167:最終的に全員で涼んだ
アスタルニアの迷宮には海上に扉があるものがあった。
なんとまあ珍しいものだと思ったが、サルスでは何と湖中に扉が存在するという。
何故そんな所にあるのか、いっそ大侵攻目当てではないのか、サルスの研究者が首を捻るも迷宮に常識を求めても意味のない事なのだろう。究明しようという者など誰一人としていなかった。
「ここですか?」
「じゃねッスかね」
湖上に浮かぶサルスの端、年季の入った桟橋の前でリゼル達は顔を見合わせた。
橋のたもとに建てられた小さな看板を見れば、“湖中のバザール”という迷宮名と桟橋の先を示した矢印がいかにも手書きらしく描かれている。煉瓦で舗装された道から桟橋へと足を踏み入れれば、薄い木の板がぎしりと軋んだ。
桟橋の下には湖面が揺れる。透明度は酷く高く、今の時間帯ならば風さえ凪げば遥か下方の水底まで薄っすらと見える。
「はい、到着」
「どれだよ」
「あれじゃん?」
桟橋の先端に辿り着き、ジルとイレヴンが湖を覗き込む。
今日潜る湖中の迷宮の扉は、湖底ではなく水中に漂っているという。漂うといえど場所は変わらず、ただ浮かぶようにその場にあるそうだ。
二人の後ろからリゼルも覗き込めば、青空を映す湖面の奥に確かに扉の上部が見えた。サルス国内から最も近いという迷宮、水深は四、五メートル程だろうか。
桟橋の先端に取り付けられたロープを辿って下りられるようになっている。ロープにはたとえ夜でも見失わないよう、丸いガラス玉のようなランプが点々と灯っていた。
風が湖面を撫でる度に輪郭の揺れる扉は、先日の謁見を導いた窓よりも余程。
「(別の世界みたい)」
桟橋の向こう側に足を踏み出したイレヴンが、だぽんっと重い音を立てて水の中へと沈んだ。
リゼルは先程まで彼が立っていた橋の縁へと進み、ジルの隣にしゃがむ。眼下にある波打った水面から濡れて艶の増した鮮やかな赤がすぐに浮かんできた。
「っあー、冷て」
「ですよね」
器用に立ち泳ぎをしているイレヴンが張り付く前髪を払うように鬱陶しげに頭を振る。
リゼルは手を伸ばし、水音を立てながらその場に留まる彼の額を撫でた。張り付いたままの細い髪を爪先で掬うようによければ、その掌の影が落ちた両目が懐くように細くしなる。
「魔物いねぇの」
「さァ」
隣でジルも立ち上がり、湖へと落ちていった。
どぽん、と水音と共に飛んできた飛沫がリゼルの頬へと当たる。無意識に拭おうとした手を、すぐに全身濡れてしまうのだからと留めた。
代わりに水面に指先を沈めてみる。凍えては困ると早朝は避けたが、それでもやはり水は冷たかった。
「リーダーも」
トントン、イレヴンの指に靴をノックされる。
髪を頬に張り付けたジルも顔を出し、濡れた前髪をかき上げた。二人に見られながら、リゼルも桟橋に腰かけて脚を下ろす。飛び込んだ後に浮上できるか分からなかったからだ。
脚の途中までが水に浸かり、濡れた装備が貼りつく感触が不思議だった。
「なんで慎重なんだよ」
「こう、未知の世界というか」
「何がッスか。つか今更?」
「感覚的には初邂逅かもしれません」
リゼルはまじまじと湖を覗き込んだ。
水面に映る自らの顔、それを透かして見えるのは水中で揺れる足。更に奥に見える迷宮の扉の遥か下方には、光を反射する水面の切れ間から薄っすらと水底が見える。
朽ちた流木の影、揺れる水草、時折滑るように通り過ぎていく魚の群れ。小さく見えるそれは、あまりの透明度の高さ故に深いというより高いと感じてしまう。
そんな中に、普段街歩きしている格好で沈めというのだ。別の世界とはいえ息もできるし言葉も通じる、そんなものよりよほど世界が違うだろう。
「あそこ何だっけ、“人魚姫の洞”? あれと一緒じゃん」
「迷宮はだって、そういうものじゃないですか」
そうあるべき場所で、それが当然である場所。
リゼルにとっての迷宮はそういう場所だった。扉を潜る度に目にする光景に感動も驚愕もするが、それがある事に疑問を覚える事などない。
