第七十九小節 〜その旗艦(ふね)の名は〜 (後)
しばらくジルウスと楽しい食事をしていると、すっかり出来上がったフィリップが、トロンとした目で彼に問いかけた。
「でぇ? オッサンはなんれ、この港にいりんらぁ? ヒック」
……顔は茹でタコのように真っ赤で、呂律が回っていない。
「俺は、だぁい好きな姉ちゃんの、おくしゅり? あれ? おくしゅり……探して三千里……」
「お前はその辺で水でも飲んで寝てろ。話がややこしくなる」
ロウェルは弟を椅子に座らせたまま背中をさすり、無理やり水を飲ませた。フィリップは「う〜」と唸り声を上げながら、テーブルに突っ伏してしまった。
深夜になり、店内は徐々に人気が少なくなっていた。残っているのはロウェルたちと、カウンターで静かにグラスを傾ける三人組だけだ。喧騒が去った後、店外から聞こえる秋の虫の音が、妙に大きく、そして心地よく響く。
そこでジルウスが、先ほどまでのふざけた態度を消し、落ち着いた口調で話し出した。
「お前達もしかして……あの依頼か? 国家転覆の」
場の空気が一瞬で張り詰める。
「ああ、そうだ。その為にキラフのアダーから来た」
ロウェルは真っ直ぐにジルウスを見据えて答えた。
ジルウスは大きく溜息を吐くと、「ちょっと一服させてくれ」と胸ポケットから使い込まれたパイプを取り出した。タバコ葉を丁寧に詰め、マッチで火をつける。
チロチロと燃える火種。辺りに独特の甘く渋い燻し香と、紫煙が漂い始めた。
「まぁ、人の価値観なんてそれぞれだから多くは言わねぇけどな……どうもキナ臭ぇんだよなアレ。実は俺ん所にも『艦砲射撃で支援してくれ』って打診が有ったけどよ、丁重に断ったわ」
ジルウスの吐く煙が、天井付近で雲のように揺らめいている。
「分かっているさ、ジルウス。でもな、俺も覚悟を決めて此処に居る。他の誰かじゃない、せめて『俺の手で』終わらせなきゃならない事があるんだ」
「なんだ? 縁でもあるのか?」
ジルウスはパイプを持つ手を止め、前のめりになって目を丸くした。
「まぁ、昔世話になった……とでも言っておくよ。てか艦砲射撃って凄いな。どんな戦艦なんだよ、そんな物騒なもん積んでる船は」
ロウェルは話題を逸らすように尋ねた。
「お!? 食い付いてきたな! さすが男だぜ。俺の船は魔導砲十門と……闘導砲十門を備えてるんだぜ? ビビるだろ?」
その言葉に、ロウェルは息を呑んだ。
彼は知っている。小型の闘導機でさえ、強固な竜の結界を容易く破れるほどの破壊力を持つ代物だという事を。それが戦艦の主砲クラスで搭載されているとしたら……それはもはや兵器という枠を超え、災害そのものだ。
「待てよおい、そんな装備……」
ロウェルが戦慄し、言葉を失いかけた時だった。
「海賊共は完膚無きまでに叩き潰す。それが俺の価値観だ」
今までのにこやかな表情は消え失せていた。
そこに居たのは、復讐の炎を瞳の奥で静かに、しかし激しく燃え立たせる一人の修羅だった。その殺気は肌が粟立つほど鋭く、冷たい。
ジルウスはパイプを深く吸い込み、長く細い煙を吐き出しながら続けた。
「日が昇ったら船を見せてやるよ。腰抜かすなよ? 覚悟しとけ」
その言葉は誘い文句のようだったが、ロウェルは直感で悟った。
―――ただ朝帰りの言い訳として、俺たちが連れていかれるだけだと―――
その日の夜は、ロウェルたちの宿に無理矢理押し込んで来たジルウスが、宿主に一泊料金の三倍近いチップを握らせ、強引に同じ部屋へ泊まることになった。
「ベッドの一つはこの泥酔した弟に使わせてやってくれ。俺は床でいいから、あんたがベッド使いなよジル」
