助かるよ」


コロは淡々と答えたが、その表情には微かな満足感が漂っていた。




案内されたのは、集積場のすぐ裏手にある、煤けた木造の巨大な建物だった。

入り口にある蒸気機関の排気口からは、鉄の匂いを上書きするような、暴力的なまでに食欲をそそる香りが漂ってきている。


「さあ、入れ!フェルムの飯は、見てくれは最悪だが味と栄養だけは保証するぜ!」


監督に促されて中に入ると、そこは数百人の工員たちが長机を囲み、怒鳴り合うような声で会話をしながら食事を掻き込む、熱気に満ちた空間だった。

そんな腹をすかせた荒くれ達の相手をするドワーフの女たちも、負けじと怒鳴り声をあげながらも、手際よく食事を提供している。


「おばちゃん、特製を三つ……いや、このデカいのは二つ分だな!合計四人前だ!」


監督が厨房に向かって声を張り上げると、間もなくして、重厚な陶器の器に盛られた料理が運ばれてきた。


「あいよ!二人の話は聞いたよ!たっぷりオマケしてあるからね!」

「わぁ……すごいね、これ」


コロの前に置かれたのは、拳大の肉がゴロゴロと転がっている、深い琥珀色のスープ。

そして、フェルムの名物だという、ライ麦を贅沢に使った漆黒のパンだ。

パンは手に持つとずっしりと重く、軽く焼かれた表面からは、発酵した独特の芳醇な酸味が香る。


『……ふむ。土と血の匂いが、いい具合に調和している。……悪くない』


ウルは、彼のために用意された巨大な木桶のスープ――肉が文字通り山盛りになっている――に顔を寄せ、満足げに尻尾を揺らした。




あちこちに傷がいっている木のテーブルの席についたコロ。

早速スプーンでスープを掬い、口に運ぶ。

じっくりと煮込まれた肉は、口の中でホロリと崩れる。

その濃厚な脂の旨味と野菜の甘みが舌の上で爆発したのか、カッと目を見開いてみせる。

次に彼女は、少し硬めの黒パンを勢いよく千切り、スープに浸して噛みしめる。


噛めば噛むほど溢れ出す穀物の旨味が、スープの塩気と完璧に混ざり合い、朝からの労働で消費されたエネルギーが急速に充填されていくのを、彼女はじんわりと感じているようだ。

ソっと目を閉じながら、ゆっくりと咀嚼をしている。


「……美味しい。……嘘がない味だ」

「だろう?鉄を叩くには、まず自分の身体を叩き直さなきゃならねえ。食いもんはそのための燃料だ」


監督は豪快にパンを千切りながら、少しだけ残念そうに目を細めた。


「……なあ、嬢ちゃん。さっきの選別だがな、本当ならもっと頼みたいところなんだ。だが、悲しいかな、これ以上選別する(ズリ)がねえ。お前たちが二日分の仕事をあーっという間に終わらせちまったからな!」

「……在庫切れ、だね」

「ああ。坑道から上がってくる石を待たなきゃならねえ。……もしお前たちがこの街に腰を据えてくれるなら、うちの専属の『選別長』として迎えたいくらいだ。あんな魔法みたいな阿吽の呼吸、一生に一度拝めるかどうかだからな」


監督の言葉に、職人たちの視線が集まる。

その視線には、よそ者への警戒ではなく、純粋な技術への敬意が混じっていた。

コロは最後の一切れのパンでスープの残りを拭い取り、静かに首を振った。


「……誘いは嬉しいけど、ごめんね。私たちは旅人だから、次の町へ行かなきゃいけないんだ。風の向くまま、気の向くまま――旅に生きる旅人、だね」

『だな。……俺たちは、お前さんたちが掘り出す石よりも、もっと「純粋」な何かを探している最中でな』


コロにしか伝わらないとはいえ、ウルはそう言い放って満足げに鼻を鳴らし、木桶を綺麗に舐め上げた。


「……そうか。まあ、無理強いはしねえ。だが、もし気が変わったら、いつでもこの看板を叩きな。あんたたちのような『本物』なら、フェルムはいつでも歓迎するぜ」

「そうさせて貰うよ」


コロは幸福で満たされた腹を擦りつつ、小さく微笑んでみせた。




食堂を出る頃には、空は高く、午後の柔らかな光が煤けた街並みを照らし出していた。

懐には重い銀貨の袋。

腹の中には確かな熱量。


「……よし。夕方の受け取りまで、少しだけ街をぶらつこうか。……急がない旅も、たまには効率的かもしれないね」

『ふん。コロがそう言う時は、大抵、何か面倒なものに目を付ける時だがな』


二人は、賑わいを増す市場の喧騒の中へと、再び歩みを進めた。


挿絵(By みてみん)

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