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89:一割の重さに手が震える

 リゼルは目の前でじっと一冊の本を見下ろしているアリムを見た。

 まだまだリゼルお手製の絵本資料を使っている段階だが、例の本から簡単な部分を選んで訳させる事もある。古代言語を知る切っ掛けとなった本なので、読めたとなれば当然嬉しいだろうし学習のモチベーションも上がるだろうと考えた上での学習方法だ。

 完全に布に覆われている相手がどう思っているかなど分からないが、訳してみてと伝えた際の返事が若干嬉しそうだったので効果はあるのだろう。苦戦しているようだと微笑み、手元の薄い本へと視線を戻す。

 先日からアリムに書かせている古代言語の日記だ。まだ教授を始めてそれ程経っていないのに、酷く優秀な彼はすでに単語が二つ三つの文章ならば有る程度書く事が出来る。どうやらリゼルが絵本を楽譜に直した資料と実際の絵本を見比べることで、その範囲内の単語はマスターしたらしい。


「(一度教えたら覚えるし、やっぱり優秀な人だなぁ)」


 しかしアリムの日記は日々代わり映えしない。

 基本的に書庫に籠りっぱなしなので仕方が無いかも知れないが、日記と言うよりは読んだ本の感想文となっている。それか未だに聞き続けている演奏の感想文か。

 簡単な単語だけではどうしてもそうなってしまうけど、と思いながら間違った所に訂正を入れていく。何となく、古代言語をマスターしてからも同じような内容の日記を書いているのが容易に想像が出来てしまう。


「出来た、よ」


 古代言語を楽譜に直し、更にそれを見て訳していたアリムが顔を上げたようだ。

 ごそりと布の塊が揺れて、鮮やかな刺繍がさらりと滑る。


「“私は、彼を、一時間睨みつけた”」

「執拗ですね」


 出来れば訳している時に疑問を持って欲しかった。


「これは“一時間”じゃなくて“一瞬”です。ニュアンス的には“ちょっと”が一番自然ですね」


 リゼルは向かいの席から手を伸ばし、楽譜の方に指を滑らせながら細かく解説をする。

 本来ならば楽譜に直さず古代言語のまま読む習慣を付けた方が良いとは思うが、誰と話す訳でもなければ手早く読めなければいけない訳でもないので問題ないだろう。古代言語を用いるのは今はもうエルフのみで、アスタルニア国民も他同様に彼女たちを伝説上の存在で実在はしないと思っているのだから。

 支障が出るようならば彼自身が何とかするだろうし、リゼルが教えるのは迷宮の扉を開く事が出来る範囲の知識なのでそこまで徹底するつもりはない。


「――・…――」

「一時間……じゃなくて、“ちょっと”、休み……休憩?」


 ふいに短く口ずさんだリゼルの声に反芻しながら考えること十数秒。

 正解を導き出したアリムを褒めるように微笑み、リゼルは向かい側から手を伸ばして開かれていた古代言語の本を閉じた。当然だがまだ自主勉強が出来るほどに古代言語を修めていないアリムなので彼が休憩を取ってくれないとリゼルも休めない。

 少しばかり不満そうな空気を醸し出す布の塊に苦笑し、添削した彼自身の日記帳を返す。


「そういえば、以前お勧めして頂いた魔法書の続きってありますか?」

「気に、入った? うふ、ふ」


 ゆっくりとした棒読みの笑い声は相変わらず喜んでいるとは思えないが、これでもアリムはきちんと喜んで笑っている。アスタルニアでは読む者がほとんど居ない研究書や理論書について話せる相手がいるのは素直に嬉しいし、勿論他のジャンルの本も内容を理解して的確な考察さえ交わせるのだから。


「あっちの奥の棚の、上に積んであると、思う、よ」


 書庫の主の趣味によって配置された本たちは、適当に積まれ並べられているように見えてこだわりの配置であるようだ。彼が本を置いた場所を忘れることは無い。

 勧めて貰った本は机のあるスペースのすぐ横にある棚に立てて並べられていたというのに、一体どういう法則があるのだろうかと布から覗いた褐色の肌を持つ腕が指差す方向を見る。此方から見て直角に並べられた周りと比べて背が高めの棚で、という説明を聞きながら成程と立ち上がる。


