57:あざとくねだった
いつもジルと食べているようなイメージだが、リゼルが朝食を一人で食べることは意外と多い。
依頼のある日でも時間が合わなければそれぞれで済ませる。何故用事のある日に一緒に食べるのが多いかと言われれば、ぎりぎりまで寝ていたいリゼルが大抵ジルに起こされる為にその流れで一緒に席についているだけに過ぎない。
夜に出掛けて帰って来てないのか朝早くから出掛けたのかは知らないが、ジルが一日宿に籠ることは滅多に無いので今も何処かに出掛けているのだろう。リゼルは一人のんびりと朝食を味わっていた。
「貴族さま!」
「貴族さま、おはよおー」
朝から量の多い朝食にどうしようかと手を止めた時、いくつかの幼い声に呼ばれた。
リゼルも男なので無理矢理食べられない事は無いが、きついものはきつい。しかしどうやら何とかなるようだ。
この宿に長期滞在する少女と、近所の子供達が速足でリゼルへと近付いて来る。手に教本を抱えているのを見るといつもの用事らしい。
「宿題おしえてー、あたしが残りのご飯たべてあげるから!」
「オレも!」
「お願いするだけじゃなくて、メリットを提示出来る様になったなんて取引上手ですね」
「えへへー」
照れたように笑った少女はリゼルの言葉の意味など完全に理解していないのだろう。
ただ何やら大人のように褒められたのは分かるので、それを全力で喜んでいるだけだ。
子供たちは小さな手に抱えた本を持ち直し、彼らには少しだけ高い椅子へとよじ登った。食堂で走らないのも、立ったままものを食べないのもリゼルに注意されてからきちんと守っている。
彼らの母親達が何故自分達の言う事は聞かないのにとプリプリしているのを、リゼルは度々目撃していた。
「おかみさんも、貴族さま食べきれないって分かってんのになんでいっぱい出すんだろうな」
「いえ、これがギリギリ食べきれる量なんです。きっちりと把握されちゃってます」
「じゃあ貴族さま、何でぜんぶ食べないの?」
「お腹いっぱいになると眠くなるでしょう?」
成程ーと頷く子供達に、リゼルは可笑しそうに笑った。素直なことだ。
こちらの世界に来るまでは残したものを誰かに食べて貰うなんて感覚は知らなかったが、元々こういった事に嫌悪感はない。柔軟な思考は異なる文化も容易く受け入れる。
「スプーンの持ち方、折角綺麗になったのに」
「あ、そうだった」
少しだけ冷めてしまった料理をはくはくと美味しそうに食べる彼らに微笑み、一人の少年に促す。
特に文句も無く素直にグニグニと持ち方を改める姿に褒める様に頷いた。一気に言うのでは無く、一つをしっかり出来る様になったら次、さりげない言い方に反感を抱く子供はいない。
少しずつ確かに改善されていくマナーに、母親達は大喜びだ。
以前など幼い少女がパンを千切り、バターナイフを使いこなす姿を見た両親が驚愕の余り無言になっていた。流石幼くとも女性、美しい仕草の飲み込みが早いというのはわざわざ礼を言いに来た両親へと笑いながら答えたリゼルの談。
「ごちそうさまー」
「ごちそうさまでした!」
「はい、有難うございます。食器を片付けて来るので、勉強の用意をしておいて下さい」
はーい、と素直な返事を聞きながらリゼルはトレーを持ち上げた。
座学の度に転移魔術を披露して華麗に何処かへと消えた元教え子とは大違いだ。しみじみとそんな事を思いながら食器を運ぶと、そんな事しなくて良いんだよ全くと笑いながら女将が奪う。
さっさとそのトレーを片付けテキパキと子供達の座る机の上を拭いて去って行く女将の姿に、成程あれが自分には足りないのかもしれないと以前の屋台での失敗を反省した。今度はもっと上手くやろうと決意する。諦める気は無い。
「貴族さま、あたしのとなり、ここ!」
「光栄です」
笑い、促された椅子に座った。
「此処に来るってきちんと言って来ましたか?」
