ただ、傍に
【Vol.18:She found a place to return to】
お休みの日、行く場所がない。
そして、帰るところがない。
もちろん家はあるから、帰る『場所』はある
でも、帰れるところじゃなかった。
だから、私は歩く。
公園を、川辺を、街を
海の見える場所を、ただただ、高いところを。
歩いていると、私の頭は空っぽになって、
ひとりだということを、忘れさせてくれるから。
そうやって、歩いて、歩いて、歩いて、
やっと部屋に戻って、眠るのだ。
そしてまた、朝が来て、一日が始まって、
一週間が過ぎて、休みが来て
また、歩く。
また・・・歩く。
なんだか、疲れたな。
高台にある公園の柵にもたれて、
私はぼんやりと街を眺めていた。
遠くに見える高層ビル群。
その後ろにはとてもきれいな青空が見えた。
シュッシュ
シュッシュ
その時、何か、
聞いたことがないような音がした。
ふとそちらの方を見ると、イーゼルの前に青年がいた。
油絵かな?
風景を描いてるのかもしれない。
一心に筆を走らせていた。
さっきの音は、筆がキャンバスを撫でる音だった。
――どんな絵を描いているのだろう?
邪魔をしないように、そっと後ろに回り込む。
「え?」
言葉が口をついてしまった。
青年が振り返り、私はひどく慌ててしまった。
「ご、ごめんなさい」
「えっと・・・なにか?」
問われて更に困ってしまった。
声をかけておいて『何でもありません』じゃ、あまりにも失礼。
仕方がないので、私は思ったままを言うことにした。
「あの・・・ビルを描かないんだなと思って」
そう、青年のキャンバスには
画面いっぱいに抜けるような秋の青空と、雲が描かれていた。
本来そこにあるはずのビル群は影も形もなかった。
青年は座ったまま私を見上げて、少し表情を柔らかくした。
「その方がいいと思って」
それが彼の返事だった。
その日はそのまま、なんとなく別れたのだった。
それから私は、その公園に繰り返し足を運ぶようになった。
青年はいたりいなかったりだったけど、
いる時はそっと後ろから彼が絵を描くのを見ていた。
絵が完成していく様子を見るのは、なんだか楽しかった。
秋の空の空気感
薄くたなびく雲の繊細な動き
冬に向かうひんやりとした温度までもが
そこに描きこまれていくみたいに感じた。
「座りません?」
ある日、青年が椅子を勧めてくれた。
彼が座っているのと同じ、小さな折りたたみの椅子だった。
「え・・・」
「ずっと立ってると大変かなって」
その日から、私は座って彼が絵を描くところを見るようになった。
もらってばかりではなんともバランスが悪いと思ったので、
たまに差し入れもした。
あったかいカフェオレを作って水筒に詰めてきたり
慣れないクッキーを焼いてみたり
小さいお菓子を渡してみたり
彼は殆ど喋らなかった。
時折「寒くないですか?」とか
「この色どう思います?」とか
話したことと言えば、それくらいだった。
でも、それが私にはとても心地が良かった。
ただ、傍にいる。
そんな時間が、本当に居心地が良かった。
いつしか、青年は私の『行く場所』になった。
彼がいるから、絵にも興味が出た。
彼に持っていこうと、新しいコーヒーの豆も買いに行った。
おしゃれなお菓子のお店を見つけると、彼が好きかなと考えた。
恋じゃない
愛でもない
でも、確実に私の中に
その場所はあった。
日が過ぎていく。
キャンバスが美しい色彩で埋まっていく。
彼の目に映る、彼の目にしか映っていない美しい青空が
そこにはあった。
少し、考えて、最後の一筆を入れた。
また少し考えて、
彼は小さく頷いた。
それは、この場所の終わりを意味していた。
「あ・・・」
言葉がこぼれた。
心が溢れそうになった。
それでも、長いことひとりでいた私は
それ以上、何も言うことができなかった。
絵の具を片付け、パレットをしまい、
筆をケースに入れていく。
私はただ、それを見守ることしかできなかった。
「あの・・・」
イーゼルを担いだ彼が、私に言った。
一瞬、あらぬ期待をしてしまったが、
それが自分の座っている椅子を片付けたいという意味だと知って、
私は慌てて立ち上がった。
椅子を持って、彼が立ち去ろうとする。
「あ・・・」
もう一度、声をかけた。
彼が振り返る。
「ありがとう」
「絵、見せてくれて」
・・・それが、精一杯だった。
☆☆☆
それから1ヶ月経って、
2か月が過ぎた。
彼はその公園に現れなくなった。
性懲りもなく、足を運んでいた私も、
次第に立ち寄ることが少なくなっていった。
更に何週間か経つ。
季節は冬。・・・もう、12月。
今年はとても寒くて、
1週間前には東京でも初雪を観測した。
それでも私は、
マフラーを巻いて、手袋をつけて
ふらふらと街を歩き続けていた。
あと、2週間もすれば今年も終わる。
ふと、数週間ぶりにあの公園を訪れていた。
そして、思った。
今日でもう止めよう、と。
行く場所も、帰る場所もないことより、
あった場所を失うことのほうが
もっともっと悲しいことだと、
私は知ってしまったから。
だったら、いっそ、
最初からなかったと思う方がいいのだ。
あの日と同じように、柵にもたれて、
遠くのビル群を眺めていた。
空は灰色に覆われていて、
ビルすらも冬の大気に霞んでいるみたいだった。
「寒いな・・・」
ほうと吐く息が白くなって、
空にふわりと消えていく。
厚手のコートを着ていても、
冬が身体に沁み通ってきそうだった。
「行こう」
誰にともなく呟いて、
私は踵を返した。
「あ・・・」
そこに、あの青年がいた。
マフラーを巻いて、グレーのコートを着て、
手袋をはめた手には、小さな紙袋を持っていた。
「ああ、良かった
何度か来てみたけれども、会えなかったから」
そう言って、紙袋を渡してきた。
「作品、間に合ったから
お礼しなきゃって思って」
それは小さな絵だった。
粉雪が舞う公園に女性が立っていた。
小さな絵なので、顔の造形はぼかしているけれども
なんとなく、それは私みたいにみえた。
「これ、私?」
びっくりしすぎて、まっすぐ聞いてしまった。
彼は少し目を泳がせてから、「はい」と言った。
初めて見る、表情だった。
一緒に名刺も入っていた。
名前と、メールアドレスと電話番号だけの
とてもシンプルな名刺だった。
「私・・・」
私も、慌てて自分の名を名乗る。
キセキのような、絵
いつの間にか、抱きしめるように抱えたその絵は
あの時の居場所のように、
とても、あったかかった。