「座ってろ」

「ジル?」


 ふいに今まで黙って本棚へともたれていたジルが口を開いた。

 片手に持っていた暇つぶしでしかない本をパタンと閉じ、立ち上がりかけた腰を再び下ろすリゼルを見下ろす。そしてどこかからかうように告げた。


「届かねぇだろ」

「否定は出来ません」


 長身のアリムは平気で棚の上にも本を積むが、低くはないものの平均的なリゼルでは恐らく届かないだろう。わざわざ踏み台を何処かから探すのも面倒臭い。

 可笑しそうに笑うリゼルを目を細めながら一瞥し、ジルはアリムが指した方へと足を進めて行く。不規則に並べられた本棚のお陰でその姿はすぐに見えなくなった。

 本を読んでいようと随分と暇だったらしいと容易に真相を見抜きながらその後ろ姿を見送ったリゼルは、おもむろに借りていた魔法書を取り出して机の上へと置く。


「質問、良いですか?」

「どう、ぞ」


 聞きたい事は何となく予想が付くけれど、とアリムは布の下で笑みを浮かべた。

 予想が付くといっても大したことではない。目の前の穏やかな男が知らず、自分へと尋ねようと思う事など一つしか思い浮かばないだけだ。


「この書庫で結構魔法書を読んだんですけど、魔鳥騎兵団に関する記述はひとつも無くて」

「……う、ふふ。意外と、ストレートに聞く、ね」


 魔鳥騎兵団がどうやって魔鳥と友好を結んでいるか、という一点だ。

 にこりと笑うリゼルは国家機密を聞いているとは思えない程に通常通りで、他意は無いと伝えているのか。事実、そこに知りたいからという理由以外は見当たらないのだからこうもストレートに聞けるのだろう。

 とはいえ他意が無ければ教えられる程度のものが国家機密になっている筈は無い。それを理解しているだろうに問いかけたのは、悪用するつもりも無いし自分で使用する予定も全く無いと伝えたいのか。


「それについては、口伝だから、本には残らない、よ」

「なら知っているのは騎兵団と王族の方だけ、でしょうか」

「そう、だね」


 成程、と頷いているリゼルは喜んでいるようにも残念そうにも見えない。

 王族としては諦めてくれれば良いなぁ、と思うだけで特に警戒はしないが。魔鳥騎兵団の秘密を知りたがる者は悪意を含まない者でも割と多いからだ。

 魔物遣い(テイマー)を目指す魔法使いは勿論の事、魔物遣いを目指さずとも探究心豊かな魔法使いならば一度は疑問に思うだろうし学者達だって調べている者は多い。身近な所ではアスタルニアの将来騎兵団へと入りたがっている子供達だって、街中で騎兵を見かけるたびに何でどうやってと無邪気に問いかけている。


「あなたも、ただ知りたいだけ、だよ、ね」

「だって気になります」


 だよね、とアリムは愉快そうに呟いた。学者として気になるものは仕方無いという気持ちは理解出来る。

 ただリゼルとしてはアリムの言葉に完全には肯定出来ないが。此方の世界だけで考えれば肯定してみせるが、あちらに帰って何かの参考に出来ればなと戯れに考えてもいる。

 しかし否定も出来ない。何だかんだで一番の理由はアリムの言う通り知りたかっただけであり、此方ではそれで何かをしようとしている訳でも無ければ知った所で誰かに言いふらす予定も全く無いからだ。


「でも、あなたなら何時か、知る気がする、よ」

「もしそうなら国家機密を知ってしまうって事じゃないですか。殿下がそんなこと言って良いんですか?」

「知られたら、その時だから、ね」


 戯れのように笑い、リゼルは机の上に置いていた本を掌で撫でた。

 魔法書に記載されているのは大体が生活に基づく魔法ばかりだ。戦闘用の魔法は編み出した人間が隠したがるし、特に魔物遣いはその傾向が強い。

 よって魔法使いごとに独特な魔力構築が存在し、騎兵団が使用している方法に見当を付けるだけでも容易ではない筈なのに何故アリムはそう思えるのか。布の塊がごそりと動き、彼が姿勢を直したのを告げる。


