193.しばらく微笑みは絶えない
リゼルは子供が苦手だ。
子供が苦手というより、コミュニケーションを取りづらい相手が苦手だ。
会話が成立するか、しないかではない。まともに会話が成立せずとも、相手の行動原理に相手なりの軸があれば、リゼルはコミュニケーションを成立させるための試行錯誤すら楽しめてしまう。
だが子供相手では、どうにも上手くいかない。
周囲からはそつなく相手をしているように見えるだろうが、やはり少しの苦手意識がある。
これについては、経験不足だと言われればそれまでだ。
物心ついた時から、自らを律する振る舞いを求められてきた。周囲の同年代の子供たちも似たような立場であり、顔を合わせるのも社交の場だったので、自由奔放なふるまいに縁がなかったのも理由の一つだろう。
ようは、対応の仕方が分からず困ってしまうのだ。
————まさに今、本気の喧嘩をする幼子二人に手を出しあぐねているように。
「この、ッ」
「……ッ」
「ジル、ネルヴ、引き分けしましょう、引き分け、ね」
リゼルの目の前では、幼い姿のジルとイレヴンが子供なりに容赦なく殴り合っていた。
殴り合いも本気になると言葉数が極端に減るんだなと、リゼルはこの時初めて知った。
サルスに“上下水道”という迷宮がある。
青空の下、もはや瓦礫と化した亡国の遺跡が、見渡すかぎり地平まで続いている。
そして、それらはすべて水の下にあった。生き物すら住まない、澄みきった水に沈んでいた。
その水は、無数の水道橋から落ちたものなのだろう。あらゆる建造物が崩れ落ちた遺跡群で、水道橋だけが今なお朽ちることなく聳え立っている。
それも、無数に。
「立体迷路じゃん」
「壮観ですね」
「落ちんなよ」
リゼルたちはその水道橋の上で、国を覆いつくさんばかりの水道橋の群れを眺めていた。
「落ちても死にはしなそうですね」
「リーダー泳げんだっけ?」
「イレヴンはすぐそう言います」
「だって泳げるイメージねぇし」
水道橋の上、流れる水を横目にイレヴンは悪びれず告げる。
この迷宮では、冒険者たちはひたすら水道橋を歩いていくことになる。時折、巨大な建築物の遺跡が水面から顔を出しているも、水道橋同士が繋がっているので飛び移る必要はなさそうだ。
リゼルたちはひとまず、今いる水道橋の端まで行ってみようと歩を進める。
「時々泳いでるじゃないですか」
「そだっけ」
「まぁイメージはねぇな」
「ほら、“人魚姫”の迷宮とか」
「あそこはさァ、ちょい特殊っつうか」
ジルもイレヴンの言葉に内心で同意する。
入った瞬間に水中環境に放り出された例の迷宮は、実際の水中とは何もかもが違っていた。
なにせ泳いで進むこともできはしたが、床を歩くほうが遥かに楽だった。普段どおりに歩ける訳ではなく、謎の浮力や抵抗も確かに感じたが、それでも随分と過ごしやすい水中もどきではあっただろう。
迷宮だから仕方ない、というよりは、そういう迷宮でしかない。
「“水中バザール”の時も湖に飛び込みました」
「飛び込んだだけだろ」
「ちゃんと浮いてたじゃないですか」
「リーダー結局潜れなかったし」
「潜水はまた違う技術なんです。潜湖士なんて専門職もあるくらいですし」
サルスを抱く巨大湖、その水面下に扉がある迷宮だった。
桟橋の先に一本の縄が縛りつけられているも、錘をつけて沈めてあるだけなので辿って潜ることができない。何故なら冒険者たちは武器や装備の重量があるので、勝手に沈むからだ。
沈みすぎないように縄を掴むか、浮上する時に掴むか。想定される用途はどちらかに限る。
だがリゼルは武器らしい武器を携帯せず、荷物も小さな空間魔法付きの鞄にすっかりと納めている。さらには、軽くて丈夫な最上級素材によって仕立てられた冒険者装備は、よく浮いた。
結果的に、ジルに引っ張られて水深数メートルまで潜ったのだ。
「それに、伝説の釣り竿の時も泳いだじゃないですか」
「あー……」
「あれか」
確かに泳いだ。
非常に珍奇な経緯により、孤島に取り残された時のことだ。経緯が微妙すぎて忘れていた。
「そん時はアレ持ってたじゃん、板。ニィサンが切り出したやつ」
「てめぇも使っただろうが」
「楽できんならすんじゃん」
「浮き板があるだけで随分泳ぎやすかったですね」
絶好の釣りスポットである孤島には、いかにも腰かけやすい丸太が横たわっていた。
いざ帰るぞという段階で、濡れずに帰る手段を失ったことに気づいたジルが、それを切り出して浮き板にしたのだ。当時、自力で泳ぐよりは楽だろうと口にはしたが、真意はイレヴンと同じくリゼルが巧みに泳ぐ想像ができなかったからだ。
二人が掴まれる大きさがあったので、リゼルとイレヴンは遠慮なく浮き板を使った。
「俺泳いでるリーダー見ると脳みそバグりそうになる」
「え?」
ジルは再びイレヴンに同意するが、やはり口には出さなかった。
「おい」
代わりに、促すように前方へと視線を向ける。
現れたのは滝だった。自然のものではなく、さらに上方の水道橋から流れ落ちてきた水だ。
こうして水道橋から水道橋へ、途切れることなく巡った水が最後に遺跡へと降り注ぐのだろう。見渡せば遠く近く、いくつかの水の筋が地上に降り注ぐのを見ることができる。
そして、注目すべきはもう一つ。
落ちる水を受けて回る水車と、それと連動するように上下する木製の足場があった。
「成程、これで水道橋同士を移動するんですね」
「昇降機? っつうやつ?」
「見たことあんのか」
「坑道で見た。動かしてたのは水車じゃねぇけど」
ジルはあらゆる迷宮に潜っているが、昇降機を利用するような迷宮は滅多に見かけない。
最初からそういうコンセプトで存在する迷宮以外では、その仕組みが魔物と相性が悪いからだろう。ならばイレヴンがどこで見たのかと思えば、恐らくカヴァーナで見たのだろう返答があった。
もしかしたら自分の知らない迷宮があるのではと問いかけたジルには、やや期待外れの答えだ。それにしても、組合によって厳重に管理されている坑道に、何故どうやって入ったのかとは思うが。
「三人乗れるでしょうか」
「スペース的には行けそう」
手すりも何もない、ただ繋げて打ち付けられただけの木の板だ。
乗られても三人ギリギリだろう。移動中に魔物に襲われでもすれば立ち回りにくいので、リゼルたちは一人ずつ順番に上がろうかと話し合った。
まずはジルが乗る。水しぶきに湿った板が、誰の耳にも届くほどの軋んだ音を立てた。
だが腐り落ちはしないだろう。何度かジルが板を踏みしめたが、木材は歪みも割れもしなかった。
