166:名前だけ知ってて姿を知らなかった
肌触りの良い毛質の毛布を二枚。
それに包まれて眠りに沈んでいたリゼルの意識がふいに浮上する。
「…………?」
微睡みのなか薄っすらと目を開いた。
部屋は静かで、冷えた空気に満ちている。それが毛布からはみ出た肩を撫でるのが嫌で、もぞもぞと口元まで潜り込みながらごろりと半回転。
右にも左にも空のベッドが一つ。視界を遮る前髪の隙間から、とろりと眠気に融けた瞳でそれを眺めた。
ジルは迷宮だろう。迷宮攻略を趣味とする冒険者最強は、自身が未攻略の迷宮があると心なしか生き生きとする。魔法仕掛けの迷宮が多くて面倒臭いとはいうが、全ての迷宮がそうという訳でもない。
それに今は、もしハズレを引いてしまっても手ごろな解決策が身近にある。それをさっさと引っ張ってくれば良い。そう考えてくれているのだろうが。
「(……サルスのまほうりろん、たくさん読んでおこう)」
全幅の信頼はある種の脅迫に似ている。
リゼルは口元を緩め、吐息だけで笑みを零した。リゼルの知識などその分野の専門家には敵わないものばかりであるというのに、頼りになるパーティメンバーは“そんなこと知るか”と簡単に言いのけてくれるのだ。
そのパーティメンバーのもう一人、イレヴンは恐らく昨晩から帰ってきていない。冒険者ギルドで解散した後、一度もその姿を見ていなかった。
「(アジト、あるのかな)」
もぞり、とずれていた上の毛布を引きあげて肩の力を抜く。
アスタルニアにもフォーキ団の名は届いていたのだ、より王都との取引が多いサルスなど言うまでもないだろう。王都にも幾つか拠点があったようだし、サルスにも一つや二つ置いているかもしれない。
あまりイレヴンとこういった話はしないのでリゼルの予想でしかないが。話題を避けている訳ではなくただのプライベートだ。そういう流れになったら普通に話す。
「(…………アジトっていうひびき、いいな)」
とろとろと瞼が落ちていく。
覚醒しきらない意識は再び沈み始めていた。次に目を覚ました時には寝坊と呼ばれるような時間になっていそうだが、二度寝の魅力には非常に抗いがたい。
たまには良いかと、リゼルは毛布に埋まった。そういえば、目が覚める直前、何かを感じたような。
チリリ
リゼルの意識が一気に覚醒した。
なり損ねた鈴のような音。忘れようがない。はっきりと覚えている。
リゼルは耳元を押さえながら跳ね起きた。いけない、と酷く焦る。ピアスからは慣れ親しんだ魔力が溢れつつある。だが、前回ほどの痛みはない。いや、それよりも。
早くしなければとベッドから足を下ろした。履物を探して視線を滑らせ、見つけて、それを手繰り寄せようとして。
バチンッと目前で魔力が弾けるのに、押されるように背筋が伸びる。
『いい格好だなぁ、リズ?』
「……おはようございます、陛下」
宙に現れた四角い窓の向こう側。にやにやと笑う王の姿。
敬愛する王に寝起き姿を晒してしまったという事実に、リゼルは魔力に煽られて跳ねた髪を押さえながら眉尻を落とした。
見慣れた王の上半身を縁どるのは、まさしく窓だった。
硬質に見えるも時折揺らぐ枠で縁取られ、透明な見えない何かで隔たれた窓。その薄い何かを壊してしまえば相手に触れられそうなそれは、押しても引いても何をしても微動だにしない。
『ま、窓っぽく見えるってだけだけどな』
ゴン、ゴン、と見えない壁をノックする姿を眺めながら、最低限の身支度を終えたリゼルはベッドに座って思案する。ちなみにリゼルは時間制限が厳しくない、と聞いて即座に仕えるべき王を待たせて身支度を整えた。