「すっごい笑顔でおくりだされた」
「貴族さまによろしくって言ってた。ほんとは土産もわたしたいっぽいけど、えーと、おそれおおい?って」
確かに一般の主婦が冒険者に何かを贈るなど想像がつかないが、畏れ多いとは。
冒険者らしくなったという意味では確実にないだろう、これ以上一体どうすれば周囲を引かせずに済むのかとリゼルは首を傾げながら差し出された教本を受け取った。
簡単な計算問題と、それを少しだけ難しくした応用問題。どうやら一段階上がったレベルが彼らを翻弄しているらしい。
「とりあえず一通りは自分で頑張りました?」
「やった。最初からきくと貴族さまおしえてくんないんだもん」
「教えて貰う姿勢が大事ですよ」
リゼルも今は冒険者だ。ただ答えを知り楽をしたいだけの子供に付き合う義理は無いし、三人が学ぶ姿勢を見せなければ綺麗に流して読書でも始めている。
元教え子に対しても、消える度に探さず普通に帰って読書をする生活を一月程続けたらその内自分から来るようになったものだ。全力で苦虫を噛み潰したような表情を今でも覚えている。
素直な三人が一通りやってみた用紙を差し出すのを、教えやすい子達だと微笑んで受け取った。
「頑張りましたね、前よりずっと出来るようになってます」
「ほんと!」
「はい、本当です。じゃあ間違った問題を……」
「失礼する、宿の者は何処だろうか」
聞こえてきた声に、女将がはいはいと返事をしながら受付へと向かう音がする。
食堂の扉は閉まっており、来客の様子は窺えないがどうやら客では無さそうだ。以前にも似たような事があった気がする、と思いながらリゼルは平然と子供達の勉強の続きへと戻った。
うんうん唸りながらリゼルの言葉をヒントに難問へと立ち向かう姿を眺めていると、ふいに食堂の扉が開く。
「リゼルさん、ちょいと良いかい」
「はい」
自分達が教えて貰っているのにと不満そうな声を上げる子供達へと謝り、リゼルは呼ばれるままに食堂の扉を潜る。
ふいに正面へと立ちはだかった数名の男たちに、成程と内心頷いた。
体を包む白銀の武具、そこに刻まれた国の紋章、この国の騎士が正面からリゼルを見ていた。心配そうな女将に手を振り、大丈夫だと伝えて業務へと戻らせる。
「騎士様がこんな所まで、一体どうされました?」
ゆるりと微笑むと、リゼルを見ていた騎士がはっと我を取り戻したように目を見開いた。
すぐに何事もなく平常心を取り戻した姿に、成程この国の騎士はお飾りでは無いようだと納得する。
パルテダの騎士は大抵が生まれた時から騎士になる事を決められた者達だ。幼い頃から行われる教育は家の名を貶めないよう文武共に厳しく、また貴族家の二男三男が多い為に本人たちも必死で訓練を怠らない。
家を継げない彼らにとっては騎士が最高の名誉、その努力に裏付けされた実力が国民の信頼を得ているのだろう。
「貴殿がリゼルという……冒険者で間違いは無いか」
「ええ」
やはり再確認された。
「大侵攻の件で聞きたい事がある。城まで同行して頂きたい」
「大侵攻、ですか」
やる事はやったし後始末は全部シャドウへと任せたが、その後もジャッジを通じてインサイから情報は流れていた。
詳細は流石に書かれていなかったが、建国祭で隣国サルスの使者が訪れた際に秘密裏に元凶の身柄を引き渡したらしい。出来ればこの国で処罰したかったらしいが、流石に要人だけあって無理だったそうだ。
勿論、その代わり外交の面で色々便宜を図って貰うことに成功しているようだが。
つまりそれらが一段落して、ようやく他事に手が回る様になったということ。
「(どうりで最近色んな貴族からのお誘いが増えたと思った)」
最優先事項であった隣国との関係回復が済み、次に目を留めるのはマルケイドの回復。
