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188:メンタルもちょっとやられた

 

 見渡すかぎりの草原は、緑ではなく、燐光をまとう蒼だった。

 見上げる先の空は遠く、高く、一面雲に覆われている癖に、眩しいばかりに明るい。

 その草原を、悠然と歩く獣たちがいる。

 四つ足の何かは、淡い白光を集めて獣の形にしたようで、ゆっくりと蒼の海を歩んでいる。

 唯一色づくのは、眼窩がある位置から伸びる一対の枝葉のみ。

 捻じれながらも枝を伸ばし、先に青の葉を茂らせるそれらは、まるで角のようにも見えた。

 草原には、それらが歩く音と、か弱く吹く風の音しかなかった。


 ――――そこは、“聖なる巨獣たちの国”と名づけられた迷宮。

 人はただ、彼らの足元でひっそりと潜むことしか許されない場所だった。


 早朝、冒険者ギルドにある依頼ボードの前で、ジルはリゼルに問われた。

「ジルはどんな魔物と戦いたいですか?」

 こいつご機嫌取りを隠さなくなってきたな、と眉を寄せる。

 嫌とまでは言わないが、いざ面と向かって機嫌をとられると、どう反応したらいいのかと考えてしまう。機嫌をとらせているのは自分なのだが。

 この程度の会話は、普段から有り触れたものだ。ピンポイントで受けたい依頼がない時などは、戦いたい魔物だったり、行きたい迷宮だったりと、ジルやイレヴンの希望をもとに依頼を選んだりもする。

 だが、今日の問いかけは明らかなご機嫌取りなのだろう。

 なにせリゼル本人が隠そうとしていない。むしろ知らせるかのように、分かりやすくこちらを窺っている。

「そこは選んでみせろよ」

「流石に分かりませんよ。今日はどんな魔物と戦いたい気分なのか、なんて」

「ニィサン気分で戦う魔物選んでんの?」

「そんな気がするんですよね」

「ウケんだけど」

「うるせぇ」

 そういう日もある、というだけだ。

「だからリーダー、珍しくAから見てんだ」

「ひとまず高ランクなら間違いないので」

「Aとかだと魔物関係ばっかだしなァ」

「Aランクで、戦闘をまったく伴わない依頼っていうのも興味があるんですけど」

「それどんな依頼?」

 のんびりと会話するリゼルを、呆れたようにジルは一瞥する。

 基本的にリゼルのご機嫌取りはさりげない。ジルが下手に出られるのを嫌うからだ。

 落ち度のある相手を責めぬくような趣味の悪い真似に興味はなく、けれどそれでは気が済まない。そういう時は迷宮を巡って気晴らしをするのが常だが、それはそれとしてリゼルには示しておかなければならないのだ。

 元の世界では地位が付きまとい、誰が相手でもそれを前提としていた男は、それらを全く伴わない対等というものに変な憧れがある。

 空間魔法云々の時はイレヴン相手に、敢えて伝えも隠しもしないという方法をとって怒られたものだから、今度は完全に隠し通そうとしてみたのだろう。うっかりイレヴンから漏れたのだが。

「(急ぎだったっつうのは疑ってねぇけど)」

 それでもリゼルは、支配者の元に直行しない選択肢もとれたのだ。

 クァトを連れ、ジルにその可能性を知らせることを優先させることができたはずだ。

 その時にジルが操られ、万が一にもリゼルへと剣を向けることになろうが、刃の体を持つ男が守る。今のクァトが攻めを捨て、守りを固めれば、操られた末の剣など十分に防げるだろう。

 それをしなかったのは、リゼルが嫌がったからだ。

 一瞬でもジルが操られることを、気遣いなどではなく、ただリゼルが嫌がった。

「Aランクの迷宮は、低ランクではあまり見ませんよね」

「まぁ、迷宮自体にざっくり高ランク向けとか低ランク向けとかあるし」

「確かに、浅い層でもなんだか手強いなっていう迷宮が多いです」

「手強いっつか戦いにくい? 適当に剣振ってりゃいいのとそうじゃないのっつうか」

「経験を積んでないと対処しにくい魔物が多い、とかですか?」

「そうそう」

 依頼用紙を見上げる横顔は、出会った時から変わらず品がある。

 だが、随分と我儘を覚えたものだと思わずにはいられなかった。相手の希望を汲んで動いていた男が、ジルの意思よりも己の意思を優先した結果が、今この状態なのだから。

「ジル、決まりましたか?」

 ならば対等らしく、ジルはジルの意思を示さなければならない。

「クラーケよりでかいやつ」

「うっわ、無茶ぶり」

 その方法が気に入らなかった、と。

 その結果、リゼルが操られる可能性があったことが気に入らないのだと。

 示した結果、機嫌をとってくるのだからリゼルにも少しばかりの引け目があるのだろう。

 開き直ればいいとも思うが、機嫌をとりたいというなら好きにさせておく。悪い気はしない。

「クラーケより大きい……」

「リーダー無視していいよ」

「大きいかもしれない、でもいいですか?」

「あ?」

「心当たりあんの?」

 そうしてリゼルが手にした依頼用紙に、“聖なる巨獣たちの国”の名はあった。


 淡い白光を集めたような四つ足の獣が、前方を窺うようにして立っている。

 リゼルたちはそれの足元で、地面を覆う草花と同じような背丈になりながら、ただひたすらにそれを見上げていた。獣の眼窩から伸びる枝葉が、巨木のように空を覆いつくしている。

「でかすぎんだろ」

「これ魔物?」

「魔物ではなさそうです」

 獣が歩を踏み出す。

 傾くようにして浮いた蹄が、目の前で草を圧し潰しながら地面を踏みつけた。

 ド、と腹の底に響くような重い衝撃がある。だが、不思議と恐怖はない。いや、あまりにも圧倒的な生き物を目の前にした時の、生存本能による根源的な恐怖はあったかもしれない。

