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第八十一小節 〜風のセレナーデ(前)〜



 墓地の正門を抜けると、空気の質が変わった。


 死者たちの眠りを妨げぬよう、風さえも息を潜めているかのような静寂。そこに広がるのは、無数の墓標が作り出す灰色の迷宮だ。


 ロウェルは迷うことなく、石畳の坂道を登っていく。目指す場所は、この墓地の中で最も高く、最も太陽に近い場所。


 丘の上。そこだけが別世界のように切り取られていた。


 周囲の荒涼とした景色とは対照的に、手入れの行き届いた芝生が青々と広がり、白い大理石の墓標が夕陽を浴びて淡く輝いている。


 その足元には、信者たちが手向けたであろう季節ごとの花が溢れかえっていた。豪奢な薔薇、香り高い百合、高価な蘭。色とりどりの花々は、まるで極彩色の絨毯のように墓石を取り囲んでいる。誰が置いたのかも分からない、善意と信仰の集積地。


 ——聖女の名を冠するには、あまりにも相応しい場所。


 そして、かつての「ただの少女」が眠るには、あまりにも眩しく、窮屈な場所。


 ロウェルは無言で近づき、墓前でそっと膝をついた。


 冷たい石の感触が、膝を通して全身に伝わる。風が彼の金髪を揺らし、前髪の隙間から覗くコバルトの瞳が、静かに墓標に刻まれた名をなぞる。


『聖女コリア、ここに眠る』


 その文字を見るたび、胸の奥を鋭利な刃物で抉られるような痛みが走る。


 彼はリースを持ったまま、空いている左手を自身の目の前に掲げた。

 夕陽に透ける、節くれだった戦士の手。無数の傷跡が刻まれたその手。


 ——愛する妹、コリアを殺めた手だ。


 ゆるりと指を開き、またゆっくりと強く握りしめる。

 関節がパキリと乾いた音を立てた。


 その瞬間、ロウェルの脳裏に、あの日の感触が鮮明に蘇る。


 柔らかかった肌の温もり。怯えと信頼が入り混じった瞳。そして、掌に伝わった骨が砕ける衝撃と、生温かい液体の感触。


 吐き気がするほどの鮮烈な記憶。


 思い出したくはない。忘れられるものなら、記憶ごと削ぎ落としてしまいたい。


 それでも、決して忘れてはいけない感覚。それが、生き残った兄が背負うべき十字架の重さなのだから。


 震える指先で、右手を伸ばし、墓石にそっと触れた。


 石は冷たいはずなのに、なぜか温かい脈動を感じるような錯覚に陥る。


 「兄様」と呼ぶ声が、風に乗って聞こえた気がした。


 しかしロウェルは顔を歪めなかった。涙も流さなかった。ただ、深く、静かにその感触を受け止める。


 頭上を渡り鳥の群れが掠め、遠く春の大地へと飛び去っていく。


 クワッ、クワッという鳴き声が、張り詰めていたロウェルの心の均衡を少しだけ崩し、言葉の背中を押した。


「……コリア」


 喉から絞り出した声は、掠れていた。


「ありがとう。『僕』を……助けてくれて」


 ふと零れた一人称は「僕」。


 それは、戦士ロウェルではなく、ただの無力な兄だった頃の自分の呼び名。

 その呼び方を知る者は、いまやこの世で唯一人。「討つべき目標」以外に残っていない。


 ロウェルは持参したリースを、豪奢な献花たちの隙間にそっと添えた。


 黄色いミルスラと、白いスリグ。真紅を取り除いた、素朴で優しい色合いのリース。


 それは、圧倒的な色彩の暴力の中でひっそりと、しかしどの花よりも凛として、コリアその人のように静かに存在を主張していた。


 風が吹いた。


 供えられた献花たちの花弁が舞い上がり、ロウェルの視界を一瞬だけ花吹雪で覆う。

