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52:引くほど抜けた

「ジルベルト……! その面でジルベルト! その、ガラの悪さで、ジルベルト! あッはははは!」

「イレヴン笑いすぎです、っふ。ジル、っふふ、もしかして恥ずかしがってたのってソレなんですか?」

「ッははは! マジで? あんだけ嫌がってたのって恥ずかったからなんスか! どんだけッスか! ジルベルト? ジルベルトが恥ずいの? アハハハハハ!」

「あれ最高に嫌がってるようにみえて最高に恥ずかしがってたんですよ。恥ずかしがるのも嫌がるのも似たようなものですけど……ッんん」


 笑いを誤魔化そうとしたのか落ち着こうと思ったのか、咳払いをするリゼルをジルは嫌そうに見下ろした。

 想像していた通りだ。この二人は確実に笑う。嘲りの感情は欠片も含まず全力で笑う。ただ笑う。

 勿論色々面倒があるから嫌だとも思っていたが、しかし何が一番嫌かと言われれば男に会う事で知られる事実を盛大にウケられるのが嫌だった。リゼルの言い方を借りれば、恥ずかしいから。


「そういえば私の家でジルの絵画を見せた時も盛大に嫌そうな顔をしていたが、あれは恥ずかしかったのだね。可愛いところもあるじゃないか!」

「ええ、心底恥ずかしがってました」

「煩ぇ」

「ニィサンめっちゃシャイ……! その顔で! その顔で!!」

「いい加減黙らねぇとその髪引きちぎるぞ」


 漂う威圧感に、イレヴンはピタリと笑い声を止めた。その肩はプルプルと震えているが。

 幸いなのはこの場にいるのが少人数だという事だろう。レイの友人も巻き込まれるのは御免だと会場を移動した今、居るのはリゼル達とレイと件の男のみ。

 笑い声の収まった広間で、突然の大爆笑に固まっていた男が多少圧されながらジルを見た。

 しかしジルは視線を返さない。笑いを耐えるイレヴンに胡乱な視線を向けて次笑ったのなら本当に髪の毛を毟ってやると言わんばかりだ。

 そんなに恥ずかしがらずとも、しかしそのまま過ぎる偽名だ。そう思いながらリゼルはレイを見た。


「子爵様、すみませんが彼をご紹介頂けませんか」

「ああ、すまないね。彼はパルテダにおいて騎士を統括している侯爵家の嫡子、今は師団長兼団長補佐を務めているオルドル殿だ。オルドル殿、こちらは私が今回パーティーに招待した冒険者の三人だとも」

「……三人?」


 怪訝そうに此方を見下ろすオルドルに、にこりと微笑んでみせる。

 将来家を継ぐだろう男、それにしては雰囲気に余裕が無いというのがリゼルの抱いた印象だった。

 落ち着きはあるが、自信が無いのか焦りがあるのか。勿論嫡子として家の重圧もあるだろうがきちんとした教育を受けている感じはあるのでその点に不満を持っている訳ではないだろう。

 ならばその原因は明確か。先程からジルに対して向ける視線には色々な感情が見て取れる。

 思った通りだとリゼルはジルを振り返った。いや、予想外だったことが一つだけある。


「ジルって末っ子だったんですか? 面倒見も良いし、結構意外なんですけど」

「関わったことなんざほとんどねぇよ、上も下もねぇだろ」

「は? 何? 何の話? つーか末っ子……ッ!」


 話に付いていけないイレヴンが、再び笑いを再発させながら問う。もはや全てがツボに嵌る状態だ。

 もれなく蛇のようにしなる髪をわし掴まれて黙ったが。ジルはやると言ったら本気でやる。


「いつから気付いてた」

「割と最初から、きちんとした教育を受けたことがある人だなぁとは思ってました。振舞いや細かい所にそういうのが出てたので」

「あーだからニィサンには礼儀講座必要ねぇって言ってたんスか。そういやガラ悪いけどどっか品はあるような……ん、っつうことは、ニィサンってこいつの」


 ジルの本名を知る男、末っ子発言、ジルが教育を受けていたという事実、それを思い返せばリゼル達の会話の意味も分かるはずだ。

 事実に行きあたったイレヴンは興味深そうにジルとオルドルを見比べた。

 “こいつ”と呼ばれ不快そうに顔を歪めるオルドル、嫌そうに舌打ちをするジル。似たような表情を浮かべていてもとても似ているとは思えない。共通点など長身である、という所ぐらいか。

