186:手紙は出国後の郵便バッグへ
精鋭回ですがグロなしです。
サルスの酒場に一組、冒険者パーティがいた。
装備の質からして中堅の冒険者であり、特別面倒見がよさそうにも、特別乱暴で人望がないようにも見えない風体をしている。極ありきたりで、安定感のある五人組のパーティだった。
彼らは周囲の喧騒に同調し、また更に煽ろうとするかのように大声で笑う。
その様子に、今日は依頼が上手くいったのだろうと、横を通り抜ける酒場の店員はしたり顔。
冒険者というのは宵越しの金を持たない者が大半であり、つまりは飲んで食っての大騒ぎで売り上げに貢献してくれる。盛り上がりすぎて大暴れするようなことにならなければ、だが。
「これ、おかわりちょうだい」
通りすぎようとした店員に、冒険者パーティの内の一人が声をかけた。
へらへらと笑う軽薄そうな男が、空いた皿を揺らしながら店員を見上げていた。
椅子に引っ掛けた弓から、弓使いなのだと分かる。存分に使用感のある弓が、いかにもひと通りの修羅場は経験していそうな中堅冒険者らしかった。飾り気のない、武骨で力強い弓だ。
「同じのを?」
「そ」
「同じだけ?」
「そー」
店員が、念を押すように確認を繰り返す。
何故なら、いまや空となった深皿には、先程までミニトマトがこれでもかと盛りつけられていたからだ。ソースもドレッシングもかけず、切っても焼いてもいない、正真正銘ヘタだけとったミニトマトだけの皿だった。
誰が酒場まで来て、ミニトマトだけを貪りたいというのか。
勿論、本来はメニューにだって載っていない。ただミニトマトを盛るだけでいい、と言われて半信半疑で出した皿に、更におかわりを重ねられるなど誰が予想するというのか。
「ミニトマトだけの?」
「そうそう」
改めての確認にも、弓使いの冒険者は平然と肯定する。
その片手には、安いエールが握り締められている。ミニトマトをツマミにもはや何杯目か。
「出してやってくれや、あんならさ」
ふと、リーダーらしき強面の男から声がかかる。
それを皮切りに、雑談に興じていた他のメンバーも店員たちの会話に入ってきた。
「こいつ、これだけはどうやったって譲らねぇんだ」
「金かけんなら肉にしろっつってんのに、勿体ねぇよな」
「サルスなんざやたら野菜高いってのに」
「まぁ、うち土地ないから」
店員は釈然としないながらも、空の皿を受け取った。
本来ならば調理して出すような食材を、そのまま欲しいと言われても嬉しくないのだから仕方ない。とはいえ金はしっかりと払うというので、拒否するほどの理由もないのだが。
「山盛りでおねがーい」
へらり、と弓使いの冒険者が笑う。
軽く頭を振るだけで土埃の舞いそうな髪、屋外での活動が多いために浅黒く焼けた肌。それらの冒険者らしい要素に、目を細めた軽薄な笑みが交じると、途端に遊び人の気風が強くなる。
冒険者に少なからずいるタイプだな、と店員は内心で呟きながら了承を返した。
「ミニトマト、お好きなんですね」
「そうでもないんだけどね」
本人からのまさかの返事に、店員は混乱を極めながらも厨房へと向かう。
その後ろで、呆れ顔をした強面の男が拳を握り、そこそこの力で弓使いの冒険者を小突いた。
「てめぇのそれだけは何年経とうが意味が分からねぇ」
「俺にしちゃあ周りの奴らが不思議。特に美味しくもねぇのに食べたくて堪んない、みたいなのガチでねぇの?」
「ねぇよ」
すぐさま肯定され、弓使いの冒険者は両脚を前に投げ出すように天を仰ぐ。
彼にとっては、随分と以前から当たり前のことだったのだ。正確にいつからかは分からないが、物心ついた時には既にミニトマトを食べたくて仕方がなかった。
暫く食べられないと、他のものを食べても食べても物足りない。その感覚は、飢餓感にも似ているだろう。その癖、自らの舌はミニトマトを美味しいと感じていないのだ。