「ジル、大丈夫そうですか?」
「濡れる」
「それは我慢してください」
「魔物はいねぇな」
「俺ら二人でもダイジョブそ?」
「行けんじゃねぇの」
そう告げたジルが、上方の水道橋に足を踏み入れる。
リゼルとイレヴンはそれを見上げ、ならばと予定を変更して、二人同時に木の板へと飛び乗った。飛び乗ったといっても、水道橋と木の板の間にはほとんど隙間はないのだが。
「あ、本当だ。意外と飛沫がかかりますね」
「すぐ横が滝だし。魔物とか飛び出してこねぇのかな」
「ちょうど魔物が落ちてくるタイミングならありそうですけど」
その時、上から一度だけ剣戟の音がした。
魔物でも出たのかと、大して焦ることなく見上げるリゼルとイレヴンの目に、頭上の水道橋から何かが飛び出してくるのが見える。真っ二つにされた魚の魔物だ。
それは二人の頭上を通り越し、足元の水道橋から逸れ、遺跡の沈む広大な水面へと落下していった。すぐ隣の滝の水音に打ち消されながらも、ぽちゃんと微かに水が跳ねる音がする。
「ジルが倒してくれましたね」
「なんか吹っ飛びすぎな気ィする」
「よっぽど勢いのある魔物だったんでしょうか」
まさかジルに限って力加減を間違えたなんてことないだろう。使い慣れない武器ならばないこともないが、いつもの大剣でジルが加減を誤るところなど見たことがない。
そんなことを話しながら、二人は昇降機を降りた。
「うわ……」
「ジル?」
もの凄いしかめっ面のジルがいた。
「何、ニィサンどう……え、なんか違和感ある」
「ありますね」
リゼルとイレヴンは、機嫌が悪そうに立ち尽くすジルをまじまじと見る。
怪我をしている様子はない。装備もその着こなしも普段とまったく変わりがない。だがそれでも、目の前の立ち姿にはいつもと何かが違うだろう違和感があった。
二人はジルの頭のてっぺんから靴の先までじっくりと注視する。その様子は、等身大の間違い探しでもしているかのようだった。
「あ」
「リーダーなんか分かった?」
「剣が短くないですか?」
「あ? あー、んー……あ、そうかも。折った?」
「折ってねぇよ」
ここでようやく、ジルが不機嫌であるのを隠そうともせず口を開く。
その手がいかにも嫌々と、鞘に納めていた大剣を引き抜いた。普段より三割ほど刃の部分が短くなった剣は、まるで元からそうであったかのように自然なフォルムをしている。
しかも鞘ごとだ。このこだわりよう、まごうことなき迷宮案件だった。
「上下移動が原因でしょうか」
「……」
「ブチギレてんじゃん」
「ジルは剣にこだわりがあるので」
リゼルの曰くの剣コレクターであるジルだ。
何かが許せなかったらしい、そう頷くリゼルの隣で、イレヴンも半笑いながら納得する。
イレヴンとて己の得物にはこだわるほうだ。もし同じ立場だとして、恐らく機嫌を損ねるまではいかないだろうが、ジルの気持ちも分からなくもなかった。
「俺の銃は無事です」
「俺も無事ィ」
「一人目だけ……だと、一度に全員乗った場合に致命的ですよね」
「効果によっちゃそうかも」
「次乗りゃ分かるだろ」
大体の迷宮での謎ルールを思えば、剣は次の仕掛けで元に戻る可能性は高い。
それすなわち別の何かを食らう可能性もあるのだが、ジルの最優先は己の剣だ。最低限の警戒は保ったまま、さっさと歩き出す姿にリゼルとイレヴンも続く。
そうして何度か昇降機に乗って、幾つか分かったことがある。
昇降機に乗ると、リゼルたちの何かが上下すること。
上りの昇降機に乗ると何かが上がり、下りの昇降機に乗ると何かが下がるようだ。ちなみに上下の概念は丈の上下、つまりは長短も含まれる。
ジルの剣が縮んだ他にも、リゼルの髪が伸びたり、イレヴンの跳躍力が上がったりした。蛇足だが、跳躍力の上がったイレヴンは昇降機から下りる際、そうとは知らずに軽く飛び移ったことで、見事に水道橋を飛び越して落下していった。
また、乗り込む人数や順番は効果の発現関係がないこと。
上下の効果の人選は完全にランダムだ。三人で乗っても一人だけ、一人ずつ乗ろうが一人目と三人目にのみ効果が出るなど、法則性は見つけられなかった。
そして最後に、上下の程度は上昇・下降距離に比例すること。
昇降機に長く乗れば乗るほど、謎の効果は強く現れる。ジルの剣は三割減で済んだにもかかわらず、リゼルの髪は二倍に伸びたし、イレヴンの跳躍力は凄まじいことになった。
だからこそ、覚悟は決めていたのだ。
まるで崩れ落ちたかのような水道橋の端で、リゼルは階下を覗きこむ。
「次の水道橋、随分と下にありますね」
「てめぇ次は跳べなくなんじゃねぇの」
「はァー!?」
イレヴンが落下した際、すぐに無事を確認したリゼルの隣で、鼻で笑っていたのがジルだ。
幸いにも怪我はなく、リゼルたちが一度昇降機を降りてからロープを垂らし、イレヴンはそれを上ってなんとか帰還することができた。全身びしょ濡れという被害だけで済んだのは幸いだったが、イレヴンとしては思い出したくもない出来事だろう。
尚ロープがない冒険者が落ちた場合、水面から飛び出た遺跡を探し、それに上って水道橋に飛び移るのが一般的だ。イレヴンが落ちた時は、近くにそれらしい遺跡がなかったのでロープを使った。
「能力の上下が一番困りますね」
「上がっても厄介だしな」
「握力ゼロとかになったらどうしよ」
三人は昇降機に乗り込む。
「使わないイメージのある能力でも、なくすと意外と不便なんですよね」
「ニィサンの魔力が底辺に落ちんなら問題ねぇけど」
「てめぇも似たようなもんだろ」
「俺は使えるけど使わねぇだけでぇす」
昇降機が一定のペースで下りていく。
「そういやこの前リーダーが使ってたさァ、暗闇に紛れんの。あれ俺が使ってみせたやつ?」
「そうですね。初めてイレヴンに見せてもらってから、何回か練習したので……ん?」
「あ、やべ」
「おい」
そして昇降機から下りながら、リゼルはイレヴンを振り向いた。
「俺、イレヴンに練習してるところ見せました、っけ」
イレヴンがいない。
いや、とリゼルはすぐに思い直す。視界に入ってこなかっただけだ。
見下ろせば、赤い髪の幼い蛇の獣人がまっすぐにリゼルを見上げている。
「ああ、年齢が下がったんですね」
リゼルは少しばかり嬉しそうに、赤い髪へと手を伸ばす。
無抵抗に撫でられる顔は、頬の鱗を歪ませながらにんまりと笑っていた。いかにもご満悦といった表情は子供らしく正直で、普段もリゼルから触れるのを嫌がっていないのだろうと思わせる。