 ただリゼルは、その背筋の粟立つような感覚を畏敬の念ととった。

 古代竜に感じたものとはまた違う偉容を、見惚れるようにただただ見上げ続ける。

「巨獣っていうから、そういう魔物がいるのかと思ったんですけど」

「ニィサン残念」

「これはしょうがねぇだろ」

巨獣たちは、“人ならざる者たちの書庫”にいた白い何かと同じような存在なのだろう。

 敵対する様子は見せず、ただそこに存在している。あの書庫にいた白い何かと違い、踏みつぶされないよう気をつけなければならないが、彼らこそが本来の迷宮の住人なのだろう点は共通していた。

 冒険者は、その傍らをそっと横切らせてもらうのみだ。

「あのでっかいの影うっすい」

「彼ら自体がうっすら光ってますしね」

「足音あんなら踏みつぶされることもねぇだろ」

 三人は、視界を草に遮られながらも歩き出した。

 不思議とリゼルたちサイズの獣道らしいものはある。迷宮の扉を潜って、すぐにこの獣道に出たので、ひとまずこれに沿って進んでいけば方向を見失うことはないだろう。

 歩いていけば、いずれ巨獣の獣道(今のリゼルたちにとっては巨大な街道)も見つけられるかもしれない。巨獣の住まう空間で、見通しの良い場所に出ることが正解かは分からないが。

「これ、植物も薄っすら光ってますね」

「匂いしねぇな」

「じゃあ、ただの植物じゃないのかも」

「じゃあなんだよ」

「分かりませんけど」

 リゼルは可笑しそうに笑い、歩きながらも茎や葉に触れてみた。

 柔らかく艶があり、一見して一般の植物と変わらない。だがジルの言うとおり、植物らしい青臭さはまったくなかった。目を凝らせば、葉脈が光を帯びているように見える。

「不思議ですね」

「つっても似たような迷宮あったじゃん。樹がでっけぇとこ」

「“巨大樹の森”ですか?」

 リゼルもまた、いつかの巨大樹の登はんを思い出した。

 一時だけ兄弟姉妹になった雛たちは元気だろうか。立派に巣立っていることを祈る。

「確かに、あそこも小人になったようで楽しかったですね」

 そう口にしながら、こちらに背を向けて去り行く白の巨獣を見上げる。

「ただここは、それとは違う感覚というか」

「どゆこと?」

「ここは彼らのための世界で、彼らはあるがままにあって。俺たちも小さくなった訳じゃなくて、こういう生き物というだけの、ただ彼らの世界に迷い込んだ迷子に過ぎないのかも」

「なんか怖ぇんだけど」

「実際に世界跨いでる奴が言うと説得力違ぇな」

 顔を引き攣らせるイレヴンと、真顔になったジルに、リゼルは悪戯っぽく笑みを深める。

 迷宮というのは、それぞれにまったく違った環境がある。ただ時に、この迷宮のように世界の理からして違うのではと思ってしまうような場所もあった。

 そもそも迷宮はそういうものなのだが、それでも天から無限に塔が伸びる“降り落ちる逆塔”であったり、水中で生きることになる“人魚姫の洞”など、あまりにも特異すぎる迷宮はもはや感じる空気から違う。

 リゼルはそういった迷宮が特にお気に入りだった。

 ちなみに他の冒険者からは「戦闘以外にやること多すぎ」「まず迷宮内ルール考えるとこから始めんのが面倒」「なんかもう分からんすぎて怖い」と避けられがちな迷宮でもある。

「あのでかいのが魔物じゃねぇならどんな魔物出んだろ」

「俺らのサイズに合わせると虫じゃねぇの」

「げぇ」

 ジルとイレヴンはというと、もはや魔物のほうに意識が向かっている。

 今回の本来の目的、依頼達成ではなくジルのご機嫌取りを思えば、間違ってはいないのだが。

 けれどもう少し、この迷宮への感傷を分かち合いたいなとリゼルは苦笑する。

 とはいえ感傷に浸れるほどの余裕を持てるのも、この二人のお陰なのだが。周囲を自らより背の高い草花に囲まれ、いつ何処から襲われるのかも分からない状況で、こうして気楽に雑談を交わせるパーティはそれほど多くない。

