12:却下された
何冊目かの本をぱたんと閉じ、リゼルは空を見上げた。
丁度頭上を過ぎたくらいの月に、そろそろ交代だろうかと椅子から立つ。
結局何も起こらなかったので、リゼルがした事と言えば火が消えないよう時々薪を追加したぐらいだ。
その薪も真横に積んであるので、リゼルは一歩たりとも椅子から動いていない。
足音を立てないように近付き、半開きの馬車の扉を覗きこむ。
月明かりが薄らと入りこむ車内では、二人の男が毛布に丸まって横になっていた。
流石長身、そこそこ広いはずの馬車が狭く感じると思いながら膝を乗り上げる。
余程気を付けたので微かに木の軋む音しかしなかったが、片方の毛布の山がごそりと動いた。
「……交代か」
身を起こしたジルが、靴を脱いでいない為に四つん這いのままのリゼルを見る。
囁かれた低く掠れた声は聞いた事のない寝起きの声だろうが、あの程度の音で起きられるとはリゼルには考えられなかった。
靴が乗り上げないよう気を付けながらじりじりと近寄り、その顔を覗きこむ。眠気など欠片も無い顔だ。
「なんでそんなにすんなり起きてるんですか、きちんと寝ました?」
リゼルはジャッジを起こさないよう配慮して小さい声で尋ねる。
あらぬ疑いを掛けるリゼルに抗議するように、ジルは使っていた毛布を上から落してやった。
一瞬視界を覆った毛布を取りながら、リゼルはずるずると後退する。
ジルも体を起こし、靴を履く為に馬車へと腰かけて足を外に投げ出した。
「寝たに決まってんだろ、それこそ気配で起きた」
「そんな寝方じゃ、疲れとれないんじゃないですか?」
「充分だ」
リゼルも靴を脱ごうと同じように馬車に腰かけ、ふいに隣に置かれたジルの手を上から握った。
自分より仄かに冷たい、言った通り一応寝てはいたのだろう。
されるがままの片手を放置して靴を履き、ジルはぱたんと握られた手を一度動かした。
リゼルの手が離れたのを確認して立ちあがり、ひとつ欠伸を零して椅子へと向かおうとするのをリゼルが止める。
「はい、どうぞ」
「ん」
差し出された本を受け取り、ちらりとその本を見た。
何度かリゼルの本を勝手に持っていきはしたが、どうやら自分の好みをリゼルは把握しているらしい。
好みと言うほど本に対して拘りは無いが、確かに自分が途中で飽きたりはしそうにない種類の本だ。
ジルはひらりと片手を上げて感謝を伝え、今度こそ椅子へと向かって行った。
それを最後まで見送ることなくリゼルは車内へと潜り込む。
渡された毛布はまだ微かに温かく、快適に寝られそうだと思いながら壁を向いて眠るジャッジの顔を覗きこんだ。
童顔が更に幼くなった平和そうな寝顔を浮かべ、安らかな寝息をたてている。
熟睡している事を確認し、自分ももう寝てしまおうと横になって毛布を巻きつける。
見張り中は眠くなかったが、温かくした途端に眠気が湧き起こって来た。一応自分も警戒は出来ていたのだろう。
車内に差し込む月明かりを避けるように毛布に潜り、リゼルはそっと目を閉じた。
翌朝、空が薄らと明るくなった頃ジャッジは目を覚ました。
薄らと明るくなったと言っても、逆の方角を見ればまだ夜空が見える時間帯だ。
しかし冒険者向けの店は皆一様に朝が早い。例に漏れず開店準備の為に早く起きるジャッジにとってはいつも起きている時間と変わりが無い。
もぞりと起き上がって眠さに落ちる瞼を堪えると、ふと横にある毛布のふくらみが目に入った。
長身のジャッジから見れば小さい毛布の膨らみ。寝る時に見たのがジルという事もあって余計にそう思えるのだろう。
リゼルに言わせれば立派に一般男性の背丈を持っているのだから小さいというのは止めて欲しいが、ジャッジから見れば大抵は男女問わず小さいのだから仕方が無いのかもしれない。
寝起きでぼうっとする頭でその毛布を眺めていたが、ふと小さな好奇心を抱いてしまった。
目覚めた好奇心はどんどんと大きくなっていき、堪え切れずじりじりと隣の毛布へとにじり寄った。