「つまり何だよ」
「ちょっと怖いです」
「あ?」
「マジで?」
思わず唖然としたような二人の視線を受けながら、リゼルは思案する。
恐怖、とは違うのかもしれない。非常に似てはいるが、少しばかり心が落ち着かないような感覚は高揚とも呼べるような気がした。
考えるように視線を余所へと流したまま、ふと得心がいったように口元を緩める。
「悪いこと、しようとしてる時ってこんな気持ちなのかも」
悪戯っぽく笑みを深めたリゼルに、ジル達は片や呆れ片や笑った。
リゼルにとって、ヤンチャな若者が大騒ぎしながら立ち入り禁止区域に飛び込んでいくのと似たようなものなのだろう。ギルドが作ったのか冒険者が勝手に作ったのかは知らないが、この桟橋から冒険者が飛び込んでいくのは今やありふれた事だろうに。
とはいえ全く以って適さない格好で、本来ならば入らない場所に入っていくのは確かか。すい、と背後に流れるように水を掻いたイレヴンが赤い髪を泳がせながらケラケラと笑う。
「すっげぇ良い子じゃん」
「それこそ今更だろ」
「や、でもリーダー確かにそういう系の“悪いコト”しねぇし」
「基準が分かんねぇんだよな」
好き放題言われてるな、と思いながらリゼルは足を引く。
これから先に同様の機会があるとも限らないし、記念に飛び込んでみようかと桟橋の上に立ち上がった。水を吸った履物がじわじわと桟橋に水たまりを作る。
飛び込もうとした瞬間、風が凪いだ。まっさらになった水面が消えてしまったかのように水底まで見通せるようになり、飛び込んだらそのままストンと水底まで落ちていきそうだなどと思う。
そうならないと知ってはいるので、もはや躊躇いはしないが。そして足に力を込めようとした瞬間。
「おら、来い」
桟橋に片腕をついて伸びあがったジルに腕を掴まれ、そのまま湖へと引き込まれた。
実は桟橋に一人残っていたリゼルの姿を見つけて「まさかな……冒険者じゃあるまいし……」とそわそわしていた通りがかりの人々が悲鳴を上げて駆け寄ろうとしていたが、水中にいてよく聞こえなかったリゼルはそれに気付かず無事に浮上できた事に満足そうだった。
扉を潜れば見渡す限りの砂漠。
雲一つない空からは強く輝く太陽がじりじりと肌を焦がし、また白い砂から立ち上る熱気が足を舐める。見渡せば点々と見えるオアシスは果たして蜃気楼なのか現実なのか。
扉を抜けた途端に乾いた装備に感嘆の声を上げる事も忘れ、リゼルとイレヴンはちらりと隣を窺った。
「…………」
物凄くガラの悪い顔をしたジルがいる。
だよね、と二人は更に互いにアイコンタクトを交わして己の空間魔法からマントを取り出した。以前、火山の迷宮を訪れた際に耐暑性のあるものを作れないかと思い立って用意したものだ。
雨用の外套も作ってくれた武具工房に話を持ち込んだら「クッションだの雨具だのに比べりゃマシ」と言いながら作ってくれた。
「あー、無いよか全然マシだわ」
「ほら、ジルも」
「ああ」
フードを深くかぶってしまえば日差しは全く気にならない。
迷宮の事なので人が全く過ごせない環境まではいっていないだろう。気温はどうしようもないが、日陰を歩く程度までは快適性が確保できている筈だ。
ジルも渋い顔はしているものの、迷宮攻略自体を嫌がる様子はない。頑張るのだろう、とリゼルは微笑んだ。
「まずあそこ?」
「そうですね」
イレヴンが指を指したのはすぐ向こうにあるオアシス。
容易に視界に収まる小さな水場の周りにはぽつりぽつりと緑が茂り、目を凝らせば何やら木の看板が一つ立っている。その手前には平たい石板のようなものが横たわり、どうやら魔法陣が刻まれているようだった。
あそこがスタート地点だろう、と足を踏み出す。
「歩きにくいです」
「これ絶対走りにくい」
「どっかに移動手段ねぇのか」
砂に埋まる足に三人で文句を零しながらもオアシスへ。