改めて考えると奇妙だが、それが当然である彼の思考は長くは続かなかった。特に不味くもないので問題はない。そう結論づけて、パーティメンバーに邪魔だとばかりに蹴りつけられた脚を引っ込める。
そうして口に出すのは、サルスで奇跡の再会を果たした一組のパーティのこと。
やけに目立つ冒険者らしくない冒険者と、その両隣に立ちはだかる冒険者最強、獣人のことだった。
「つかなんで俺ら貴族さんらと行き先被んだろ。面白いからいいけど」
「先にここ居たら来んだもんなぁ」
「王都は言うまでもねぇし、アスタルニアは俺ら追いかけたか?」
「別に追いかけようとして追いかけた訳じゃねぇけどよ」
冒険者の拠点移動が、こうも連続で被ることなどなかなかない。
彼らはその物珍しさを肴に、大笑いしながらエールを飲み干した。
翌日の夕暮れ時、一軒の宿の上、屋根の上に一人の男が立っていた。
軽薄な面持ちは鳴りを潜め、自負に満ちた顔つきをしている。衣服は擦り切れた寝巻から、格式ばった燕尾服へ。傷んで跳ねていた髪は、幾重にも櫛を通されて落ち着きを取り戻していた。
彼はさらに白手袋を嵌めようとして、ふと荒れ果てた己の掌に気づく。
「、」
気に入らない、と眉を跳ね上げた。
細身のスラックスからポマードを取り出し、慣れた手つきで蓋を回す。薬指でこそぐようにとり、掌に塗り込めると、そのまま両手を髪へと差し込んだ。
「全く……」
搔き上げるように、ゆっくりと手のひらを後頭部へ。
「最悪のセンスだ」
前髪の一筋も額に落とさず、撫でつけられた髪が茜色に艶めいている。
昼間にあった冒険者らしさは消え失せ、そこにはただ蠱惑的なばかりの男が立っていた。
サルスの何処かにある、とある屋敷の一室に、長い前髪で両目を隠した男はいた。
部屋は閑散としていた。埃っぽい空気、ランプは魔力の切れた魔石が残るのみ。家具はほとんどなく、一脚の椅子だけがぽつりと置かれている。彼はそこに腰かけていた。
昼間だと言うのに、光源は分厚いカーテンから差し込む光のみ。薄暗い部屋だった。
「どうすっかなぁ……」
前髪の長い男は、なんとなしに床を眺めながら思案する。
深い思考に沈んでいるのだろう。そう感じさせる、静かな声だった。
「どうするのぉ?」
そこに、朗々と差し込まれる笑い声があった。
前髪を切り揃えている彼は、ゲラゲラと笑いながら床に胡坐をかいていた。
「貴族さんの手紙、蜘蛛に手ぇ出されるかもぉって?」
つい先日、リゼルとイレヴンが三翁をつれてサルスの中枢に突撃した時のことだ。
そのついで、とばかりリゼルは情報屋である蜘蛛の頭に、バレバレのカマをかけていた。
そもそも隠す気も、隠す必要もなかったのだろう。カマかけと同時に、膨大な対価を示しているのだ。損失より利益が上回れば、商人である老紳士がそれに乗らないはずもない。
取り引きは至って平和的に、裏に殺伐とした事情を抱えながらも成立を見せていた。
前髪の長い男が熟慮しているのは、その時にリゼルが告げたことについて。アスタルニア王族へ贈られる、いい情報屋がいたのでどうですか、という売り文句が書かれた手紙についてだ。
「貴族さんの手紙なんて奪っても蜘蛛が損するだけじゃーん」
「確実に覗かれはすんだろ」
「貴族さんのことだから覗かれるのくらい分かってそう」
「その上でどっちかっつう話」
前髪の長い男が顔を上げる。
「どっちか選べんなら覗かれたくない、とか思ってたらどうすんだよ」
「別にスルーしても貴族さん怒んねぇからいいってぇ」
そう、リゼルは精鋭が動こうが動くまいが恐らく気にしない。
動いてくれたら礼をして、動かなかったら認識を修正して、ただそれだけのことだった。