 その向こうに、不器用な笑顔でリースを作るコリアの姿が揺らめいた気がした。


 ロウェルの口元が、本当に僅かだけ緩んだ。

 彼はゆっくりと立ち上がり、目を閉じた。


 再び目を開けた時、そこにあったのは「兄」の瞳ではなく、修羅の道を往く「戦士」の瞳だった。


「『俺』は行くよ。父様……いや、『金剛獅子』を討つ。

 ——愛する家族のために。」


 誰にも聞かせるつもりのない、だが大地に誓うような低い声。

 ロウェルは踵を返し、愛した妹の眠る場所に背を向けた。


 彼は振り返らない。ただの一度も。

 ここで振り返れば、二度と歩き出せなくなることを知っているから。


 一歩、また一歩。


 その背に宿る影は、秋の光の中で細く長く伸び続けていた。


 ロウェルの足取りは墓地を離れても変わらなかった。

 ただ、心の奥に一つ区切りがついたのか、纏わりついていたおりのような重圧が消え、風が少しだけ軽く感じられた。


 聖女の眠る丘を下り、さらに北へ。人の手が入らぬ、雑草が生い茂る獣道を歩く。


 そこには、ひっそりと佇む古い墓標群がある。貧民や、身寄りのない者たちが眠る場所。街の者でさえ滅多に足を向けないその場所に、ロウェルは迷いなく進んでいった。


 背の高い草をかき分け、細い道を抜けた先──。


 一本の巨大な大樹が、守り神のように根を張っていた。その根元に寄り添うように、質素な石の墓があった。


 レグレント=マーク=ゼディアーク。


 かつての「風塚の守り人」。オルスの父であり、ロウェルにとっては実の父以上に「父性」を感じさせてくれた男。


 ロウェルは無言で腰を下ろし、墓石の周りに絡みついた蔦や雑草を丁寧に払った。


 墓石は風雨に削られ、角が取れて丸くなっている。だが、不思議と寂れた様子はない。時折、誰かが手入れをしているのだろう。


 一世一代で築いた「騎士」の称号。彼は貧民たちの憧れであり、希望の星だった。血族は「もう」存在しないが、街の人々にとって彼はまだ生きている英雄なのだ。


「おじさん……来るのが、ずいぶん遅くなったよ」


 ロウェルは懐から、先ほど酒屋で手に入れた小瓶を取り出した。


 夕陽にかざすと、琥珀色の液体がキラキラと透き通って見えた。栓を開けると、ツンとするような酵母の匂いと、甘ったるい香りがふわりと広がる。


 レグレントがこよなく愛した、あの安酒の匂い。

 ロウェルは一口だけ口に含んだ。


 舌を刺すような刺激と、喉を焼くアルコール。決して美味いとは言えない。だが、それが記憶の中の「温かい食卓」の味とリンクする。


「……相変わらず、きつい酒だ」


 苦笑いを浮かべ、残りの酒を墓前の乾いた土にそっと注いだ。

 土が酒を吸い込み、色が濃く変わっていく。まるで、喉を乾かせたレグレントが飲み干しているようだ。


「あなたの息子は……オルスは、強かった。……俺なんかより、ずっと」


 言葉は自然と口から零れ落ちていった。

 墓から返事などあるはずもない。ただ、枝葉が擦れる音だけが返答のように響く。だが、なぜかその沈黙だけは優しく、ロウェルの孤独に寄り添ってくる。


 ロウェルは胸元に手を当て、そこにかけていた細い革紐をゆっくりと外した。


 手のひらに乗ったのは、アズルーとテウロンの遺品で出来たネックレス。


 幼い頃、共に野山を駆け回った人狼兄弟たちの形見。


 オルスもかつて同じものを身につけ、ロウェルが「ルヴェン」と名乗っていた頃、互いに対となるように手渡された、友情の証。


「俺たちはずっと一緒……だったよな」


 指先で牙の感触を確かめる。

 あの頃の約束。夢。そして、すれ違ってしまった運命。