しかしそれはシャドウが文字通り寝る間も惜しんで対応している為に急激に元の流通を取り戻しつつある。ならばその次、貴族たちが気にかけるのは、人知を超えるような結界を施した絶世の美女。
調査の結果、彼女達と唯一接点があった“シャドウが護衛を頼んだ一刀のパーティ”に興味が向いたのだろう。
「どなたからのお誘いでしょうか」
「さる公爵らが話を聞きたいとおっしゃっておられる」
騎士を迎えに来させる辺り、単純に美女目当て力目当てという訳では無いのか。
大侵攻の参考人として、また絶大な力を振るった彼女達が何者なのかを知りたいのかもしれない。公爵とは結構な上層部が動いたなと思うが、元凶を捕えた現場にも居たし正体も知っているしで口封じの意味もあるのだろう。
もちろん一刀相手に力づくという訳にはいかないので、金や物を積むようなやり方だとは思うが。
「失礼ながら辞退させて頂きます」
「理由を聞かせて貰いたい」
「恐らくシャドウ伯爵からの報告以上の事は何も話せませんし、実の無い話で御前を汚す訳にはいきませんので」
断られるとは思ってもいなかった騎士らが一瞬動揺を見せた。
にこりと笑ってみせると、先頭に立つ騎士が言葉を選ぶように口を開く。大々的に話せるような事ではないので、やや声を潜めていた。
「報告とは云っても貴殿らの知り合いらしいとしか書かれていない」
「だからそれ以上お話する事は出来ない、と言っているんです」
やはり目的はエルフ達らしい。
エルフとは思ってもいないだろうが、強大な力を野放しにする事に対する危険性でも感じているのか。
「どうかお伝え下さい」
促すように微かに首を傾げた。
「彼女達は明確に敵対されなければ誰の脅威にもならないし、人前に出ることに興味もありません。力を持つ魔法使いだけれど、力を誇示したい訳ではないのだと」
知りたい事は其処だろうと結論を付けて断言したリゼルは、それ以上の用は無いと彼らに背を向ける。
そろそろ子供達も問題を解き終えた頃だろう、暇になって集中力が途切れない内に次に進まなければ。
扉に手をかけたリゼルを、しかし騎士は呼び止めた。
「何か?」
「あの結界を張った魔法使いに関してはそう伝えよう。しかし大侵攻の説明についてはまだだ」
「それこそシャドウ伯爵の報告通りですよ」
レイに詳しく聞き、シャドウの報告に必要最低限のことは全て書いてある事をリゼルは知っている。
つまり重要な部分は報告されているのだし、其処さえ把握できているのなら充分だろう。
他は国には到底報告できない。リゼルが元凶の魔法を乗っ取った事だったり、エルフに頼んで魔物を殲滅させた事だったり、イレヴンが元凶をグチャグチャにした事だったりするのだ。
面と向かっても話せない事だらけなのだし行っても特に付け加える事は無い。
「何故それ程同行を拒む」
「言った通り意味のある話し合いにはならないでしょうから。それに今ちょうど貴族の方からのお誘いが多くて全て断っているのに、今回に限って付いていっては今度から断りにくくなります」
「冒険者が何故誘いを断る必要がある?」
「誘いに乗る必要もないでしょう、冒険者が全員コネを求める訳ではありません」
騎士の瞳に滲む警戒、リゼルはそれに気付きながらも流す。
「貴族さまー、終わったー」
「はい、ちょっと待ってて下さい」
扉の向こうから聞こえる声に、返事をしながら真っ直ぐに騎士の瞳を見返した。
警戒が滲んだ瞳が微かに揺れるのを、微笑みながら眺める。
「それに、子供達の勉強を見ている最中なんです」
平然と告げられ、思わず騎士たちは唖然として固まった。
国からの同行要請を断る理由が子供の勉強会。確かに同行は義務ではないが滅多に断られる事では無い為に、予想外すぎる理由での拒否が彼らに衝撃を与えているようだ。
予想外の出来事には弱いようだと可笑しそうに笑い、リゼルは何て事ないように問いかける。