 それなのに。


「ジルベルトは私の弟だった。元、だが」

「そのガラの悪さで貴族……ッ痛てててててごめんニィサンごめんホントもう笑わねぇから抜ける抜けるマジ抜ける!」


 盛大に背を仰け反らせて髪を守るイレヴンを、体が柔らかいなぁとリゼルはほのほのと見ていた。

 ちなみに助け船は出さない。いい加減笑いすぎだ、ジルが苛立つのも無理は無いだろう。

 アイデンティティ崩壊の危機に必死で助けを求めるイレヴンを頑張れと微笑み、ジルを見る。元兄に対する感情など来るのを嫌がった割には欠片も無い。ただ無関心、厄介な奴が絡んで来たというだけ。

 そこに特殊な思いなど無く、やはり本当に名や元貴族を知られて笑われるのが嫌なだけだったのだろうが、しかし少しも関係が無いという訳ではないはずだ。


 ジルがBランクから上がらない理由は確実に此処にある。

 講習が面倒だというのも本心だろう。金銭的にはBランクで充分だと思っているのも嘘では無い。しかしさっさとSランクまで上がってしまえば“Bランクの癖に”と絡まれる面倒事も確実に少なくなる。

 実力を目の当たりにした事が無い者達にとってはジルは記号通りただのBでしかなく、どれ程強者の雰囲気を出していようとBならばと侮る者も多い。Sになってしまえば、そんな事は無いだろうに。

 貴族と繋がりやすい高ランクになり、かの侯爵家に再び関わるのが面倒なのだろう。ジルは完全に関係を断っているようだが、向こうもそうとは限らない。

 そう、今の様に。


「話を戻させて貰う。飲み物ぐらいは用意させよう」


 オルドルの言葉と同時に、恐らく会場の警備に当たっていた騎士が一人グラスの載ったトレーを片手に近付いて来た。

 全部シャンパン、そう告げたイレヴンにリゼルは手を伸ばすことを止めた。どちらにせよ飲めない。

 笑いすぎて喉が渇いたイレヴンは遠慮なくグラスを一つ手に取り飲み干すと、オルドルが一瞬そちらを見たが直ぐにジルへと視線を移した。


「何をしに戻って来た、ジルベルト」


 侮蔑を込めて吐かれた言葉に、ジルは眉を寄せてオルドルへとようやく目を向ける。

 冷めたような瞳は何を言っているのか分からないと露骨に伝えている。


「そこの貴族に呼ばれたから来たに決まってんだろうが」

「三年前からこの国に居たようだが何故だ? 今回のパーティーもただ呼ばれたから来ただけだと?」

「そう言ってんだろ。冒険者として活動しやすいから拠点移しただけだっつうの」


 執拗に問いかけるオルドルは、何かを探ろうとしているのか。

 面倒そうに返答しているジルへと説明を求めてリゼルは視線を向けた。知られたのならもう隠す必要は無いと、ジルは躊躇うことなく自らの出自を簡単に説明し始めた。

 イレヴンは空になったグラスをクルクル回し、トレーへと戻した。カンッと底が銀のトレーを叩く音がする。


「別に良くある話だろ。遠征の時に宛がわれた女に手ぇだして、一発で孕ませたガキが俺ってだけだ」

「はァ? さっき子爵が堅物とか言ったじゃん」

「時と場合によっては接待の時に用意された女性を断るのは無作法ですからね。仕方が無い場合もあります」

「へぇ」

「母親が死んだ十の時にどっからか迎えが来て、ついてったら王都パルテダの侯爵家。そっから四、五年したら追い出されたから元の国に戻って金稼ぎに冒険者しながら転々として今に至る、以上」