「真紅の色を持った、かれが、言った通りか、な」

「イレヴンですか?」

「あなたは、もしかれらが共に居なくても、望みを叶えられる」


 学者として有るまじき事に、理由も根拠も無くリゼルならば出来そうだと思ってしまう。その隣に居る筈の二人が居なくなったとしても、その印象は間違いなく変わらないだろう。

 ならば以前聞いた言葉も何となく理解出来る気がした。

 布を掻き分けるように褐色の肌を持つ腕が姿を現し、机の上をゆっくりと進んでリゼルの手が乗る魔法書へと辿りつく。そしてその手にあるものを手放させるように革表紙に包まれた本に指をかけ、自らへと引き寄せた。


「あなたに、かれらは、必要無い」


 手元から静かに離れて行く本を目で追うリゼルを好奇のままに観察する。

 少しの抵抗も無く容易に本を譲り渡した手は持ち上げられ、微かに首を傾けることで頬にかかる髪を耳へとかけていた。露わになった耳元にあるピアスが、なんとなく彼のイメージと合わなくて目を引く。

 そのまま持ち上げられた視線が此方を向いた時、隠す事無く不思議そうな色を浮かべていたのが酷く意外だった。それはすぐに苦笑に変わる。


「あまりイレヴンの言う事を真に受けちゃ駄目ですよ。本音っぽく見えて適当な事しか言わない子です」

「嘘って、感じもしなかった、けど」

「ジル曰く、俺に関する事で嘘を言う事は無いみたいなので嘘では無いと思いますけど」


 リゼルと一緒にいる時のイレヴンが嘘を混ぜ込むことは無いので、リゼル自身はあまりそんな姿を見た事は無い。何せリゼルといる時に他者と意味のある会話をする事など、相手がリゼルの身内でもなければほとんど無いのだから。

 嘘をついても見抜かれる相手に嘘をつく必要もないとの考えからか、わざと茶化す時でもなければその口は偽りを告げる事は無いがリゼルが居ない場ではそうでない事は容易に想像がつく。元々リゼル相手でも本音を告げる事を避けたがるし、本音を告げるにしろ九割は隠すようなひねくれた人間だ。


「それに、必要無いで終わった訳では無いんでしょう?」

「そうだ、ね」


 まるで聞いていたかのように言い当ててゆるりと微笑むリゼルに、アリムは引き寄せた本を布の下に収めながら頷いた。返ってきた本を見下ろすと少しの傷も増える事無く其処にあり、それもそうかと思いながら何気なく指を這わせているとページとページの隙間から何かがはみ出しているような引っ掛かる感覚を指先に感じた。

 微かに覗いているのは紙片で、爪を立てながら摘みゆっくりと引き抜いて行く。一瞬中でページが折れているのかとも思って動きを止めたが、抵抗なく引き抜かれる紙とリゼルがページを折るような人間では無いと言う確信からすぐに再開した。

 するすると引き抜く紙片は紙片というには大きく、手に持つ本のページと同じぐらいの大きさだろうか。それが綺麗に二つ折りにされて挟まっていた。


「必要ないのに、欲しがられるのが」


 以前のイレヴンの歪んだ笑みを思い出す。

 あれが嘘だという事は無いだろう。本音の大部分を隠しながらも見せた姿があれならば、全てを曝け出した姿は一体どうなるのだろうか。

 あまり興味は無いけれど、とあっさり思いながら二つ折りになった用紙を広げる。直後アリムは目を見開き、無意識に言葉の続きを紡いだ。

 それがただイレヴンの言葉を伝える為のものなのか、思わず口から零れてしまった自らの抑えきれなかった感情だったのかは分からない。


「さいこう」


 広げた用紙に所狭しと書かれていたのは一つの魔法理論だった。

 アスタルニアにおいて、アスタルニアでしか出来ない、アスタルニア特有の魔法を用いて行われる魔鳥を操る術が完璧に証明されていた。もはやこれしか方法が無いと思ってしまう程に完成された理論は、もし現在魔鳥騎兵団が用いる方法と違っていても魔鳥を操れてしまうだろう。