「イレヴンは虫系の魔物が嫌いですね」

「斬るとすっげぇ汁出んじゃん。時々やばいくらい臭ぇし」

「虫系もいるかもしれませんけど、それ以外もいるので頑張りましょう」

「依頼が依頼だしな」

「あー……【“鉱石もどき”の結晶と“花もどき”の花びら採取】だっけ」

 この迷宮は、三人とも初攻略だ。

 サルスからそこそこ遠く、近いところから順番に踏破しているジルも訪れたことがない。

 また、先の理由で他の冒険者も避けがちなので情報は少なかった。

 リゼルもまた、迷宮名だけを魔物図鑑で知っていただけだ。サルスの魔物図鑑は特に詳細で、リゼルもゆっくりと堪能しているので、まだ全てを読破できてはいないのだが。

「俺見たことある魔物?」

「いえ、ここは迷宮固有種しか出ないみたいなので」

「お前ギルドで図鑑読んでんだろ」

「依頼の二種類はまだですよ。サルスの図鑑、分類別なんですよね」

「へぇ」

「そんなことあんのか」

 リゼルは汎用性の高そうな分類(獣系、無機物系、不定形など)から読んでいるので、読んでいない範囲にある魔物というならば、よほど特殊な生態をしているのかもしれない。

 ちなみに分類「その他」は、他のすべての分類を全て合わせたのとほぼ同じ数がある。なんともサルスの学者たちの葛藤が垣間見える瞬間だった。

「ただこの迷宮、他の魔物も、なかなか興味深い姿をしていて……」

 リゼルたちは足を止めた。

 前方から、草を搔き分ける音がする。巨獣ならばすでに姿が確認できている距離だ。

 ならば魔物が近づいているのだろうと、リゼルは傍に浮かせている魔銃をそちらに向ける。

「この獣道を作ってくれた魔物かもしれませんね」

「でかそう」

 獣道を塞ぐように左右から伸びる野草、その向こう側から魔物が徐々に姿を現す。

 緩やかな歩調だ。真っ先に見えたのは魔物の足元で、蹄を持った四つ足の草食獣に似ている。

 巨獣と違い、体は毛皮に包まれていた。地面を踏みしめる音は小さく、けれど力強い。

 足元だけで予想するに、体高はリゼルたちと同じくらいか。ならば頭部は見上げた先にあるのだろうと、先端を交差するようにあちら側を隠す草の群れを眺める。

「こっち気づいてねぇな」

「そんなことあんの?」

「大抵、獣型の魔物には先手を取られますよね」

 やや小声で話すも、魔物の歩調は変わらない。

 まるで耳も鼻も機能していないかのようだ。獣らしい姿をしていてそんなことがあるのだろうかと、三人は会話の声を徐々に普段のものに戻していく。

 だがそれでも魔物の静かな足取りは変わらぬまま、それは草を搔き分けて全貌を現した。

「お、……」

 引き攣ったように声を漏らしたのはイレヴンだった。

 ジルは表情を消し、リゼルは魔物の上から下までゆっくりと目でなぞる。

 リゼルたちの目前で足を止めたそれは、獣の下半身を持つ鉱石だった。いや、鉱石の上半身を持つ獣なのかもしれない。四つ足の上、首の根本から、先端の分かれた結晶が上へ上へと伸びている。

 魔物が警戒を滲ませ、頭を伏せるようにゆっくりと結晶を傾けた。

 空から降り注ぐ白い光と、草花から零れる蒼白い燐光に照らされ、結晶に虹色が滲む。

「綺麗ですね」

 結晶を見上げて告げるリゼルを、ジルとイレヴンは無言で二度見した。

「リーダー見て、俺鳥肌たってんだけど」

「あ、本当ですね」

「本当ですね⁉」

「お前あれ見て綺麗としか思わねぇのか」

「君たちはもっと分かりやすく醜悪な魔物をよく見てるじゃないですか」

 それとは違うと言いたい。言いたいが、二人は口を噤んだ。

 何が違うのかと言われても、明確な答えを返せそうになかったからだ。確かに目の前の魔物に美しさを感じないと言えば嘘になるが、それはそれとして本能的な受け入れがたさを抱かずにはいられない。

 ただ、存在し得ないはずの生命を目の当たりにした気味の悪さがあった。

「でも、確かにちょっと冒涜的ですね」

「それぇ」

 苦笑したリゼルに、イレヴンが嫌そうに同意する。

「つってもあの結晶が欲しい奴がいんだろ」

「依頼人誰だったっけ」

「サルスの宝石職人です」

 あれがネックレスやら何やらになるのかと、ジルとイレヴンはなんとも言えない気分だ。

 依頼側からしてみれば、Aランクの依頼というのは非常にコストが高い。恐らく上流階級向けのアクセサリーになるのだろうが、いいのだろうかと思わずにはいられなかった。

 ちなみにリゼルは、上流階級にこそ意外とゲテモノが流行ることがあると知っているので、その辺りは特に気にならない。希少性と特別性は、特に物事の本質を見失わせるものなのだ。