「少しだけ……」
誰に聞かせるでもなく言い訳して、そうっと毛布をめくる。
丁度此方を向いて寝ていたリゼルの顔が露わになり、ジャッジはおおっと謎の感動を胸の中で零した。
いつもは照れてまともに見れない顔だが、今ならば正面から見れるとジャッジはその寝顔を観察し始める。帰ったらスタッドに自慢しよう、叩かれるけどなどと考えながら。
目を引く派手な美貌ではないが、充分に端正な顔は清廉さを醸し出している。
瞳を隠していて初めて分かるが、穏やかにしながらもその瞳はいつも高貴を宿していたらしい。
それが隠されている今は普段よりずっと親しみやすく、だからこそ畏れ多さを感じず観察出来ているのだろう。
何より肌が綺麗、などと男に対して微妙な賛美を心の中で送りながらそろそろと指を伸ばした。
その手が頬に触れそうになる直前、キィと小さな音がして荷台の扉が僅かに開く。
「……何やってんだ」
「うわぁ!」
「起きてんのに出てこねぇと思ったら……」
「ち、ちがっ……!」
聞こえた声にジャッジは尻もちを付くほど驚き、訳も分からず言い訳を始めた。
それをジルがからかう気満々の笑みで眺めている間に、リゼルも目を覚ます。賑やかな朝だった。
そんな賑やかな朝晩を後二日過ごし、リゼル達はようやく商業国へと辿り着いた。
ようやくと言っても王都を出てから丸三日と少し、商人の馬車の足として考えれば上出来だと確信を持って言えるだろう。本来は丸五日かかるような道のりなのだから。
現在はマルケイド入りする為の順番待ちの最中だ。
流石商業国と言うべきか、方々の国から物も人も集まるのだから門付近は馬車や旅人で賑わっている。
入国の為には簡単な身分証明しか必要ではないが、数があれば時間もかかるのだ。
「サイノ実ジュース、いかがですかー。一本銅貨一枚ですよー」
「馬車を預けるなら門を入ってすぐ右、クレイトンの停留所へどうぞ! 門を入ってすぐ右です!」
並んでいる馬車の横を通り過ぎる歩き売りや宣伝を行う人々。
今はまだ太陽が真上に上がり切る前、早朝程の混みあいを見せないが列をなす馬車ひとつひとつに話しかけるように各々アピールをしている。
まだ国にも入っていないのに商魂たくましい、とリゼルは微笑んでざわめきに耳を澄ませていた。
「リゼルさん、ジルさん、もうすぐ門です」
「ん、冒険者はギルドカードが証明になるんですよね。緩いです」
「商業国なんざ人が集まんなきゃ話になんねぇからな、基本的に入国基準緩ぃんだよ」
入国基準が緩いので他国からの偵察は入りやすいが、その分人も物も情報も集まる。
商人たちにとってはまさに聖地だろう。実際並んでいる列も殆どが商人保有の馬車だ。
こういった国では政治的バランス感覚が良く、数多の商人の信頼を受けるようなトップが必要とされる。
当然マルケイドの領主も例に漏れないが、この国の場合は少し特殊だった。
「唯一の“成り上がり”なんですっけ」
「そういうの抵抗あんのか?」
「いいえ、優秀なら大歓迎です。むしろ迎えに行っても良いくらい」
生粋の貴族であるリゼルに対して尋ねたジルは、その意見を聞いて深く納得した。
スタッドもジャッジも、リゼルが自ら近付いた人物は優秀すぎる程優秀だからだ。
スタッドは次期ギルド幹部と言われているし、ジャッジの鑑定眼は言うまでも無い。
優秀な年下が可愛くって、というのがリゼルの主張だ。ジルは恐らく元の世界での教え子であった国王がまさに“優秀な年下”だったのではないかと思っている。
リゼルが元教え子について話す機会は多く無いが、その数少ない語り口調を思えば間違っては無いだろう。
「まだマルケイドが商業街と呼ばれていた頃に、現当主のお祖父様が貴族入りして領主になったんですよね」
「良く知ってんな」
「本に書いてありました」
何故当時商人でしかなかった先々代領主を領主としたのか。それは商業国ならではの理由がある。
先々代領主が国を相手にしていた程の大商人であったからだ。