そもそも獣人はスキンシップが多く、イレヴンは大人の姿だろうが嫌ならば嫌と言う男だ。
心配はしていなかったが、改めて全幅の信頼を示されるのは嬉しいことだった。
「ほら、ジル。小さいイレヴンですよ」
リゼルの認識では、ジルは幼くなったイレヴンを見たことがないはずだった。
よって心からの親切心で、撫でてはどうかと促すつもりで声をかけたのだが。
「……」
「わ」
ジルも小さかった。やや驚いた。
年の頃はイレヴンと同じくらいだろうか。その年頃にしてはやや目つきが鋭い気がするも、十分に幼気な瞳がじっとリゼルを見上げていた。
あまりにも静かだったので気づかなかったなと、リゼルはこちらもひとまず撫でておく。
ふいと顔ごと目を逸らされてしまったが、逃げたり避けたりはしないので嫌がられてはいないようだ。ここぞとばかりに撫でを続行する。
「このくらいの歳だと、二人とも同じくらいの身長なんですね」
普段は見て分かる程度には、イレヴンよりもジルのほうが背は高い。
だが幼くなった二人の身長差はほとんどなかった。獣人は成長が早いと聞いたこともあるので、そのせいかもしれないし、ただ幼少期にありがちな個人差なのかもしれなかった。
年若いというよりも、ただただ幼い二人にリゼルは目元を緩める。
そして周囲に魔物の影がないことを確認して、二人と向き合うように腰を折る。
「ここがどこで、何をしているか、分かりますか?」
「迷宮」
「こーりゃくちゅー」
「そう、正解です」
記憶ごと丸っと幼少期に戻った訳ではないようだ。
リゼルは安堵をおくびにも出さず、穏やかな声色のまま質問を重ねる。
「二人とも、体に変なところはないですか?」
「ない」
「? なんかへん?」
「変じゃないですよ」
そして本人たちに幼くなっている自覚はない。
つまりはいわゆる“迷宮の進行度”は据え置いて、戦力ダウンのみを目的とした妨害効果なのだろう。流石は迷宮と言うべきか、なんとも矛盾した現象を簡単に起こせるものだとリゼルは感心してしまう。
だが、その効果は絶大だった。
戦闘行為において、最大戦力を二人も削られてしまった。装備から何からそっくりそのまま小さくなっているとはいえ、意識は幼く、武器も精巧なおもちゃと化してしまっていては戦えないだろう。
幼子に刃物を持たせるのは不安なので、武器に関してはリゼルも迷宮に感謝しているが。
「……」
「ジル?」
何かが気に入らないのか、ジルが自身の元大剣を手元で抜き差ししている。
いかにも不機嫌そうな顔が、あまりに普段と変わらなすぎてリゼルは少し笑ってしまった。幸いにも、それをジルに気づかれることはなかった。
「どうしました?」
「ん……」
不貞腐れたような、釈然としないような声が零された。
それに対し、違和感があるならひとまず引き取ろうかとリゼルが提案しようとした時だ。
リゼルの手を引っ張って遊んでいたイレヴンが、仰け反りながらジルへと口を開く。
「なにしてんのジルベルト」
リゼルは思わずイレヴンを見た。
「べつに」
「じゃあ止まってんなってぇ」
「止まってねぇし」
「止まってんじゃん」
「止まってねぇ」
なんだかやり取りが微笑ましいなと、リゼルはまじまじと二人を見下ろす。
年齢差が消えたせいだろうか。イレヴンの様子を見るに、恐らく実力差もなくなっている。
イレヴンは獣人らしく力量差というのを意外と態度に反映させるので、普段はここまで気安い、ともすればやや馬鹿にしたような態度をジルに見せることはほとんどないのだ。
ジルがこの年齢から既に、そこそこの強者的雰囲気を醸し出しているので分かりにくいが。
「ジルベルト」
「ジル」
「ジル?」
「ん」
リゼルもそう呼んだほうがいいかと呼びかければ、当のジルに修正されてしまう。
表情の変化は少ないものの、満足げな眼差しを向けられては、無理にジルベルト呼びする訳にもいかないだろう。ジル呼びにも既に馴染みがあるようだ。
「じゃあ、ネルヴ」
「はァい」
逆にイレヴンは本名のほうがいいらしい。
この年頃では「イレヴン」と呼んでもむしろ伝わらないのだろう。イレヴンがそう名乗り出したのは、その名のとおりの十一歳からだと聞いている。
「二人とも、俺と二つ約束しましょう」
「なに」
「りょーかーい」
「まず、迷宮の中では二人で手を繋ぐこと」
明らかに嫌そうな顔をされた。
第一印象で奔放なイレヴンと、落ち着いたジルを一緒にしておきたかったのだが。なにせここは何処からともなく魔物が飛び出してくる迷宮であり、さらには高所を歩かなければならない水道橋の上なのだから。
とはいえ二人の顔を見るに、何を言っても無駄だろう。本当に、もの凄く嫌がっている。
「じゃあ、俺と手を繋ぎましょうか」
「わかった」
「そんならいいよ」
「有難うございます」
意外にもと、言っていいかは二人の幼少期を知らないので分からないが。
素直に手を差し出してくれたジルとイレヴンに、リゼルもまた片手ずつ応える。
ついでに、迷宮内では常に浮かしている銃を一本から三本に増やした。いざ魔物に襲われた時には、ジルとイレヴンに魔力防壁を張るつもりなので、これ以上に本数を増やすと精密な操作ができなくなりそうだ。
「もう一つは、もし俺から手を離すことがあったら、その場から動かないこと。その時は必ず君たちを魔力のドームで包んでるので、魔物が襲ってきても慌てなくて大丈夫ですよ」
「リーダーは?」
「勿論、できるだけ君たちの傍にいます」
「できるだけってなに」
不満げなジルの追及に、リゼルは苦笑する。
リゼルも必要であれば煙に巻くことはするが、清濁併せ吞むことを求められる貴族であったからこそ、必要のない嘘はつきたくないと常に考えていた。
それは、子供に対しても同じく。だからこそ、敏いジルには突っ込まれてしまったが。
「迷宮ですからね。断言はできないってだけです」
「……わかった」
あっさりと告げたリゼルに、納得してくれたらしいジルも頷く。
そうして彼の、随分と小さくなった手が向けられた。いかにも言われたからそうするとばかりに、繋げと差し出された手とともに、促すように幼い唇が開く。
「リゼル」
リゼルは穏やかに、よくできましたと目元を緩めてみせながら手を繋ぐ。
だが、少しばかり驚いてはいた。まさか、ジルに名を呼ばれるとは思わなかったからだ。
リゼルはジルのことを「大した理由もなく、ただ人の名前を呼ばないタイプの人間」だと思っている。呼びたくないから呼ばないのではなく、ただただそういう性なのだろうと。
恐らくそれは事実だ。だが、幼少期は違ったらしい。