「つかこいつ目もなくねぇ?」

「敵対してるっつうなら見えてんだろ」

「結晶に写りこんだものを情報として取り込んでいるのかも」

「怖ァ……」

 魔物の結晶の頭が、まるで水を飲むかのように、深く深く伏せていく。

 開いた前足の間で、結晶の頭がぴたりと動きを止めた。相応な重量があるだろうに、細い四肢は少しも揺らがずにそれを支える。

 結晶の先端が、剣先のようにリゼルたちへと向けられていた。

「突撃」

「発射?」

「いえ」

 ジルとイレヴンによる初動の予測に、リゼルは手短に首を振りながら答える。

「魔法です」

 目の前で、結晶が根元から煌めいた。

 透きとおる結晶に光が満ちていく。根本から先端に、液体が満ちていくようにも見える。

 それはまるで、熱と命を持つ肢体から、それらが吸い上げられているかのような光景だった。

「防ぎますね」

 ジルとイレヴンは剣を握ったまま、避ける選択肢を捨てた。

 リゼルが防ぐと言ったなら防ぐのだ。ならば相手の攻撃の後、即座に反撃に移れるように備えるのみ。

 そしてリゼルの魔力防壁が二人を包んだ、次の瞬間だ。

 広がるように成長した結晶の、それぞれの先端に光が灯り、光の線となって放たれた。

「入ってすぐの魔物じゃなくねぇ?」

「だからAなんだろ」

 射線はリゼルによる防壁に阻まれ、その体を射抜くことなく途切れる。

 同時に、二人は走り出していた。刹那の間に距離を詰め、ジルは光を失った結晶部分へ、イレヴンは柔らかな肉と毛皮に包まれている胴体部分へと斬りかかる。

 どちらの剣も狙いどおりに獲物を砕き、斬り裂いた。

「そっち俺でも斬れそう?」

「てめぇの剣が折れる」

「ハンマーでもぶん回そっかなァ、持ってねぇけど」

「イレヴンの一撃も十分決定打になってませんか?」

「初っ端でコレだと奥で粘られそうな気ィする」

「こいつが自己強化できんならそうなるだろうな」

 三人は、倒れたままピクリとも動かない魔物を囲む。

 イレヴンがつけた傷からは、血液らしい青い液体が流れだしていた。

「依頼曰く、『結晶は輝きの強い物を』とのことですけど」

 リゼルはしゃがみ、砕かれた結晶の破片を拾い上げる。

 先程までは透きとおり、煌めきを宿していた結晶が、今やすっかり白く濁っていた。

「流石にこれは渡せませんね」

「磨けば輝くーとかねぇの?」

「だったらわざわざ物の指定しねぇだろ」

 リゼルは濁った結晶の一欠けらだけポーチに入れて、立ち上がる。

 ジルとイレヴンもまた、周囲への警戒を緩めながら剣を柄に戻した。

「魔力の関係でしょうか。結晶に魔力が行き渡ってから、撃たれるまでの間に砕く……とか狙えますか? 体のほうから湧き起こる光が、ちょうど角の先まで満たされた瞬間です」

「あー……どうだろ、発射前に近づくと頭……結晶? で、反撃されそう」

「タイミング掴みづれぇな」

 まぁ追々試すしかないか、と三人は再び獣道を歩き出した。


 無数の花がこちらを見ている。

 獣の肉と皮をこね回し、虫らしい形に整えて、頭を満開の花に挿げ替えたような魔物だった。

 光差し込む曇り空の下、立ち並ぶ野草の隙間から、何本も何頭もこちらを覗いている。

「“花もどき”でしょうか」

「もどきなのは花だけじゃねぇだろ」

 この迷宮の魔物は例外なく、なかなかに壮絶な造形をしているようだ。

 リゼルがいまだに魔物図鑑で、あれらに出会っていないのも納得だろう。もはや分類の仕様もなく、記載ページを探そうにもどこを探せばいいのか見当もつかない。

 更にリゼルたちは知らないが、“鉱石もどき”も“花もどき”も、この迷宮に出現する、こういった系統の魔物の俗称でしかなかった。頭文字を頼りに図鑑を調べようが出てこないという罠がある。

「あれの花びらだろ」

「普通に千切ればとれるでしょうか」

「こっちはモノの指定ねぇな」

「はい。見る限り、色味も大きさも違いがないですしね」

 リゼルたちの前で、満開の花がゆらりゆらりと左右に揺れる。

 魔物が幾本もの脚を動かすたび、首の据わっていない赤子のように頭部が揺れているのだ。

「目が合ってる気がしますね」

「眼球ねぇくせにな」

 花びらの中央、副花冠が呼吸しているかのように僅かに動いている。

「(あれ)」

 リゼルは目を細める。なんだか奇妙な違和感があった。

 ジルとイレヴンがそれに気づいた様子はない。ならば、違和感の正体は魔力的アプローチだ。

 つまり、既に攻撃を受けている。だが、ジルの声色に普段との違いはない。

 そういえば、先程からイレヴンが黙っているなと隣を見た。

「イレヴン?」

 呼びかけに応え、イレヴンがこちらを見る。

 満開の花をただ見つめていた紅玉のような瞳が、リゼルへと向けられた。

 どうしたの、と緩んだ頬。見慣れたものだ。ただ警戒に気を割いていただけかと安堵する。

 そんなリゼルに、ふとイレヴンが口を開いた。

「 赤い皿がうちの波打ち際でざざんざざんて笑って咲いた 」

 リゼルとジルは二度見した。そして、気づく。

 イレヴンの両目はリゼルを映さず、ただ奥底で何かがぐるぐると渦巻いていた。

「イレヴン」

「 バイクィーンの暗渠にいる 」

 リゼルの呼びかけに、イレヴンはどうかしたかと微かに頤を持ち上げた。

 いつもと変わらない反応。表情に、仕草。ただ言葉の内容だけが支離滅裂で、声色は鉄が錆びていくような音を孕み、その眼はいまだにリゼルを映さず、開ききった瞳孔の奥深くで何かがぐちゃぐちゃに絡んでいる。

 リゼルは、周囲への警戒を緩めないままにドン引きしているジルを見た。

 視線を交わし、頷きあい、そして歩み寄ったジルがその手を振り上げ、振り下ろす。

「痛ッッッて!」

 勢いよく後頭部を引っぱたかれたイレヴンが叫んだ。

「は、何、はァ!?」

「てめぇ今凄かったぞ」

「リーダー俺今ぶっ叩かれたんだけど見てた!?」

「凄かったです」

 謂れのない暴力(本人にしてみれば)に、味方を求めたイレヴンの頭を、リゼルは痛みを紛らわすように撫でてやる。そして、怪訝そうな二つの瞳をまじまじと覗きこんだ。

 唯人よりも、やや縦に長い瞳孔はしっかりとリゼルを捉えていた。頷き、手を離す。

「ちょっと錯乱を貰っちゃいましたね」

「は、マジで?」

「意味わかんねぇこと喋ってた」

「えー、俺フツーに喋ってた記憶あんだけど」

 不貞腐れたような顔をして、イレヴンは改めて満開の花々を眺めた。

 イレヴンを惹き込もうとしていた魔物たちは、それが破られたのを理解しているのだろうか。花びらの一枚一枚を魚のヒレのように蠢かし、餌に群がるかのように三人へと迫ってくる。

 まぁこんなのを見ていれば頭もおかしくなるか、と納得したのは誰だったか。

「なんか動いてんだけど……アレ千切んの?」

「あれ、花びらじゃないんでしょうか。依頼品だと思ったんですけど」

「それっぽいモン全部採ってきゃいいだろ」

「それが確実ですね」

「げぇ」

 花もどき、と言われて納得できる姿はしているのだ。

 この後も出会うであろう、似た系統の“花もどき”の頭をすべからく千切ることが決定してしまい、イレヴンがうんざりとした声を零す。だが拒否の声は上げないので、手段には賛成なのだろう。