 しかし真実、これしか方法は無い。あらゆる対極な分野を混ぜ込んだこれに辿りつくなど学者であればある程に不可能で、どれ程に広く深い知識と視野を持てば出来るのか分からない。

 用紙の右下、証明の終了の後ろにある此処だけ色の違うインクで描かれた“?”が酷く目を惹きこの理論が正解なのかと問いかけていた。


「イレヴン、そんな事言ってたんですか?」


 布に包まれたアリムが用紙を見つけたことに気付いているのかいないのか、平然とそう口にするリゼルに用紙に釘付けていた視線を上げる。

 瞬間飛び込んで来たのは普段通りの穏やかな微笑みでは無く、隠さず嬉しいと伝えるように目を細めるリゼルの姿だった。ギルドへと舐めるなと牽制をした姿を知っているアリムは当然のように「そうですか」の一言で済ませる姿しか思い浮かべておらず、何処か満足気な空気と共に浮かべられた笑みは清廉な空気を少しだけ薄めて彼をいつもより幼く見せている気がした。


「分かんねぇでもねぇけど、ひねくれてんなアイツ」

「イレヴンらしいじゃないですか。有難うございます」


 ふいにコン、と角を当てるように机の上に現れた本にリゼルは視線を上げながら笑う。既に常の通りに戻ってしまった笑みに、しかし機嫌が良さそうで何よりだとジルは溜息をつきながら探して来た本から手を離した。

 机の上に倒れそうになった本を掌で支え、そのままパラパラと軽くページを捲る。目的の本に間違いは無いと頷いて開いていたそれをパタンと閉じた。

 そしてそのまま視線は目の前の布の塊へと移る。布の下で何をしているかなど見えないにも拘らず、全てを見透かすような透き通った視線が向けられてアリムは手に持った用紙を丁寧に畳みながら唇に笑みを浮かべた。


「“その時”は訪れそうですか?」

「おれが言えるのは、一つだけだ、よ」


 すっと布の隙間から現れた手には相変わらず一冊の本がある。しかしそのページの何処からも紙片は覗いていなかった。


「クエスチョンマークは、いらない。それだけ、ね」


 リゼルはそれは良かったと微笑み、授業再開を告げた。

 国家機密に辿りついたことは気付かない振りを通し、しかし正解だと告げられた。リゼルにとってはそれだけ知れれば満足なので、恐らくこれ以降彼自身がこの件について何かを考える事も話題に出す事も無い。

 つまりその程度のこと、だからこそアリムも口封じだの監視だの無謀なことをしなくて済むしする気も無い。国の事を思うならば今の自分の判断が最上であると確信を持って言える。


「次は、何をすれば良いの、かな」

「そうですね。日記帳の見直しをしましょう」


 ならば自分もこれ以上気にすること無く古代言語の習得に励もうと、そう簡単に切り替える事が出来る程度にはアリムも優先順位がはっきりした人間だった。






 王宮からの帰り道、まだ明るい道をリゼルとジルは並んで歩いていた。

 音楽的センスを磨くためにアリムがひたすら演奏を聞く時間をまだまだ必要としているのもあり、一日中教授を行うという事は滅多にない。特に今日は早くに王宮を訪れていた為、まだまだ日は高い時間帯だった。


