第八十小節 〜memento mori〜
ビルデン攻城戦、前日。
空は高く、どこまでも澄み渡る蒼穹が広がっていた。皮肉なほどに美しいその青は、これからこの地で流されるであろう血の色とは無縁の、冷徹なまでの清浄さを保っている。
ロウェルは一人、石畳の道を歩いていた。
かつて、大型魔石の暴走によって崩壊の一途を辿ったビルデンの城下町。十数年という月日は、瓦礫の山を風化させ、人々の記憶と共に街の形を塗り替えていた。
復興――言葉にすれば美しい響きだ。だが、ロウェルの目に映る光景は、継ぎ接ぎだらけの虚構に見えた。
崩れた石壁の隙間を埋めるように建てられた木造の家屋、焼け焦げた跡を隠すように塗られた白い漆喰。それらは一見すると街が息を吹き返したように見せるが、その奥底には拭いきれない「あの日」の恐怖と、生活苦という名の病魔が巣食っている。
かつては商人たちの威勢の良い掛け声と、客たちの笑い声で満ちていた商店街。今はその賑わいは見る影もない。
シャッターを下ろしたままの店舗が目立ち、看板の文字は風雨に晒されて判読不能になっている。開いている店も数えるほどしかなく、店主たちは皆、どこか諦めを含んだような虚ろな瞳で通りを眺めていた。
通り過ぎる風が、足元の乾いた砂埃を巻き上げる。そのざらりとした感触が、ロウェルの頬を撫でた。
明日は戦だというのに、街は奇妙なほど静まり返っている。嵐の前の静けさ、ではない。これは、長く続いた圧政と貧困によって感情を摩耗しきった人々の、沈黙という名の悲鳴だった。
ふと、灰色の視界の中に、場違いな色彩が飛び込んできた。
無機質な石造りの建物が並ぶ中で、そこだけが春を切り取ったかのように鮮やかだった。
「花、か……」
ロウェルは足を止めた。
決戦を前にして、自分が生き残る保証などどこにもない。もし明日死ぬのなら、せめて挨拶くらいはしておかねばならないだろう。
彼は独りごちると、吸い寄せられるようにその店へと足を向けた。
一歩、店内に足を踏み入れた瞬間、世界が一変した。
外の陰鬱とした空気、淀んだドブ川のような臭気は嘘のように消え去る。鼻腔をくすぐるのは、甘く、清涼感のある植物たちの香り。湿り気を帯びた土の匂いと混ざり合い、それは生命の賛歌のようにロウェルの肺を満たした。
赤、黄、白、紫。所狭しと並べられた花々は、ここが戦乱の地であることを忘れさせるほどの生命力に満ち溢れている。
「いらっしゃい、お兄さん! こんな時期だからこそ、気分は明るくしないとね!」
奥から明るい声が響いた。
現れたのは、ふくよかな体つきをした女性店員だった。背は低めで、エプロンの紐が食い込むほどの豊かな肉付きが、健康的な母性を感じさせる。
淡いブラウンの長髪を後ろでお団子にまとめ、笑うとこぼれ落ちそうな頬っぺたが持ち上がる。その奥にある濃いブルーの細い瞳は、日向のような温かさを宿していた。
40代半ばだろうか。その屈託のない笑顔は、この街で唯一、時が止まっているかのような錯覚を覚えさせる。
ロウェルもまた、彼女の放つ陽の気に当てられ、張り詰めていた頬が自然と緩んだ。
戦士の仮面を、一瞬だけ外すことができたのだ。
「……ああ、その通りだね。綺麗な花だ」
「でしょう? 自慢の子たちなのよ」
ロウェルは店内を見回し、記憶の底にある色彩を探した。
「ミルスラの花と、スリグで出来たリースが欲しいんだ。見繕ってくれるかな? 出来ればスリグは、葉よりも花が多い方が良い」
店員の動きが一瞬止まった。
ミルスラとは、球根性の多年草だ。子供の手のひらほどの大きさの、可憐な黄色い5弁の花を咲かせる。そしてスリグは、どこにでも自生するような蔓状の植物で、小さな白い花弁を無数につける。
どちらも、決して高価な花ではない。路地裏や野山で摘めるような、ありふれた花たちだ。
けれど、それらは「彼女」が好きだった花だった。
まだ彼女が「聖女」などと呼ばれる前、ただの無垢な少女だった頃。小さな手で一生懸命に摘み、不器用な手つきで編んでいた花々。
ロウェルの脳裏に、鮮明な映像がフラッシュバックする。
――ねぇ、お兄様。これ、あげる。
――似合う? 私のと、お揃いだよ。