「大侵攻で都合良く領主様の前に現れた俺が、実は裏で繋がってたんじゃないかって思っていました?」
貴族出身者達だけあって腹芸には強い。
その言葉に肯定するような態度は一切見られなかったが、リゼルは確信を持っていた。
まるで魔物が強固な城門を突破し国内に侵入する事を見計らっていたかのように張られた強力な結界。あれ程強力なものを施すには相応の準備が必要だろうし、前もって準備していたのなら元凶の企みを知っていた事となる。
だからこそ先程騎士たちに警戒が浮かんだのだろう。
同行に応じないのは負い目があるから、そう思ったに違いない。
疑い始めるとキリが無いし、何を言おうと完全に疑いが晴れる事は無いと知っているリゼルは待ちくたびれているだろう子供の勉強を続けようと扉を開けた。まだ話は終わっていないという声に今度は待たない。
扉を潜る直前、一度だけ振り返って導くような微笑みを向けるリゼルに騎士たちは言葉を飲み込んだ。
「そもそも大侵攻中の冒険者の行動は冒険者ギルドの管轄で、冒険者を動かしたいならギルドを通して依頼するのが基本ですよ」
その依頼を受けるかは分からないけど、と内緒話のように加えられた言葉は閉じられた扉に遮られて騎士には届かなかった。
ギルドへ国に圧力を掛けられたと言いつけるかも、と暗に言われればこれ以上騎士らの独断で動くことは出来ない。成果無く帰ろうと咎められはしないはずだ。
そもそも疑われているとリゼルが察した時点で騎士たちは何も出来なくなる。相手の尊厳を傷つけて尚、同行を強制するような不遜な真似が誇り高い彼らに出来るはずがないのだから。
彼らの誇りを尊重し、その為にギルドを利用し手ぶらで帰ろうと咎められないだけの理由を与えた。
そんなリゼルの思惑に気付かない面々では無かったようで、失礼したと女将に一声かけて宿を出て行ったようだ。
馬車で来たのか、馬の鳴き声と遠ざかって行く車輪の音が聞こえる。
「引き際を知る、有能な方々ですね」
「いまの騎士さま? すごい、こんな近くではじめて見た!」
子供たちが我先にと差し出す解答用紙を受け取り、目を通しながら言う。
オルドルもそんな彼らより立場は上なのだからレイの言う通り本来は優秀なのだろう、ジルを前にしていない彼の姿を一度見てみたいものだ。
はしゃぐ彼らに用紙を返し、リゼルは良く出来ましたと微笑んだ。
「はい、二人は全問正解です。君はもう一問、教えてあげるので頑張りましょう」
「ぐぁ、まちがった……」
「あたしたちはー?」
「まだ頑張りますか? じゃあ苦手なところで幾つか問題を作るので、それを解いてみましょうか」
ペンを持って問いと向き合う子供達が三人。彼らの学力はどんどんと伸びている。
学び舎でどうやって勉強しているのか聞かれた時に「ないしょ!」と嬉しそうに答えている事を、解き終わるまでと本を出して読んでいるリゼルは知らない。
ギルドは一触即発の雰囲気を湛えていた。
向かい合う鮮やかな赤と艶めく翡翠色、誰もがその二人に視線を投げかけながら逃げる様にギルドから出て行く。
まさかSランクに喧嘩を売る者がいるとは思わず、そしてそれが即行潰される者ならば問題無いが戦闘になれば間違いなく周囲を破壊し尽くす程の戦いを行える人物なのが危機感を煽る。
イレヴンは片手でナイフを放っては受け止めながら、挑発するように唇を吊り上げてヒスイを見ていた。
「アンタさァ、うちのリーダー相手に舐めた事言ってくれたって?」
「ああ、人質とかそういうの?」
あっさりと肯定した言葉に、剣を投げる動きが止まる。
同時に感じた冷気にも似た殺気に、ヒスイは随分と似合わない空気を纏うものだと首を傾げながらイレヴンを見たが直ぐに間違いに気が付いた。
イレヴンのその後ろ、真っ先に受付から逃げ出したとあるギルド職員を捕獲し椅子に縛り付けていたスタッドが淡々とした無表情で此方を見ている。