なにせ昔、同じく寝起きのリゼルの元へ転移魔術で跳んできた王を叱った事もある。以降、国王は渋々その時間帯を避けるようになった。
あっさり「気にしねぇのに」と言われるのだが、リゼルにも仕える者としての矜持があるのだ。諦めてもらうしかない。
「目に見えたとおりのものではないって事ですか?」
『カマ野郎曰く、“概念の具現化”らしいぞ』
「ああ、成程。流石ですね」
すぐに感心したように納得したリゼルに、彼を従える王は当然のように頷いた。
「世界の境目を定義づけたっていう事でしょうか」
『みてぇだな。普通ねぇんだろ、境目だの壁だの』
二つの世界は重なっているのか隣り合わせになっているのか、それとも途方もない距離があるのか。そもそも距離という概念すらないのかもしれない。
だがそれを“有る”と仮定して無理矢理にでも証明し、逆説的に境目の存在を確立させ、それを明確な形に具現化したものが目の前の窓なのだろう。今までは二段階目で止まっていたそれが、ついに三段階目を実現した。
言ってしまえばそれだけのこと。けれどリゼルには何をどうすれば実現できるのかも分からない。それを可能にできるからこその魔術研究の権威、王位を捨てる事を認めさせるほどの才を持つ王の兄。
どれほど頑張ってくれたのだろうと、絶えぬ感謝と喜びが湧き起こる。
「お礼、伝えておいて頂けますか?」
『あいつは自分の仕事してるだけだろ』
「それでも」
『帰ってきてから自分で言え』
鼻で笑う王に、それは勿論とリゼルも頷く。
「陛下、有難うございます」
『おう』
微笑んで告げれば、何てことなさそうに返された。
一国の王。その身に宿る魔力は膨大ではあるものの、匙一杯分の恩恵でさえ受けるにはどれほどの栄光を捧げなければいけないのか。それを匙どころか湖ほどもつぎ込んで、目の前の窓は維持されている。
当然だが王が個人の裁量で己の魔力を用いるのは自由なので、今回もその一環ではあるのだが。彼自身の意思で望まれたのだと思えば喜びも一入だ。
『つってもそっちでも楽しんでんだろ』
「それはもう」
王との文通は今も続いている。
その要となるレターケースが迷宮品という性質上、定期的にとは言えないがそれなりのやりとりができているだろう。手紙では面白おかしく互いの現状を語り合っている。
「まさかこちらで“お仕事”する訳にもいきませんし」
『そりゃそうだ』
王は片頬を吊り上げながら、リラックスするように椅子の背に肘をかけた。
その後ろの風景はリゼルにも見覚えのあるもの、城の敷地内にある魔術研究院の一室。王の兄のホームであるが今はいないようだ。
『他所の重鎮にうろうろされてりゃ良い気しねぇよ』
「私だったら嫌です」
『俺も嫌だっつうの』
「陛下は見つけた途端に強制送還させますしね」
『タチ悪ぃヤツなら話ぐらい聞いてんだろ』
リゼルが貴族としての自身を一切必要としない冒険者をしているのもこれが理由だ。
いや、九割くらいは楽しそうだからという理由だが。とはいえ他国の宰相が自国でうろついていると知って、それをあっさりと許容できるような国など滅多にないだろう。
偶発的だったとはいえリゼルが此処にいる。他にも同じような境遇の者がいてもおかしくはないし、そもそも既に意図的にそれを起こせる者がいたとしても不思議ではない。ならば“世界が違うし”などと楽観視せず考慮しておくべきだ。
なにせ、それを今から起こそうとしているのが己の王なのだから。実現不可能といわれても困ってしまう。
『強制送還っつっても国の手前に放り出してんだから親切だろ』
「王家の転移魔術は有名ですからね」
既に大体の国に魔術防壁で転移魔術での不法入国は対策され済みだ。