あどけない笑顔。陽光を透かして輝くような髪。
自分用のリースと、愛する兄たちへ贈るための腕輪。指先を緑色に染めながら、楽しそうに笑っていた妹、コリア。
その片鱗を思い出すと、冷え切ったロウェルの心境は、まるで太陽の慈悲の様に温かくなった。が、
それと同時に、太陽は天上に「存在」するだけで、全ての闇をあからさまにし、同時に、さらなる闇を作る。
「……あら、まぁ」
店員の声で、ロウェルは現実へと引き戻された。彼女は驚いたように目を丸くし、まじまじとロウェルの顔を見つめている。
「聖女様に捧げるんですか? あまりお見かけしないお顔ですが……よくご存知で。しかもその組み合わせのリースをご所望なんて、よほど熱心に信仰されてる方くらいしかお求めになられませんよ?」
ロウェルの背筋に冷たいものが走った。
身元が割れるか? いや、まさか。十数年も前の亡霊の顔など、誰も覚えてはいないはずだ。
彼は努めて平静を装い、鼻頭をポリポリと掻いて誤魔化した。
「まぁ、お噂はかねがね。旅の者なんだが、折角ビルデンに来たし、あの有名な聖女様に献花くらいはと思ってね」
「まぁ! 良い心掛けですね! 私も毎週お花を捧げてるんですよ。聖女様のおかげで、この街もなんとか守られてるって信じてますから」
店員は嬉しそうに頷くと、手際よく花を選び始めた。
彼女の手つきは鮮やかだった。蔓を巻き、黄色い花を配置し、白い小花で隙間を埋めていく。その動きを見つめながら、ロウェルは胸の奥が締め付けられるのを感じた。
聖女、か。
人々は彼女をそう呼び、崇める。だが、ロウェルにとっての彼女は、ただの妹だった。甘えん坊で、泣き虫で、雷の夜には震えながら自分のベッドに潜り込んでくるような、愛すべき存在。
そんな彼女を「聖女」という祭壇に祭り上げ、利用し、そして壊したのは――誰あろう、自分自身なのだ。
「さぁ、出来ましたよ」
店員の声が弾んだ。
「聖女コリア様のお気に入り、『アルアリン』の花弁をあしらった特製リースの出来上がりです!」
差し出されたリースを見て、ロウェルの思考が凍りついた。
黄色と白の可憐なリースの所々に、毒々しいまでの「紅」が散らされていたのだ。
アルアリン。その花弁は、まるで動脈から噴き出した鮮血のような真紅をしている。
「……なんだ、それは」
ロウェルの口から、低く掠れた声が漏れた。
「え? アルアリンですよ。聖女様のシンボルカラーじゃないですか。情熱の赤、犠牲の赤。とっても綺麗でしょう?」
店員は悪気なく微笑んでいる。
だが、ロウェルの目には、その赤が花弁には見えなかった。
ーー
嫌な音が蘇る。
掌に伝わる、生温かい感触。骨が砕ける感触。
飛び散る紅。視界を埋め尽くす紅。
愛する妹の頭部が、自分の手によって破壊された、あの瞬間の色。
呼吸が浅くなる。指先が震えそうになるのを、拳を握りしめて必死に耐えた。
どこでそんな尾鰭がついたのか。聖女が一番嫌う色だ。
彼女に似合うのは柔らかな木漏れ日の色であって、こんな、断末魔のような紅ではない。
「……すまないが、アルアリンは取ってくれないか?」
「え? でも、質素過ぎませんか? せっかく綺麗な色なのに」
「いいから取れ」
強い口調になってしまった。殺気すら滲んでいたかもしれない、自らも感知出来なかったが、歯軋りと巻き舌も含んでいたと思われる。
店員がビクリと肩を震わせ、怯えたようにロウェルを見た。
「あ……ご、ごめんなさい」
ロウェルはハッと我に返った。
何を八つ当たりしているんだ。この女性に罪はない。彼女はただ、善意でやってくれただけだ。
ロウェルは深く息を吐き出し、強張った表情筋を無理やり緩めた。
「……いや、すまない。大きな声を出して悪かった」
彼は努めて穏やかな、旅人の顔を作った。
今、彼が思い出したいのは、あの日の惨劇ではない。
柔らかな口調、甘い香りのする綺麗な髪の毛、自分の手を掴んで離さない柔らかい指先。あの潤んだ瞳。
そこに、真紅は似合わない。似合わせてはいけないのだ。
「俺は、彼女のありのままの姿が好きでね。だから、その派手な紅は少し……眩しすぎるんだ」
「そ、そうだったんですね。失礼しました、すぐに取りますね」