ならば他人への関心の薄さにより、自然とそうなっていったのかもしれないなとリゼルは内心で思案する。とはいえ大それた理由がないことは変わらず、それが分かったところでリゼルが何かを思うこともないのだが。
新たな発見が少しばかり面白かったと、それだけだ。
「リーダー早くーっ」
「はい、今行きますね」
そろそろ立ち止まっているのも限界だったのだろう。
うろうろと歩き回り始めたイレヴンの呼びかけに、リゼルは可笑しそうに応えた。
「ネルヴ、ほら、手を繋いでください」
「あ、そーだった」
「ジルも」
「ん」
約束どおり、幼い二人と手を繋ぐ。
リゼルにとっても慣れないシチュエーションなので、慣れるまでは自然に歩くことさえ難しい。違和感も強く、無意識に手を使おうとしては、幼い手の存在を感じて思いとどまる。
だが、罠の存在を思えばこの態勢がもっとも安全だった。
なにせ全員大人だろうが嵌る時は嵌るのだ。警戒するに越したことはないだろう。
だが急な魔物の襲撃と、不可視の罠にさえ気をつければさほど苦労しないのではないか。リゼルはそう思いかけ————、
「それじゃあ行き……」
「あっ、なんかある!」
「まもの見つけた」
数秒で左右逆方向に駆け出していくジルとイレヴンに、子供に言い聞かせる難しさを知った。
リゼルは実のところ、子供相手でも上手くやれるようになってきたのではと思っていた。
何故なら、王都の子供たちや魔法学院の子供たちとは友好的な関係を築けているからだ。
だが今、それが己の成長などではなかったのだと気づいた。すべて、偶然だったのだ。こちらの世界に来てから出会った子供たちが、たまたまリゼルと相性が良かっただけに過ぎなかった。
王都の子供たちも、学院の子供たちも、リゼルに何をしてほしいか具体的な希望があった。
勉強を教えてほしい。依頼を受けてほしい、魔法を見せてほしい。自分が何をどうしたいのか、そのために何をしたら良いのか、自ら考えて行動することができたのだ。
それは恐らく、彼らがただ幼いだけの時期をとうに過ぎていたからだ。
優れているだとか、才に溢れているとかではない。ただ、年齢の問題に過ぎなかった。
いや、他者に教えを請おうとする積極性と行動力については優れていただろうが。だが決して、彼ら子供たちの特異性を示すものではなかった。
なればこそ余計に、本当にただ偶然、リゼルは子供たちと上手くやれていたのだ。
求められれば、子供だからという理由でリゼルが断ることはない。大人として子供に接するのではなく、教師として教え子に接するようであれば、リゼルはいくらでも上手くやれた。
————ということに、今気づいたのだ。
「リーダーあのさァ、今日さ、おれメシくってたらさァ」
「はい」
「……」
「そんで、あ、リーダーあっち行こあっち、そんでフォークもってさァ」
「そうなんですか?」
「……」
「じーちゃんとばーちゃんいんじゃん、朝ねてんのに、おれの毛布もってったんだけどさァ」
「それは寒かったですね」
「……」
イレヴンの何かが気に入らなかったのか、まずジルがキレた。
「うるせぇ」
「は?」
「うるせぇって」
「はー!?」
「ああ、ほら、ここで喧嘩はダメですよ」
今まさに襲い掛かってくる魔物を迎え撃ちながら、リゼルはすかさず仲裁に入った。
魔銃を操りながら、牽制を優先しつつ撃ち抜きながら、魔力防壁を張りながら、手を繋いだまま二人の間に割り込む。もともと両手を繋いでいるのだ、ガンをつけあう両者の視界を遮るのは容易い。
「続きは迷宮を出てからにしましょうね」
なんか不思議なこと言われたな、という目で見られたが、喧嘩を収めることには成功した。
だがそれでは終わらない。それから暫く歩いてのことだ。
「……」
「ジル?」
「ジルベルト止まんなっつってんじゃん!」
ジルが前触れもなく立ち止まること何度目か、我慢できずイレヴンがキレた。
「ネルヴ」
「ぜんっぜん進まねぇし!」
「わかってる」
「もう五回目くらいじゃん!」
「まだ四回」
「ネルヴ、ジル、ちょっと休憩しましょう、お腹が空きましたね」
リゼルはなんとなくの思い付きで休憩の準備を始めた。
本当に空腹で苛立っているとは思っていないが、どちらにせよ十分に腹が膨れれば落ち着くだろうという目論見はあった。ポーチから厚手の絨毯(迷宮品)を出して敷こうとすれば、ジルもイレヴンも短い手足でせっせと手伝ってくれた。
お礼を告げながら二人の頭を撫で、宿の老婦人が持たせてくれたスティックケーキを渡す。
ナッツとドライフルーツたっぷりのスティックケーキだ。栄養も腹持ちも十分だろう。
「……いただきまァす」
「はい、どうぞ。ジルは甘くないので良かったですか?」
「ん」
片や絨毯の上に座り、片やリゼルの膝に座り、もそもそ食べ始めた二人にリゼルは微笑む。
ジルが立ち止まるのは、迷宮の景色に目を奪われているからだ。大人のジルは景色の良し悪しに何かを感じるような情緒を持たず、また幼少期だけ深く感じ入る感性があったというのも考えにくいので、恐らく迷宮という空間自体に惹かれているのだろう。
普段のジルも、ただ魔物との戦闘を楽しむためだけに迷宮に潜っているという訳ではない。
リゼルから見て、ジルは十分に迷宮の攻略を楽しんでいる。さもなければ、未踏破の迷宮を見つける度に潜ったりもしないし、たった数日で新迷宮を踏破しきったりもしない。
ジルは義務感や惰性とは無縁の男だ。
ただ潜りたいから新迷宮に潜り、没頭しているからこそ短期集中で踏破するのだろう。
「迷宮、楽しいですね。ジル」
「ん」
ジルがこくりと頷いた。
イレヴンに怒られようが、悪びれた様子は少しもない。ジルは結構な頻度でリゼルのことをマイペースというが、リゼルにしてみればジル自身も十分にマイペースの部類に入る。
「リーダーはすぐジルベルト甘やかす」
「そんなことないと思いますけど」
「んーん、甘やかす」
「モンク言うな」
「モンクじゃねぇし、ジジツだし」
「じゃあネルヴも甘やかしますね」
「そーゆーんじゃなくてぇ」
言葉とは裏腹に、イレヴンはくふくふと笑いながらケーキに齧りついた。
腹が満たされたおかげで、すっかりと機嫌が直ったらしい。ジルもそうだが、イレヴンも大概マイペースなので切り替えは早い。
幼い頃から二人は二人だなと、リゼルがそう微笑ましく思っていた時だ。
「あ」
いつの間にか食べ終え、水道橋の下を覗いていたジルから声が上がる。
「ジル、あんまり端に行くと危ないですよ」
「宝箱」
「ん、どこですか?」
「宝箱!」