他の商人の人望厚く、あらゆる商売に精通し街を取り仕切り、更には個人の資産を投資して街道の整備にかかる。
マルケイドが“街”から“国”まで発展したその偉業は、ほとんどが彼によるものだ。
当時も領主は居たが、商人達はこぞって先々代を頼り領主よりも先々代の発言力が強くなっていた。
それでも彼は当時の領主に敬意を払い、領主もまた自らをたててくれる先々代を快く思っていた事は何より幸いだっただろう。
だからこそ、領主は彼を自らの養子に迎え入れて正式に次期領主へ任命した。
当時子供に恵まれなかった領主はその判断を後悔する事無く、そして畏れ多いと拒否していた先々代も紆余曲折を経ていざ次期領主となった時には、その恩を返そうと懸命に打ち込んだ。
そうして先々代からたゆまぬ努力を続けた結果が今のマルケイドだ。
その発展たるや目を見張るものがある。相当の努力があったのだろう事は言うまでも無い。
「今でも商人達の信頼が続いてるのが、領主としても商人としても優秀な証拠ですね」
「小さいお店の出店許可とか出店場所とかも、全部自分で取り仕切ってるらしいです。他にも将来有望な商売には必ず目を向けて、出資する事もある、とか」
「その出資に他から文句が飛ばない所が凄いですね、余程商売人として信用されてるみたいです」
ジャッジの言葉にリゼルは感心した。
出資云々もそうだが、何より膨大な数に上るだろう出店許可すら取り仕切る所にだ。
流石商業国だけあって、マルケイドに出店して成功を収めるのは全商人の夢だろう。
それらを全て自ら処理する、つまり仕事がどんどこ増える。日々それをこなす領主に、リゼルは貴族として感心していたのだ。
「俺も帰った時が怖いですね」
「溜まった仕事がか」
正確に意味を読み取ってくれたジルに微笑む。
今は考えない事にした。
「そっか、忙しいからなんですね……」
「何がです?」
「今の領主様、全然人前に出ないらしいです。誰も顔を知らないとか……」
人前に出ない、その言葉にリゼルは内心首を傾げた。
良くも悪くも注目されるのが貴族という立場だ、それが全く顔を知られない事があるのか。
うーん、と考え込んでいるリゼルを嫌そうに見ながら、ジルが馬車の外を見た。
「おい、次だぞ」
「あ、はい」
もうすでに順番が回って来たらしい。
御者席に座るジャッジが商人用の通行証を見せ、リゼルとジルが冒険者用のギルドカードを見せる。
門番はジルのカードを見てぎょっとしていた。彼の知名度は此処でも有効らしい。
次にリゼルからギルドカードが差し出された事にぎょっとし、冒険者だと知って少しの間固まった。
「だからお前そうそう人を固めんなっつの」
「だから俺のせいじゃ無いですって」
軽口を叩きながら復活した門番の前を無事通り過ぎる。
門の中に入ってリゼルとジルはすぐに馬車を降りた。
ジャッジはこのまま祖父の家へと向かうらしい。本当は宿泊もそこでと誘われたが、家族水入らずの邪魔はしたくないとリゼルが断ったのだ。
ジャッジは残念そうな様子を隠そうともしない為、ジルは当の祖父へと僅かに同情してしまった。
久々に会う孫が自分と会う事より他の人間と過ごす事の方が楽しみだったとか。
「えっと、ならリゼルさん、泊まる場所とかは……」
「これからです。混んでそうですけど、安い宿なら空きはありそうですよね?」
「ああ、元々宿は多いしな」
「だ、駄目です!」
共に過ごした四日間でジャッジは少しリゼル達に慣れたらしい。
自分の言いたい事を少しは主張出来るようになったジャッジが、リゼル達に反論する。
珍しい光景にリゼルもジルも一旦口を閉じた。
「リゼルさんが、安宿なんかに、そんな…………僕が耐えられません!」
「俺は一体どんなイメージを持たれてるんでしょう」
「見たままじゃねぇの」
安宿に寝泊まりするリゼルを想像しているのか、ジャッジはプルプルしながら顔を青くしている。