「知ってましたか、ジル。迷宮内でマッピングする時はペンじゃなくて木炭が使われてるみたいなんです」

「へぇ」

「良いものだと足に巻いていつでも取り出せるような専用のケースや、持ち手が付いたものもあるんですよ」


 魔物に苦戦する事も無いので多少迷おうともサクサク進めるジルはマッピングになど縁が無い。一体何処でそんな知識を仕入れて来たのかと思いつつ、告げられた言葉に頷く。

 冒険者について誰に指導を受けた訳でもないジルなのでマッピングの仕方など分からないが、最低限必要な道具を揃える際に棚に並べられた細い木炭を見て自然とこれを使うのだろうと悟ることは容易かった。しかし冒険者活動について普段は教えられる立場であるリゼルが、面白そうに教える立場を堪能しているのだから黙っておく。

 何故リゼルが今までそれを知らなかったのかは言うまでも無い。生まれた時から最上級のペンを使い続けてきた彼に気付けと言う方が難しいだろう。


「俺も今度やってみようかな」

「お前覚えてられんだろうが。いちいち止まんのも面倒だろ」

「それもそうですね」


 変な所で凝り性なリゼルがメモ程度の適当な地図を描く筈が無く、恐らく距離すら正確な地図を描き上げることは想像に難くない。その為にわざわざ立ち止まられるのは遠慮したいと嫌そうなジルに、リゼルもあっさりと頷いた。

 そもそもジルの言う通りリゼルは覚えていられる。どうしても描きたいのなら迷宮から出た後に宿でゆっくり机に向かって描けば良い。


「最近依頼でもジャングルか街中でしたし、明日久々に迷宮の依頼を受けましょうか」

「好きにしろ」


 のんびりと話しながら二人が向かっているのは港だった。

 ジルによって持ち込まれた鎧王鮫の加工が終わりそうだと告げられたのは昨日のことで、宿主に伝言を伝えて行った漁師がいうには今日の昼までには必ず、らしい。恐らく今は既に加工が終わっているだろう。

 以前より少ない期間で済んでいるのは人手が増えたからか漁師達が勘を取り戻したからか、何かを見越してお前も来いと告げたジルに言われるままにリゼルも同行している。二度目とはいえ捌きたても食べたいし、とリゼルは快く付いて来ていた。


「今夜は鎧鮫づくしですね。前宿主さんが作ってくれた鎧鮫のステーキがまた食べたいです」

「唐揚げは絶対作らせる」

「カルパッチョとかも美味しかったですし」

「お前は明日迷宮行きてぇんだろうが、腹痛くなっても知らねぇぞ」


 鎧王鮫の肉は脂がのっている癖にあっさりと食べやすく、すぐには満腹感を感じにくい。伝説として語り継がれる程の美味な食材を、折角だからと普段割と小食なリゼルもジル達と共に食べ続けたら見事翌日腹痛になった。

 美味しいんだから仕方ないと微笑んだリゼルは、恐らく今夜は上手く鎧王鮫に舌鼓を打つのだろう。どうやら明日の迷宮行きは確実なようだとジルは内心で頷く。

 そんな会話を交わし、風に混じる潮の香りが強まるのを感じながら二人は港へと足を踏み入れた。相変わらず威勢の良い掛け声や人々のざわめきが聞こえて来て、にぎわっているのが分かる。

 前と同じ所で良いのだろうかと足を進めると、巨大な調理台の前に以前も見た事がある人だかりが見える。嫌そうな顔をするジルに笑い、リゼルは丁度こちらに気付いた老いた漁師へと軽く手を上げてみせた。


「おう、冒険者殿!」


 ぶん、と手を振り上げた漁師の仕草に周りを囲んでいた人込みが割れる。

 その人込みの向こう側に見えた光景に、何故こうも人が集まっているのかが分かった。どしりと調理台に置かれている鮮度保存の布に包まれた鎧王鮫の肉の横では、今まさにもう一匹の鎧王鮫が捌かれている最中のようだ。

 何人もの漁師が巨大な解体包丁を鱗に引っかけ、二の腕の筋肉を隆起させながら今まさに一枚を剥がす事に成功している。バキンッと響く豪快な破壊音と重い音を立てて調理台を転がる人の顔より巨大な鱗、待機していた漁師がそれを持ち上げ運ぶのを人々は感嘆の声を上げながら眺めていた。