「そうは行かねぇよ。俺ぁ押し入った立場なんだからよ、お前が使えや」
狭い客室でベッドの譲り合いをしていると、ロウェルは観念したようにため息をついた。
「今夜、散々奢ってくれたろ? 借りは作らない性分でね。明日で今生の別れかもしれないだろ?」
「おいおい、まだ若ぇのに縁起のねぇこと言うなって。……まぁ、んじゃ借りは返してもらうぜ!」
ジルウスはニカッと笑顔で答えたかと思うと、ベッドにダイブした瞬間に「グゥ……」と寝息を立て始めた。恐るべき入眠速度だ。
「俺にはアンタには返しきれない恩が有るんだよ……これぐらいで勘弁してもらえるかな」
ロウェルは硬いソファーに身を横たえ、窓から差し込む月明かりを見つめた。満腹感とアルコール、そして安堵感からか、次第にまどろみが彼を包み込み、意識は深い闇へと沈んでいった。
―――三人の寝息が重なり、やがて悪夢へと変わる。
「グッガアアァア! グゴッ! ゴッ! ゴガァ!」
地響きのような、あるいは魔獣の咆哮のような強烈なイビキ。それに叩き起こされたのはフィリップだった。
「……んぁ? なんだ? なんなんだ? うっるせぇ……」
頭痛と吐き気に襲われながら、彼は暗闇の中で目をこすった。兄が眠っているはずの隣のベッドに、助けを求めるように手を伸ばす。
「兄貴……? どうした? 腹でも壊したか?」
そう言って、ベッドに横たわる大柄な男の胸に手を触れた瞬間だった。
ガシッ!
有り得ない怪力がフィリップの腕を掴み、そのままベッドへと強引に引きずり込んだ。
「むにゃ……抱き枕か……? 丁度いい……」
太い腕がフィリップを締め上げる。骨が軋む音。濃い酒とオッサンの臭い。
「ぐぇっ!? ちょ、はぁ!? あんた誰!? マジ誰!?」
フィリップはパニックになり、手足をバタつかせて必死の抵抗を試みた。男の抱擁から何とか抜け出し、床に転がり落ちる。
……どうやらフィリップは、昨夜の記憶が綺麗に欠落しているようだ。
「ロウェル? 兄貴? どこいった?」
フラフラと千鳥足で寝室を徘徊するフィリップ。月明かりに照らされたその姿は、さしずめリビングデッドといったところか。
しばらくウロウロしていたが、ソファーの上で静かに寝息を立てる兄の姿を見つけ、ようやく安堵の息を漏らした。
夜の虫たちの演奏は終曲を迎え、今は暗闇を支配する猛禽類たちが、鋭い鳴き声を響かせている。開け放たれた窓から吹き込む夜風が、ロウェルの前髪を優しく撫でていた。
「兄貴……あのオッサン、昼間の人だろ? なんで宿にいるんだよ……わけわかんねぇ」
ブツブツと文句を言いながら、彼はロウェルの寝ているソファーの横の床にゴロリと寝転がった。硬い床の感触が、酔った体にはむしろ心地よい。
「なぁ兄貴、こんな寄り道してて良いのかよ? 俺たち……」
窓の外、夜空に浮かぶ下弦の月が、迷える彼らを冷ややかに見下ろしていた。
翌朝、空が白むよりも早く三人は宿を後にした。
まだ街は眠りの底にある。石畳を叩く靴音だけが、静寂に満ちた路地に反響していた。
吐く息は白く、頬を撫でる朝の冷気が昨夜の酒で鈍った頭をシャキッと覚醒させる。空を見上げれば、東の水平線が僅かに茜色に染まり始め、夜の群青色との美しいグラデーションを描いていた。
海からは、新しい朝を告げる海鳥たちの鳴き声と、規則正しい波の音が聞こえてくる。
「なぁオッサン、本ッ当に戦艦なんて持ってんだろうな? 昨日のホラ話の続きじゃねーよな?」
フィリップが眠そうな目を擦りながら、疑いの眼差しを向ける。
「へへっ、見てのお楽しみだぜぇ。腰抜かすなよ? フィッペさんやい」
「ちょっ! 呼び方変わってるじゃんよ! フィリップだっての!」