固いベッド、だのレベルの低い店員、だの聞こえるあたり本気で嫌がっているようだ。
商売人として客に合うサービスに拘ることは間違いではないが、ジャッジがリゼルをどう思っているのか聞くのが少し恐ろしい。
恐らくリゼルが天蓋付きのベッドに横になって初めて満足気な笑顔を浮かべるだろう。
良いイメージを持たれるのも問題だ、とリゼルは何度目かになる他人から見た自分のギャップに苦笑した。
そんなに悪い宿は取らないと説得するが、最終的に泣いて止めるジャッジの前にリゼルは折れた。ついでにジルは引いた。
ジャッジ推薦の宿を数か所聞き、さらに断られた時の保障にジャッジの紹介カードを渡される。
カードにはジャッジが所属する祖父が起ち上げた商会名が書かれており、この国では相当有効らしい。
これを見せればある程度の宿は無理にでも空きを作ってくれるそうだ。
「こんなに良くして貰わなくても、」
「駄目です……!」
やはり泣かれたので、リゼルは諦めた。
「お前何であいつの押しに弱ぇんだよ」
「あんな懇願する目で泣かれたら仕方無いじゃないですか、拒否した瞬間絶望しそうだし」
リゼルは貰った紹介カードに視線を向ける。
ジャッジの祖父の名前と商会名、そしてジャッジの名前が書かれたそれには、その商会の場所も書かれている。
其処がジャッジの今回の目的地である祖父の家なのだろう。
リゼルはそれ程詳しくないが、恐らく大層な大商会のはずだ。
「じゃあ、三日後にこの場所に迎えに行きますね」
「ぜ、絶対他の馬車の護衛を引き受けちゃ駄目ですよ……! 僕と、帰るんですから!」
ジルが居れば護衛の依頼が引っ切り無しに訪れる事が分かっているのだろう、ジャッジはそう言いながら馬車で去って行った。
マルケイドで仕入れを行う商人は多い、帰り道はその積み荷を狙った盗賊に襲われる事もある。
だからこそ実力者を求めるのだが、ジルは名前を知られているだけで顔を知られているとは言い難い。
問題無いだろうに、と心配症なジャッジをリゼルは小さく手を振りながら見送った。
そして改めてぐるりと周りを見渡す。
「ごちゃっとしてますね」
「言ったろ、落ちつかないって」
門の前だと言うのに集まる屋台や露店、比較的広いスペースは見事に商人達に埋められていた。
道と言う道には店が並び、狭い路地にも露店が入りこみ、上を見上げれば宣伝用のフラッグやポスターが無数に吊り下げられている。
まさに商人の為の街、観光客も住人も多く道はひどくごった返していた。
「とりあえず宿を探しましょうか、オススメも何個か聞きましたし」
いつものように並んで歩き出した。
大通りは歩き出すと余計に人が多く感じ、常に目の前に人の壁がある感覚だ。
どうやって皆歩いているのだろうと思いながらも、平然とその中に入って行くジルに続く。
「あ、すみません」
「っと、失礼しました」
「ちょ、ジル、待……」
「……お前もう後ろ歩け」
人の波にこれでもかと揉まれるリゼルの腕を掴み、ジルは自分の後ろへと誘導する。
元々人混みに入った経験など無いリゼルだ。こうなる事は必然だろう。
ぶつかりぶつかられ、流されそうになったリゼルは苦笑しながら大人しくジルの後ろに続いた。
全く人にぶつからない。ガラが悪い見た目に周囲が自ら避けてくれるだけでは無く、ジルが人混みの歩き方を知っているのだろう。
黙々と歩く事数分、ふとジルが前を向いたまま後ろ手に左手を伸ばして来た。
その手に横から腰を押され、歩きながらも一歩分体が右にずらされる。
どうかしたのかとリゼルがその後頭部を見上げるまえに、気配無く横を通り過ぎて行った誰かの舌打ちが聞こえた。
ちらりと横を見ると足早に歩いて行ったのは若い男だった。
「……獲物にされてましたか」
「だろうな」
人混みの中の定番、スリだったらしい。
空間魔法を付けたカバンは使用するのが所有者で無くとも、物の出し入れが出来る。
リゼルはそれを防ぐ道具をジャッジにプレゼントされているのだが、勿論見た目では分からない。