流石に歩いて入る分には普通に入れるが。外交問題になりそうな事はやらない。
『そっちにはいねぇのか、他に紛れ込んでるヤツ』
「会った事はありません」
『どっかの国がもうそっち知ってて国交開いてるって事も?』
「ないと思います。私の活動範囲も広くはないので断言はできませんが……」
『ふぅん』
おや、とリゼルは何かを思案している己の王を見た。
もしや世界を跨いで新たな国交でも開こうというのだろうか。他に実践している国がなければ数多の国との独占交易によって莫大な利益を上げられるだろう。
もしそうならまず秘密裏に目的の国の上層部と接触し、互いの情報と認識を共有し、使者のやりとりを重ねたうえで正式に国交を結ぶべきだろう。国民に異なる世界を周知するのは混乱を招きそうなので秘密にしておくべきか、いや大々的に交易品を市場に流そうと思えば出所を明らかにする必要がある。
「(うちもそうだけどこっちも、あ、シャドウ伯爵に頼めば何とか……ん、でもまず窓を常設できないと成立しないから、今はもうその目途がついて)」
『リズ、おい』
「はい」
深く考え込んでいた割に何事もなかったかのように返事をするリゼルに、王は仕方なさそうに小さく息を吐いて肘置きに肘をついた。
『いい』
「分かりました」
その一言で、リゼルはこの件を思考の端に置いておくに留める。
いらない、と王は告げた。国交を開く為の下準備、あるいはその前段階の手回しをしておくべきだろうかと考えたリゼルを、そんな内偵のような使い方をするつもりはないと告げた。
ならばそれに従うのみ。ふわりと口元を綻ばせたリゼルに、王は不敵に笑ってみせる。
『俺が遊んで待ってろっつってんだから遊んでりゃ良いんだよ』
「分かってますよ。それに、俺も今の本職は立派な冒険者ですから」
『ぶっちゃけ手紙にあった説明とお前が噛み合わねぇんだよな』
「え?」
『そういや今日はいねぇんだな、後の二人』
冒険者については折に触れて手紙で伝えていたが、まさかそんな事を思われていたとは。
まぁ元の世界には冒険者という制度がないので想像しにくいというのもあるだろう。リゼルはそう結論付けて、窓の向こう側で覗き込むように身を乗り出している王を見た。
どうやらあちらからの視界は、本物の窓と変わらないようだ。額を世界の境目に堂々と押し付けて部屋を見渡そうとしている。
『お、宿か。良いな、それっぽくて』
「良いでしょう? 三人部屋なんですよ」
『俺も泊まってみてぇんだよな、こういうとこ』
お忍びで市井に出歩いている王だが外泊は滅多にない。
あっても最上級の一人部屋が宛がわれるのが常であるので、王族としては変わった事に好奇心がくすぐられて仕方ないのだろう。リゼルは自分を棚に上げて微笑ましそうにその姿を眺めている。
「すみません、今ジルとイレヴンは出かけていて」
『お前おいてかれてんのかよ』
「違いますよ。一人は趣味の迷宮巡り、一人は夜遊びから帰ってきてないだけです」
『相ッ変わらず実力ありきのマイペース好きだよなぁ』
感心半分納得半分の物言いに、リゼルは可笑しそうに笑った。
実力ありきのマイペース、何とも言い得て妙だろう。自己が確立しているが故に他者を必要とせず、あまりにも完結している存在が為にわざとでなければ誰かを巻き込む事もない。
あちらが望まなければ、繋がる為の切っ掛けを持つ事さえ許されない相手。
「とても頑張りました」
『そりゃ珍しい』
「でしょう?」
王の顔に浮かぶ酷く愉快げな笑みは、元の世界で誰かを紹介する時に見せていたものと同じ。