残るケーキをすべて口の中に押し込んだイレヴンが、ぱっと立ち上がった。
残りの一口が大きすぎたのか、頬がぱんぱんになったイレヴンがジルの隣に並ぶ。
「おいジルベルトどこ!?」
「あれ」
「どこって!」
「あの水車のうらっかわ、二こあるだろ」
「マジだ!」
水道橋から器用にも大きく身を乗り出した二人の後ろから、リゼルも階下を見下ろした。
確かにジルの言うとおり、落ちる水流を受け止める側の水道橋、その端に宝箱が二個並んでいる。こうして斜め上の角度から見なければ、水流の裏に隠れて気づかなかったかもしれない。
二個というのが、なんとも思わせぶりだ。
「二人とも、宝箱開けたいですか?」
「開ける」
「開ける!」
すぐさま返事があった。
しかも「開けたい」という希望ではない。「開ける」という確固たる意思表示だった。
だがリゼルとしては悩みどころだ。もし万が一宝箱が罠であった場合に、二人を守れる確証がなかったからだ。
「そうですね、俺が開けるなら————」
言いかけ、止める。
子供用カトラリーとかが出たらどうしようと思ったからだ。リゼルにもプライドがある。
「リーダー?」
「なに」
「いえ、なんでもないです」
まぁいいか、とリゼルは二人の頭を撫でた。
明らかに幼い二人を相手に用意された宝箱だ。罠が仕掛けられることはないだろう。
何故なら、迷宮なので。リゼルは迷宮が空気を読んでくれることを信じて疑わない。そして二人が宝箱から何を出すのかも大変気になる。
リゼルもまた、好奇心を優先してしまう悪い大人であった。
「じゃあ宝箱を目指しましょうか」
「リゼルまだ食ってねぇ」
「ほんとだ」
「俺はお腹が空いてないので大丈夫ですよ」
そうして三人は、水路を遡って襲い掛かろうとする魔物を撃ち抜きつつ絨毯などを片づけ、迷宮の攻略を再開したのだった。
目的の宝箱に行くまでには、昇降機で一度降りる必要がある。
リゼルは二人がこれ以上に幼くなったらどうしようかと思ったが、幸いなことにリゼルの声がやや低くなるだけで済んだ。ジルとイレヴンにはもの凄く不評だったが。
「その声いやだ」
「格好よくないですか?」
いかにも不機嫌オーラ全開のジルに、リゼルは繋いだ手をにぎにぎと握って宥める。
「リーダーの声なのに……リーダーの声なのにぃ……っ」
「大丈夫、すぐ戻りますよ」
必死な顔をして見上げてくるイレヴンの頬を、繋ぎっぱなしの手で撫でてやる。
ちなみにイレヴンの頬の鱗だが、触り心地が大人の時と違った。ややぺったりとしている。
「それよりほら、宝箱ですよ」
昇降機を降りてすぐ振り返り、落ちる水流の裏を覗き込んだ。
そこには、宝箱よりも木箱と呼んだほうが近いだろう箱が二つ、綺麗に並んでいる。リゼルが握っていた手を前に出して促してやれば、二人はすかさずそれぞれ目をつけていた宝箱に駆けていった。
幸いにも、意見はぶつからずに済んだのだろう。ジルは左の、イレヴンは右の宝箱だ。
「(それにしても、やっぱり二人とも元に戻らなかったな)」
この迷宮の昇降機の仕組みだが、上下した距離と同じ分の反対移動で変化が消えるようだ。
一つ目の昇降機で上がった時に短くなったジルの剣だが、二つ目の上りの昇降機では戻らず(この時はイレヴンの装備の丈が縮んだ)、三つ目の長い下りでも変わらず(リゼルの髪がもの凄く伸びた)、四つ目の短い下りで元に戻ったのだ。
つまりは上下移動で起きる変化は一つ、そして元通りになる変化も一つとカウントする。
よって進み方によっては、二人の年齢変化とリゼルの声変わりのように、効果がいくつも重複することになる。リゼルもそれを考慮し、影響を最小限に進めるよう考えてはいるが。
「(ルートによっては、変化の出たまま迷宮を出る冒険者もいそうだけど)」
リゼルは宝箱の前にしゃがむ、薄い背中をなんとなしに眺める。
ジルとイレヴンだが、蓋の留め具を外そうと奮闘中だ。覗いてみるに、子供用のパズルのようになっている。迷宮のこだわりは留まることを知らない。
「(長く上に上る昇降機も見当たらないし、このまま引き上げる可能性もあるかな)」
いつ宝箱が開いてもいいよう、二人に魔力防壁を張りながらリゼルは試案する。
可能性としてはなくもない。ただその場合、該当の昇降機を見つけるためにリゼルが一人で迷宮に潜る必要がある。もしくは自然に効果が消えるまで、数日間幼いままでいるかだ。
前者は、リゼルとしてはやぶさかではない。
今の段階で、ジルとイレヴンを庇いながらでも攻略を進められている。勿論、攻略速度は普段の半分ほどに落ち込んでいるも、代わりに危機らしい危機には合わずに済んでいた。
「(でも、二人に怒られそうだし)」
「なーこれどうやんの? ジルベルトできた?」
「まだ」
手を動かしながら、時々うなる二人に笑みを零す。
手助けを求められるまでは、リゼルも手や口を出す気はなかった。
「(なら、連れて帰ってもいいのかも)」
宿の老夫婦は歓迎してくれそうだ。
なにせ元Sランク。この不可思議な現象も、なんの説明もなく受け入れてくれるだろう。
老輩などは意気揚々と冒険者の英才教育を施してくれそうだ。
「(ジルなんかは大人しいし)」
非常にマイペースだが。
意外でも納得でもあるのだが、イレヴンよりジルのほうが我が道を行くタイプだった。
イレヴンが繋いだ手の先で賑やかにしているなら、ジルは静かに姿を消すのだ。迷宮内でジルが足を止めるのも最初の頃は、簡単にリゼルから手を離して迷宮の観察を楽しんでいた。
その度、イレヴンは腹を立てていた。
「(そう、イレヴンと相性もいい)」
そう、腹を立てて早くしろとイレヴンが文句を言うのだ。
放っておこう、ではない。普段の彼ならば平然と言うことを、幼い彼は言わない。これまた意外でも納得でもあるのだが、どうにもイレヴンは他者を引っ張るような言動が多かった。
ただ恐らく、面倒見が良いのとは違う。
群れの統制が乱れるのを嫌がっている、というのが近いだろう。酷く獣人らしい感覚だ。
だがこの感性が、ジルとよく噛み合う。
「(小さいと獣人の本能が強く出やすいのかな)」
今もイレヴンは、ふと顔を上げてはきょろきょろと周りを見回している。
恐らく魔物の気配を感じとっているのだろう。物音にもよく気づいているようだ。それが脅威であると考えて警戒しているのではなく、無意識かつ反射的に反応してしまうのだろう。
その証拠に、普段のイレヴンがこれほど顕著に警戒を示したことはない。
気をつけるべきもの、そうではないものの区別がつくようになったということだろう。