店員は慌てて紅い花弁を取り除き始めた。
ロウェルは、その作業を見守りながら、胸の内で平静を取り戻そうと努めた。
「……手間をかけさせたな。気持ちは嬉しいんだが、出来ればアルアリンを取る手間賃も入れて、お代は幾らぐらいだ? 出来れば共通貨幣で支払いたいんだが」
笑顔で問いかけるロウェルに、店員も安堵した表情を浮かべた。
「あら、そうね。旅人さんでしたものね。ビルデン語があまりにもお上手すぎて、すっかり地元の方かと錯覚しちゃったわ」
「よく言われるよ」
ロウェルの今の姿は、マントの中に微かに見える革鎧と、腰に装備した護身用の短剣一本。どこからどう見ても、宿に荷物を置いて散策に来た一介の旅人にしか見えない。正体を隠すための擬態は完璧だ。
「こんなややこしい時期に、わざわざ来てくれたのですもの。サービスで……銅貨9枚でどうかしら?」
中々、商売上手だ。
通常、手間賃を入れたとしても、今の相場でこの程度のリースなら20ルアン前後だろう。ビルデンの通貨単位であるルアンは、かつては1ルアン=1銅貨の価値があった。
しかし、長引く内戦と経済の破綻により、今のレートは1ルアン=0.1銅貨にまで暴落している。つまり、彼女の提示額は実質的な価値の数倍に当たる。
それでも、安いと思った。
それほどまでにこの国は荒廃し、腐敗しているのだ。貨幣価値の暴落は、そのまま人々の命の軽さに直結する。
「ああ、それでいい。ありがとう」
ロウェルは苦笑いを浮かべながら、共通貨幣の銅貨をカウンターに並べた。
受け取ったリースからは、あの懐かしい香りがした。それだけが、唯一の救いだった。
「次は酒か。墓参りも中々大変だな」
店を出て、一人呟く。
リースを抱えた腕に、微かな重みを感じながら。
ロウェルは頭をポリポリと掻きながら、再び閑散とした城下町を歩く。
その雰囲気は重々しく、常に誰かからの視線を感じる。監視されているのか、それとも怯えているのか。カーテンの隙間から覗く眼差しが、肌をチリチリと刺すようだ。
だが、締め切った家屋の中から、微かに聞こえてくる子供たちのはしゃぐ声。それだけは、いつの時代も、どんな状況下でも変わらない。
その無邪気な声が、殺伐としたロウェルの心を僅かに温めた。
先ほどの花屋があった表通りから、一筋裏手の路地へ入る。
そこは、表通りの比ではないほどに荒廃が進んでいた。石畳は剥がれ、雑草が生い茂り、野良犬がゴミ山を漁っている。
その一角に、古びた酒屋があった。
記憶の中にある店構えとは随分と変わってしまったが、看板の文字の癖だけは変わっていない。
ロウェルは蝶番が錆びて、所々に腐敗が見当たる木のドアに手をかけた。
ギィィィと耳障りな軋み音を立ててドアが開く。
一歩店内に踏み入ると、埃っぽい空気が喉を刺激した。
店内の至る所に蜘蛛の巣が張り巡らされ、照明器具は壊れているのか、明かりは窓から差し込む僅かな西日だけ。
舞い上がる埃が、その光の筋の中でキラキラと踊っている。
……かつては、壁一面の商品棚に数多くの酒類が陳列されていたはずだ。
ワイン、エール、ウイスキー、そして密造酒まがいの地酒まで。多くの大人たちが賑わい、品定めをしながら、各地から取り寄せた銘酒を買い付けていた活気ある場所。
だが今、棚に残っているのは空の瓶が無造作に置かれているだけで、酒の匂いよりもカビの臭いが鼻につく。
「すまない、誰かいるか?」
カウンターの乾いた木板を、コツコツと数回ノックする。
返事はない。ただ、奥の部屋から何かが擦れるような音と、誰かの舌打ちが聞こえた。
「なんでぇ……酒なんて殆ど置いてないぞ? 何の用だ」
のっそりと現れたのは、無精髭を生やし、目の下にどす黒いクマを作った初老の男だった。
身なりは薄汚く、体からはツンとするような安酒の臭いが漂っている。かつての、威勢の良かった店主の面影は、風前の灯火ほどしか残っていない。
男は濁った瞳でロウェルを一瞥すると、鼻を鳴らした。
そこそこの身なりをした若造。どうせ冷やかしだろうと判断したのか。
「兄ちゃんに売る様な良い酒なんて置いてねーぜ。さっさと出ていきな。ここはもう店じまい同然なんだよ」