そもそも、滅多にないことではあるが、精鋭らに動いてほしければ直接(もしくはイレヴンを通して)頼むのだ。よってこうして話し合いをしているのは、前髪の長い男の独断でしかない。
ちなみに彼が何故、こういう時に他の精鋭を巻き込むことが多いのか。
それは、いざという時のスケープゴートにするため。もしくは自分以外の精鋭を動かす際、暴走しがちな相手を二対一で制圧して言うことを聞かせるためだった。なにせ他人とまともなコミュニケーションをとれる人間がほぼいないので、普段は互いに仲間意識さえ持っていないのが精鋭という集まりだ。
それを獣の群れ程度まで統率しているイレヴンは凄い。凄いのだが。
「貴族さんはいいにしても頭がヤバい」
「は?」
「手紙覗かれんの、絶対気に入らねぇだろ」
「貴族さんに手ぇ出されてから頭の蜘蛛嫌いヤベェしね」
「スルーしたらキレられる」
「キレた頭怖ぇんだもーん! 頑張ろ!」
軽い言葉と共に、けたたましい笑い声が上がる。
何故自分が呼ばれたのか、前髪を切り揃えた男も理解したようだ。もしリゼルの手紙に蜘蛛の手が届いた時、つまり自分たちがミスした時に、状況を把握していない他の精鋭をイレヴンに差し出すための戦力だ。
イレヴンが何故精鋭を率いられるのか。そこには、他人に対する容赦のなさがある。
容赦のない者は精鋭の中にもいる。むしろ、そういう者しかいないというのが正しい。ただし彼らの容赦のなさを、いつかリゼルは「他人に対する認識が歪んでいるから」だと称した。
相手に笑顔がないと同じ生き物だと分からない。そもそも食べ物相手に理解しようがない。自分を苛める加害者なんて理解したくない、など。だからこそ容赦がないし、容赦が必要かどうかという議論にすら辿り着かない。
しかし、イレヴンにはそれがない。
容赦のなくなる根拠がない。それなのに、イレヴンのそれは「容赦しようと思えばできる」という類のものとは全く違う。精鋭たちの、人類にとっての理不尽な害悪と同種のものだった。
だからこそ、精鋭たちはイレヴンのことを歪みなく認識できる。
ならば言うことを聞こうという気にもなるだろう。今になっても残っている精鋭たちは、普通に寿命以外で死にたくない者ばかり。一人でいれば、生きているだけなのに何故か罪人指定されたうえに処刑されてしまうのだ。
ならば、常識とやらの物差しを持つ同類と行動を共にすればいい。
真似するだけで、堂々と人混みを歩けてしまう。憲兵や兵士に追いかけられるのは、とにかく面倒だし疲れるし食事もゆっくりとれないし。そんな不満とおさらばできると、イレヴンの下についている者がほとんどだ。
余談だが、リゼルは前髪の長い男だけを唯一、認識の歪みの定義から外している。
「貴族さん手紙いつ書く?」
「知らねぇ」
「今何してんの?」
「三人で迷宮」
「じゃあ明日かなぁー、明日がいいなぁー」
「手紙ができあがってんなら迷宮帰りに出す気もすっけど」
「貴族さんの行動はいつも早いなぁーっ!」
笑い転げる男を尻目に、ふと前髪の長い男がカーテンの閉まる窓を見た。
ちなみに、その頃のリゼルたちはまさにボスとの戦いの真っ最中だった。
凍てついた湖の中央にある、雪に埋もれた墓場での戦い。音もなく浮かんでいる醜悪なデーモン、それと融合する巨大なハンドベルを相手に、一進一退の戦いが繰り広げられていた。
いや、戦況はやや押されている。その理由は立地にあった。
縦横無尽に宙を統べるボスを相手に、リゼルたちが使える面積は墓場を擁する孤島のみ。墓場は、小さな集落のものを思わせる清貧で小規模なものだ。走り回るにも限度があり、また地面に横たわる墓標は雪に埋もれ、石碑が立っていないものには足を取られることもあった。
何より、一歩でも湖に足を踏み入れれば。
「あ、やべ、あーーー……ッ」
「あ、イレヴンが」
何故かノンストップで対岸まで滑る。