「これは……返します。おじさん、俺は……もう前に進むよ。過去に縛られたままじゃ、あいつの分まで生きられないから」


 ロウェルはネックレスを墓石の根元、酒が染み込んだ土の上に置いた。


 カタリ、と小さな音がした瞬間、風がひときわ強く吹いた。


 大樹の葉がざわめき、舞い上がった枯れ葉がロウェルの周りを踊る。まるで、誰かが「よくやった」と笑いかけ、頭を撫でてくれているような気がした。


 ロウェルは目を細め、一度だけ、深く頭を下げる。


 さらば、俺の少年時代。さらば、もう一人の父よ。



 その時だった。


 ──さらり。


 空気を震わせる音がした。風の音ではない。もっと澄んだ、弦が弾かれる音。


 背後から、柔らかく、それでいて世界の色を変えてしまうような旋律が届く。


 街の喧騒や、鳥たちの歌声、風が奏でる自然の音とは決定的に違う。それは、時という概念に干渉する「魔法」の響きだった。


 ロウェルはゆっくりと振り返った。

 そこに立っていたのは、一人の青年……いや、「青年」という枠に収まるのかも怪しい存在。


 煤まみれの白髪を風に揺らし、古びたハープを抱えた男。


 時の旅人、ロイン。


 彼の姿は、夕陽の中に溶け込むように朧げだった。


 流れる風も、降り注ぐ太陽の光でさえも彼には干渉できず、すり抜けていく。彼はただそこに「現象」として存在し、揺らめいていた。


「ようやく……ここまで来たんだね、ロウェル」


 その声は優しく、どこまでも透明だった。耳ではなく、心に直接響くような声。


 ロウェルの胸の奥で、冷え切っていた感情に温かい火が灯る。


「また……あんたか……」


 ロウェルは呆れたように、しかし安堵を含んだ声で言った。


 神出鬼没の吟遊詩人。


 オルスに捧げた鎮魂歌は、今でもロウェルの心の奥底で渦巻いている。



 ロインは微笑んだまま、再びハープを爪弾いた。

 ポロン、ポロン……。


 その音は、まるで凝り固まった時間の粒を一つずつ解きほぐすように優しい。


「来ると思ってたよ。そして……この先へ行く前に、君は必ず『昔』に触れる必要がある。君自身が、それを望んでいるからね」


 ロウェルは眉を寄せた。


「昔……?」


 ロインは足音もなく歩み寄り、ロウェルの横に並んだ。


 そしてロインは見せた、彼の持つ五線譜だけの楽譜を。


 そしてその五小節目が仄かな光を放ち、揺らめいているのを……。



 するとロインは墓前に置かれた空の酒瓶と、牙のネックレスに、慈しむような静かな視線を落とす。


「ロウェル、君はもう気付いているはずだよ? 君は『彼』に……オルスに、歌を贈りたいんじゃないのかい? あの日、伝えられなかった想いを」


 風が止まった。


 世界が、薄い金色の光に包まれ始める。


 ロウェルは息を呑んだ。心の奥底に封じ込めていた願いを、見透かされたからだ。


 急に強い風が吹き、レグレントの墓の近くの大樹の葉が、ザザザと大きく音を立てる。


 それはまるで、演奏会の開演を待ちわびる観客の拍手のようだった。


 ロインはロウェルの目を見つめ、優しく頷いた。


「うん。君の思うがままに唄うと良い。私が伴奏しよう。そしてその歌声を……君の心の中にいる友人に、時を超えて届けてあげるよ」


 ロウェルは拳を握りしめた。


 迷いは、まだ完全には消えていない。自分の汚れた声で、彼への鎮魂歌をもう一度歌う資格があるのか。


 だが、ロインの瞳の奥には嘘がなかった。そこにあるのは、無限の肯定と、旅立ちへの祝福。


「……分かった」