すぐに辿り着いたそこは水場の近くというだけで涼しい気がして、イレヴンはさっさと水の近くに歩いて行ってしまった。しゃがんで掌で水を掬いあげている姿に可笑しそうに笑い、リゼルは看板へと向かう。
腰の高さほどのそれを覗き込んだ。
「“魔物の素材が価値となる”」
「あ?」
隣に立つジルが怪訝そうに眉を寄せた。
どういう事だと向けられる視線に、リゼルも考えるように首を傾ける。
「んー……迷宮の名前が“バザール”ですし、貨幣の代わりになるとか」
「迷宮内で買い物しろって?」
「は、何々?」
呆れたようなジルの言葉に面白そうだと思ったのか、濡れた手を振りながらイレヴンもやってくる。彼は看板を見て興味深そうに声を上げた。
「じゃあ雑魚の素材もいちいち回収しなきゃじゃん」
「手持ちの素材じゃ駄目でしょうか」
「迷宮だし行けんじゃねぇの」
ジルが背筋を伸ばし、フードに指をかけて微かに持ち上げる。
広がる視界の先にあるのは別のオアシス。熱を孕んだ空気ごと揺らいで見えるそれは、今いる水場より随分と規模が大きいようだった。白い砂、水の色、散らばる緑に加え、砂漠では自然にお目にかかれないような色の数々。
迷宮の名を思えば、恐らく露店なのだろう。
「魔物が店番してなきゃ良いけどな」
「人影、見えませんか?」
「見えねぇ」
「俺も」
三人は暫くそちらを眺めたが、立っていてもどうしようもないと歩き出す。
向かう先は勿論次のオアシス。いや、オアシス自体は遠目に幾つか見えるので次かどうかは分からないが、今いる場所から一番近いので順番的には合っている筈だ。
「ここ、もしかしたら階層構造じゃないのかも」
「あー、ぽいぽい。久々な気ィする」
「“逆塔”もそうだっただろ」
「あれは塔ごとに区切ってたじゃん」
“降り落ちる逆塔”では一つの塔で一階層といった扱いで、塔ごとに魔法陣があった。
あれは変則的な階層構造とみなして良いだろう。そしてここのような広大な一階層を擁する迷宮では、特徴のあるポイントごとに魔法陣が配置されている事が多い。
森ならば大樹の根元、平原ならば休憩できるような東屋、それを思えばこの砂漠もオアシスごとに魔法陣が置かれているのかもしれない。
「オアシス見えてりゃ迷わねぇし、森よりマシっすね」
「森は迷いますよね」
そしてざくざくと砂を踏みしめながら歩いている時だった。
ふいにイレヴンが誰もいない隣を見る。視線は下、砂に埋め尽くされた地面へ。その手は既に腰の剣にかけられていて、リゼルは何がと問いかける事なく体ごとそちらを向いた。
既に魔銃は頭の横で構えている。同時に、数歩後ろへ下がった。
「一」
「や、二」
ジルとイレヴンが短く告げる。
ズ、と砂が盛り上がった。天辺からざらざらと砂が流れる。隙間から砂とは違う色が見える。
そして何かが飛び出そうとした瞬間、盛り上がった砂ごとリゼルは中身を射抜いた。やや遅れて姿を現しかけたほうも同様にジルによって斬り払われる。
「何かなァー」
「価値、高いと良いですね」
三人は少しだけ待ってから、こんもりと盛り上がった砂へと歩み寄る。
そして砂を掻き分け、埋まったまま奇襲の機会を失ってしまった魔物を掘り出した。ぶにりと指先に触れた柔らかな皮、それを何とか握ってずぼりと引っ張り上げる。
「お、デザインフロッグ」
「ぬるついてんな」
「砂漠仕様なのかもしれません」
こんなにぬめっていたか、と嫌そうにデザインフロッグの脚を握るジルの手元をリゼルは覗き込んだ。砂漠で希少な水分を逃がさないように粘液で体を覆ったのだろう。
地域によって同じ魔物でも特徴に差が出るのは知っていたが、それを迷宮内で見つけるといつも少しばかり感心してしまう。冒険者が暑さに備え寒さに備えるのを思えば、平等ではあるのだろうが。
「剥いで良い?」
「お願いします。じゃあこっちは俺が」
「見てろ」
デザインフロッグの素材箇所はその表皮。
様々な模様が刻まれた皮はランダムで、深層になるほど美しい柄を持つものが出る。装備に使った際の性能もそれなりなので、デザインにこだわる冒険者が重宝する素材だ。