例えば死神と名高い傭兵、例えば東の国の鬼人。まるでびっくり箱の中身を喜び勇んで当てようとする子供のように、果たして次はどんな奴を連れてくるのかと面白そうに待ち構えている。
リゼルにしてみれば、それほど奇抜な面々ばかり紹介したつもりもないのだが。
『まぁいい。いる時にでも紹介しろよ』
「分かりました。そんなに気になりますか?」
『うちの宰相が世話になってまーすっつっとかねぇと』
「確かにたくさんお世話にはなってます」
『だっろ』
口ぶりからして、これからは計画的に窓を繋げられるようになるのかもしれない。
リゼルは嬉しそうに微笑んで、求められるままに冒険者生活について話した。そのまま二人は暫し、久々のゆっくりとした雑談を楽しむのだった。
不思議な魔力を感じたのだけど、と気遣ってくれた宿の老婦人に大丈夫だと首を振り、親愛なる王との謁見を終えたリゼルは宿を出る。
その機嫌は言うまでもなくとても良い。家族やその周囲が(リゼルがいないという点は除いて)変わりないと聞けたし、リゼルも世話になっている人々の事を話せた。手紙では色々と書いてはいるが、やはり直接言葉を交わせるとやり取りできる情報量が違う。
興味深げに、あるいは時々ツッコミつつ話を聞いてくれた己の王は最終的に「やべ、魔石割れ」と言い残して窓ごと姿を消してしまったが。どれほど高品質の魔石を使ったのかは分からないが、それでも注ぎ込まれる膨大な量の魔力に耐えきれなかったのだろう。
「(魔術の基盤はできてるなら、後は出力の問題なのかなぁ)」
もっとも応用と工夫の利かない部分だ。
ある意味一番の難関だろう、と思いふけりながら水路沿いを歩いていく。その身に纏うのは冒険者装備。ギルドに行って魔物図鑑でも読むか、あるいは気になる依頼があったら一人で受けようかと思っていた。
「(今日は暖かいな……)」
ぽかぽかと頭上から降り注ぐ日差しが心地よい。
時折すれ違いながら二度見されつつも散歩のペースで歩を進める。狭い煉瓦道を何となく水路を眺めながら歩いていると、ふいに水面に波紋が広がるのが見えた。
足を止め、水路の際に立って真下を覗いてみる。水面の端でにょきりと顔を出していたのは。
「?」
見た事ないな、としゃがんでまじまじと眺めたのは掌サイズの何か。
半球の殻を背負い、そこから頭と手足を伸ばしている。短い手足を器用に動かして水に浮かんでいるようで、顔だけを水面から覗かせていた。
殻や体の色は青っぽく、頭には所々に黄色の斑点があるのが可愛らしい。フォルム的に魔物の子供だったりするのだろうかと、そんな事を考えていた時だ。
「お゛がめ゛ぢゃん゛~~~~!! あ゛だじのお゛がめ゛ぢゃん゛~~~~~!!」
「だから水換えの時は気を付けなさいって言ったでしょ!?」
「ごめ゛ん゛な゛ざい゛~~~~!!」
壮絶な泣き声と、叱りつけながらも焦ったような声。
リゼルは姿の見えないそちらを見て、ふと足元の見た事のない生き物を見下ろした。相変わらずぷかぷかと水面を漂う小さな体と、この世の全てを悟ったかのような静かな瞳。
「……おかめさん?」
そっと問いかけてみるも、ちゃぷりと両手で水を掻く生き物からは返答がない。当然だが。
そして、さてどうしようと首を傾ける。恐らくペットか何かなのだろうが、泣き声の主に知らせにいくにも目を離した隙にどこかへ行ってしまっては大変だ。
「(ペットだったら、いなくなったら悲しいだろうし)」
別に急いでいる訳でもない。実家にいる白いふわふわを思えば、それを失いかけている少女が泣きすぎて激しくえずいている姿をスルーするというのも難しかった。