子供のように小突き合いながら歩くジルウスとフィリップ。昨夜の強制宿泊事件を経て、奇妙な連帯感が生まれたようだ。二人の背中は、まるで長年の悪友同士のように馴染んでいる。
その数歩後ろを歩くロウェルは、ふと足を止めた。
レンガが敷き詰められた道路、風雪に耐えてきた古びた民家、ショーウィンドウに飾られた埃っぽい商品。そして遠く山手に鎮座する、朝日を受けて荘厳に輝く王城。
その景色の一つ一つが、彼の記憶の底にある棘を優しく、しかし確実に刺激する。
「懐かしいな……」
ロウェルは憂いを帯びた瞳を細め、ポツリと独りごちた。
かつて自分が生きていた場所。愛憎が入り混じる故郷の匂い。しかしその感傷は、目の前で「いてぇなこの筋肉ダルマ!」と騒いでいる弟と、豪快に笑う男の声にかき消された。
ロウェルは苦笑し、首を振って感傷を振り払うと、二人の背中を追った。
太陽が水平線から顔を出し、ビルデンの王都を黄金色の光で満たす頃、一行は軍用港の入り口へと辿り着いた。
そこには、一般人の侵入を拒絶する威圧的な境界線があった。高さ3メートルはあろうかという重厚な鉄格子の門と、どこまでも続く赤レンガの防壁。その堅牢さは、ここがただの港ではなく、軍事要塞であることを物語っている。
ふと、肌を刺すような鋭い視線を感じ、ロウェルが顔を上げる。
門の両脇には、全身を鎧で固めた屈強な衛兵が二人、長槍を構えて立ちはだかっていた。その眼光は鋭く、獲物を品定めする鷹のようだ。
「おい! お前達、軍用港に何の用だ! ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ。用が無いならさっさと失せろ!」
怒声が響く。顔が強面なら、言葉もまた高圧的だ。
ロウェルが一歩前に出ようとしたその時、ジルウスがスッと片手を上げて制した。
「ちょっとからかってやろーぜ?」
ジルウスは悪戯っ子のようにニヤリと笑う。いい大人が、しかも自称・船団の総長が何を考えているのか。
ジルウスは猫背になり、卑屈な笑みを浮かべて門番の方へと歩み寄った。そして、かつて使っていたというカタコトのビルデン語を操り始める。
「ここ、わたし、ふね、ある。いれて」
続けて、両手で四角い形を作りながら、
「わたし、えらいひと。とおして。おねがい」
フィリップが後ろで「プッ」と吹き出すのを必死に堪えている。ジルウスの演技はあまりにも堂に入っていたが、その瞳の奥は明らかに笑っていた。
「貴様! 我らを侮辱するつもりか!? 浮浪者が戯言を! 拘束して王城の地下牢に放り込んでやる!」
衛兵たちの顔が朱に染まり、こめかみに青筋が浮かぶ。切っ先鋭い槍がジルウスの喉元に突きつけられた。
しかしジルウスは動じない。スッと背筋を伸ばし、先ほどまでの卑屈な表情を一瞬で消し去った。そこにあるのは、冷徹な支配者の顔。
「このくに、もう、おわり、ちがう?」
その言葉は、呪詛のように重く響いた。
衛兵たちが殺気立ち、槍を突き出そうとした瞬間。
「流石にやりすぎだジル!」
「オッサンやり過ぎだっての! 死ぬぞ!?」
ロウェルとフィリップが慌てて割って入る。
ジルウスは「ちっ、興が削がれたな」と呟くと、胸ポケットから一枚の羊皮紙を取り出し、衛兵の目の前にバサリと広げた。
「一応、この停泊中の警備の雇い主は俺なんだぜ?」
ニヤリと口角を上げ、今度は流暢なキラフ語で言い放つ。
衛兵たちはその紙に記された紋章と署名を見た瞬間、目を限界まで見開いた。そして、まるで雷に打たれたように直立不動の姿勢をとる。
右手の槍を垂直に立て、左手の拳を胸の中央に強く当てる。それは最上級の敬意を表す、槍兵の敬礼だった。