とはいえ今はまだ迷宮の序盤も序盤。柄もぼんやりとした土色なので、価値の基準は分からないもののあまり高くは望めないだろう。
「先手、とらないほうが良いでしょうか」
「別に良いだろ」
「むしろこれが普通っつうか」
素材となる皮が穴だらけ、あるいは真っ二つ。
価値が下がりそうだな、と慣れた手つきで解体されていくデザインフロッグを眺めるリゼルに平然と告げるジルと、ぼそりと零したイレヴン。
そもそも依頼であっても傷一つない状態で素材を持ち込む冒険者など滅多にいないのだ。とにかく倒すのが第一、運が良ければ傷がない、それを常識としてギルド職員も依頼を受け付けているし依頼人も重々承知している。
だがリゼルは依頼の素材を集める際は決して傷を付けようとしない。それを当然だと思っている。ジルもイレヴンもまぁ可能だしとそれに倣うが、ソロ時代はそこまで徹底していなかった。
「リーダーのランクアップ早めなのこういうトコだよなァ」
「依頼人には受けんだろうな」
「そうだと嬉しいですね」
依頼人満足度が非常に高い、それがリゼルの強みだろう。
魔物討伐や迷宮攻略などのパーティでの功績もあるが、恐らくランクアップにはその辺りも大きく評価されている筈だ。ギルド職員としてもトラブルとは無縁の冒険者は非常に嬉しい。
「おし、完成」
「ん」
「はいはい」
剥がした皮を器用にナイフで鞣したイレヴンに、ジルが自身で剥いだ皮を投げる。
魔物の解体はイレヴンが非常に上手い。流石は父親に狩人を持つだけあるなとリゼルも感心したように、そして自分もいつかと真剣にその手元を眺める。
そして最低限の処理を終えたそれをイレヴンは空間魔法へと突っ込んだ。
「こうして素材を集めながらオアシスに行く、で良いですか?」
「ああ」
「りょーかい」
三人は魔物に襲われる度に素材を回収しながら、次の目的地へと向かった。
バザールは不思議な静けさに包まれていた。
オアシスの水場を囲むように幾つも置かれた露店。砂の上に絨毯を敷き、木製のトレーの上に様々な品が並べられている。細い木をつっかえ棒に斜めに備えられた布の屋根は色鮮やかで、その下では店主がのんびりと胡坐をかいて座っていた。
全ての屋台の店主は皆一様に同じような風貌をしている。木と鉄で出来た人形、頭はあれども顔はない。関節の歯車をカタカタ言わせながら彼らは酷く人間臭い仕草で胡坐をかいた足を貧乏ゆすりし、髪の代わりにネジの生える頭をカリカリと指でかく。
「ジル、飛び込んできて良いですよ」
「まだ行ける」
「いつか行けなくなんのウケる」
先程より大きな水場に沿うように三人は歩いた。
オアシスの水は地下水だというので泳げるだろう、そう親切心で促したリゼルだったが眉根を寄せっぱなしのジルに首を振られた。暑くてどうしようもなくなったら飛び込むのかもしれない。
「お、魔法陣」
「やっぱりオアシスごとにあるんですね」
前に見たものと同じように平らな石板の上に描かれた魔法陣を見つける。
何だかんだスタートのオアシスから二十分は熱砂の上を歩いただろうか。このペースで魔法陣が出てくれるならポイントとなるオアシスの数も多い、それはそれで助かるのだが。
リゼルはぐるりと周りを見渡した。後ろは今歩いてきた方角、そして前と右と左にはおよそ距離的には変わらないだろうオアシスが遠くに三つ。
「どれか蜃気楼だったりするんでしょうか」
「本物でも正解はあんだろ」
「どれ?」
「知らねぇ」
今日は依頼を受けずに来たので純粋に攻略が目的だ。
ボスまで行けずとも出来るだけ深層へ。ここは一階層しかないので出来るだけボスの近くに、と言ったほうが正しいか。三人の場合はたとえ途中で踏破を止めようが、気が向いた時にでもジルが一人で来て踏破するのでキリが悪いという事もない。
とはいえ折角なので、リゼルとしてもパーティで踏破を成し遂げたかった。流石に今日中とは言わないが、手当たり次第に歩き回っては時間がかかりすぎてしまう。