スピードは一切落ちない。踏ん張ろうが全く意味がない。ただただ真っすぐ滑る。
一歩でも湖の氷に足を乗せればこうなるのだから、いまいち戦況が進まなかった。
「何回離脱すんだよあいつ」
「今ので四回目ですね。ついでに俺が一回、ジルが二回です」
氷に運ばれた回数は、見事に動く量に比例していた。
「ただいまァ」
「おかえりなさい」
「これテンション下がるからすっげぇヤだ……」
もう一回滑れば戻ってこられるので、それほど長く離脱している訳ではないのだが。
しかしジルとイレヴンにしてみれば、盛り上がっている時、つまりボスに集中している時こそ足元への意識がやや逸れる。結果として抱いていた高揚感が落ち着き、氷に運ばれながら変に冷静になってしまうのだ。
そのせいか二人は二回目以降、すべてを諦めて直立不動で運ばれている。
「防壁を張るにも、咄嗟の時に外に逃げられないのは避けたいですし」
「ここ平らにできねぇのか」
「やろうとしたんですけど弾かれるので、そういう島なんだと思います」
「墓どかせねぇの?」
金属光沢に雪を滑らせ、空中で静止するボスをいいことに、リゼルたちは緊張感なく話し合っていた。
前髪の長い男の視線の先で、燕尾服を身に纏った青年が窓際で笑う。
弧を描く唇、仕立ての良い燕尾服、ひと房も崩れのないオールバック。それら全てが開かれた窓の窓枠に収まり、背負う茜が彼の蠱惑的な空気をより増して、まるで物語のワンシーンを写し取った絵画のようにも見えた。
「私は美しいだろう?」
オールバックの青年が笑みを深める。
昼間の姿からは考えられないほどの変貌。彼が数時間前まで、荒くれ者共と依頼に駆け回っていた冒険者であると信じる者はいないだろう。顔の造形は変わらないというのに、今この場にいる彼はまさしく別人にしか見えなかった。
「帰るかさっさと入れよ」
だが彼の問いかけを、前髪の長い男はあっさりと流した。
窓を閉めろ、と腕を振る。名目上、ここは“留守しがちな住人の住む”貸し部屋なのだ。
サルスに空き家は少ない。どこかの誰かの家に転がり込むならまだしも、無人の住み家が欲しいのならば不在でも維持し続ける必要がある。そのために手を回しているのだから、設定が瓦解するような真似は避けたかった。
「自信満々の笑顔いいね!」
「素晴らしい。君は美しさというものをきちんと理解できているようだ」
笑い続ける男からの称賛を、オールバックの青年は当然のように受け入れた。
伸びた背筋に、燕尾服がよく似合っている。彼は白手袋を嵌めた手を打ち鳴らし、称賛に喝采で返しながら、部屋の中央まで足を進めた。燕尾を翻し、前髪の長い男を振り返る。
「先日の手紙の件だな?」
「夜しか目ぇ覚めねぇ癖によくご存じで」
「目が覚めないとは心外だ」
オールバックの青年は、額に手を当てながら嘆かわしいとばかりに首を振った。
仕草の一つ一つがわざとらしいが、洗練されているせいか違和感を抱かせない。
「この体は私のものだろう」
彼は誇るように胸を張り、己の頬を撫で上げる。
「このセンスの悪い男は私を知らないが、私はこの男のことをよく知っている」
「だぁい好きなトマト食べさせるために昼間も起きてんだもんねーっ」
「お洒落は我慢と言うが、こればかりはな」
笑う男が耐えきれず、更に大きな笑い声を上げながら仰向けに倒れる。
もはや呼吸さえ困難なほどに爆笑する彼を、美しくないとオールバックの青年は嘆いた。この話を精鋭の中でも悪食で知られる男にした時には、全力の同意を得られたというのに。
「で、手紙が?」
「私がやろう」
両目を隠した男が先を促せば、すぐさま青年がそう返す。
「お前たちが貴族さまと呼ぶ彼には、恩がある」
「一度も会ったことねぇだろ」
「それでもだ」
オールバックの青年は、一度もリゼルと顔を合わせたことがない。
