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キセキ  作者: かがりいずみ


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8/18

ありがとう

【Vol.8:Your final wish】


私が物心ついたときから父と母は仲が悪かった


私が10歳になる頃には

父と母はほとんど家で口を利かなくなっていた


父が何かを言うと

母はすぐに怒鳴り返していたので、

父は、何も言えなくなっていったのだと思う


何が気に入らないのか、母は事あるごとに

 父の目の前で父のことを悪く言った

その言葉を聞くたびに

父は悲しそうな目をしていた


そんな生活が続いたある日

 父の病気がわかった


ガン、だった


『最近はちゃんと治療すれば治る病気だから』


私を安心させようと、父は笑ってそう言った


 母は父の診察に同行することはなかったし、

私を行かせることもなかった


その後、短い入院が何度か続いた

 短い入院のたびに、父は痩せていったようだった

薬の副作用が強いということで

あまり外を出歩くこともなくなってきた


やせ細り、顔色が悪くなっていくのを見て、

 私は父が死んでしまうのではないかと心配していた


ある日、

 父が4回目の入院をしているときだった


父は私を枕元に呼んだ

無精髭が伸び、

口臭がひどかったのを覚えている

父は私にそっと言った


『お父さんは、キセキを起こすぞ…』


その口調は何か決意したような様子だった


4回目の入院はこれまでで一番長かった、

退院したとき、父の肌色はだいぶ白くなり、

頬はコケていた

副作用のせいで、髪の毛が抜けてしまったようで

 黒のニット帽を家の中でもかぶっていた

食事もだいぶ少量になっていた


父が退院した日の夕食のとき、母に対して

「明日、一緒に映画を見に行きたい」

と言った


「何考えているの?!

 好きにしたらいいじゃない

 どうせ私のこと嫌いなんでしょう!」


母は父を馬鹿にしたように、言う

いつものとおりだった


「明日、一緒に行きたいんだ

 君も休みのはずだろう?」


「私は行かないわよ

 あなたのこと嫌いだから」


母はなおも言う

 いつもならここで引くところだが、父は引かなかった

結局何度も何度も言うものだから

 最後には母が折れた


次の日、父と母は一緒に電車に乗って映画館に行ったようだった


その後、3日ほどした週末

また父は夕食のときに言った

「海に行きたい。君と一緒に」


はあ?またなの?

母は呆れたように言うが

どう言い返していいかわからなかったようだった


結局、母がレンタカーを借りて

結構遠出をして海を見てきたらしい


「何か話をしたの?」

と聞くと、母は

「何も」

とそっけなく答えた


その後も、父は母をいろいろなところに誘った

サブスクの動画を選ぼう

ゲームをやろう

散歩をしよう

腕を組もう

……

たまに母が父の言動にかちんと来て

怒鳴りそうになることがあるが


父は

「死に損ないなんだから、これくらい勘弁してくれよ」

と言って、薄く笑うのだった


たまには私も父と母のお出かけに付き添った

母も父もほとんど口を利かなかったが、

私は楽しかった


2ヶ月ほどして、

父は貧血を起こして倒れた

そして、そのまま入院してしまった


母が医師に呼ばれた

 私は廊下で待っていた

出てきた母の顔色は悪かった


「お父さん、

 もう、長く生きられないって」

母が言った言葉に私は耳を疑った


お父さんが死んでしまう…

嘘だ


父は数日後、一時帰宅できたが、

医師は「最後の帰宅かもしれない」と言っていた


父は帰ってすぐ

母に言った

「一緒に横浜に行ってほしい」


母は今度こそ黙って従った

私もついていった


海の見える公園で

父はゆっくり歩いた

母はその少し後ろを

私はそこからかなり後ろを歩いた


父は母を振り返った

 「付き合ってくれてありがとう

  とても嬉しかった」

父は笑っていた


その後、父はまた入院して

そのまま、家に帰ることはできなかった


父の最期の振る舞いを

母がどう捉えたかわからない

母がそのことにはめったに触れなかったからだ


母は気づいているかわからないけど、

父は母に『ありがとう』と言うために

あんなことをしたのだと思う


私のためにではなく

他の誰のためにでもなく

もちろん自分のためにでもなく

余命を母にありがとうと言うために使ったのだ


なんでそんなことをしたのか、までは

よくわからなかったけれど

一度だけ母が父の位牌に向かって

手を合わせている横顔を見たとき


私には、なんとなくわかった

父は

 本当にキセキを起こしたのだと

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