「取り敢えず買い物してみましょうか」
何が取り敢えずなのか、という視線を受けながらリゼルは近くの露店へ歩いていく。
一応、迷宮なのだから全くのノーヒントという訳ではないだろう。それが露店にあれば良いなという思いもしっかりとあったのだが、好奇心である事も否めなかった。
「直でボスとか無理?」
「初見じゃ無理だろ」
「地図も曖昧ですしね」
水辺の際に茂る植物をさくさくと踏みながら歩く。
こういった一階層しかない迷宮の地図は、ギルドで購入してもあまり役に立たない。魔物と戦いながら進むという事もあり方角も距離も適当で、何となくこんな感じという程度だ。
三人はすぐ近くの露店を覗いてみた。
露店の中では店主が一人、いや一体リラックスしたように胡座をかいている。三人が前に立つと、だらけた姿勢をそのままに片手を上げて見せた。
その滑らかな動きに、木と鉄の体を納めている布の服がひらりと揺れる。
「こんにちは」
リゼルが微笑んで挨拶すれば、店主はかいてもいない汗を拭うように服に掌を擦り付け、カンカンと手を打ち合わせてみせた。その手が促すように並べられた品々を指し示す。
絨毯の上に並んだ木のトレー、その上に積まれているのは瑞々しい果実だった。
「食えんの?」
「食ってどうすんだよ」
「腹膨れる」
戯れるように会話を交わす二人を横目に、リゼルは露店のすぐ隣に立てられた看板を見下ろした。
文字はない。ただ手書きらしさのある綺麗な円が描かれている。そしてトレーの置かれた木の値札には【×1】【×2】【×3】の記号。
「これを、この数だけ渡せば良いですか?」
看板、そして値札を指差しながらリゼルは問いかけた。
すると店主が勿論だと言わんばかりに頷く。首の関節部分から微かに金属が擦れ合うような音がした。
攻略に必要そうには見えないが、見慣れた果物とはいえ迷宮内で食べ物が見られるのは非常に珍しい。物は試しだと買ってみる事にした。
「丸だから、魔石でしょうか」
「ここまでで手に入れたの限定?」
「じゃないと候補が多すぎるので」
リゼルは試しに自身のポーチからガーゴイルの目玉を取り出して店主へと差し出してみた。
店主は器用に二度見して、恐る恐る首を振る。「何それ……怖……」と伝えてくるそれが異様にリアルで、流石は迷宮だと感心せずにはいられない。
「嫌だとよ」
「思ったより嫌がられました」
「じゃあこれ」
リゼルが目玉を仕舞い、イレヴンが魔石をぽいっと投げる。
店主は慌てたように魔石をキャッチした。カチカチと木の掌と魔石がぶつかる音をさせながら、受け取った魔石を矯めつ眇めつ確認している。
「凄ぇ疑ってくんじゃん」
「見る目あんな」
「次ニィサン渡して」
流石に人によって対応は変わらないんじゃ、と可笑しそうに笑うリゼルの前で、店主はよしよしとばかりに頷いて一つのトレーを指差した。
【×1】の値札がついたそこに並べられているのは何の変哲もないリンゴ。イレヴンが一番上に積まれている一つを手に取り、そして流れるように噛りついた。
「どうですか?」
「フツーのリンゴ」
食うのか、と呆れたような目を向けるジルを気にする事なくイレヴンはリンゴを食べきった。特別美味しくも不味くもない普通のリンゴだ。
とはいえ並べられている品が見たままのものだという確認はできた。これが何かのヒントになるのか、あるいはただ迷宮内で食料調達ができるという非常に珍しい例であるのかは分からないが。
「売り物、食料だけじゃないですね」
「そことか魔物素材だし」
「買い物できる迷宮ってだけじゃねぇの」
「それはそれで楽しいんですけど」
水場から少し離れると生い茂る草もまばらだ。リゼルは足元に点々と見える緑を何となしに眺めながら、果たして迷宮がノーヒントで手当たり次第に行ったり来たりさせるという真似をするだろうかと思案する。
それでもいつかはボスに辿り着けるのだから問題はないのだろうが、やや迷宮らしいこだわりに欠ける気もした。