リゼルはできる限り頑張ってみようかと、改めてぷかぷかしている謎の生き物に向き直った。無理なら無理で目撃証言だけ伝えればいい。
形状的にそうは見えないが、もし素早かったら捕まえるのは難しいだろうか。実際、水替えが何かは分からないがそこから逃げ出したのだから。
「(届くかな……)」
リゼルは取り敢えず装備の上着を脱いで、ポーチへと突っ込んだ。そして両袖を腕の途中まで捲る。
そんな、しゃがんだまま何らかの準備を始めるリゼルを通りがかった人々は「何してんだろ……」と思いながら見つめていた。手助けが必要そうなら声をかけたいが、リゼルの雰囲気が容易にそれを許さない。許していたら事態は即座に解決したというのに、これだからリゼルが己の気質を損だと告げるのも無理からぬことだろう。
「よし」
リゼルは膝を地面について、よいしょと腕を水路へと伸ばした。
水路は場所ごとに水量が違うのだが、ここは成人男性ならば頑張れば水面に届くほど。リゼルでも小さな生き物を掬うぐらいならばできるだろう。
魔法でどうにか手元に寄せても、最終的に手で捕まえなければいけないのは変わらない。
「おかめさん、爪が鋭いですね」
「……」
近くで見ると意外と爪がしっかりしていた。
引っ掻かれたら危ないだろうか、と少し心配になる。小さな女の子が世話をしているというなら危険な生き物ではないのだろうが。
「ん、」
掬えそうな入れ物もないし、と思いながら殻に指先が触れそうになった時。
「ちょ、ストップ、貴族さんストップ」
「あ、お久しぶりです」
「どうも。噛まれるんで、これ」
ふいに肩を引かれ、身体を起こした先で見たのは隣に並んでしゃがむ一人の青年。
長い前髪で両目を覆った彼はすぐにリゼルの冒険者装備の肩あたりを握っていた手を放し、代わりに木桶を差し出した。それを受け取り、謎の生き物と見比べる。
「噛むんですか?」
「そりゃ…………知らないですか、これ」
「はい」
不思議そうに告げれば、リゼルが精鋭と呼ぶ彼はひくりと口元を引き攣らせた。
そして一度は渡した木桶が持っていかれる。あ、と思う間もなくその手は水路の中へと消えていき、すぐに持ち上げられた。
木桶の中には薄っすらと張った水と手足を引っ込めて逆さになった謎の生き物。精鋭が桶を揺らせばごりごりと殻が揺れる。
「死んじゃいました?」
「や、生きてますよ。その内出てきます」
「へぇ」
感心したように眺めていれば、逆さのままにょきりと頭と手足が殻から伸びた。
そのままバタバタと暴れる姿に、リゼルは生物としての欠陥を感じずにはいられない。だが、その内自力で元の体勢に戻って桶の底を這いまわり始める。
「どうぞ」
「いえ、ここは君があの子に届けてあげた方が」
「冗談きついっすわ」
へらりと笑う口元は本心のみを告げていた。
本心から冗談だと、堪えがたいと思っているのだ。本来ならば今まさに行った一連の行為も彼にとっては理解しがたい気狂いの所業であるのだろうが。
マメな事だ、とリゼルは微笑む。そんな彼がリゼルにそれなりに好意的に振舞う理由など、一つしかない。
「お゛がめ゛ぢゃん〝!!」
その時、泣き声の主が少し離れた路地から飛びだしてきた。
目の前の水路に向かって号泣しながら大声で呼びかけており、早く返してあげないとそのまま飛び込んでいきそうだ。リゼルは精鋭から木桶を受け取った。
「有難うございます、精鋭さん」
「いえいえ」
「イレヴンに来てる事、伝えた方が良いですか?」
「や、多分知ってんじゃないですかね。貴族さん達より前にサルス来てるんで」
後ろ髪をかき混ぜながらそう告げた精鋭に、そうなのかとあっさりと頷く。