そういえば懐いているのだった。
まさかこの冒険者でもないのに絶対零度の二つ名を持つ職員がここまで他人に入れ込むとは、今でも信じられない。
薄々感じていたが、向けられた殺気はやはりただのギルド職員では無い。
ヒスイはやや不機嫌そうないつもの表情のまま横目でスタッドを窺いつつも、正面のイレヴンから意識は外さなかった。
「へぇ、君がリゼル君に何人かつけてる人? 彼ら気配消すのやけに上手じゃない? 人数しか分からなかった」
「聞いてねぇよ」
今度は手の平でナイフを回す。
ヒュッ、と微かな音を立てて空を斬るその切っ先にヒスイが視線を向ける事は無い。
視線を向けたが最後、そのナイフ以外の全ての手段を用いて攻撃してくるような相手だと少なからず察しているからだ。
「今はそんな事考えて無いし、リゼル君にはこの間謝ってきたけど?」
「リーダー何て?」
「“別にまだ何もされてませんし、気にしませんよ”って笑ってたよ」
「ふぅん……らしいっちゃらしいけど」
次の瞬間、ヒスイの目の前に無音で此方へ放たれたナイフがあった。
目前まで迫ったそれを手の中に隠し持っていた短剣で払う。同時に鞭のようにしなり襲い掛かる蹴りを腕で受け止め、首を狙う刃を咄嗟に展開した弓で止めた。
一瞬の沈黙に、両者の視線が交差する。
「ムカつくんだからしょうがねぇと思わねぇ?」
「元々本気で考えたことじゃないよ、そんな馬鹿みたいな自滅と隣り合わせの計画」
「アノヒトが許しても俺が許せねぇもんってあんじゃん」
「リゼル君を害そうだなんてもう思って無い。ねぇ、いい加減信じてくれない?」
弾けるような金属音と打撃音の中、いっそ冷静とも言える二人の会話が混じる。
弓を盾に短剣を振るい、ナイフを飛ばしながら剣を薙ぐ。卓越した技能を持つ二人のやり取りは、見るものが見ればヒスイが押されているのが分かっただろう。
相性が悪い、ヒスイはそう冷静に思いながら目を抉る様に突かれたナイフを避けた。まるで太刀のように鋭く弓を薙ぎ、距離をとる。
「リーダーを大切に思う気持ちは僕にも分かる。今回は僕が悪い、謝るよ」
眉を寄せたままの癖に、それは心からの謝罪だった。
素直に謝られてしまえば続けるのも馬鹿らしい。イレヴンは興が削がれたように舌打ちし、得物を収めた。
もし本当にブチ切れていたのなら止めるはずが無いが、リゼルが許したならイレヴンは納得するしかない。それでも苛立ってはいたので手は出したが、元々本気で殺そうとしていた訳ではなかった。
本気を出していなかったのは両者共に、だが。
「ギルドの修理代払っといて」
「ほとんど君がナイフで穴開けたんだけど? 何、狙ってたの? ちょっと」
蛇の様にしなる赤い髪がギルドから出て行くのを見送り、ヒスイは寄せた眉をより深くした。
こんな事ならば容赦なく投げられるナイフを避けるのではなく払っておくべきだった。Sランクにもなって冒険者同士の諍い、そしてギルドの片付けと弁償代などと、絶対にリーダーに怒られた上にその他に笑われる。
自業自得だと思いはするが何処か釈然としない。
「ねぇ、修理代って幾らぐらい」
「そんな事より人質について詳しく話を聞きたいのですが」
まさかギルドを脅す算段をつけていました、などと言える訳が無い。
これも狙ったのだとしたら相当性格が悪い。そう内心でボヤきながらヒスイは何とか修理代を聞きだして押し付けるようにその金額を渡し、流れるような早さで去って行った。
ジルはガラの悪い顔を顰めながら煙草を咥えた。
息を吸い込みながら火を付け、肺を満たす久々の感覚にふっと息をつく。
リゼルと出会って以来本数は激減した。彼と共にいる時には何故か無くとも気にならない、その理由をわざわざ考えようとは思わないが。
だからといって完全に止めるかと言われれば別なので、リゼルに止めろと言われない限りジルが煙草を手放す事は無いだろう。