「倒してから千切るでいい?」

「はい」

「俺らが錯乱食らったら後ろから撃て」

「分かりました」

 無茶苦茶な提案にも、リゼルはあっさりと頷く。

 どうせ装備性能のお陰で、全力で撃とうが致命傷にはならないのだ。それに言語にだけ影響が出るならもちろん、そうでなくともジルとイレヴンならば、錯乱していようが余裕で避けてみせるだろう。

 ようは、気付けは頼むという指示だった。

 ならばと、リゼルはその場に留まる。距離を詰めて、三人まとめて錯乱するのは避けたい。

「(ああいう、精神汚染に対抗できる手段があるといいんだけど)」

 ううん、と悩みながら、満開の花が二人を捉えないよう牽制する。

 つい先日、湖の墓地で出会ったボスの精神攻撃にも、魔力防壁の効果はなかった。支配者の従属魔法も防げた試しがないし、それに成功したという魔法使いの話もいまだに聞いたことがない。

 既にその魔法が存在して、誰かが隠している可能性もあるが、どうにも望み薄だ。

 リゼルの元の世界でも、こういった魔法から国の重鎮を守るための対策は常に練られていた。だが魔法発動からの防御、という手段をとれる魔法が完成したという話は、ついぞ聞いたことがない。

 ちなみに従属魔法については、元の世界では使用者の排除というのがもっとも有効な手段とされている。敢えて尋ねたことはないが、恐らくこちらでも似たようなものだろう。

「(対抗策、支配者さんに相談してみようかな……流石に、迷宮とか魔物からの精神汚染には歯が立たないだろうけど、軽減さえできればジルとイレヴンには十分だし)」

 それにしてもと、リゼルは改めて実感した。

 こういった魔力的妨害を、すべて無視して進める戦奴隷の凄まじさたるや。

 リゼルは戦闘にも思考を割きつつ、しみじみと戦奴隷の力の在り方に思いを馳せる。もし敵対すれば、巡らせた策に意味などなく、あらゆる小細工が無に帰し、洗練された刃に斬り裂かれるのを待つのみだ。

 彼らは、そういう存在なのだろう。戦時でなくとも、彼らは変わらず刃であり続ける。

「(エルフの対抗勢力としては正しいんだろうけど)」

 とはいえ正しい、正しくないなど、戦奴隷たちは考えたこともないだろう。

 そうあるべきだと自己を定めているだけなのだ。エルフもそうだが、往々にして絶対的な強者というのは揺るがない。周囲の影響を受けずにいられる、というのが強者の証明なのだろう。

 例えば、ジル然り。

「ん?」

 そのジルの正面、やや離れた距離から覗き込もうとした花の中央を撃ち抜いた時だ。

 リゼルが真っ先に気づけたのは、立ち止まっていたからだろう。

 微かな振動を感じる。それは、迷宮に入った直後に感じたものと似ていた。

「ジル、イレヴン、巨獣です」

 こちらに近づいているのかもしれない。

 警戒を促すように声をかければ、二人は一瞬で魔物から距離をとった。立ち止まる。

 数秒もないそれで、巨獣の接近を確認したのだろう。彼らは即座に撤退を決めたらしい。

「やっばいかも」

「離れるぞ」

 素早い動きで駆け寄ってきた二人が、そのままリゼルの腕を掴んで走りだす。

 少し距離を置いて様子見を、という動きではなかった。斬り捨てた分の魔物素材を諦め、とにかく可能な限り距離をとろうとしている。切羽詰まっているようにも見えた。

 リゼルは素直に従いながらも、振り返る。

「あ」

 数の減った満開の花が、ゆらゆらと揺れながらこちらを見ていた。

 その後方に、巨獣がいる。淡い白光を集めたような巨獣が、何頭も群れて歩いている。

 見上げれば、彼らの眼窩から生える枝葉が揺れて、まるで森が移動しているようだった。

 それに呑み込まれ、花の魔物が一匹、巨大な蹄に踏みつぶされてひしゃげたのが見える。

「(人知を超えた存在っていうのは、平等なんだな)」

 駆けながら、リゼルはなんとなしに思った。

 とにかく今は、自分たちがそうならないよう逃げなければ。幸い、巨獣たちはただ群れで移動しているだけのようで、敢えてリゼルたちを追いかけている訳でもなさそうだ。

「森に逃げられればいいんですけど」

「遠すぎんだろ」

「距離感バグりそう」

 草原に点在する森は、五分も走れば踏み込めるような距離に見える。

 だがそれは、リゼルたちのサイズ感が普段と変わらなければの話だ。考えるまでもなく、視界に映る森は巨獣にならう規模であり、ならば幾ら走ろうが辿り着ける距離になどないのだろう。