「あの人形斬れんのかな」
「止めとけ」
物騒な事を話し合うジル達に、欠伸らしき仕草を見せていた店主がびくりと肩を震わせた。
リゼルはぱちりと目を瞬かせた。人形はここの住人だ、ならば知らない筈がない。意思疎通がとれるのならばもしかして、とリゼルは露店の前にしゃがんでパーツのない顔を見つめた。
「質問、良いですか?」
店主ははた、と動きを止めた。
こりこりと首の後ろをかいて、そして片手を持ち上げる。木目の鮮やかな人差し指を立ててみせた店主に成程とリゼルは頷いた。
一つだけ、という意味だろう。【×1】の値札をちらりと一瞥し、ならばと唇を開く。
「あなた達は、嘘をつきますか?」
頷かれた。
「いや、つくなよ」
「真っ先にそこ確認すんのがお前だよな」
「彼ら相手に嘘を見破る自信はないので」
そもそも真面目に人形に話しかけるのが何故なのか、とジル達は内心で思う。
誰もが彼らをモノを売るだけの人形だと思い込む。そもそも貴重な収入源である素材を手放したがらない。何も買わないと何を聞いても首を振られるのみで、会話は成立するようで成立しないようになっていた。
そうなってもリゼルならば「じゃあこれ買うので是非」という流れになっていた事を思えば、運が良いというより迷宮を楽しみ尽くしたい欲が強いというべきなのだろう。
「魔石、あと三つありましたっけ」
「あ?」
「買い物したいので」
「あるある、二個」
「おら、一」
「有難うございます」
各々で魔物を倒して各々で素材を回収するので、誰が何を持っているのかいまいち把握しきれないのが三人だ。リゼルはしゃがんだまま両手に魔石を受け取り、それを店主へと差し出した。
硬い大きな両手が伸び、リゼルの手の下で受け皿を作る。そこにそっと魔石を落とせば、喜ぶように大きく肩を何度も上下させた店主は、魔石の積まれた両手で促すように【×3】のトレーを示してみせた。
「イレヴン、どうぞ」
「いただきまーす。ニィサンこれ穴開けて、指で」
【×3】のトレーに積まれていたのはヤシの実。
それを拾い上げたイレヴンが、にやにやとジルにそれを押し付けている隣でリゼルは再び店主を見た。微笑み、首を傾けてみせる。
「質問、良いですか?」
再びの問いかけに立てられた指は二本。
どの露店に並べられているトレーも三つであるので、質問できる回数は共通で三回。それも仕草で回答ができるものに限る。
「さっきの質問では嘘をつきましたか?」
頷かれる。
「あなた達は三回のうち何回、嘘をつきますか?」
指が一本立てられる。
お、とリゼルは目を瞬かせる。露店は幾つもあるので何体か当たって条件を絞り込もうと思っていたが、運良く望んだ答えが手に入ったからだ。
無制限で嘘をつけるとは最初から考えてはいなかった。攻略不可能な仕掛けなど迷宮には存在しないのだから。
「一回かァ、じゃあ最低二回?」
「素材足りてんのか」
「それですよね」
空になったヤシの実を放り捨て、イレヴンは唇に舌を這わせながら空間魔法に手を突っ込んだ。ジルも同じく、リゼルも立ち上がって次々と手に入れていた素材を砂の上に並べていく。
「何質問すりゃ良い? 正解のオアシスどれかとー」
「それが嘘か」
「そこで首を振ってくれれば確定ですね」
たとえ頷かれたとしても三回目で必ず確定できる。
同じ質問が許されなくとも件のオアシスについては三択だ。一つ目の質問で指を指されなかったオアシスを指さして聞いてみれば、自ずと正解に辿り着く。
露店の数は十弱、条件を絞る為の質問を含めても随分と余裕があった。
「気付けりゃ、ってトコだけじゃん。簡単すぎねぇ?」
「そこはほら、奥に行けば行くほどっていう事なのかも」
「お前はそれのが嬉しいだろ」
「ひたすら階段を上るよりは勿論」
そして三人は手持ちの素材を照らし合わせ、三つ揃っているものを選んで違う屋台へと向かうのだった。
その後も順調に砂漠を進み、幾つ目かのオアシスに辿り着く。