 それだけの事、と平然と語るジルは生い立ちについて思う事は何も無いのだろう。今の状況に不満が無ければ過去など事実でしかない。

 ちなみに外見は母親似らしい、似ていないのも納得だ。

 しかし迎えに行っておいて追い出すとは何とも勝手な事だが、何となくその原因の想像はつく。


「何でニィサン追い出されてんの」

「さぁ。市井の女から生まれた子供が嫡子に簡単に勝てんのが気に入らねぇんじゃねぇの」

「あー、貴族様のプライドってやつ? ちなみにどれくらいで勝てたんスか」

「あー……一か月、かからねぇぐらいか。良く覚えてねぇな」


 あえて問いかけるのを止めたリゼルとは裏腹に、イレヴンは思うままに問いかけた。

 確かに嫡子より実力がある存在というのは厄介だろう。その血統を考えれば爵位継承が覆るはずもないが、騎士団統括と言う役目を持った家の次代が突然連れて来られた平民出の弟より弱いというのは痛い。

 強さで騎士としての価値が決まる訳ではないが、関係しないと云えば嘘になるのだから。これが通常の騎士団員ならば問題無いが、将来トップで指揮する立場になるはずの人間が弱みを持つなど致命的だろう。

 勝手な理屈だが、自らの非を切り捨てて考えれば後々の事を配慮した原因追放も理に適っている。


 もう自分には関係の無いことだと平然と話すジルを、オルドルは睨みつけるように見ていた。

 彼の人生はジルが現れてから一変した。見せつけられた圧倒的才能、実力が離されていく焦燥感、本家の嫡子がと向けられる視線。あれ程の才能ともなれば仕方が無いと諦める周囲とは裏腹に、しかし自らが置かれた立場は下であることを許されない。

 結果、彼はジルの存在に囚われた。家を追い出されて平然と出て行く姿に、その後現れた“一刀のジル”の噂に常に追われているような感覚。

 そんな彼が貴族社会に一刀が姿を現すと聞いた時の焦燥感は想像に難くない。自らは常に彼より上で無ければいけない、リゼルが余裕を感じない態度だと思ったのはその思いから来ているのだろう。


「本当に此の度の参加は誘われただけだと? 今まで参加を誘われて応えた事は無いというのに?」

「ニィサンの兄さんってしつこいッスね」

「静かに、イレヴン」

「ふむ、それは私が保証しよう! 何せジルは最初嫌がっていたようだしね、パーティメンバーに乞われて参加した事は間違いが無いとも」


 イレヴンの露骨に聞こえる音量の内緒話も、レイの言葉にもオルドルは視線すら返さない。

 家の爵位は上とはいえまだ継いでいない彼がレイの言葉を流すのは非礼に値するが、もはやそんな事を考える余裕など無いのだろう。ただジルを自分より下に引き摺り降ろすことだけを考えている。

 成程と一度頷き、その口元に薄らと笑みを浮かべた。


「しかし、騎士には未練があるようだ」


 自信を持って告げられた言葉に対するジルの返答は、訳が分からないの一言だった。

 確かに騎士としての教育は数年受けたが元々騎士になりたいと思っていた訳ではなく、教えられる剣術をただ自分のものにすることだけに腐心していた。

 剣を教えてくれた事には感謝するが思うままの強さを追求するには今の立場は邪魔だと気付き、追放される時は面倒事が無くなった思いすら抱いた。まだ子供だった当時でさえ既に大多数の冒険者を凌ぐ実力を持っていたのだから、金の目処は魔物素材の売却で事足りたし追放されて感謝こそすれ恨んだ覚えは無い。