 遠くの山にどれほど歩けば辿りつけるのか、想像もつかないのと同じことだった。

「なんかもうでっかすぎて怖ァ」

「彼らが気まぐれに進路を変えるだけで死んじゃいますからね」

「食いに来ねぇだけマシだろ」

 群れの進路から外れるように走る三人だが、幸いなことに巨獣たちはほどなく足を止めた。

 佇む偉容を、更に距離をとりながらリゼルは見上げる。何故か、自らが仕える国王のことを思い出した。

「あいつら草食?」

「だったら共食いしてんだろ」

「花もどきも食べなかったですしね」

 何か違うという二人の視線を受けながら、リゼルは少しばかり機嫌よく微笑んだ。


 草原には、幾本もの石柱が存在する。

 地面から空の向こうまで、真っすぐにそびえ立つ石柱だ。頂上は雲に隠れていて見えない。

 遠くから見れば、自立しているのが不思議なほどに細い。だが近づけば、塔かと見紛うほどに立派であった。

 どこからでもこの石柱が見えるお陰で、道を外れようとも方向を見失うことはない。

「どうする、帰る?」

「依頼品は集まりましたよね」

「ボス近ぇなら進みてぇな」

「つっても分かんねぇし」

「今、どのあたりなんでしょうね」

 その石柱に刻まれた魔法陣の前で、三人は話し合う。

 鉱石と花弁、必要なものは既に十分な数を集めていた。鉱石はやはり魔力に満ちた瞬間に壊すことで、花弁はまだ生きている花もどきからもぎ取ることで入手が可能になる。

 ちなみに後者の時には一波乱あった。

 魔物が息絶えてからでは花が枯れてしまい、ならばと戦いながら剣で斬り落としても枯れてしまう。じゃあどうすればいいのかと、何度目かの挑戦でジルがやけくそで千切ったのだ。

 成功はした。思ったより肉厚で、謎にブヨブヨした花弁の採取には成功したが。

「依頼品も、質に不足があった時のために余分に集めたいんですけど……」

 リゼルは一応提案しつつ、苦笑する。

 盛大に嫌そうな顔をしたイレヴンと、やや眉を顰めたジルに気がついたからだ。

「無理ィ」

「そうですね、止めておきましょうか」

「まだ手に感触残ってる……」

「頑張ってくれて有難うございます」

 ジルにならって花弁をむしり取ったイレヴンは、盛大に叫んで花弁を投げ捨てた。

 なにせ手の中で、生きているかのように跳ねまわったのだ。花弁が。まるで生きた魚のように、うねり、捻じれ、蠢き、指に絡みつかんとしたという。

 ジルも投げ捨てはしなかったが、潰さんばかりに握りしめ、イレヴンへの同情の視線を向けていたので、こちらも同じく気持ち悪かったのだろう。リゼルでは生きた魔物に限界まで近づき、更に花弁を毟りとるような真似などできないので、今回ばかりは諦めるしかない。

「質の指定もねぇんだから数だけ揃えやいいだろ」

「そうですよね」

 依頼達成にはまったく問題ないのだからと、リゼルも素直に頷いた。

 余談だが、リゼルもイレヴンが投げ捨てたものを拾ってみている。

 残念ながら千切りたてのような活きの良さはすでになく、花弁の端が持ち上がり、落ちるのを何度か眺めるだけに終わってしまった。鮮やかな色彩に反し、感触は生肉に似ていた。

「宝石職人があんなもん何に使うんだか」

「染色とかでしょうか」

「いらねぇー」

 喋りながら、リゼルは平原を見渡す。

 生い茂る野草に視界を阻まれるも、天まで伸びる石柱を見失うことはない。

 今ここにあるもの、振り返って一つ前に立ち寄ったもの。あまり遠くの石柱は霧がかかって見えないし、距離感も酷く掴みにくいが、あるのとないのとでは雲泥の差だった。

「今何時?」

「知らねぇ、昼過ぎ」

「そう言われると腹減る」

 空は雲に覆われ、ずっと明るいので時間が分かりにくい。

 どうにも真上から光が差しているようで、影の動きで時間の流れを知ることもできない。

 石柱に凭れ、おのおの手持ちの食糧を取り出し始めた二人を尻目に、リゼルは石柱の周りをぐるりと回ってみる。今まで見てきた石柱と同様、細かな溝が幾何学的に彫られているが、行先を示すようなものはなかった。

「(俺が読み解けてないだけかもしれないけど)」

 微笑み、指先で優しく溝をなぞる。

 なにせ石柱を辿っているとはいえ、正しい方向に進んでいるという保証もない。迷宮とは大抵そういうものであり、その時にどちらに進むか決断するのもリーダーの役割だった。

 とはいえ他の冒険者の大半は「考える時間が勿体ないし考えても間違いなく分からない」という己への強い信頼のもと、勘で迷宮内を突き進むことが多い。

 リゼルも可能なかぎり正解の道を進ませたいという思いはあるものの、百パーセント正解を引ける冒険者など存在しないのだ。分からない時は分からない。

「(巨獣の高さに傷もないし、彼らはここに近づかないのかも)」

 つまり調べているのも、リゼル個人の好奇心によるところが大きい。

 手袋越しに石柱をなぞりながら一周し、ジルとイレヴンのもとに戻ってくる。

「リーダーもなんか食べる?」

「そうですね、ちょっと休憩しましょうか。お婆さまに軽食も用意してもらいましたし」

「そういや渡されてたな」

「何作ってもらった?」

「開けてのお楽しみ、らしいですよ」

 リゼルはポーチから大きめのバスケットを取り出した。

 蔓を編んで作ったそれは、いかにもサンドイッチが入っていそうな雰囲気がある。

 中身はお昼のお楽しみよと、茶目っ気を込めて渡されたので、リゼルもメニューを知らない。

「ニィサンどんなんだと思う? 冒険者仕様かリーダー仕様か」

「読めねぇな、作ってんの元冒険者だろ」

 そこに違いはないのでは、とリゼルが不思議に思っていた時だ。

 ふと、足元にある石柱の影が揺らいだ気がした。いや違う、石柱に影はないはずだ。

 リゼルが上を見上げるのと、ジルが剣を構えること、そしてイレヴンが開きかけたバスケットを閉じて己のポーチに仕舞ったのは同時であった。

「ジル、君の希望どおりですよ」

「そりゃどうも」

 見上げた先で、あまりにも巨大な蛇が石柱に巻きついていた。

 真っ白な蛇は、頭を下にしてこちらを見ている。人ひとり分よりも太い体は、幾本もの蒼の蔓に覆われていた。まるで、鱗のところどころが種に変わってしまっているかのようだった。