「ネルヴ、何かいましたか?」
「んー、なんも。たぶん」
ジルも留め具から顔を上げたが、しばらくイレヴン見てからパズルに戻る。
こちらは当然だが、幼いジルは魔物の気配などが分からない。ジルのそういった感覚が実戦で培ったものなら、育ち始めるのは侯爵家に迎えられたという十歳ごろだろうか。
とはいえ生まれ故郷の立地もあり、どうやら幼い頃から山歩きが達者だったようなので、同じ年ごろのリゼルよりはよっぽど警戒心というものが育っているだろう。
リゼルの幼い頃の警戒心は、決まった体制のなかで発揮されるべきものだった。周囲に護衛がいるうえで持つべき警戒心と、自然環境の中を駆け回るために必要な警戒は、比べるようなものではないだろうが。
「(あ、魔物)」
遠く、眼下の水面に揺らぐ影がある。
トゲウオだろうか。背中から針を飛ばしてくる魔物で、遠距離からでも攻撃してくる。
この迷宮のように開けた場所と非常に相性が良い、もとい冒険者的には最悪の組み合わせとなる魔物だった。イレヴンはあれに反応したのかもしれない。
「ん、あいた」
「おれあとちょい」
「先あける」
「まってろって!」
娯楽的な思考に耽りつつ、リゼルは宝箱の開封をのんびりと待つ。
魔物がこちらに気づいたような素振りもなく、急かすような真似はしなかった。
「あいた!」
そして宝箱の蓋が、子供の力でも軽々と開く。
ジルとイレヴンが上半身を箱に突っ込み、箱の底から何かを取り出すのを見て、リゼルもどれどれと彼らの手元を覗き込んだ。
「ネルヴ、何が出ましたか?」
まずはイレヴンから、と尋ねてみれば、彼は一冊の本をじっと見つめていた。
表紙には“【こども図鑑】やさしいどくぶつのすすめ”というタイトルが輝いている。
「あ、良かったですね、イレヴン。毒、好きでしょう?」
「……うん」
イレヴンはいろいろと悩みつつも頷いた。
毒を好き嫌いで考えたことはないが、生来の武器なのだから良くは思っている。自らの牙を研ぐ、ではないが詳しくなりたいと考えたことはあるし、興味関心の対象ではあるのは確かだ。
幼いイレヴンは文字が読めないが、図鑑はそれを見越したかのようにイラストが大部分であり、まるで絵本の魔法使いの調合書のような図解が見ていて心くすぐられる。
くすぐられるのだが。
「なんかもっと迷宮っぽいやつ出るかとおもった」
「え」
本はリゼルにとって当たりの部類なので、同意してあげることができなかった。
だがさっそく本を開いて眺めているイレヴンの姿に、気に入ったのだろうとリゼルは頬を緩める。大人のイレヴンだとよっぽど興味のある内容で、かつよっぽど暇な時に流し読みするぐらいなので、なかなかこういった読書姿を見られないからだ。
「ジルは何でした?」
リゼルは笑みをそのままに、今度はジルへと尋ねた。
「でかいてぶくろ」
「手袋?」
まさか迷宮が空気を読み損ね、大人用の手袋を出したなんてことはないだろう。
リゼルは多大なる信頼を抱き当然のようにそう思い、ジルが片手に嵌めているものを見た。
「あ、鷹狩り用のグローブですね」
「たかがり」
ジルがまじまじとグローブを眺める。
片手だけの、分厚い革製のグローブだ。ジルはそれを大きいと称したが、しっかりと今の彼サイズだった。
「今のジルにはちょっと早いかもしれませんけど、今のうちに慣れていいかもしれません」
「なれ」
「俺から馬も贈りましょうか」
「うま」
楽しそうなリゼルとグローブを、ジルは二度三度と見比べる。
鷹狩り、興味がないといえば嘘になる。むしろ好奇心が煽られて心の片隅がそわそわする。
そわそわするのだが。
「(迷宮っぽくねぇ)」
先にイレヴンとのやり取りを見ていたジルは、それを口には出さなかった。
お陰でリゼルもにこにこだが、迷宮品のチョイス的にリゼルによる貴族教育が始まりかねない。そんな危惧が薄っすらとジルの中に生まれる。
「あ、まもの!」
だがイレヴンが声を上げたことで、二人はその可能性をなんとか回避した。
イレヴンが指さした先では、先程リゼルが見つけたトゲウオがこちらに頭を向けるよう旋回している。狙いをつけられる前に移動したほうが良さそうだ。
「じゃあ、そろそろ先に進みましょうか」
「ん」
「疲れたりとかはしてないですか?」
「だいじょぶ」
ジルとイレヴンは、伸ばされたリゼルの手を握りながら頷いた。
順調な攻略が暗礁に乗り上げたのは、それから暫く経ってからだった。
二人はいまだ元に戻らなかった。幼くなった時に、相当な落差の昇降機に乗ったこともあって、それと同等の昇降機をなかなか見つけられなかったからだ。
ちなみにリゼルの声はすでに元に戻っており、これにはジルとイレヴンもご満悦だった。
「(大分きつくなってきたな)」
もう何度目かになる戦闘中、リゼルは内心だけでそう零す。
今の相手は巨大蜘蛛だった。水道橋の裏側から、尽きることなく這い上がってくる。
「なんか見たことあるきぃする」
「どこでだよ」
「どこだろ。でもなんか見たことある」
リゼルを間に挟み、ジルとイレヴンは少しも恐怖を浮かべずに雑談していた。
本来ならば多数の魔物にパニックになってしかるべき齢だろうに、流石と言うべきか。
とはいえ握る手は、ジルのほうだけ少し強くなっているのだが、自然体のイレヴンと比べ、やや気を張っている様子なのは、育った環境によるのかもしれない。
魔物に襲われる危険がある森育ちと、整備された環境で育った村育ちの違いだ。
「二人とも、ちょっと移動しますね」
「くせん中か」
「そうですね、少しだけ」
「手ぇはなす?」
「それは大丈夫ですよ、有難うございます」
囲まれそうだと、リゼルは二人の手を引いて後退する。
途端に二人は雑談を止め、ジルはリゼルの背後を睨みつけ、イレヴンは近づこうとする巨大組に向かって威嚇を飛ばした。イレヴンの喉から鋭い呼気の音が飛び出すのに、これは初めて聞いたなとリゼルはやや感動していた。
彼らなりの援護は、考え得るかぎりで最大限の効果が望めるものだ。
これを教えずともできるというのだから、やはり戦闘センスというものがもともとずば抜けていたのだろう。こればかりは才能というしかない。
「なかなか数が減りませんね」
「巣とか、あんのかも」
「そうですね、もしかしたら縄張りに——」
ジルの言葉にリゼルが同意を返そうとした時だ。
そのジルの手が、あまりにも自然にリゼルの手をすり抜ける。本人が手を離したのだ。
何かを意気込んでのことではない。手を離そうという意志があったとも思えない。