「こんにちは。漁師の方、新しい顔が増えてますね」

「前に鎧鮫を食べさせた奴らがそりゃもう張り切っちまってな。勘を取り戻してぇだの何だの煩ぇんだよ」


 カラカラと笑いながら近付いてきた漁師に、成程それでと解体風景を見る。鎧王鮫を食べて感動したのは老若問わず同じだったのだろうが、誰より張り切って獲物と向き合っているのは熟練の漁師達で若い漁師たちは周りで飛ばされる怒号のごとき指示に駆け回っている。

 こっちだ、と漁師に声をかけられるままにリゼル達は人込みの間を抜けた。案内されたのは当然解体済みの鎧王鮫の前で、以前と同じように素材と肉とで分けられている。

 ジルはそれらを見下ろし、そしてチラリとリゼルを見た。


「欲しいもんは」

「ありません」


 ふるりと首を振るリゼルに頷き、特に感動も無くどんどんと素材を仕舞っていく。

 むしろジルにとっては感動どころか多くて面倒臭いと思うものですらあった。“人魚姫の洞”でしか手に入らないだろう素材なので一応キープはしておくが、ただ高価なだけの最上級素材ならば他にもあるし使う機会は今の所無い。

 今までもリゼルに提供したりイレヴンへ提供したりと、取って置いて役に立った場面もあるのでいらないとは言わないが。これで剣を作ってみるのも良いかと職人泣かせな事を考えながら黙々と素材を仕舞い、残るは肉のみになって布が外されるのを眺める。


「うん、美味しそうです」

「おら、新鮮なうちに食っとけ」


 相変わらず白と赤のコントラストが美しい霜降り状の肉は人々の食欲をそそる。生臭さなど無く、甘いとすら思えるような魅力的な香りが潮風に乗ってより魅力を増しながら広がった。

 巨大なブロック肉を手早く捌き、皿に盛り付けて差し出してくれた漁師に礼を言って受け取る。ジルが仕留めたのだしとそちらを見ると、気にせず食えと態度で示されたのでリゼルは遠慮なくパクリと一切れ食べた。相変わらず美味しい。


「ジルも、折角なので」

「ん」

「これって今回も半分持って帰るんですよね。もう半分はまた漁師さんにあげるんですか?」

「そう何度も好意で受け取れるような安いモンじゃねぇよ、コレぁよ」


 差し出した皿からひょいと刺身を取って行ったジルは、もはや漁師の声など聞こえていない様子だ。恐らく半分押し付けようにも頑として受け取らない漁師対策に自分をつれてきたのだろうなとリゼルは苦笑する。

 かといって全て持ち帰っても食べきる事は出来ないし、一番美味しいのは捌いたその日に食べることなのだから翌日に持ち越して味を落としてしまうような真似は伝説の食材に対して申し訳ない。価値の高いものを意味も無く配ると言う選択肢も、その価値を貶める真似だと判断するリゼルにとって存在しない。

 鎧王鮫を捌ける希少な技術を持ち、その技術を振るったのだから報酬として受け取ってくれれば良いのにと思いながら何となく周りを見渡す。ふと一つの屋台が目についた。


「漁師さん達は、以前どうやって残った肉を売り捌いたんですか?」

「あぁ? 寄越せ寄越せっつって収拾付かねぇし、どうしようもないってんで突発的に競り開いて捌いたぜ」


 競り、とリゼルは呟いて以前見かけた競りの様子を思い出す。

 早朝の港で飛び交う声、昼間見られないものではないが朝は活気が違った。競う様に値段を口にする者達を前に威勢良くそれらを御す漁師達の生き生きとした姿を良く覚えている。


「良いですね、競り」


 頷いたリゼルに、刺身の最後の一つを促されるままに食べたジルはまた変な事を考えているのかと眉を寄せる。

 ジルは知っていた、以前屋台に初挑戦したリゼルが売れ行きとは別の方向で割と盛大に失敗した事でリベンジの機会を地味に狙っていた事を。基本的に失敗を失敗のままにしない男だ。