サルスにもアジトがあるのかも、と思っていたのだ。何人かはこちらに居ついていてもおかしくはない。
ちなみにリゼルは知る由もないが、目の前の精鋭は以前にジルの情報を集めていた情報屋の出所を探る為にその頃からサルス入りしている。いつの間にか三人共来ていて地味に驚いた。
「ごめ゛ん゛ね゛っ、お゛がめ゛ぢゃっ、ごめ゛ん゛ね゛っ」
「あ、そろそろ渡してきますね」
「またなんかあったら呼んでください」
「はい。それにしても、あの子が探してる子じゃなかったらどうしましょう」
「や、大丈夫だと思いますよ」
そして精鋭は立ち話していた知人と別れたかのように自然と歩き去っていった。
一つ路地を曲がってしまえば誰しもがすれ違った事すら忘れてしまうだろう、そんな空気に融け込むような雰囲気。瞬きすれば見失ってしまいそうな彼を見送る事なく、リゼルは抱えた木桶の中に手を差し込んで指先で謎の生き物の殻をつつきながら少女へと歩み寄った。
「お嬢さん、この子なんですけど」
「お゛がめ゛ぢゃ~~~~~~~~~~~~!!」
その後、言語機能を失った少女の代わりに、リゼルを前にして目を剥いた母親によってしこたま感謝された。最後には木桶を抱きしめた少女も泣きながらもお礼を言ってくれて、同じくペットを可愛がっている身としては頑張った甲斐があったというものだ。
リゼルは何度も頭を下げる母親へと安心させるように微笑んで、ギルドへと再び歩き出した。
それにしてもあの生き物は何ていう生き物なのかと、そんな事を思いながら。
サルスの冒険者ギルドでは、暇つぶしに居座る冒険者がやや少ない。
その理由は明白だろうと、リゼルは置かれたテーブルの一つにのんびりと腰かけながら思う。
「世界で一番のブサイク決める機会があったとすんじゃん」
「最ッ悪」
「言い出したヤツ全力で殴るわ」
「で?」
「絶不調の時の自分が断トツ優勝なんだけど」
「分かる」
「それ」
「優勝」
「肌荒れむくみ化粧ノリ最悪のトリプルコンボ決められると優勝余裕」
カウンターの中から聞こえる華やかな声。
姉妹らしい彼女達の手を動かしながらの会話は、声量が控えられているとはいえよく届く。声量だけでいえばアスタルニア冒険者ギルドの職員達の方がよほど大きいのだが悲しきかな、異性の声に思わず耳を澄ましては勝手にいたたまれなくなる冒険者が後を絶たないのだろう。
リゼルはそういった事もなく気にならないのだが、同じ男として何となく事情は察する事ができた。平気でたむろする冒険者も勿論いるし、逆に職員達とお近づきになろうと狙って居座る者もいるのでガランとしている訳でもないのだが。
「肌っていえばさぁ……」
「分かる」
「あれズルくない!?」
内緒話を始めた彼女達を気に掛ける事なく、リゼルは手元の魔物図鑑へと視線を落とす。
いまだ土地勘もない為、一人で受けられる依頼は酷く限られた。その中に気になる依頼がなかったので、今日は魔物図鑑を堪能する日だ。
図鑑を借りる際、インパクトの強いファーストコンタクトを果たした例の職員が「何故」と真顔になっていたが。
「(うん、詳しい)」
リゼルは、ある意味予想とおりの魔物図鑑に微かに目元を緩めた。
魔物の前横後ろ姿が描かれた図解、サイズ、習性、出現場所、素材箇所、その素材を獲るのに必要な道具まで。詳細かつ分かりやすく纏められた手本のような図鑑だった。
必然的にページも、どの魔物も見開きが使われている。これならば冊数が多くなるのも納得だ、とリゼルは図鑑がずらりと並べられていた棚を一瞥しながら納得する。
「(ん?)」
何ページか捲った頃、ふと違和感があって一ページ戻った。