「まさか来て貰えるとは思わなかったな」
「呼んどいて勝手な事ぬかしてんじゃねぇよ」
何処か面白そうな相手に、ジルは煙草を咥えながら答える。
初対面というには度々顔を見ているが、間違いなく関わったのは初めてだ。
目の前にいるSランクパーティのリーダーを見ながら、ジルは何の用だと問いかけた。自らより年もランクも上の相手だというのに、その声には少したりとも畏敬は含まれない。
ギルドのとある一室、そこでジル達は向かい合って座っていた。
「うちのヒスイが随分と仲良くして貰っているようだ。下手に才能があった所為か早々にランクアップして周囲から浮いてしまった子でね……Sランクの肩書きに臆しも構えもせず普通に接して貰って嬉しかったのか、最近は良く君のリーダーの事を話す」
そう、彼はヒスイのリーダーだった。
でなければギルドでスタッドに“とあるSランクが別室で話があるようだ”と聞いても応じはしなかった。
ジルはリゼルから一通りの事は聞いている。彼が結婚を機に冒険者を辞めようとしている事、それをギルド側に引きとめられている事、ついでにヒスイが接触してきた理由も。
「最初に言っておくが、勝手に取引材料にすんじゃねぇぞ」
雑談しに来たのでは無いと、ジルは本題を切り出した。
やはりと苦笑する目の前の男に鋭い目を向ける。
「勿論無断で、という訳ではない。だからこそこうして交渉しようと話し合いの場を設けた」
「ギルド側はどうだか知らねぇけどな」
半分以上残った煙草を押し潰しながら言うジルに、男は腕を組んで頷いた。
「此処のギルド長は権力に固執しない人だからな。何度か通ってみせてればその内許可も出るだろうとは言ってくれたのだが、本部からは快い返事が来ないようだ。曰く、次代が育つまで是非とのことだが」
「んなもん何年後だよ」
「だろう? ギルド長もそう言っていた。押し通しても良いがヒスイ達はまだ冒険者を続ける、後を濁さず去りたいものだ」
だからこそジルに白羽の矢が立った。
Sランクが減るというのなら、Sランクを補充すれば良い。例えばBランクから動かない一刀をSランクに出来たのならば、Sランクが二人辞めようと然程気にかけはしないだろう。
その為の交渉の場か、とジルは二本目の煙草に火を付けた。
「君はBランクから動かないみたいだが、いずれSランクになる予定は?」
「ねぇ」
煙を飲み込み、吐く。
「……はずだったが、最近は違うな。その内なるだろ」
「だったと言うのは?」
「アイツと同じ」
端的な答えに、男は不思議に思いながらもそれならば良いのだがと頷いた。
ジルは煙を肺にゆっくりと流し込みながら思い出す。
自らを理由にジルの評価を貶めるなと、凛とそう宣言した姿は揺らぐ事無く脳裏に刻み込まれていた。
それを言うなら自分もそうだ。自分のランクが低い事で、彼の価値を貶めるような事があってはならない。
例えそれがギルドランクなどという他人からの些細な評価であろうとも、リゼルがSが似合うというのならSになるべきだ。元々Bで満足かと言われれば肯定出来はしないのだし。
「ギルド長は一刀ならば直ぐにSへと上がる事が可能だと言っていた。元々溜まり溜まった功績、Aランクの依頼もかなりこなしているとなればA、Sランクと形式的に上がることも出来ると」
「で?」
「その内と言わず、直ぐにでも上がる事は出来ないだろうか」
ふっと煙を吐く。
「随分勝手な言い分だな」
「承知の上だ」
誹りを受ける事さえ全て覚悟した強い視線は、この場で斬られようと自分の所為だと言うのだろう。
しかし決意を秘めている所悪いが、ジルはその程度で心動くような男では無い。
「俺へのメリットがねぇ」
「すぐにSランクへ上がれるよう推薦しよう」
「んなもん無くともいずれ上がれんだ、それに俺にとっちゃデメリットだろ」