 もしや鎧王鮫を手に入れる機会になるのではと爛々と目を輝かせる人々の視線を集めながら、当のリゼルは“貸し屋台”と張り紙の貼られた無人の屋台へと平然と歩いて行った。貸し出し主である隣の屋台の店主としばらく話し、頷く様子を眺めながら溜息をつく。


「この屋台ってどうやって移動させるんでしょう」

「……どいてろ」


 荷車を改造したような屋台は移動式のようで、持ち手が無い為に押せば良いのか引けば良いのかと考えているリゼルを横にどかす。商品を乗せる為の天板を掴んで持ち上げると地面へと刺さっていた手前側の杭が抜け、屋台は面倒そうに引き摺るジルに合わせて容易に動き始めた。


「有難う、ジル。あそこら辺が良いです」

「隣より前の方が良いんじゃねぇの」

「そういうものですか?」


 ゴトゴトと鈍い音を立てながら移動された屋台は調理台の傍に寄せられ、鎧王鮫の肉の前へと置かれた。うん、と頷くリゼルは満足気だが周りは確実についていけてない。


「漁師さん、肉を捌ける人を二人ほど借りて良いですか? 報酬は、一人あたり金貨五枚で」

「き……ッ」

「あ、売り上げの二割とかの方が良いでしょうか。屋台のチャージ料は売り上げの一割みたいなんですけど」


 ほのほのと微笑むリゼルに、漁師は絶句しながらヤケクソのように以前もリゼル達と顔を合わせた若い漁師二人を呼び寄せた。何だ何だと近付いてくる若い漁師らは事情を聞くと、遠い目をしていそいそと屋台の準備に励むリゼルを見ている。

 やりたい事はなんとなく分かるし自分達が何をやらされるのかも想像がつくが、しかし本当にそれで良いのかと言いたい。突っ込み所が有り過ぎてもはや無言だ。


「肉は後ろですし、屋台の上に何も無いと寂しいですよね。鎧鮫繋がりで鱗とか並べておきましょうか」

「ならこれ使え。こんなにいらねぇ」

「良いんですか?」


 先程手に入れたばかりの素材が容易に譲られる光景に、マジで鱗売られるとかラッキーと歓喜して待っていた冒険者らは悲鳴に近い意味の無い声を上げかけた。例え同じパーティメンバーだろうと高価な素材をそんな簡単にやり取りしない。

 当たり前のように渡す方も渡す方だが、疑問を持たずほのほの受け取る方も受け取る方だ。コイツら何なのと隠しもしない視線が向けられているが二人は何も気にしない。


「んー……こういうのってセンスが試されますね」


 ああでも無いこうでも無いと鱗を並べるリゼルのセンスは悪く無い。基本的にラッピングでも何でも相手に合わせて最善な形を作るのでむしろ良いと言っても良いし、私服など必要が無いという理由で持っていなかったスタッドに服を選んでくれと頼まれた際にもそれは発揮されていた。

 それで何故自分の服は適当なのかと言われれば、身だしなみも義務であった貴族から解放された反動なのかもしれない。ようは手を抜きまくっている。


「ジル、どうですか?」

「良いんじゃねぇの」


 巨大な鱗を並べるとなると頑張りようが無いのではと思うが、雑多には見えない程度に纏められたのなら上出来だろう。反応の悪く無いジルにリゼルは良しと頷いた。

 以前の屋台での失敗を顧みるに、女将さんや他の屋台の主のようなテキパキさが自分には無いのだ。効率良く動くのは得意としているのだが、その上に商売的にと付けば圧倒的に経験不足過ぎてどうしようもない。

 でも競りならば此方が常に動く必要は無い。肉を捌く人員も確保したし、鱗を用意しておけば積極的な冒険者が直ぐ食いついてくれて勢いに乗りやすいだろう。


「鱗は一枚につき金貨一枚、肉は切り分けたその都度競るということで」


 にこりと笑って商売開始を告げたリゼルに、規模を増した野次馬達はこぞって屋台へと身を乗り出す。ちなみにジルは手伝う気が相変わらず無いのでいつの間にかどこかへ行った。