 一抱えもありそうな瞳は、淡い金色をしている。薄っすらと開いた口は、そのあまりの巨体ゆえに、視界の右から左へと一本線を引いたように見えた。

 天から無音で降りてきた蛇は、気づかれたことを惜しむように、シリリリ……と舌を鳴らしている。その響きが、何故か酷く心地良く聞こえた。

「ボスじゃん」

「いえ、流石にまだ最深部じゃなさそうなので……鎧王鮫とか、そういう魔物なのかも」

「あー、イレギュラーってやつ」

 迷宮の道中に、明らかに規格外な魔物が現れることがある。

 ボスよりも強靭な魔物であることも珍しくないので、ほとんどの冒険者は必死で逃げる羽目になる。そう、大抵は逃げ切れるので、物好き(主にジル)ぐらいしか手を出さない魔物だ。

 もしかしたら、この巨大な蛇も石柱から離れれば襲ってこないのかもしれないが。

「やるぞ」

「はい」

 クラーケより大きい魔物、というのがジルのリクエストだった。

 恐らく適当に言ったのだろうが、パッと浮かぶくらいには戦いたい欲があったのだろう。

 無事に我儘を聴いてあげられて何より、とリゼルも頬を緩めながら銃を構える。

「つってもでかすぎてさァ」

「大きい相手だとそれに尽きるんですよね」

 巨蛇は鎌首をもたげながら、ゆっくりと体を石柱から下ろしていく。

 巻きつく鱗が流れていくにつれ、ようやく尾の先端を視界に捉えられた。

 巨蛇の喉の下、やわらかな鱗が膨らみ、へこむ。真っ白な鱗が時折、地面を覆いつくす草本の燐光を映し、蒼く煌めいているのが見えた。

 蛇の体に巻きつく蔓、そこから伸びる無数の葉が震えるように騒めく。そして羽のように広がった。薄い葉が光を透かし、まるで本物の羽のように錯覚させる。

 直後、限界まで開かれた口が凄まじい呼気を放った。

「毒の匂いする」

「植物には?」

「ない、多分だけど」

「鱗はまず斬れねぇな」

「蔓から対処しましょう。あれ、多分魔力の源泉です」

「了解」

「りょうかーい」

 手早く方針を固め、三人は見上げるほどの相手に武器を構えた。


 ただ大きい、というのは究極の強みではないだろうか。

 リゼルたちは迷宮の外、扉の前に置かれたベンチで、馬車を待ちながら遅い昼食をとっていた。宿の老婦人特製のそれは簡単に言うと、穀物とドライフルーツなどを混ぜて固めたものだった。

 三人は見たことがなかったが、ザクザクしていてとても美味しい。ジルにはやや甘かったらしいが、黙々と食べているのを見るに許容の範囲内だったのだろう。

 栄養価も高そうだし、片手で食べられるというのもあって、非常に冒険者向けの食事だ。

「お婆さまのオリジナルでしょうか」

「かなァ」

「贅沢な味がしますね」

「ああ」

 力の抜けた会話は、三人の疲労が限界を迎えている証拠だ。

 一緒に入っていた果物をしゃむしゃむと齧るイレヴンが、空いた手でナイフを操ってリンゴを剝いている。当のイレヴンは丸かじりしているので、きっと自分用だろうなとリゼルは有難くそれを眺めた。

「疲れましたね」

「ああ」

 ジルが果物を求め、リゼルの後ろから手を伸ばす。

 バスケットはリゼルとイレヴンの間に置いてあるので、反対隣りに座っている彼からはやや遠かった。バスケットごと渡してやろうとすれば、阻むように柔く腕を掴まれたので、少しばかり体を前に倒すのみにとどめる。

「ボス、行けませんでしたね」

「また来る」

 ジルもしゃくしゃくとリンゴを齧り始める。

 やや目が据わっているので、本気で疲れているのだろう。もちろんリゼルも疲れている。

 魔力不足で、喋っていないと寝てしまいそうだから喋っているだけに過ぎなかった。

「はい、リーダー」

「有難うございます」

 均等に切り揃えられたリンゴが差し出され、リゼルはそれを受け取る。

 イレヴンもリゼルの魔力不足に気づいて、食え食えと食べ物を寄越しているようだった。

「俺がもっと、こう、ドカンと吹き飛ばせれば、楽に勝てるのに」

 疲れのせいか、非常にふわふわした反省を始めたリゼルに、ジルが呆れて溜息をつく。

 高出力魔法使いのトップオブザトップが身近にいた反動か、リゼルの理想とする魔法戦術はいろいろと飛び抜けていた。誰もそんなところまで求めていないと、ジルもイレヴンも常々思っているほどだ。

「それなら俺が一発で首飛ばせりゃ解決すんだろうが」

 ジルも大概疲れきっている。

 雑な突っ込みに、リンゴの芯まで齧っていたイレヴンも半笑いだ。

「俺の毒が効きゃ秒だし」

 こちらも疲労で既に頭が回っていない。

 できる訳ねぇだろと誰も突っ込まないあたりに、三人の限界具合が垣間見える。

 ここが森のど真ん中でなければ、今日はもう宿に帰るのを諦めて就寝していただろう。

 何故だか、異様なほどに疲れていた。

「蛇、凄いですね。全身筋肉っていうのに納得です」

「見直した?」

「見直しました」

 背凭れのない、色褪せたベンチは少し湿ってひんやりとしている。

 リゼルはゆっくりとリンゴを咀嚼しながら、先程まで対峙していた巨蛇を思い出した。

 顔ほどの大きさの鱗には、ジルの宣言どおり全く刃が通らなかった。幸いにも、基本の動きはゆったりとしていたが、それでも巨人の一歩に追いつくには人間の何歩が必要なのかという話だ。