 ロウェルが一言告げると、ロインは微笑み、弦をそっと撫でた。


 爪弾く音が一つ、二つと弾むと、淡い光が二人を包み込む。


 風が、光の中で逆再生のように巻き戻っていく。


 舞い上がった枯れ葉が木に戻り、夕陽が少しだけ高くなる。


 ロウェルの視界は白く染まり、時間の軋む音が耳を満たしていった。


 ──そして世界は、「過去」へと落ちていく。



 ロインの奏でるハープの音色は、哀愁を帯びながらも、どこか懐かしい温かさを持っていた。


 そのメロディーが、ロウェルの周りに「かつて」の風景を広げていく。


 そこは、風の吹き抜ける小高い丘。

 在りし日のレグレントが、風塚の見晴らしが良い場所で、豪快に笑いながら酒を飲んでいる。


 その周りを、二人の少年が走り回っていた。

 一人は、まだあどけなさの残るオルス。そしてもう一人は、「ルヴェン」と呼ばれていた頃の幼いロウェル。


 泥だらけになりながら、棒切れを剣に見立てて打ち合う二人。


 「負けないぞ!」「僕だって!」


 屈託のない笑い声が、風に乗って響く。

 それは、もう二度と戻らない、けれど永遠に色褪せない黄金の時間。


 ロウェルは震える唇を開き、息を吸い込んだ。


 肺いっぱいに、あの頃の風を取り込む。


 そして、心のままに、溢れ出る想いをメロディーに乗せた。


「どこまでいこう? 君と共に

 優しい風の吹く丘で」


 歌声は最初は小さく、震えていた。だが、ロインの伴奏が優しく支え、導いていく。


 「どこまでも行こう 君と共に

 遥かな大地求め君 と二人」

 

 風景が変わる。少年から青年へ。

 背が伸び、技術を競い合い、背中を預けあった日々。


 どんな時も、隣には彼がいた。


「どこまで行っても 君と共に

 心の中に眠る 君の為に」


 ロウェルの頬を、一筋の熱いものが伝う。

 それは悲しみの涙ではない。感謝と、決別の涙だ。

 オルスの笑顔が、目の前で鮮やかに輝く。

「何時か夢見し 勇者さえも

 何時か朽ち果て 君の下に……」


 ロウェルは最後の一節を、祈るように、叫ぶように歌い上げた。


 声が風に溶け、空高く昇っていく。


 歌い終わった後、ロインの伴奏はゆっくりと、そして優しく、終演を告げる和音を一音、一音と丁寧に爪弾いていく。


 

 余韻が、空間に染み渡る。

 ……。


 そして最後の和音が消え入ると同時に、ロインの姿は霞のように薄れ、静かに消えていった。


 風景もまた、夕暮れの墓地へと戻っていた。

 だが、ロウェルの心はもう、以前のような寒々しい廃墟ではなかった。


 胸の奥に、確かな熱が宿っている。


「何故だろうな、オルス……」


 ロウェルは涙を拭い、空を見上げた。

 一番星が、一つだけ瞬いている。


「お前はエルを殺した。許せないはずなのに……。

 俺は、お前のことを全く憎めないんだ……」


 それは、初めて認める本心だった。


 憎しみで自分を塗り固めようとしていた。だが、根底にあったのは、どうしようもないほどの愛と喪失感だけだったのだ。


 

 もう一度、大樹が強く風に吹かれ、葉を擦らせた。


 それは、素晴らしい歌声への惜しみない拍手であり、明日へ向かう戦士へのエールのように響いた。


 ロウェルは立ち上がった。


 その表情に、もう迷いはない。

 彼は墓に背を向け、ビルデンの城を見据えて歩き出した。


 風が、彼のマントを強くはためかせる。

 決戦の時は、もうすぐそこまで来ていた。


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