 そして今、リゼルはナハスの前で大人しく座っている。


「銀貨百二十枚! 持ってけそこの若ぇの! 次だ次!」

「店先で暴れんなっちゅうとんねんボケェ! もうええ後ろの兄ちゃん持って来ぃ! おおきに!」


 少し離れた所では飛び交う怒号の如き競り合いと、それらに向かって声を張り上げ次々に鎧王鮫を捌いて行く漁師の姿がある。そして押し合いへしあい鱗を手に入れようと乱闘に近いやりとりを繰り広げる冒険者に怒鳴り、確実に売りつけて行く年若い金髪の商人の姿もある。

 そしてリゼルはナハスの前で大人しく座っている。


「(…………何やってんだあいつ)」


 そこら辺の酒屋で刺身に合うような辛口の酒を幾つか仕入れ、もうそろそろ終わるかと思い帰って来たジルはその光景に呆れながら歩を進めた。

 恐らく漁師か誰かが用意したのだろう、背の低い椅子にぽすりと座っているリゼルの前には腕を組み仁王立ちするナハスがいる。近付くにつれ聞こえてきたのはまるで必死に言い聞かせるような声で、完全に予想の範疇だったが何かやらかしたようだ。


「別にするなと言ってる訳じゃ無いし、何にでもチャレンジするのは良いことだと思うぞ。でも何で競りなんだ! もっとお前に向いているものがあるだろう!」

「いけると思ったんですけど」

「その自信は何処から来た!」


 話を聞いている限り余りにも混雑が過ぎた為に、魔鳥に乗って至福の見回りタイムを過ごしていたナハスが降りてきたようだ。以前の漁師たちの競りはほぼ身内内だったようだが、今度は大っぴらにやってしまったので人が集まり過ぎたらしい。

 どうやらリベンジは失敗に終わったようだと近付くと、気付いたリゼルが此方を見上げてくる。その表情から特に落ち込んでいる訳ではないようだと察し、しかし今引っ込んでいるのは本意ではないのだろうと溜息をつきながらくしゃりとその髪を掻き混ぜた。


「何で漁師が入ってんだよ」

「競り合いに頭も耳も付いて行けたんですけど、口が付いて行かなくて。もっと煽れとか良い所で切って次へ行けとか言われてる内にいつのまにか漁師さんがやってました」


 リゼルの話し方はゆっくりでは無い癖に穏やかで、競り合いに向いているかと言われれば確実に向いていない。そして客に煽られて共にテンションを上げる漁師らと違って、誰に煽られようとマイペースを崩さないのだから怒号飛び交う中で隙をつくなど出来ないだろう。

 これで完全に仕事モードになれば全員容易に黙らせるし話したいように話すのだろうが、競りがしたいなら黙らせる筈が無い。やはり根本が向いていないと、ジルは始める前から気付いていた事実を再確認した。


「あのガキは」

「見た事ありませんか? ギルドの前に時々いる商人さんです。お釣りを渡す時に財布から銀貨を出してたら、信じられないものを見るかのような目で見られました」


 何故釣りを用意しておかないのか、ごく普通の財布から釣りを出されるなど違和感が酷い。

 何やら繁盛しているらしい屋台に興味を持って近付いて来ていたらしい少女はそう叫び、他にも客捌きが遅いだの其処はそうじゃないだの何だの言いながらいつのまにかあそこに収まっていた。プロの商人として色々許せないものがあったらしい。

 確かに鱗を巡って乱闘寸前の冒険者達を眺め、勝った方に売れば良いのだろうかと考えていたのはいけなかったかもしれない。そう反省するリゼルは、口に出さなかった為にそこじゃないと突っ込まれる事は無かった。


「お前ならこうなると予想出来ただろうに、どうしてこういう……」


 ナハスの言葉を過大評価過ぎるなぁと聞き流しながら、その後ろから聞こえてくる屋台からの完売を告げる声にリゼルは次の機会があれば今度こそと内心で頷いた。





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