 当然、未練など一つも残していないというのに何故そんな結論に達したのか。


 オルドルの視線がリゼルを見る。

 値踏みするような視線は心地よいものでは無かったが、貴族として育てば慣れたものだ。

 横で微かに機嫌を損ねるイレヴンを宥めるように名を呼び、その視線を真っ直ぐと見返した。言いたい事は想像がつく、何とまぁ想像力豊かなことだ。

 変わらない微笑みに、オルドルは微かに顔を顰めた。


「まるで貴族のような冒険者に付き従い、騎士の真似事などと片腹痛い。冒険者ごときが主君の代わりになるとでも思っているのか」


 その言葉に、ジルは初めて彼に笑みを向けた。


「的外れすぎて滑稽だな」


 冷めたような無関心な表情は鳴りを潜め、嘲りに、憐れみにすら見える表情を向けられたオルドルは何故だと目を見開く。そんな表情、過去に自分を初めて負かした時さえ見た事が無い。ジルは喉で低い笑い声を零し、微かに頤を上げて瞳を細めた。

 付き従った覚えなど無く主君だと思った事も一度も無い。しかし相手の発した言葉のただ一つ許されない間違いだけは流してはおけない。


「てめぇの云う主君が誰か知らねぇが、こいつが代理なんざ役不足なんだよ」

「ッ貴様! 我らが王を愚弄する気か!」


 声を張り上げたオルドルに、怒るのも仕方がないだろうとリゼルは苦笑した。

 その意図が無かったとはいえ誇りを傷つけられたと判断されてもおかしくは無い。勝手にジルが国王直属の騎士に未練があると思い込んでいる向こうが原因と云えばそうなのだが。

 隣でシャンパンを持ち立っている騎士からも怒気が溢れたのを感じるし、言い方が悪いのも確かだろう。元とはいえ兄弟の会話には入りにくいと思いながら口を挟む。


「ジルの言い方では誤解を与えてしまったでしょう。ただ、もしジルが騎士になったと仮定しても貴方方と同じ忠誠を抱けるとはとても思いません。その認識の違いからの言葉であり、決して貴方の王を愚弄した訳ではないんです」

「何だと……」


 オルドルの視線がリゼルを向いた。

 ジルによりどんな相手の代理も役不足だと断じられた相手は、相変わらず穏やかで貴族のような男だ。

 その振舞いと空気は清廉としており思わず視線を惹き付けられるが、同じく貴族の彼にとっては萎縮する相手ではない。

 いくら雰囲気があろうと冒険者でしか無い男が何を言うのだと、オルドルは怪訝そうに眉を寄せる。


「王に忠誠を誓う事は国に忠誠を誓うことでしょう? それはとても大切で必要な事です」


 リゼルの国にも騎士団は居た。

 正しき忠誠を誓う騎士らは尊く、気高く、誰かの憧れでありながら王に傅き国を守り続ける。その心からの忠誠は眩しく国を照らす光であった。

 しかしジルはそう成れない。成りたいとも思っていないが、成ろうとしても成れないのだ。

 本質が違う。国の光では無く誰かの影となり、王の存在に心を託すことなく目の前の存在と心を共有し、正しきを貫かず唯一人の意思を尊重する。もしジルが騎士に成り得るなら迷わずそうするのだろう。

 それはまるで、自らの王と絆を紡ぐリゼルのように。同質を持つからこそ、確信を持って言える。


「ジルが騎士になるのなら、それは定められた王では無く唯一人を見つけた時のこと」

「な、」

「勿論どちらが尊いとかは無く、むしろ望まれる騎士としての在り方は貴方方なのだと思います。ジルが貴方の領域を侵すことは無いと、それだけ知って頂ければ幸いなのですが」