「『蒼の鯱』船団の総長、ジルウス=ハルバート殿でしたか! 大変な失礼を致しましたッ!」
先ほどまでの高圧的な態度はどこへやら、震える声で謝罪を口にする。
「おうおう、ご苦労さん。からかって悪かったな。ほら、これは詫び賃だ」
ジルウスは衛兵の胸当ての隙間に、キラリと光る硬貨を数枚滑り込ませた。
「さ、行こうぜ」
呆気にとられるロウェルたちを促し、ジルウスは悠然と門の中へと足を踏み入れた。
すると鉄格子が開かれ、遮蔽魔法が解除された瞬間、フィリップの思考は停止した。
「な、なんじゃこりゃぁ!?」
口をあんぐりと開け、あまりの衝撃に足がもつれて尻餅をつく。
視界いっぱいに広がっていたのは、海ではない。鋼鉄の森だった。
港湾を埋め尽くすように停泊しているのは、十艘は軽く超える巨大な船々。そのどれもが、ロウェルたちの知る常識的な船のサイズを逸脱していた。全長100メートル近い船体が黒光りし、甲板には主砲と思われる巨大な砲身が二門、さらに船体の至る所に無数の副砲がハリネズミのように設置されている。
だが、そんな威容を誇る船々さえも霞んでしまうほどの「怪物」が、中央のドックに鎮座していた。
フィリップが指差し、言葉を失ってパクパクと口を動かしているその船。
他の船の二倍……いや、それ以上か。全長300メートルはあろうかという超弩級の船体。
甲板には煙突のように太く長い主砲が二段六門、天を睨むように聳え立っている。副砲の数は数えるのも馬鹿らしくなるほどだ。
特筆すべきは、船体の側面だ。通常あり得ない場所に、主砲クラスの巨大砲身が二門、サメのエラのように突き出している。反対側にもあるとすれば、その火力は一国を焦土に変えるに十分だろう。
「な、だから腰抜かすなよって言ったのによ。見事に抜かしてら」
「こ、こんなんどうやって動かしてんだよ? おかしいだろ、物理的に!」
「ん? そんなん愛と魔法と気合いだろーが」
ジルウスはニカっと笑い、へたり込んだフィリップの手を取って強引に立たせた。
「んで、この俺があの一番でかい船の艦長であり、この船団の総長って訳さ。どうだ? 見直したか?」
「おお! めちゃめちゃ格好良いなオッサン! 本物だったんだ!」
フィリップの目が尊敬の眼差しに変わる。
二人の背後で、ロウェルはその巨艦を見上げ、静かに息を呑んだ。
―――これが、個人の力だと言うのか。
彼はジルウスという男の器の大きさを改めて思い知らされると同時に、どこか懐かしむような、それでいて英雄を称えるような複雑な瞳でその背中を見つめていた。
その後、港の宿舎からワラワラと現れた団員たちに「総長! また勝手に出歩いて!」と見つかり、こっぴどく叱られるジルウスだったが、それもまた彼の人望なのだろう。
ロウェルたちは、副長と呼ばれる沈着冷静な男性、カイツに案内され、あの一番大きな船へと足を踏み入れた。
タラップを登り、甲板に立つ。足元から伝わる微かな振動。それは船が生きている証だ。
船幅は30メートル以上。すれ違う船員たちの数は軽く100名を超えている。
案内された船内は、無骨な外観とは裏腹に洗練されていた。磨き上げられた廊下、貴族の屋敷のような客間、ビリヤード台まで置かれた遊戯室、そして数百人の胃袋を満たす広大な食堂。
それは船というより、海に浮かぶ一つの「村」であり、要塞だった。
だが、ロウェルの疑問は晴れない。
このサイズの船を動かす動力。通常の魔導船なら、複数の「コア魔道士」が交代で魔力を供給しなければ微動だにしないはずだ。しかし、そのような気配はない。
そのことをカイツに尋ねると、彼は一瞬表情を曇らせ、申し訳なさそうに口を噤んだ。