喉で笑うジルに、どういう事だと男が眉を顰める。早急にランクアップして喜ばない冒険者などいないはずだが。
しかし確かに今でもSランクに上がっていておかしく無い相手に、ランクアップは明確なメリットとは言えないだろう。
「金は」
「困ってねぇ」
「だろうな。特級の迷宮品も」
「興味ねぇ」
Sランクパーティを越える冒険者、そんな彼が冒険者に用意できるもので頷く筈が無い。
これは無理難題だと頭を抱える男を前に、ジルは交渉決裂とばかりに灰皿に煙草を押し付けた。
再び新しい煙草を咥えながら立ち上がり、諦めるしか無いようだと礼を言う男に軽く手を上げて応える。そのまま扉を開こうとするジルに、一つだけ教えてくれと声がかかった。
「正解のメリットは何だった?」
「当然、俺がBランクでいる理由を越える理由」
「というと?」
ランクを上げるならば共にと、その約束を上回る物。
顔だけで振り返り男を一瞥し、ジルは目を細めて何処か意地の悪そうな笑みを浮かべた。直ぐに視線は外れ、その姿は扉の向こう側に消えていく。
「ある訳ねぇだろ」
閉じられる寸前に聞こえた声に、部屋に残された男は一刀も随分と取っ付きやすい男になったようだと笑った。
「やっぱり彼らの事は彼らで頑張って貰うしかないですね。そろそろジルに打診があるかと思ってはいたんですが、今日だったんですか」
納得したように頷くリゼルに、予想していたなら言えと思ってしまうのも仕方が無いだろう。
たまたま外で顔を合わせた事もあり、折角だからと共に夕食をとっているリゼル達は並ぶ料理に舌鼓を打ちながら今日あった出来事を話していた。
約一名、料理に手が伸びていない者がいるが。
わざわざリゼルに夕食に誘われて喜んで向かった料理店で、何故かお預けを喰らっているイレヴンだ。
「……リーダーおれ腹減ったんスけど」
「待て、ですよ」
微笑まれ、フォークへと伸ばしかけた手を引く。
「こいつ今度は何した」
「ジル達がギルドから出て行った後、だと思います。あちらのリーダーを探しに来たヒスイさんと鉢合わせて、盛大に喧嘩を売ったみたいです」
「アイツが悪ィんじゃん!」
「心配してくれるのは嬉しいですが、やり過ぎですよ」
互いに死なないよう遊んだ程度だというのに、何と云う仕打ち。
イレヴンはそうブツブツ言いながら並べられた料理を目の前に必死に食欲と戦っていた。こういう時に限っていつもは少しずつしか頼まないリゼルも一通り頼んで机に並べるのだから頂けない。
何故自分は怒られてヒスイは許されているのか、その理不尽さも理解が出来ない。
それを察したように、リゼルは少し咎める色を声に乗せながらイレヴンを見た。
「ジルに聞いたら、もしあの場でイレヴンが彼らのパーティに囲まれたら危なかったらしいじゃないですか」
「どんな手使っても殺して良いならそれ程じゃねッスよ」
「ギルドで戦ってたらやっぱり危ないって事でしょう? やっぱりまだ“待て”、です」
Sランクパーティ全員対イレヴンでは真正面からだとやはり厳しいらしい。
それを聞いたからこそ、無茶するイレヴンを諫める為にお預けしているのだ。
いくらイレヴンもヒスイも本気では無かったとはいえ、そういう展開になる確率も全くのゼロでは無かったのだから。
「君を心配しているんです、イレヴン」
イレヴンは拗ねたように横を向いた。それが照れ隠しなのだと知っているリゼルは可笑しそうに笑う。
自分よりヒスイを優先している訳ではないと分かったのだろう、大人しくなったイレヴンにジルは呆れたように溜息をついて話の続きを促した。
「で、騎士ってのは」
「大丈夫でした、これからも強硬手段はとらないと思いますけど」
「……やっぱ腹減ったんスけど」
話し合うリゼル達を眺めながらポツリと呟く。
結局イレヴンが食事にありつけたのは、それから三十分も後の事だった。