しかも腕の良いスリになると気付かれない内にポーチごと取って行くのだから、ジルには感謝するしかない。
良い出で立ちでのんびりしたリゼルは彼らにとって絶好のカモなのだろう。
「彼がスリって良く分かりましたね」
「見りゃ分かるだろ」
「ジルって時々物凄く感覚で生きてますよね、尊敬します」
そんな会話をしながら大通りから路地へと入って行く。
メインストリートは夜でも賑やかだ、やはり人間寝る時は静かな方が良いので宿屋は喧騒が聞こえない路地の奥に位置する事が多い。
時々それが良いという人もいるので大通りにも宿はあるが、当然二人はそんなモノ好きではない。
怪しげな露店を通り過ぎて、路地の角にある階段を上る。そこが目的地だ。
ジャッジにオススメされた宿は幸い二人部屋が空いていた。
普段はずっと同じ部屋だと落ち着けない為一人部屋を二つとっているが、そもそも一人部屋のある宿は大体が冒険者向けの宿だ。この宿は完全に観光客向けの宿なので、当然一人部屋はない。
しかしここに滞在するのは数日なので、リゼルもジルも文句は無かった。
わざわざジャッジの紹介だと部屋を用意させるのも何なので、空いていただけ運が良かったのだろう。
「ジャッジんとこに行くのが三日後だから三泊、そこそこだな」
「ジルは何かやることあります?」
「いや」
「商業国には来た事があるんですよね? 門番の人も驚いてましたし」
「噂が独り歩きしてるだけだろ、あんま長く居た事ねぇな」
案内された宿の中でしばし休憩しながら、今後の予定を話し合う。
ジルは依頼で何度かマルケイドに来ているが、本人の言う通り拠点にするほど長期滞在した事は無い。
此処にもギルドはある為冒険者業には問題なかったが、やはり賑やかさが肌に合わなかったのだ。
数日で周囲の迷宮を全て制覇してパルテダに帰ったが、これがこの国でも知名度が高い理由だろう。
一週間もしない内に四つの迷宮を制覇するなど、並大抵の事ではない。
わざわざリゼルに伝えようとは思わないが。リゼルにとってジルが迷宮を幾つ踏破したなどはさして重要な情報では無いだろう。
「お前は」
「そうですね、とりあえず一通り観光してみたいです」
「じゃあ行くぞ」
宿で顔を突き合わせててもやる事は無い、そう言わんばかりにすぐさま立ちあがるジルに苦笑してリゼルも席を立った。
「ちくしょう! お前、絶対殺してやる! 殺してやるからな!」
一人の男が此方に向かって怒鳴っている。片手には剣を持って真っ直ぐ此方を向いていた。
どうしてこんな事になったのか、溢れる人混みの真ん中がぽっかりと空いた空間でリゼルは苦笑した。
周囲の野次馬はある程度の距離を開けてリゼル達を好奇心隠さぬ瞳で見つめている。
今居るのはマルケイド名物の“露店広場”のど真ん中だった。
リゼルは素直に目の前の光景に感嘆していた。
領主の館の前、かなり広い広場には所狭しと出店が並んでいる。
それこそ露店から屋台、扱うものは食べ物から武器防具、雑貨まで此処で見つからないものは無いとでも言いたげな光景だ。
唯一開けた中心部には噴水があるが、それ以外はまるで迷路のように店がひしめき合っている。
広場の奥はかなりの幅を持つ階段、領主の館へと続くそれには思い思いに人が腰を掛け、買ったであろう軽食にかぶりついている。
領主の屋敷にはたびたび人の往来があった。
役人らしき人間や商人など、おそらく行政機関も併設されているらしい。
これ程様々な人々が行き来する中、だれも領主の顔を知らないという事は領主自らが意図的に自分の存在を隠しているのだろう。
精力的に仕事をこなす人物が、そんな効率の悪いことをする理由は……そんな事を考えていたのがいけなかったのだろうか。
ふいにジルが立ち位置を反転させると、その剣で向かって来た剣撃を弾いたのだ。
悲鳴と共に逃げ出す人々、怒号を上げる男、リゼルの前に立ち男と向き合うジル。