通常の迷宮ならばすでに深層と呼べる範囲に来ているだろう。油断の許されない空間でジルは一人、陰らぬ太陽の光を浴びながら上半身を露わに座って腰まで水に浸っていた。
すぐ近くに剣は置いてあれど、存分にだらだらと涼をとる。一番近い位置にあるヤシの木の根元に黒衣が脱ぎ捨てられていた。
「えーと、オアシスが八で……」
「は、何コレ。すっげぇ艶」
既に頭から水は被り済み。滴る滴が顎をなぞる感覚がした。
そんなジルの視線の先は、さくさくと砂上を歩きながら十を超えた露店の品を確認しているリゼルの姿。視線をずらして水場の反対を見れば、イレヴンが女性らしい座り方をしている人形の露店の前にしゃがみ込んで何やら眺めている。
リゼルがいなければがむしゃらに歩き回る羽目になったかと思えば、考えるだけでうんざりしてしまう。ジルは長く息を吐いて、肌に触れて温くなったように思える水を適当にかき混ぜた。
水中で舞った砂を見て、パンツの中に入ったら最悪だと手を止める。
「リーダァーー! これ欲しーー! サソリ針三個ーー!」
「じゃあそこで三つ、あそこで革と卵を交換して二、卵をそっちで交換して」
イレヴンが指差したのは非常に艶の強い蛇革に似た魔物素材。
太陽を反射してギラギラと輝く主張の強い素材だ。派手好き、と内心で呟いて水場ごしに会話を交わす二人を眺めながら砂の落ち着いた水で顔を洗う。
素材は各々が持っている事に変わりないが、リゼルが数を把握できるようにしている。脳内の多種多様な素材の種類と数を照らし合わせながら試行錯誤している事だろう。
「暑っち……」
ジルは立ち上がり、水場の外へと歩き出した。
不安定な水底の砂を踏みながら歩く足取りは揺らがず、水を蹴り分けながら進む。そして上着の横を素通りして乾いた砂を踏みしめながら一つの露店へ、売られている瓶詰された氷水を濡れそぼった空間魔法から取り出した牙二本と交換する。
良い体してるね、とばかりに木の掌で金属の歯車が回る胸を叩いてみせる店主に牙を渡した。そりゃどうも、と適当に返事をして瓶を一本拾い上げる。
そして再び水場の中へ。先程より浅い位置に腰かけて、コルクを抜いた瓶を呷った。
「あっ、リーダーニィサンが何か飲んでる!」
「あ、そこは三つにしたかったのに。なら嘘つき指定の質問をそこでして、代わりに」
「えー、俺も冷たいの飲みてぇ」
イレヴンが己の空間魔法から水瓶を取り出しながら、ざぶざぶと水の中へと歩いてくる。
砂が舞うから近寄るなと水面を凪ぐように水を引っ掛けてやれば、水を寄越せとぎゃんぎゃん文句を言われた。半分ほど減った瓶にコルクを詰め直し、足首だけ浸かっているイレヴンへと投げてやる。
「あいつにも回せよ」
「ん」
見れば、リゼルはちょうど全ての屋台に目を通し終えたところだった。
ふんふんと何度か頷き、そしてジルの視線に気づいてひらりと手を振ってくる。水の中から軽く手を持ち上げてやれば、目元を緩めながらヤシの木の細い木陰へと歩いていった。
腰を落ち着け、砂漠の果てを眺めながら数秒。その数秒で試行錯誤を終えたのだろう、手招かれる。
「で?」
「はい、水」
「有難うございます。あと、寄生サボテンの実が一つ足りなくて」
「げ」
まっすぐオアシスからオアシスへ向かう分には、魔物との遭遇率も特別高くはない。
とはいえ上着に腕を通しながら顔を顰めたジルに、リゼルが風を起こして濡れた装備を乾かしてやりながら微笑んだ。
「君たちのお買い物がなければいけたんですけど」
「おい、行くぞ」
「行ってきまーす」
素直に足りない材料を調達しに砂漠へと歩き出した二人を見送り、リゼルは冷たい瓶を頬に寄せながら立ち上がった。暑い暑いと言いながらすぐに戻ってくる二人がいない間に、進められる分の交換と質問を進めておこうと思ったからだ。
カラコロと瓶に氷がぶつかる涼やかな音を楽しみながら、一つ目の露店の前で店主と向き合う。
「自由な人達でしょう?」