昼間は言わずもがな。体を同じくする男も、リゼルとそう大した交流はない。
ならば夜はというと、青年が品定めに追われているので忙しい。美しさを重視する彼は、己が一番美しいとはいえ他の美しいものも好きなので、ショーウインドーを眺めることを酷く好んでいるからだ。
「私は冒険者というものを酷く醜い職だと嘆いていたが」
オールバックの青年は、恍惚と笑う。
「彼のお陰で、考えを改めることができた」
まぁ冒険者に見えないし、とその場にいた二人は思ったが、口に出さなかった。
互いの趣味嗜好には立ち入らない。それが殺し合いをさけるための、精鋭らの持つ唯一の不文律だったからだ。
一方、リゼルたちはボスを引き摺り下ろしにかかっていた。
ハンドベルのクラッパーに、試行錯誤の後に縄をかけることに成功。今はその縄をジルとイレヴンが引っ張り、融合するデーモンからの魔法をリゼルが少し離れたところから防いでいた。ハンドベルの構造上、真下で縄を引いているとデーモンが見えないからだ。
空から悠然と三人を見下ろしていた魔物が、徐々に地面へと引き摺り下ろされる。
「重ッも、ニィサンちゃんと全力出してんの!?」
「ここで手ぇ抜いてどうすんだよ」
自らが地面に落とされようとしていることが分かっているのだろう。
デーモンは両翼を限界まで開き、歪な腕を振り回している。そこから四方に飛び散り、ジルとイレヴンを狙い打とうとする魔力の塊を、リゼルは次々と魔力防壁で防いでいった。
流石にボスの攻撃だけあって、一球を防ぐだけでも相当な魔力を注ぎ込んでいる。二人の全身を覆いっぱなし、などはすぐに魔力が尽きてしまいそうなので、小さくて強力な防壁を三つ重ねて防いでいた。
集中力を使うな、とリゼルは上目でボスを窺う。
「(ベルが鳴らないだけマシかな)」
あの巨大なベルの音色は、精神汚染を引き起こす。
食らったのはジルだった。一瞬でそれを振りはらい、自我を取り戻していたが、意識がどこかに引っ張られる感覚があったという。意識を失わせようとしていたのか、それとも意識ごと乗っ取ろうとしたのか。
操られたら困る、と三人で話し合い、そこからすぐに今の作戦に移行した。
縄でクラッパーを押さえておけばベルが鳴ることはない。更には相手を引き摺り下ろせる。投げ縄の要領で引っかけるのは随分と苦労したが、一石二鳥の作戦だ。
「おっ、落ちるかも」
巨大なハンドベルがようやくバランスを崩した。
デーモンも体勢を崩し、あらぬ方向へと魔力球を飛ばした。ようやくか、と三人が落下地点に集まろうとした時だ。
それは、全くの偶然であったのだろう。光沢のあるベルが変な傾き方をして、そして。
「あ」
カラン、と高らかにベルの音がした。
リゼルは咄嗟に防壁を張る。音は防げずとも、魔力的な干渉は防げるかもしれない。
だがそれでも、脳が大きく揺らされる感覚がした。体から力が抜ける。これは急激な眠気だった。ジルが感じたものとは違うような気もするので、効果はランダムだったのかもしれない。
落ちようとする瞼を堪えていると、薄れかけている視界に鮮やかな赤が翻る。
「リーダー!」
より近くにいたイレヴンが駆け寄ってきてくれたのだろう。
お陰で、雪の上に倒れ込まずに済んだ。イレヴンの装備にふんだんに使われた毛皮が頬をくすぐる。
「操られる? だいじょぶ? 銃消せる?」
眠すぎて声が出せずにいれば、矢継ぎ早に質問が飛んでくる。
リゼルはなんとか目を覚まそうと深く息を吸い込んだ。なんとか堪えている視界で、イレヴンの肩越しに、ボスとの間に立ってくれているジルの背を見つける。
とにかく、操られる心配がないことだけは伝えなければいけない。頭痛がするほどの眠気に耐えながら、リゼルが口を開きかけた時だ。
「操られかけたばっかのリーダーもっかい操られんのとか俺ムリなんだけど!」
「おい」
「あ、やべ」