リゼルはそれらを冷静に観察していたが、突然男に斬りかかられる理由にはまるで思い当たりが無かった。
周囲の人々が全て居なくなったのを確認して、リゼルはジルの後ろから男を見た。やはり見覚えは無い。
「俺は一度見た顔は忘れない自信があります、貴方とは初対面ですよね」
「そりゃてめぇみたいな奴は! 俺みたいな人間なんざ見る必要はねぇだろうなぁ!」
ジルがちらりとリゼルを見た。斬っても良いのかと問う視線に小さく首を振る。
周囲の事を考えると早々に解決したい問題ではあるが、理由ぐらいは聞き出しておきたい。
「では聞きますけど、俺は間接的に、貴方に何をしましたか?」
「何を、だと……ッ!」
憎しみ露わに此方へと向けられるその形相は恐ろしい。
周囲から悲鳴が上がるが、リゼルは微笑んだまま答えを促すように小さく首をかしげて見せた。
心底ナメられていると思ったのか、男が一歩踏み出す。
しかしジルが剣を一閃した事で、その足は止まった。ジルの剣は男とリゼル達の丁度中間にある露店の旗を折り、境界線となるように倒していた。
「越えるなら殺す」
理性を失った男だが、ジルの言葉に嘘偽りが無い事ぐらいは分かるのだろう。
低く淡々とした声に縫いとめられた男は今更ながらに相手の技量を痛感しているらしい。
歯が欠ける程に食いしばり、ぎりぎりと此方を睨みつけている。
「てめぇが! 俺の店を潰した! てめぇの所為で! 嫁も子供も居なくなった!」
「俺の所為で?」
「てめぇの所為だ! 成り上がり野郎!」
ああ、とリゼルは頷いた。明らかに人違いだ。
此処でもやはりリゼルは貴族に見えたのだろう。護衛を連れて街中をフラフラしていたのなら、自分の国を散策する領主にでも見えたかもしれない。
周囲がざわりと喧騒に包まれた。誰も見た事が無い領主が現れたと騒いでいるのだ。
「……お前は本当厄介だな」
「俺も不可抗力なんですってば」
何度目かの慣れたやり取りにリゼルは苦笑する。
貴族らしくするなと言われても普通に暮らしているだけだし、服装だって此方のものを着ている。
これ以上はもう周囲に慣れて貰う他無いだろう。
リゼルとしてみれば、口調も変えたしジルに言われた事は直しているしで、充分頑張っているのだが。
「一応言いますが、人違いです」
「信じられるか! 領主以外の貴族がこの街でふらついてるはずねぇ! ぶっ殺してやる!」
やはり信じては貰えない。
目の前の男は完全に逆上しているし、物事の判断もまともに付かないのだろう。
会話が伝わらない相手をリゼルは好まないが、此処で無視して立ち去るのも都合が悪い。
さり気なく周囲の様子を窺いながらリゼルは会話を長引かせる選択肢をとった。
「人違いだと主張は続けますが、貴方の店が潰れた原因に心当たりは?」
「てめぇが! 潰したんだ!」
「じゃあ、潰された原因に心当たりは?」
微笑みながら問うリゼルは、今まさに命を狙われている立場だとは思えなかった。
ジルから一歩下がった位置に居るのも、目の前の男への恐怖ではなくジルが守りやすいようにという配慮からだろう。
その態度が勘違いされるんだ、と言うのをジルは既に諦めている。
「てめぇが! ちょっと申請してない場所に店を開いたからって! 事情も聞かずに!」
「なぁんだ、貴方の責任じゃないですか」
「な……ッ」
「周りはきちんと申請した所にお店を出しているでしょう、決まり事なのに何で自分だけが申請しなくて良いなんて思っちゃったんですか?」
「そ、その程度……!」
「その程度の事も守れない人が貴方でしょう? ほら、周りを見て下さいよ。申請も出さずに良い立地を盗み取った貴方が何て思われてるか」
軽く手を広げてみせたリゼルに、男は血走った目をぎこちなく周囲へと向けた。
此処は商人の街だ。商人に溢れかえった街だ。
特に此処は露店広場、広場に店を出す大量の商人が遠巻きに男を眺めている。