周りの人形よりも小さな人形、ちょこんと腰を下ろした姿が纏うのは布のワンピース。
恐らく少女なのだろう一体の店主は、しゃがんで可笑しそうに笑うリゼルにこてんと首を傾げてみせた。
その後、慣れない砂地を歩き回ったリゼルの脚が限界を迎え、そして変わらぬ景色と熱気に飽きた疲れた暑いという不満がイレヴンから飛び出し、更にはジルの機嫌とガラの悪さがちょっと洒落にならない範囲に差し掛かってきた為に三人は攻略を切り上げた。
進捗としては恐らく大分ボスに近付いているだろう。一般的な冒険者から見れば異例のスピードだが、リゼル達にとっては普段通りの迷宮攻略だ。
「寒ィ」
「寒いですね」
「あー……」
当然だが、迷宮を出て湖から桟橋に上がった三人はずぶ濡れだった。
リゼルが風を起こして装備を簡単に乾かしたは良いものの、すでに日の落ち始めた時間帯。最初は寸前まで暑気に参っていたというのもあり気持ち良かったが直ぐに肌寒くなってくる。一人、ジルだけは涼しくて良いとばかりに声を漏らしているが。
そして軋む桟橋から煉瓦道へ。濡れた髪をそれぞれ拭いながら宿へと向かおうとした時だ。
ふと佇んでいる見知った姿を見つけて三人は足を止めた。桟橋の根元で貼り付けたかのように一ミリも動かぬ満面の笑みを浮かべながら立っていたのは、もはや馴染みになりつつあるギルド職員だ。
「お疲れ様でしたぁ」
「うわ」
どうしたのだろうかと通り過ぎようとしたリゼル達だったが、ぐるりと首を回した彼女に満面の笑みのまま声をかけられる。口元を引き攣らせたイレヴンから思わず声が上がった。
「やっぱり依頼を受けずに迷宮に潜っていらっしゃったんですねぇ」
「だから何……」
「サルスではいけませんでしたか?」
「いえ、全然オッケーですぅ。お気に障りましたら申し訳ございませぇん」
すると彼女は隣に立っていた一人の男に一つ頷いて見せた。兵らしき男だ。
同行者がいるのは気付いていたが、誰だろうと眺めている三人の前で男はリゼルとジルをしきりに見比べ、そして最後にまじまじとリゼルを見つめて納得したようなそうでもなさそうな顔をして去っていった。
一体何だったのかと彼を見送るリゼル達に、ギルド職員は満面の笑みを困ったように変えて深々と頭を下げる。
「お時間いただいて大変失礼いたしましたぁ」
「何かあったんですか?」
「あったと言いますか、なかったと言いますかぁ」
彼女は言うか言うまいか笑みを変えぬままやや悩み、結局それを口にした。
「本日、“貴族が黒い魔物に湖に引き摺り込まれた”という噂が市井を駆け巡りましてぇ」
とんでもない噂が流れていた。そしてイレヴンは噴き出した。
どうやら本当だったらヤバいだろうと迷宮のある南区の主導者が動き出す寸前、噂には敏感な女性の集まりである冒険者ギルドが「もしかしたら」と現場に急行して事実確認を行い、リゼル達の事を伝えた為に騒ぎにはならずに済んだようだ。
ちなみに報告を受けた南区主導者曰く「マジウケる」とのこと。怒っていないようで何よりだ。
「お手数おかけしました」
「とんでもございませぇん。こういう時の為のギルドですのでぇ」
眉を落としたリゼルに、彼女は一片の曇りもない笑みで首を振る。
ギルドの歴史を遡ってもこんな事は過去に一度もないのだが、物凄く広義で捉えればギリギリ冒険者被害だと言えなくもない事もないので彼女はそう告げた。そして「何事もなくてなによりでしたぁ」と颯爽と去っていく。
自分は自分の仕事をしただけだ、と語りかけてくる背中は酷く頼りがいがあった。
「今度、改めてお礼しないと」
「別に俺ら何も悪くねぇじゃん」
「つうか誰が魔物だよ」
「俺だって貴族って言われたんですよ」
「リーダーはなァ」
過去にも“放浪王子と訳あり騎士”だの“カジノの元締めと用心棒”だの“誘拐犯と被害者”だのと言われた事のある三人は慣れたものだ。敢えてそう振舞って誤解させたならともかく、そうではないのだからと特に気にする事なく宿へと帰るのだった。