アスタルニアでは魔物の種類別に纏められていた魔物図鑑だが、サルスでは文字の並び順で纏められている。リゼルとて全ての魔物を知っているとはまだまだ言えないが、既知の魔物でも気付く事ができた異変。
「すみません、職員さん」
「お伺いいたしまぁす」
席を立ち、図鑑を借りた受付へ。
可愛らしい満面の笑みといかにも余所いきである高い声と共に、ちょうど近くを通りかかった見知った職員が対応してくれた。ちなみに図鑑を貸し出してくれたのも彼女だ。
そんな職員だが、足早にリゼルへと近付いた際に椅子の脚に足の小指をしこたまぶつけていた。
「痛って……」
思わず零しただろう声は低かった。
聞いてはいけないものを聞いただろうかと、リゼルは苦笑しながら問いかける。
「大丈夫ですか?」
「いえいえ、何でもございませぇん! ご心配、恐れ入りますぅ」
すぐさま持ち直す彼女のプロ根性が素晴らしい。
一つ頷いて、見ない振りをした方が良さそうだと本題に入る。手にしていた魔物図鑑、そのキープしていたページを受付カウンターへと広げてみせた。
「ここなんですけど、ページが破られていて」
「えっ」
職員がリゼルの手元を覗き込む。
あまり好きではないけれどとリゼルが人差し指と中指で見開きのページの真ん中を広げてみれば、そこには確かに幾つかの紙片が微かに覗いていた。きっと、何処かの冒険者が覚えるのが面倒だからと破りとってしまったのだろう。
よく気付けたものだと感心しながら職員が頭を下げる。
「誠に申し訳ございませぇん。もし直ぐに必要なようでしたら大至急……」
「いえ、大丈夫ですよ。ただ読んでいただけなので」
何故ただ魔物図鑑を読む、と思われていた事をリゼルは知らない。
「後日、紛失した魔物を特定して修復いたしますのでぇ」
「魔物は名前の並びからして、“青い不定形”だと思います」
「え」
「“青色魔術師”と迷ったんですけど、あれは王都の迷宮固有種みたいなので」
そう口にしながら確認するように首を傾けたリゼルに、職員の笑顔が固まった。
彼女はその笑顔のまま図鑑とリゼルを数度見比べるも、果たしてリゼルの予想が合っているのかどうかは最後まで分からなかった。
いや疑っている訳ではない。むしろ多分そうなんだろうなと根拠もなく信じそうになっている。正解など職員どころか他の冒険者の大半が分からないだろう事を思えば彼女の混乱も当然の事だ。
いや、それよりも。
「たくさんの魔物と出会ってらっしゃるんですねぇ」
「ジルと比べればまだまだです」
「一刀と比べるのは……いいえ、何でもございませぇん」
「パルテダやアスタルニアでも魔物図鑑は読んだので、そのお陰かもしれませんね」
だから何故読む。
職員は満面の笑顔の裏側でやや理不尽に突っ込んだ。
「読書、好きなので」
「……母から聞きましたが、ピアノも弾かれるとかぁ」
「あぁ、“誤解されそうな発言は控えたほうがいい”ってご指導いただいたの、お母様だったんですね。すぐに俺だって特定されたので、ギルドの情報網は流石だなって思ってたんです」
「特定というより一択でした」
一瞬真顔になった職員を、リゼルは不思議そうに眺める。
ヒスイも一緒に演奏したのだから一択というのはおかしい気もするが、しかしヒスイはもうピアノを弾く気がないようなので間違ってはいないのかもしれない。先日は十年以上ぶりに弾いたと言っていたし、二度と弾きたくないとも言っていた。
だが、リゼルと弾く事自体は楽しかったと言ってくれたので十分だ。もう頼んでも弾いてくれないだろうけど、と苦笑を零す。
「(俺は感覚を忘れないように時々練習してるのに)」
十何年ぶりの演奏があれとは恐れ入る。