男はシッシッと、野良犬を追い払うように手の甲をヒラヒラと仰いだ。
「……この店のアドジレしか呑まないと言っていた、ある騎士様の墓に手向ける酒だ。置いてあるだろ?」
ロウェルの言葉に、男の動きがピタリと止まった。
濁っていた瞳が、カッと見開かれる。
「……あぁ?」
アドジレ。
それは、砂糖と小麦粉、それに足す酵母、そのすべて余り物と地下水を使った、極めて原始的な自家製酒だ。
臭いは強烈で、鼻が曲がるほどきつい。だが、口に含むと独特の甘みと、舌を刺激する微発泡がなんとも言えないアクセントとなっている。
いわば「貧乏人のシャンパン」。どの家でも作れる代物だが、この店のオヤジが作るアドジレは格別だと豪語し、ロウェルの生家によく持ち込んでいた豪傑騎士がいた。
店主はカウンターから身を乗り出し、ロウェルの顔を食い入るように見つめた。くすんでいた瞳に、生気という名の光が戻ってくる。
「おまっ……! マークの事、知っているのか!?」
レグレント=マーク=ゼティアーク。
かつての風塚の守り人であり、ロウェルにとっては「父」にも等しい存在。そして、彼がその手で殺めなければならなかった親友、オルスの父親。
この地にロウェルが降り立ったのは、任務のためだけではない。贖罪。懺悔。そして決別。
これまでの行動は全て、故人が大切にしていた物を手向けにするための儀式だった。
「兄ちゃんも人が悪りぃなぁ、最初から言ってくれれば良いのに」
「そんな名前だったか? レグのおっちゃんて」
ロウェルはとぼけた調子で返した。わざと、あの頃の呼び名を口にする。
店主は一瞬キョトンとした後、破顔した。
「貧民街の英雄を『おっちゃん』呼ばわりって……、兄ちゃんも貧民上がりか? そりゃ傑作だ!」
先ほどの鬱陶しそうな態度はどこへやら。店主は嬉々としてカウンターの下へ潜り込むと、埃をかぶった木樽を引っ張り出してきた。
「そう言やよ、アイツにゃガタイの良い倅も居たんだが……どこで何してんだろうな? 親父の後を継いで立派な騎士様になってるか?」
ロウェルの心臓が、ドクリと大きく脈打った。
オルス。
あいつは、強かった。優しかった。そして、俺の手で……。
「……さあ? それは知らないな」
ロウェルは感情を殺し、短く答えた。脳裏に浮かぶ親友の最期の顔を、無理やり奥底へ沈める。ここで話が長くなるのは避けたい。
彼は懐から、銅貨100枚に相当する銀貨を1枚取り出し、カウンターに置いた。
「出来たてじゃ無くて、二年程寝かせたのが良い。釣りは要らない」
「まてまて! 多すぎるだろ!? てか、アイツの好みまでドンピシャ当てるなんて、お前一体何者だ?」
店主は目を白黒させ、見たこともないような輝きを放つ銀貨に狼狽えている。
ロウェルはニヤリと笑った。
「どうせおっちゃんのツケ、残ってるんじゃ無いのか? あの人、金払いは悪かったからな」
「そらそうだけども! 『死人に口なし、殉職にツケなし』が店のモットーだからよ! こんな大金、受け取れねーよ!」
店主は頑なに銀貨を押し返そうとする。その手は節くれ立ち、長年の苦労を物語っていた。貧しいはずなのに、誇りだけは失っていない。
ロウェルは、その手をそっと押し留めた。
「そう言わずに受け取ってくれよ。……子供の頃、可愛がってもらったお礼だからさ」
ロウェルの声色が、ふっと柔らかく変わった。凛とした眼差しの中に、少年の頃の面影が宿る。
店主は息を呑み、ロウェルの顔をまじまじと見つめた。そして、何かを悟ったように力を抜いた。
「……そうか。兄ちゃん(アン)は、子供の頃にマークと知り合いだったのか」
店主は目を細め、どこか遠くを見るような顔をした。
「良い奴だったろ? アイツ」
そう言うと、店主は店の中で一番綺麗なガラス瓶を取り出し、琥珀色のアドジレを慎重に移し替え始めた。その手つきは、聖水を扱うかのように丁寧だった。
瓶詰めが終わると、店主は瞳に微かに涙を光らせながら、それをロウェルに手渡した。
「持ってってやりな。アイツも喜ぶ」
「ああ。ありがとう」
ロウェルは瓶を受け取り、酒屋を出た。
右手には真紅を取り除いた花冠。左手には亡き父代わりの男が愛した安酒。