甲板に出ると、遮るもののない潮風が三人の髪を乱す。
そこへ、けたたましい笑い声と共にジルウスが現れた。
昨日のラフな格好は何処へやら。金色の縁取りが施された深い蒼色の軍用コートに身を包み、同色のスラックス、帽子を被り、口には愛用のパイプ。
その姿は、紛れもなく一軍の将であった。
「待たせたな、お二人さん。似合ってるか?」
ジルウスはコートの裾を翻す。
「あとの説明は俺がするから、お前は船団員を仕切ってやれ、カイツ」
「かしこまりました総長。後はお任せします」
カイツと呼ばれた副長は恭しく一礼し、踵を返した。
ロウェルの横を通り過ぎる際、カイツはふと足を止めた。
「……どこかでお会いしましたよね?」
小声で、探るように問いかける。その瞳には、確信めいた光が宿っていた。
「いいや? 人違いだろう」
ロウェルは表情を崩さず、短く首を横に振った。
「……そうですか。失礼しました」
カイツは意味深な視線を一瞬残し、コツコツと軍靴の音を響かせて去っていった。
二人きりになると、ジルウスは甲板の手すりに寄りかかり、遠くの水平線を見つめながら語り始めた。この船の動力について。
「この船の心臓はな……俺の女房、イルベルの魔力と、俺自身の闘気の複合で動いてるんだ」
「奥さんの魔力? でも、魔力供給はずっと続けてなきゃいけないはずだろ?」
ロウェルが問う。
「ああ。だが……アイツは、イルベルは……正確にはもう死んでるんだよ。海賊との戦闘でな」
その言葉に、ロウェルとフィリップは息を呑み、背筋に冷たいものが走った。
死んだ人間からは魔力は取り出せない。肉体が滅びれば、魔力も霧散する。それはこの世界の絶対的な理だ。
ジルウスはパイプの煙を吐き出し、重い口を開いた。
かつて海賊との激しい戦闘の最中、同乗していたアルカスル教の牧師がいたという。ジルウスが敵を食い止めている間、致命傷を負い、今まさに息を引き取ろうとしていた最愛の妻イルベル。
その牧師は、死にゆく彼女に不思議な音楽を聞かせたのだという。
すると彼女の体は光に包まれ、肉体を捨て去り、魔力の結晶――『純粋な生体コア』へと姿を変えたのだと。
「待てよ、それって魔石じゃないのか? ジル」
「牧師様曰く、魔石とは違うらしい。そこに怨念も憎悪も無い、純粋な愛の結晶らしいぞ。俺も目玉が飛び出る位ビックリしたぜ。死してなお、俺を支えてくれてるんだ」
ジルウスは愛おしそうに、甲板の床を足でトンと叩いた。
「そんな……話が出来過ぎてる。まるで神様の仕業だ……」
ロウェルは言葉の途中でハッとし、ジルウスと顔を見合わせた。
「何だ? 思い当たる節でも有るのか?」
そんな重く、神秘的な話など理解が追いつかないフィリップは、巨大な主砲の砲身に抱きつき、「すげー! これ撃ってみてぇ!」と大はしゃぎしている。
「いや、何でもない。本当に神様だったかもしれないな、その牧師様っていう人は」
ロウェルは微笑み、はしゃぐ弟の姿に目を細めた。その脳裏には、ある一つの可能性が浮かんでいたが、今は胸の内にしまっておくことにした。
その後、小一時間ほど副長カイツが淹れてくれた香り高い紅茶を楽しみ、別れの時が来た。
「兄貴、今日は依頼主と会う約束だろ? そろそろ行かねーと、時間に遅れるぜ」
フィリップが小声で急かす。
「そうだな、長居する訳には行かないもんな」
ロウェルはカップを置き、ジルウスに向き直った。
「そろそろ仕事の用事で離れなければならないんだ。昨日と今日、楽しかったよ、ジル。本当にありがとう」
「お、おうそうか。こっちも無理に連れ回して悪かったな。また縁が有ったら、今度は朝まで飲み明かそうぜ。ロウェル、それにフィル坊」