だがジルは普段、必要なだけの警戒心は持ちながらも、迷宮内を自由に動き回っている。それこそリゼルやイレヴンに“散歩代わり”と称されるほど日常的に、もはや習慣的に。
恐らく、その感覚が残っていた。
「ジル」
だが今のジルでは足りないのだ。
いつもどおりの警戒心では、剣が届く距離まで接近を許してしまう。それでは駄目だ。
巣を探すように水道橋の下を覗き込もうとする後ろ姿に、リゼルは優しく呼びかける。
「ジール、手を離してますよ」
「ジルベルトふらふらすんなってぇ」
小さな獲物に飛びかかろうとする巨大蜘蛛を撃ち抜きつつ、ジルを迎えにいった。
イレヴンと手を繋いでいるから、駆け寄ることはできないが足早に。ジルもまたリゼルの言葉に、自分がいつの間にか離れていたことに気がついたのだろう。
浅い欄干の手前、覗き込んでいた体勢から上体を起こす。
直後、その背後から幾本の脚が姿を現した。橋の裏から這い上がってきた巨大蜘蛛が、無防備な獲物を捕らえようと脚を振り上げる。
「ジル」
やや目つきは悪いも、幼気な瞳が背後を見ないように。
怖い思いをしないようにと、リゼルは名を呼びながら手を伸ばした。小さな手が応える。
魔力防壁は間に合った。ジルと、そしてイレヴンの二人分だ。
少し離れた位置から、驚いているイレヴンに狙いを定めて上体を沈める蜘蛛がいた。
ジルを引き寄せ、二人の手を離し、防壁で包む。魔銃三丁を操り、それぞれの魔物へ。
子供の肌など簡単に引き裂けるだろう刺々しい脚を振り下ろす、ジルの背後の蜘蛛を撃つ。イレヴンに飛びかかろうと跳ね上がった蜘蛛を撃つ。確実に動かなくなるまで。
そして、己に向かって襲いかかる個体を撃ち————、
「あ、痛たた」
仕留めきれず、鋭い蜘蛛脚に足を踏まれた。
流石にいろいろと同時進行しながらの操作は精度が落ちたようだ。二丁まではイメージどおりに動かせていたが、三丁目は微妙に急所を外してしまったらしい。
とはいえ仕留め損ねた蜘蛛もほとんど虫の息であり、攻撃を受けたというよりは勢いに任せて突っ込まれたようなものなので、最上級装備を突き破るほどの威力はなかった。
よってリゼルは、足に本を落とした程度の衝撃を感じるだけで済んだのだが。
「おいっ、おまえ何やってんだよ!」
「ッ」
「えっ」
イレヴンがジルの胸倉を掴んでぶん殴った。
「ネルヴ、待って」
「なんか言え!」
「……」
「ネルヴ、ちょっと待ってください、ええと」
リゼルが一所懸命、残った蜘蛛を撃ち抜いていく。
とにかく魔物をどうにかしなければ話ができない。幸いにも、と言っていいかは分からないが、ジルとイレヴンが一か所に固まってくれているので防壁を張るのは楽だった。
「ジルベルト!」
「……お前だってまもられてんだろ」
あ、とリゼルは眉尻を下げる。
イレヴンがもう一度ジルを殴る。それを受け、ジルもまた殴り返した。
こうなってしまえばもう止まらない。
「ジル、ネルヴ、落ち着いてください、ね」
リゼルはそう言いながら魔物の一掃を急ぐ。
一掃を急ぎながらも、落ち着けと言われて落ち着く子供はいないだろうと自問自答する。
巨大蜘蛛の襲撃は徐々に落ち着きをみせていた。そろそろ狩りつくす頃合いのようだ。
「(子供の喧嘩の止め方、というと)」
魔物の数も少なくなってきたので、迎撃に意識を割きながらもリゼルは二人に近づいた。
チラリとそちらを見下ろせば、幼さを忘れるほどの殴り合いが勃発している。この年頃でこれだけの喧嘩ができるのかと驚くと共に、二人の冒険者に対する適正の高さを垣間見た気分だった。
なんというか。可愛げの欠片もない大人顔負けの喧嘩だった。
「(喧嘩の理由を思えば、可愛げも十分にある気もするけど)」
リゼルは笑い事ではないと思いつつも、少しだけ頬を緩めた。
「(ええと、違う、喧嘩の止め方は)」
緩急のある動きで左右前後に動き回る巨大蜘蛛を追撃しながら思案する。
ただ、これがなんともリゼルには難問だ。なにせリゼルは猫の喧嘩も止められない。
「(宿主さんは、確か)」
それはアスタルニアでのこと。
宿の玄関先で二匹の猫が喧嘩していた時、あまりの迫力にリゼルは手が出せなかった。
だが猫の喧嘩もいよいよ正念場となり、互いに流血が避けられないだろう瞬間に、水を張った洗い桶を持った宿主がのそのそとやってきたのだ。
出かけるに出かけられなかったリゼルの隣を通りすぎ、そして————、
『ほーれ解散』
それを撒いて、一瞬で事態を鎮火させていた。ちなみに水は猫に避けられていた。
まさかそんな手がと、その時は随分と感心したものだ。
「(水……水か……)」
流石に幼子二人をびしょ濡れにするのは忍びない。
取っ組み合っているので隔離もできないし、どちらを取り押さえても顰蹙を買うだろう。
「二人とも、喧嘩を止めないと水をかけちゃいますよ」
互いに敵意を集中させる子供の耳に声は届かず、言葉での説得も叶いそうにない。
ならば気が済むまで見守るかと思うも、二人の戦闘への適正が高すぎるせいか、決着がつかないかぎり事が収まりそうになった。互いに落としどころを探すどころではない。
白黒つけなければ気が済まない、そういう質なのだ。
「よし」
リゼルは最後の一匹を撃ち抜き、五秒ほど待って動く影がないことを確認する。
周囲に物音なし。気配なし(恐らく)。遠方からこちらを補足している魔物も見当たらない。
ひとまずの安全は確保できただろうと、ジルとイレヴンを包んでいた魔力防壁を解いた。
「(ん、互角だ)」
胸倉を掴み合い、殴り合い、蹴り合い、その勢いは当初から少しも衰えない。
両者ともにスタミナは十分。引き倒し、引き倒され、どちらかが防戦一方になることもない。
獣人という種族のアドバンテージでイレヴンが優勢をとるかと予想していたが、ジルもこの頃から既に、現在の人外と称されるパワーの片鱗が見られるらしい。互角ということは、そういうことだろう。
とはいえどちらも、一般の子供の範疇は出ない程度だが。
「(互角っていうことは、早期決着も望めないし)」
ジルもイレヴンも基本的には負けず嫌いだ。
更に今は同年代になっているので、自ら引いてやろうなんて考えには至らないだろう。
「(子供の扱いが上手な……ナハスさんとか)」
リゼルはナハスを思い出す。
彼ならば二人に拳を振り下ろし、「喧嘩両成敗だ」と決着をつけさせるだろう。何故ならリゼルは、実際にアスタルニアで似たような光景を見たことがある。
あれは確か、魔鳥をよく見ようとしたアスタルニア男児数名が王宮の塀をよじ登り、下りられなくなっていた時だ。