 絶句したオルドルに気を取られ、一瞬瞠目したジルに気付いた者はいなかった。

 自分でさえ気付かなかった本質を見抜かれ何かを考えるジルとは裏腹に、オルドルは言い知れない思いが胸に吹き荒れるのを感じていた。

 どちらが正しい等と、例えこちらが正しい等と言われただけで納得出来るはずがない。出来てはいけない。冒険者の言葉ごときに諭されてしまえば、冒険者であるジルより優ったなどと言えないではないか。

 何とか落とさねば。自分が、市井の女の子供などより優れていることを。示さなければいけない。


「冒険者風情が騎士の何を語る! 貴様ごときに……ッ!」

「おっと、それまでにして貰おうか」


 感情を露わにしようとした瞬間、楽しそうながらも冷静に状況を見ていたレイがふいに言葉を挟んだ。

「口を出してすまないね」とリゼルに向かい謝罪を入れ、そしてオルドルを見る。

 その顔は笑いながらも快活さと共に険しい色が見え隠れし、ただ陽気な男だと思っていただけのレイから向けられたその視線に思わず口を閉じる。


「私の客人だ、あまり無礼を働いて貰っては困る。彼を貶めようと云うのなら、私も我慢がならないのでね」


 印象に反して落ち着いた声は重く、オルドルは歯を食いしばる。

 理性的になれば良いのに、とリゼルは微笑んだ。彼は間違っていない。言う事も、成す事も、感情でさえ全て。勘違いをしているだけで、間違ってなどいない。

 努力をした人が才能に負けて憎悪するのは正常だ。騎士が王を尊ぶのも、冒険者に自らの誇りを当たり前のように語られ憤るのも、自分の立場を脅かす者が舞い戻って来たことに対して焦燥感を感じるのも全て人として正常なことだろう。

 それを理由に相手を攻撃しようとするのは頂けないが、そうでもしないと自分を保っていられないのならば仕方がない。だからこそ理性を失わなければ、自分を追い詰める事になどならなかっただろうに。

 リゼルはそれを理解しているからこそ、彼の言葉を決して否定などしない。


「ッ在り方が違うとはいえ騎士だと言うのなら覚えておくが良い!」


 しかし。


「騎士の価値は主君で決まる……お前の言う唯一人がこの貴族をきどった冒険者だというのなら、お前の価値などその程度という事をな!」


 バシャリと水音がした。

 髪や顔からシャンパンを滴らせているのは銀のトレーを持ち立っていた騎士、何故か彼は目を見開いたまま崩れ落ちてピクリとも動かなくなる。リゼルは中身を失った空のグラスを手に持ったまま、体の自由の一切を失った騎士を一瞥すらせずオルドルへと視線を向けて美しく微笑んだ。


「不愉快です」


 直後、殺気が場を包む。イレヴンとジルの腕が刹那の速さで剣を取り出そうと動いた。

 リゼルが不快感を示した事に対して反射的に浮かぶ思考は原因の排除という一点のみ。その全てに思考を埋め尽くされて実行に移そうとした直後、しかしその思考を全て奪い尽くす空気が広間に広がった。

 清廉にして荘厳、威圧にして包容、相手の全てを支配するような絶対的な存在感。


「自ら仕えるべき王を用いて価値を説こうとするのも、ただ一つ己の内にあるはずの忠誠に優劣を付けようとする浅ましさも、」


 リゼルはグラスを挟んでいた指を離す。

 重力に従って落ちたグラスは甲高い音を立てて砕け散り、陰る事の無い光を反射して輝いていた。

 その音に小さくイレヴンの肩が跳ねる。自らの本能を屈服させた空気より余程強いそれを畏れ、服従しろと訴える本能を既にしているだろうと抑え込み平常心を保つ。大丈夫怒られる事は何もしていない、攻撃しようとしたのは守ろうとしたからだし勝手な事をしたのも許して貰えるはずだし許して貰えないはずがない許して。