「また呼び方変わってるじゃんよー! もうなんでもいいけどさ!」
三人は顔を見合わせ、腹の底から大笑いした。そして、男同士の硬い握手と、肩を抱き合う抱擁。
「そうそう、最後にこの船の名前教えてやるよ」
ジルウスは帽子を被り直し、背筋をピンと伸ばした。その姿は、海を統べる王の如く堂々としていた。
「この船は俺と、嫁さんの名前を取った。蒼の鯱船団所属、旗艦『イルヴェルズィール』と言う名だ。いつか歴史に名を轟かせる船だ、覚えとけよ?」
イルベルと、ジルウス。二つの魂が融合した名前。
「何かカッケー!! 言い難いけど……なんかスゲェ!」
フィリップの瞳は、波間で乱反射する太陽の光のように煌めき、憧れと興奮で胸を躍らせていた。言葉など不要なほどに。
ロウェルたちがタラップを降り、桟橋を渡って門の方へと歩き出すと、遥か頭上、船のデッキからジルウスが大きく手を振っているのが見えた。
「達者でなー! また会おうぜ、『荷物の坊主』ー!」
「いつの間にか坊主にまで略されてるじゃねーか俺! しかも荷物って何だよ!? 誰が荷物だ!」
フィリップは大声でツッコミを入れながらも、笑顔で手を振り返していた。
ロウェルだけは、足を止めずに背中でその声を聞き、フッと鼻で笑った。
「年長者には敵わないな……。バレてたか」
……ポツリと漏らした言葉は、潮風に溶けて消えた。
ロウェルたちが立ち去り、祭りの後のような静寂が戻った港。
イルヴェルズィールのブリッジの最上部、誰の目にも触れない場所に、ロインの姿があった。あるいは、最初からそこに居たのかもしれない。
彼は愛用のリュートを抱え、爪弾きながら静かに唄う。風に乗るような、透き通った歌声。
「海の覇者、今ここに
されど見えぬその先に
多くの別れ、一つの出会い
散った筈のその命
拾いて続く命の灯火
そして聞こえる……魔王の胎動」
不協和音ギリギリの和音が三つ、不安を煽るように響く。
ロインは遠ざかっていくフィリップの背中を、愛おしい宝石を見るような、あるいは壊れ物を慈しむような瞳で見つめていた。
「ふふっ……」
一呼吸、時間を置いた彼は、現実の風景から切り取られるように、時の扉の向こうへと消えた。
―――光一つ届かない世界。
ここは虚無の闇。上下左右の概念すら曖昧な空間。だが、スポットライトを浴びるように、無数の両開きの扉が星空のごとく浮かんでいる。
音一つ無い凛とした虚無の時間。
一秒なのか、一億年なのか。重く軋む音が響き、霞と共にロインが現れた。
彼はリュートを弾いたまま、周囲に浮遊する無数の扉を見回す。その瞳には、全ての並行世界が映っているかのようだ。
「さて……」
ロインは口を開く。観客などいないはずの空間で、誰かに語りかけるように。
「彼ら二人は、今回の事の発端となった人物に会います。自らの名も、異端者の紋も隠し、『英雄』の名を冠した彼をもてはやし、最後の止めにするべく奮い立たせます」
ロインの視線が、足元にある一枚の扉に向けられる。
その扉の隙間からは、男たちの野太い鬨の声や、宴の熱気が微かに漏れ出していた。そして、風の音が荒ぶ音が聞こえる。
「そんな決起集会の後、決戦へと向かう彼らの内……その前日に一人、風舞う丘に佇む男の話をしましょうか……」
そう言い終わると、ロインはリュートを背負い、ポケットから小さな銀色のハーモニカを取り出した。
彼が奏でたのは、どこまでも寂しく、それでいて胸を締め付けるような哀愁のメロディ。
その音色を残し、ロインは足元の扉の中へと、吸い込まれるように姿を消した。
物語は、悲劇と希望が交差する次の章へと進んでいく。