重い。物理的な重さではない。そこに込められた想いと、これから向き合わねばならない過去の重さが、彼の腕にのしかかっていた。
街を出る道は、季節外れの澄んだ青を抱いていた。
風は冷たいが、木々は陽を受けて明るく揺れている。黄金色に輝くススキの穂が、波のようにうねりながら「おいでおいで」と手招きをしているようだ。
だが、その明るさは歩く男の影だけを、より一層濃く、黒く地面に落としていく。
ロウェルはふと足を止め、頭上の空を仰いだ。
どこまでも高い空。
「……本当に、この時期の空は変わらないな」
誰に向けたわけでもない呟き。
それでも、その言葉には確かな望郷の念が滲んでいた。
耳元を掠める乾いた風が、妙に心地いい。それは子供の頃、コリアやオルスと駆け回ったあの丘の風と同じ匂いがした。
しばらく石畳を歩く。「あの日」すべてが破壊されたというのに、今は彼の靴音だけが淡々と時間を刻んでいた。
カツ、カツ、カツと高く澄んだ空の青と、前髪の隙間から覗くコバルトの瞳は、かつて同じ色を宿していたはずだった。希望に満ち、未来を信じて疑わなかった瞳。
今、その瞳の奥には陽の届かない深い影が沈んでいる。
風が髪を揺らすたび、その影だけが露わになる。
道端で小鳥がさえずり、どこかの家の窓からは、夕餉の支度をする音と、子どもの笑い声が聞こえてくる。
血と肉が蔓延った「あの日の光景」も、今では教科書の中の「歴史」になってしまったのだろうか。
あるいは、明日から起きる出来事の方が、彼らにとっての新しい歴史になるのか。
どちらにせよ、ロウェルの足取りは揺れない。
明るい昼の景色ほど、彼の歩みは静かだった。だがその一歩一歩は、氷のように冷たく、鉛のように重い。
手元のリースから漂うミルスラの香りだけが、辛うじてロウェルの心を、「人間」の形に繋ぎ止めていた。
彼が何を思っているのか──もう誰にも分からない。
この国では「彼の全て」が、名前も、存在も、すでに抹消されてしまったのだから。
彼は幽霊のように、あるいは死神のように、墓地へと向かう道を歩き続ける。
陽は傾きかけ、オレンジ色の光が世界を染め始めた。彼の影は長く長く伸び、まるで死者の聖地へ彼自身を引きずり込もうとしているかのようだ。
街並みが遠ざかるほど、道端の草は低くなり、風の通りが変わった。
雲ひとつない空は澄んでいるが、その陽はどこか寂しげだ。
ロウェルの靴音だけが乾いた土に淡々と刻まれていく。
通りすがりの農夫が、帽子を上げて金色の麦畑から挨拶した。
「お帰りなさい、旅の方」
ロウェルは軽く会釈を返したが、その動きはどこか遠い。
まるで、挨拶そのものが自分の輪郭をすり抜けていくのを、静かに見送るようだった。彼に「帰る」場所は、愛する妻が待つアダーの港町だけなのだから。
「此処は」もう、帰る場所ではない。
……道の脇には、今日咲いたばかりの野花が群れている。
ひとつが揺れれば、隣も続く。
陽に照らされた花弁は光を返すが、その光もロウェルの影に触れた途端、どこか鈍く、彩度を落としたように見えた。
「……お前は、こういう風景が大好きだったな」
ポツリと落とした言葉。
前髪の奥から、光を帯びた液体がそっと流れ始めていた。
涙ではない。これはただの、心の澱が溢れ出しただけだ。
それでも彼は立ち止まらない。
時折、風が前髪を払い、コバルトの瞳が遠くを見据える。
そこに浮かぶ何かを言葉にすることはできない。あまりにも多くのものを失い、あまりにも多くのものを背負いすぎた。
ただ、その冷たさは胸奥の記憶に触れ、古傷をじわりと疼かせた。
やがて遠くに灰色の石壁が見えてくる。
街の墓地を囲む古い石垣だ。
陽に照らせば白く光るはずの石が、今日に限っては鉄色に沈んでいた。墓石たちが、罪人の帰還を静かに拒絶しているかのように。
ロウェルは小さく息を吸う。
覚悟なのか、ただの呼吸なのかは分からない。肺いっぱいに冷たい空気を取り込み、自分の内側を冷やす。
長く伸びた影だけが、彼よりも先に石壁へ触れた。
ここから先は、死者たちの領域。
そして、ロウェルが捨て去った「過去」と対峙する場所。
彼はリースを持つ手に力を込め、門をくぐった。