 直後、スルリと頬の鱗を撫でられた感触に意識がクリアになる。いつの間にか隣に立っていたリゼルの微笑みと甘さを増した瞳に肩の力が抜けた。


「何より」


 しかし、その甘さも直ぐに消える。

 だがイレヴンはもう何も畏れ無かった。褒める様に掠る指先によって畏れさえ払拭されてしまえば残るのは果てしない程の喜びと優越感のみ。ゾクゾクと背筋を震わせる快楽は何物にも代え難く、ただリゼルの期待に応える事が出来た瞬間に向けられる瞳から味わえる愉悦は、常より数倍強い。


「私を理由に、ジルを貶める事が気に入りません」


 穏やかだった男が突然別次元の存在へと豹変した事にオルドルは目を見開き咄嗟に半歩引き、レイは争いを止める事も忘れ歓喜に染まり半歩前へと出た。

 これこそが、レイが思ったのはそれだけだった。自分の判断は間違ってなどいなかったのだと、ただその一心を胸にその姿を瞳に焼き付ける。

 視線を離せなくなったのはオルドルも同じ、しかしその意味合いは大きく違う。微かに開閉を繰り返した口から、意識せず言葉が漏れる。


「何故……」

「イレヴンが私にわざわざシャンパンだと告げる訳がないでしょう?」


 彼自身何を質問したかったのかは分からない。リゼルに解答を返されてから、ようやく自分が何故シャンパンの仕掛けに気付いたのか問い質そうとしていた事を知った。

 リゼルの言葉をオルドルは理解出来ない。当然だろう。リゼルが酒を飲めない事も、イレヴンが常にそんな彼に酒を飲ませようと機会を窺っているのも知らないのだから。

 イレヴンは頬の鱗を撫でる指先が労わる様に唇を掠めて離れて行くのを名残惜しく思いながらも、リゼルに喧嘩を売った目の前の愚かな男に向かって毒々しい程に赤い舌を見せつける。


まずもん使ってんなァ」


 僅かに舌がピリピリとする感覚、一瞬で人を昏倒させるのだから強力な麻痺毒だろう。しかし生まれた時から毒と共に在る蛇の獣人に効く筈がない。

 何の意図を持って用意させたのかは知らないが、とイレヴンは多少麻痺した感覚を取り戻すように唇に舌を這わせながらジルを見た。羨ましいと、少しばかり思ってしまう。


「穏便に、ジルとの関わりを断って貰いたかったのですが」


 リゼルが告げた。穏やかな声が聞く者を縫い止める。


「ほら、貴族加入はギルドで禁止されているでしょう? 貴方がいつまでもジルに固執していては困る」

「私がジルベルトに固執など……!」

「口を閉じて」


 短い懇願の台詞は絶対的な命令となりオルドルを射抜く。

 主君が存在するにも拘らず思わず従ってしまった屈辱感。渦巻くそれを発散させようと開いた口は、しかし声にならず一言も発する事無く閉じられた。

 ジルはそんなやりとりをどこか茫然と見ながら、ふと過去を思い出す。


『しかし、俺と組む事でジルの評価が落ちるのは問題です』 初めてギルドで絡まれた時。

『俺の所為で君の成果も疑われるのは考えものです』 マルケイドのギルドに地図の更新申請をした時。

『天下の一刀にFランク受けさせるのもどうかと思います』 とある薬士の依頼を受ける時。

 腕相撲の際にジルの素姓を明かしたのは。大侵攻で人々が見つめる中でジルを白ゴーレムに突っ込ませたのは。領主シャドウの隣にまるで護衛のように据えたのは。


「いつだって、貴方が見下げられることを私が許したことはないでしょう?」


 考えを見透かしたように、リゼルの高貴な色を強めた瞳がジルを射抜く。

 リゼルは常にジルを信じていた。それだけの実力を持つ強者だと、誰より強く認めていたからこそ、その評価が落ちる事を嫌がった。

 伝えられた意図を理解すると共に視界が揺れる程の熱が体中を満たしていく感覚は、強い歓喜なのだろう。


「ジルが私の憂いを全て断ち切ってくれるように、私もジルの憂いを全て薙ぎ払いましょう」


 頭の中で何かが壊される音がした。しかし、それは決して不快ではなく、いっそ望んだものだったのだろう。

 衝動に駆られるまま、ジルはリゼルの片手を手に取った。

 持ち上げ、薄い手袋ごしの掌の温度を感じながら唇へと運び、拒んでくれるなと懇願を含んだ瞳を合わせたまま微かに顔を傾けて触れるか触れないかの距離で一瞬止め、静かに握った手を離す。