ちょっとずるい、と少しばかり思ってしまうのも仕方ないだろう。
「申し訳ございませんが、こちら預からせていただいてもよろしいですかぁ?」
「はい、どうぞ」
「代わりのもの、お渡ししてもよろしいですかぁ?」
「お願いします」
笑顔と申し訳なさそうな顔を巧みに使いこなす職員が、魔物図鑑の次の巻を渡してくれる。リゼルは気にしていないと微笑みながらそれを受け取った。
「ここの図鑑は魔物の種類別じゃないですね」
「噂ですが図鑑を作り始めた頃、編集に携わった方々の間で魔物の分類についての揉め事が頻発したようでぇ」
「あ、成程」
確かに魔物の中には植物なのか獣なのか分からない魔物もいる。
そういう時に個々の主張が対立したのだろう。王都のとある鳥人の魔物研究者のような者が複数いたのだと思えば、なんとなく納得できてしまう。
なくなったデータについて協力できるかとも思ったが、その手のプロがいるならば任せた方が良さそうだ。読むのならば専門家がまとめたものを読みたいというのもある。
「また何かございましたらお声がけくださぁい」
「有難うございます」
そしてリゼルは再びテーブルへ。
背後が何やら賑やかだが、気心知れた女が集まっていれば当然だろうと気にしない。テーブルの真ん中に置かれた花瓶と、そこに生けられた一輪の花も彼女達ならではの心遣いなのだろう。
ちなみにギルド内の喧嘩などで花瓶を割った冒険者はすみやかに粛清を食らう事をリゼルは知らない。
「おっ、リーダーみっけ」
椅子に腰かけ、さてと本を開こうとした時だ。
開きっぱなしの扉から、通り過ぎざまに見付けたというようにイレヴンが顔を出す。彼は軽い足取りでギルドに入ってきてリゼルの横へと座った。
「朝帰りですか?」
「そ、寝に帰る前に覗いてみた。またそれ読んでんの?」
「面白いですよ、ほら」
リゼルが開いた本を、イレヴンが肘をつきながら覗き込む。
魔物の余分な前情報になど興味がない彼が、それでも楽しそうに話に付き合ってくれるのは何故か。その理由は言うまでもない事だろう。
「パルテダやアスタルニアより詳しくて」
「あー、言われてみりゃそうかも。俺は文字少ねぇ方が読む気するけど」
「イラストも三方向から描かれてるんですよ」
「そーゆーんじゃなくてさァ、もっと」
和気藹々と話していると、ふいにイレヴンが言葉を止める。
どうしたのかとリゼルが視線を上げれば、じっとこちらを窺ってにんまりと笑うイレヴンの姿。
「なァんか機嫌良いじゃん、どしたの」
その言葉に、リゼルは口元を綻ばせた。
「また今度、教えますね」
「今じゃなくて?」
「サプライズです」
「それマジで怖ぇんスけど」
やや警戒混じりに口元を引き攣らせたイレヴンに可笑しそうに笑う。
そしてその後も暫くギルドで過ごしていた二人だが、予想通りに迷宮へと行って戻ってきたらしいジルにも「機嫌良いな」と指摘される事となる。
隠していないがそんなに分かりやすいだろうかと、リゼルは随分と素直になっているらしい己の表情筋を引き締めるのだった。
ちなみに宿に戻り、揃って夕食をとっている時のこと。
「そういえば今日、見た事ない生き物を見たんですよ。これくらいの大きさで、丸い殻で体が覆われてて、そこから頭や手足が出入りするっていう」
「リーダーそれ亀」
「お前見た事ねぇの」
やや引かれた。
更に別の国、とある宿でのこと。
「あ、お久しぶりですお客さんお泊りですか! え、いや王都帰ったんでいませんけど……え、聞いてないですかマジで聞いてない!?」
前話の後書きで書いた件で消えたものを復元できました!(手作業)