リゼルが通りがかった時には、真っ先に発見したらしいナハスによって救助された男児二人が、「お前が言い出したからだ」「お前が止めなかったからだ」と半泣きで大ゲンカを始めていた。
ナハスも暫く宥めようとはしていたが、やがて諦めたように溜め息をつき、両者にゲンコツを落として、危険なのは勿論、王宮警備的にも洒落にならないぞと話して聞かせていた。
そういうナハスこそ、子供のころに似たようなことをして愛の一発を頂いているらしいが。
そう教えてくれたのは、年配の魔鳥騎兵だったか。誰もが通る道だと付け加えられた一言を思うに、魔鳥騎兵の大半は同じことをやらかしているのだろうと予想するのは容易い。
「(俺にはちょっと難しいな……)」
なんというか、ペチリと叩こうものなら幼い二人が多大なショックを受けそうだ。
なにせつい最近に引っ叩いた時も、それなりの衝撃を与えることに成功しているので。
「(殿下、殿下は……)」
リゼルはアリムを思い出す。
多くの弟妹を持ち、また甥や姪にも恵まれている彼は、年長者としての振る舞いが板についていた。リゼルもまた、古代言語を教える立場であったにも関わらず、庇護すべき相手だとみなされていた。
とはいえ書庫の主と呼ばれるほどに書庫に引きこもるアリムだ。
そこに足を運ぶ者は滅多におらず、リゼルもただ一度だけ彼の兄弟を目撃したきりだが。
『アリム兄聞いてくれよ!』
『入る時は、静かに』
乱暴に扉を開けて現れたのは、恐らくアリムの弟だったのだろう。
リゼルはたまたま書架の隙間におり、顔は見られなかった。兄弟のプライベートな会話中に、わざわざ部外者が顔を出して挨拶するのも微妙だろうと、顔合わせを避けたからだ。
だが聞こえてくる会話から、兄弟喧嘩の愚痴を吐き出しに来たことが分かった。
『俺が作った木彫り細工をあいつ不細工だとかぬかすんだ』
『そう』
聞き流しているようで、確かに言葉を受けての返答だと分かる。そんな声だった。
アリムはぽつりぽつりと、雨垂れにも似た低く艶やかな声で告げた。
『泣き寝入りは、情けないよ』
リゼルは聞き間違いかと思った。
『泣き寝入りなんてしない!』
『なら、ここにいるのは、どうして?』
『苛々しすぎてやりすぎそうだったからクールダウンしにきた』
『そう……なら、もういいね』
『うん、行ってくる』
行ってくるというのは、話し合いでの和解にではない。
一端クールダウンを挟んで置きながら、受けた侮辱を力でもって晴らしに行ったのだ。
リゼルは何故そうなったのかいまいち理解できなかった。アリムのもとに戻り、あれはこれから大喧嘩になるのではと一応聞いてみたが、返ってきたのは「それが何か」という不思議そうな空気だった。
つまりアリム自身、喧嘩には手も足も出るということで。
「(喧嘩をする人は、喧嘩の止め方も分かるんだな)」
アリムは止めていなかったが。
とはいえ致命的な喧嘩を促すようにも思えないので、その見極めはしっかりできているのだろう。臨戦態勢の弟に対しても、止めようと思えば止めることができたはずだ。
「(とにかく、喧嘩両成敗でクールダウンしてくれそうな、何か)」
ふとリゼルの脳裏に、先程思い浮かべた宿主がよぎる。
「あ」
思いついたと、リゼルはジルとイレヴンの傍にしゃがんだ。
取っ組み合っている二人がちらりとリゼルを見る。だが振り回す手も足も止まらない。
ならば遠慮なくと、リゼルは小さく指を揺らした。
「(水をかけるよ、とは言っておいたし)」
頭上にゆらゆらと水の塊が現れ、落ちる。————リゼルの上に。
頭からびしょ濡れになったリゼルを、ジルとイレヴンはぽかんと口を開けて凝視する。その手は互いの胸倉を掴みながらも、もはやぴくりとも動いてはいなかった。
そんな二人に、リゼルは困ったように微笑んだ。
「二人の喧嘩が悲しくて、魔法を失敗しちゃいました」
二人はびゃっと跳ね起きて、ただ茫然とリゼルを見つめていた。
だがやがて、じりじりと近づいてくる。殴り合っていた小さな手が恐る恐る伸ばされた。
「…………、……ぬれてる」
「ごっ、ご、ごめ、リーダ、ごめ」
リゼルの服を握り込んでジルは愕然と呟き、イレヴンはショックを受けたように青ざめる。
「迷宮内での仲間割れ、とても良くないですね」
「それ、かわかねぇの」
「ご、ごめ、ごめ」
「良くないし、悲しいしで、俺は大混乱ですよ」
「服、かわかねぇの」
「ごめ、ご……リーダァごめ、ごめっ」
とにかく濡れた服が気になるらしいジルと、謝罪を繰り返すイレヴンをリゼルは撫でた。
もう説得が届かないということもないだろう。水を被った甲斐があったというものだ。
ちなみにリゼルは、「お互いにごめんなさいは?」とは言わなかった。教育という観点からすれば言うべきだろうが、促した途端に第二次大喧嘩が始まってしまうだろう確信がある。
なにせ今の二人は同年代。もっとも対抗意識が働くだろう相手だ。
「リゼル、服」
「もう喧嘩しませんか?」
「しない」
「ネルヴは?」
「しないぃ」
じゃあいいか、とリゼルは立ち上がって二人から離れる。
とことことついてくる二人を制して、少し離れた場所で思い切り風を起こした。最上級の素材で作られた最上級の装備は、それだけで大部分の水気を飛ばしてしまう。
「じゃあ行きましょうか」
そうして伸ばした手に、幼い手が二つ重なる。
「この迷宮は階層の区切りが分かりにくいですね」
「はしがちがう」
「確かに、デザインが違いますね。年代別とかでしょうか」
「ねんだいって?」
そうして三人は、仲良く並んで迷宮の攻略を再開する。
その後、無事に長い上りの昇降機を見つけて上った時のことだ。
ジルとイレヴンは、何故かリゼルと手を繋いでいる状況に盛大な疑問符を飛ばしていた。
「なんか時間飛ん……リーダー頭濡れてねぇ?」
「濡れてます」
「なんで?……拭く? 拭こっか?」
「はい、お願いします。イレヴンも大きくなりましたね」
「は?」
しみじみと告げたリゼルの目は、微笑ましくも誇らしげだ。
よく分からないながら動き出したイレヴンは、やはりよく分からないまま布を取り出す。
————一方、ジルはというと。
「……」
望まず積んできた経験によりいろいろと察した。
もしリゼルのほうを見れば、イレヴンと同じような目を向けられるだろう。それを思えば目も合わせられず、ただただ余計なことを口走らないよう口を噤んでいたのだった。
明けましておめでとうございます!(一か月遅れ)