 騎士が誓う忠誠のようでありながらも、膝も付かず少したりとも礼を示さない姿勢で行われたそれは歪であったが良いのだろう。リゼルの心からの誠意はジルへと伝わり、それに対するジルの意思も動作を通してリゼルへと伝わったのだから。


 オルドルはその光景を愕然としながら見ていた。

 誰もいない広間の中、光に照らされながら行われた一連の光景は彼に多大な衝撃を与えていた。それは真似事だと切って捨てる事など到底出来はしない、騎士であれば誰もが心に持つ理想の一端のようにすら見えた。

 剣の腕も、騎士としても勝てない。ジルが聞けば誰が騎士だと顔を顰めることを思えば、実際にそれを口にしなかった事は正解なのだろう。もしそんな事を言われてしまえば、彼の騎士像は崩壊し自己も崩壊しかねないのだから。


「さて、選んで貰いましょうか」


 しかしリゼルは逃避を許さなかった。


「ジルとの関係を今後一切断つか、それとも」


 ゆるりと瞳を細める。

 そう、リゼルにとって結局パーティーの参加などどちらでも良かったのだ。進み続けるジルを阻むよう一方的に絡みつく柵を取り払うことなど、参加しようがしまいが可能であったのだから。

 参加して“一刀”の名に釣られて姿を現した柵と話し合い解き放つのが一番楽で穏便であった、それだけに過ぎない。

 しかし一番確実な方法が一つだけある。パーティーに参加せず相手の意見など聞かず自らの望みを押し通す方法が。貴族の加入不可、ギルド規定にはそう書いてあるのだから。


「貴方が、断たれるか」


 それはつまり、家が断絶していれば問題ない。貴族では無いのだから。

 無論正面きって皆殺しなど物騒な事はしない。ただ爵位を失い貴族家で無くなれば良い。それが生粋の貴族である彼らにとって前者よりも軽いかは分からないが。

 オルドルは言われた意味に気付き、ざっと顔を青くした。

 出来る筈がないと言うのは容易い。しかし促すように微笑みを深めるリゼルを前にして感じる畏怖がそうさせてはくれない。

 思わずジルへと向けた視線は助けを求めたのか決断を求めたのか。しかしジルは冷めた視線でそれを見返すのみで、そこには同情も嘲りも含んでいない。


「選んで」


 安寧へと誘うような声が、破滅へと手招く。

 しかし次の瞬間、パンッと何かが弾ける音と共にレイの声が静寂に響き渡った。


「再び口を挟んですまないね」


 レイはまるで上位の者に接するように叩いた手の平を片方胸に置き、快活さを抑えた真摯な顔でリゼルを窺っていた。

 リゼルはレイが介入した瞬間に事の収拾を予期したのだろう。手を叩いた音と同時に場を支配していた空気は霧散し、いつも通りの穏やかさを持って微笑んでいる。

 イレヴンがようやく近付けるとばかりにリゼルの隣へと歩いて来たのを確認し、レイはリゼルを見た。

 侯爵家は貴族の中でも影響力が強い家だ。騎士統括という役目柄王家と近く、国内で随一とも言える教育機関である騎士学校の運営にも深く携わっている。失ってしまえば、その損害は計り知れない。