 巨蛇が這う度、体に巻きついた蔓も地面を滑り、三人の足元を浚っていった。

 更には蔓から伸びる葉が立て続けに体を叩き、まるで高速で枝に突っ込んだかのような衝撃を体中に受けるのだ。特に攻撃のために距離を詰めるジルとイレヴンなど、全身切り傷だらけになっていた。

「葉っぱで切んの、なんであんな痛ぇんだろ」

「てめぇ森育ちだろ」

「安全ルート知ってりゃそっち使うし」

 二人にしてみれば剣で斬られるよりも、葉っぱで傷つくほうが余程痛いらしい。

 蒼い葉の猛襲を受けるたび、悲鳴や舌打ちが聞こえてきた。リゼルも最初こそ二人に魔力防壁を張っていたが、視界の確保ぐらいにしかならず、最終的には魔法で土壁を作り出して防いでいた。

 だが土壁を置いてしまうと、蔓の後に追従してくる尾の攻撃が見えなくなる。

 土壁ごとぶち抜かれること三回、上から叩き潰されること二回、圧倒的な質量を持つ相手の攻撃は止めようと思って止められるものではないのだ。

 尻尾の先端の先端ならば、ジルが何度か止めていたが。

 叩きつけられる度に地面を揺らすほどの尾を、だ。純粋なパワーとパワーの戦いは迫力満点で、リゼルは感心しながらそれを見ていたが、イレヴンは若干引いてすらいた。

「でも、倒せて良かったですね」

 最終的に蔓をすべて切り離し、相手の魔力的ガードを崩した後、通りがかりの巨獣に踏ませたりなどして弱らせて、なんとか倒すことができた。

 リゼルは、体中に剣や槍を突き立てて横たわる巨蛇の最期を思い出す。

 死して尚、その偉容は少しも陰らず、むしろ神秘性を増していた。魅入られるほどに。

「すっげぇ走った……」

「武器消費しすぎた」

「あんだけ走って見返りねぇとかムリすぎたから頑張った……」

「早く手入れしてぇ」

 そんな感傷を微塵も抱かない二人が、グチグチと感想を吐き出している。

 対巨蛇の戦法は、必然的にヒットアンドアウェイになる。だが相手が巨大すぎる故に、必要となる距離は非常に長い。更に相手も動いているので、常に移動を余儀なくされた。

 強者との戦いを存分に楽しんではいたようだが、それはそれ。

 戦闘中にハイになればなるほど、それが終わった後に顔を出す疲労は凄まじいものだ。

「寝そう……」

「もうすぐ馬車が来ますよ、頑張って」

「んー……あ、狼煙消えた?」

「少し前に」

 三人は、ぼうっと西側の空を眺める。

 先程まで見えていた、夕焼け空に伸びていた白い狼煙が消えていた。

 近場で残るは、リゼルたちの傍から上る一本のみ。馬車はこの狼煙を目印に迎えに来る。

 サルス冒険者ギルドが担当する迷宮では、扉の傍に必ずかがり火台が置かれている。その受け皿には魔物避けの材料となる薬草などが積み上げられ、冒険者はそこに火をつけて馬車を待つ仕組みだ。

 リゼルたちが迷宮を出た時には既に、少し離れた場所から狼煙が立ち上っていた。

 そちらに向かっていた馬車が、リゼルたちも拾っていってくれるだろう。

「あ、来ましたね」

「ああ」

 そう話している内に、馬車が近づいてくる音がする。

 その時には既に、リゼルはぼんやりとした様子を消していた。朝に身支度を整えたばかりのような、ある意味で隙のない空気を取り戻して、慣れない手つきでバスケットを片付けている。

 リゼルは気の抜けすぎた姿を、あまり周囲に見せたがらないところがあった。

 常に他人の目に晒される地位であったからだろう。職業病、と内心で呟いたイレヴンは、しかしにんまりと笑みを浮かべて頬杖をつく。

「ギルド寄んのか」

「納品だけしましょうか。君たちは先に宿に戻りますか?」

「いい、すぐ終わんだろ」

「俺どうしよっかな」

 ジルも既に、先程までの気だるげな様子など微塵も見せていない。

 見栄というよりは、切り替えが早いだけだ。見えてきた馬車に、イレヴンも立ち上がる。

「巨蛇の素材も後で分けましょうね」

「牙」

「毒ぅ」

「鱗でしょうか、綺麗でしたし」

 それぞれ欲しい部位を口にしながら、三人は馬車に乗り込んでいった。


 余談だが、巨蛇の討伐はだいぶ間が空いてから、冒険者ギルドの姉妹たちを騒然とさせた。

 リゼルたちも特に報告しなかったので、姉妹の一人(ギルドカード記録フェチ)がこっそりと三人の討伐記録を堪能していた時に、その事実を知ってひっくり返ることとなる。


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今回の迷宮はでかい! ど迫力! 独特の空気が素敵でした。 デカいやつはデカいだけで強い! ジルのご機嫌取りを隠さないリゼルさんに、まんざらでもないジル。 お互いに今までいなかった、対等な相手との距離…
[一言] 漫画アプリから一気読み2週目楽しませていただいてます! 何回でも最初から読みたくなります…! [気になる点] 166:名前だけ知ってて姿を知らなかった では、 アスタルニアでは魔物の種類…
[一言] どこまでも広がる幻想的な蒼の草原に鉱物や植物がキメラ化したような異形の魔物、そしてその中でも圧倒的な存在感を放つ巨獣達…と興味を惹かれまくりな要素ありまくりな迷宮で、はちゃめちゃにワクワクド…
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