めちゃくちゃ目が覚めたしボスも倒した(ほぼジルが)。
深夜のサルス郵便ギルドには、見回りの職員がいる。
見回りといっても、郵便物を残して無人にはできないというだけのこと。役割は職員の間で持ち回りとなっており、大抵は残っている仕事を終わらせたり、普段はできない場所の整理整頓などをして過ごしたりする。
今日もまた、一人の職員が夜のギルドを歩いていた。
ランプを手に、とある一室へ。そこは、預かった手紙を保管しておく部屋だった。
宛名別に仕分けしてある棚を、職員はランプを持ち上げながら一つ一つ確認していく。探している棚は、普段はなかなか馴染みのない国宛てのもの。普段の仕事と変わらず、さてこのあたりだったかと床に置かれた木箱を跨ぐ。
「ぅ、お」
何か柔らかいものを踏んでしまい、職員は後ずさりをした。
荷袋でも踏んでしまったかとランプを向ければ、見えたのは人間の脚が二本。
「な、だ……誰だ……?」
もしや、とよくよくランプを翳してみれば、横たわっているのは男のようだった。
その胸がしっかりと上下しているのを見て、職員は胸を撫で下ろす。どこぞの酔っ払いが間違って入ってきたのか、と近寄って膝をついた。起きろ、と肩を揺さぶるつもりで。
だがその手が肩に触れる直前、寝ていた男がゆっくりと上体を起こす。
「うわっ、お、起きたのか?」
職員は驚いた声を上げ、肩の力を抜いた。
「なぁ、ギルドで何を」
「お前はアーモンド型の瞳が美しいな」
「は?」
まだ酔っ払っているのかと、そう職員は問いかけようとした。
だが、できなかった。痛いほどの力で両肩を握り締められている。
「何、何だ、何だよ」
職員は震える声で問い続ける。
恐ろしい。だが、何故か目の前の蠱惑的な笑みから視線を逸らせない。
美しさと恐ろしさは時に同列に語られるというが、こういうことなのだろうか。
「私は美しいだろう?」
男の瞳の中で何かが揺れている。
見つめられている。瞳の奥、更に奥、確かにそこから何かに見つめられていた。
震えの止まらぬ職員に、男がそっと囁く。
「Hello,my clothes(ようこそ、我が麗しのクローゼットへ)」
その一言と共に、蠱惑的であったはずの男が崩れ落ちた。
床に寝そべるのはもう、すっかりと寝入っていびきをかいている一人の男。先程とは別人の、格好だけきちんとしているだけの冒険者であった。
職員が立ち上がる。震えはすでになく、彼はしっかりとした手つきでランプを持ち上げた。
「ああ、そこにあるのか」
そう呟いた職員が、棚にある数多の手紙の中から一通を抜き出す。
手紙の表の宛名を確認。裏返し、差出人を確認。そこには少し斜めだが、流麗な文字が綴られていた。
「ああ、美しいな」
そう囁いた職員に浮かぶ笑みは、とても――――。
椅子が一脚あるだけの殺風景な部屋で、二人の男が話している。
「なぁなぁアレ本気で言ってんだと思う!?」
「あ?」
「『私は美しいだろう』ってやつ!」
一人の男が、ゲラゲラと笑いながら告げる。
「何年か前は全然違う奴だったっつうの!」
「あー……」
違う奴。
それは、性格が違うなどという可愛いものではない。
別人なのだ。顔も、性格も、社会的地位も全て。全く違う人生を歩む別人だったのだ。
変わらないのは、夜に顔を出す何かのみ。何をどうして、どうやったのか。それを知る人間はいない。精鋭たちでさえ、数年前はいきなり知らない相手に知人ムーブをかまされてビビり散らかしたものだ。
「美しさに正解なんてねぇんだろ」
「いきなり適当言うじゃん」
関わりたくなさすぎて心にもないことを言えば、前髪を切り揃えた男は露骨にテンションを下げていた。
一部の方にはお馴染みのミニトマト冒険者でした。
冒険者本人が、精鋭が原因でひどい目に遭うことは今後ずっとないので、ご安心ください。