 リゼルを敵に回すつもりは毛頭無いが、国の命運がこんな場で決められてしまっては流石に困る。


「オルドル殿の父親は頑固で堅物だ。一度決めたことは曲げず、捨てたような人間に関わろうとするような者ではないと保証しよう」

「そうなんですか、ジル」

「知らねぇ。顔合わせた事なんざほとんど無ぇし」

「本当だとも! 私から招待客への無礼に対する抗議という名目で侯爵に話も通しておこう」


 それはつまり、レイの方から忠告を与えてくれるという事だろう。

 ジルについて、オルドルの歪んだ感情について。それを正すから許してやれという事か。

 話を聞く限り厳格な人物が自らの息子の情けない不祥事を許すはずもなく、徹底して性根を正される事は想像に難くない。そもそもジルの関わらないオルドルは優秀なのだ。

 そう告げるレイの快活な笑みの奥に真摯な色を見つけ、リゼルは苦笑した。穏やかに話し合いで解決できるのならばそれに越した事は無い、そう最初に告げただろうに。


「じゃあ、お願いします」

「それは良かった! もう少し早く口を挟めれば良かったのだがね、本質の君は中々どうして意識を捉えて離してはくれない」


 放心しているオルドルの肩を気付けをするように勢いよく叩き、レイは素晴らしい公演を見終えたかのように感嘆の息を吐きながら笑みを浮かべる。

 未だ倒れたままの騎士も回収させ、オルドルに反省を促し今はこの場を離れさせ、本当にリゼル達以外に人の居なくなった広間の真ん中で軽く両手を広げて見せた。

 パキリパキリと靴底でリゼルが撒き散らかしたガラスの上を歩き、今度は演技じみた仕草で胸に片手を当ててみせる。わずかに頭を下げ、窺う様な視線は真っ直ぐにリゼルへと向けられていた。


「あの状態の君に、いつか至上の命令を賜ってみたいものだ」

「そんな、畏れ多い」


 ハッハッとレイは声を上げて笑う。まるで有り得ない事を聞いたかのように。

 しかしあの状態のリゼルを初めて見て既に平常心を取り戻しているのだから、流石貴族と言わざるを得ないだろう。イレヴンはやはりちょっと苦手だと舌打ちし、ジルは勝手にやってろと溜息を吐く。

 リゼルはそう言えば何時帰るのだろうかと思いながら城の何処かから聞こえて来るワルツに耳を澄ませた。






 その後、帰りの馬車の中でふとジルが呟いた。


「早く上がって来い」


 窓の外を向いたままだったが、その口が笑みを描いていることは容易に想像がつく。

 憂いを消した今、すぐにでもランクを上げる事が出来るだろうジルが言いたい事など一つしかない。共にしか上がるつもりはないと、そういう事だろう。

 リゼルとイレヴンは視線を合わせ、一人は穏やかに微笑み一人はニンマリと笑った。


「上がろうと思えば何時でも上がれんスよ」

「俺はもう少しかかりますね」


 だが待っていてくれるだろう。不満を持たず、ただ今まで通りに。

 そういえばSランクに気になる依頼があっただの上位ランクしか閲覧出来ないギルド所蔵の書物がある噂って本当か等と、今日一日何事も無かったかのように三人は話している。

 彼らにとっては大したことでは無いのだろう。ただ少し動きやすくなった、それだけのこと。

 レイは頬杖を付きながらそんな彼らを楽しそうに見つめていたが、何となく仲間に入れて欲しくなったので会話に割り込んでみる。


「しかし上位ランクになるのなら、ますますパーティ名が必要になるね」

「ジルベルトとリーダーと俺」

「ジルベルト+α」

「……」


 贔屓だ!という断末魔と穏やかに応援する声と快活な笑い声が馬車の中から響き渡った。



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― 新着の感想 ―
気づいたら息を詰めて読んでいました かっこよすぎて痺れた.....誓うジル、、、、、、、たまらないです
この回が一番好きです。 私を沼に落とした瞬間。 レイ子爵、観客として最高の立ち位置ですね……!
[一言] パーティ名はジルベリイで。
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