領主へと信頼を捧げる商人達はもちろん申請結果に文句など言わない、あてがわれた場所が不利だとしても運が悪いと諦めるだけだ。その不利な場所も数あるより悪い立地を避けた結果なのだと理解している。
それが男はどうだろう。
それを理解できず、勝手に店を開き、露見して店を潰された事に対して憤った男の怒りは誰にも同意を得られない。
逆に怒りを、蔑みを、憎しみを、様々な負の感情を向けられている事に男はようやく気が付いた。
領主が悪いとそれだけで保っていた彼の矜持が根元から折られ、認められない自らの罪に苛まれるのも時間の問題だろう。
だが領主へと責任の全てを押し付けて逃げた男が、素直に自らの罪に向き合えるはずがない。
「見るな! 俺を見るな見るな見るなぁ! あいつの所為だ!」
このままでは男が暴走して周囲へと危害を加える事は想像に難くないだろう。
剣をがむしゃらに振り回そうと掲げた男に、リゼルは慌てもせずににこりと笑った。
「決まり事を守るという事は信用を得る事と同義ですよ、貴方は商人に向いてないですね」
周囲へと向かった矛先を強制的に此方へと向け直す。
発狂したような叫び声を上げて突撃してくる男は、既にジルが見えていないのだろう。
ジルはつまらない様子を隠しもせずに剣を構えた。
「すぐに此処を離れたいので、無傷でお願いします」
「面倒臭ぇな」
呟かれた言葉に舌打ちしながら見下ろすと、リゼルは既に男に視線を向ける事無くどこか違う場所を見ていた。何を見ているのか確認するよりも早く、男が此方に走り寄ってきている。
振り回された男の剣だけを弾く。弾いた剣は真横にあった弓遊びの屋台にある看板の的のど真ん中に突き刺さった。
剣を弾かれバランスを崩した男を蹴りつけ倒すと、その肩を踏みつける。
あっという間にカタが付いた事で、周囲の人々は喝采を惜しまず興奮気味に話し合っていた。
その人垣の間から憲兵が姿を現したのを確認し、リゼルは人垣の一部を見ていた視線をようやく男へと向ける。
微笑んではいるが、もはやその視線は男に何の興味も持ってはいない。
「改めて言いますが、」
ポーチを漁って一枚のカードを取り出す。
それを未だにジルに踏まれて身動きが取れない男に向かって、ひらひらと振って見せた。
「人違いです」
ギルドカードが示す意味をようやく理解したのか、呆然とする男を放置してリゼルは歩き出した。
呼び止める憲兵の声に、また今度とだけ返して歩みを止めずにただ一点を目指す。
慣れない人混みも関係ないと言わんばかりに突き進むリゼルを、ジルは怪訝な表情を隠しもせずに追った。勿論憲兵は無視だ。
「おい、どうした」
「騒動を長引かせた甲斐がありました、どうやら釣れたみたいです」
何故言いがかりを付けて来た男に付き合ったのか。
どうして好まない人種と会話を続けたのか。
ジルに頼めば周囲への被害無く一瞬で制圧出来たにも拘らず。
それはリゼルがある確信を持って、とある人物の登場を待っていたからだ。
さり気なくジルがフォローする中人垣を抜け出て、リゼルは目当ての後ろ姿を見つけた。
先程までじっと騒動を眺めていたにも拘らず、事態が収束したと共に踵を返した男。
カツカツと長い脚で大股に歩む歩きは早く、ようやく追いついたのは露店広場を出た大通りの事だった。
歩き続ける男の横に並び、まるで友人のように歩みを共にする。
「今いいですか?」
「却下だ。私は忙しい」
「貴方への手紙、預かっているんですけど」
「却下だ。私に心当たりは無い」
真っ直ぐと前を向いたまま歩き続ける男に、リゼルは苦笑した。
ジルは嫌な予感が的中したとばかりに顔を顰めている。
「じゃあ……貴方と間違えられて殺されかけた俺に、おわびに夕食でも奢ってくれませんか」
ぴたりと男が足を止めた。
そして初めてリゼルへと視線を向けると、強く響くような舌打ちをひとつ。
不本意だと表情で語る男は、忌々しげに足を鳴らしながら歩みを再開する。
「付いて来い」
唸るように零された言葉に、リゼルはにっこりと微笑んだ。