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第1話:呪縛

「ふざけんな! バカヤロウ!」


 父親が夕食のテーブルを拳で叩きつけた。ガシャリと激しい音が響き、顔を真っ赤にした父親の息が酒臭く鼻を突く。


「いや、だって中学に上がったら野球していいって、この前……」


 俺が話し終えるのを待たず、二度目の衝撃がテーブルを襲った。ひっくり返った茶碗から、炊きたての白米が畳の上にこぼれ落ちる。せっかくの晩飯が台無しだ。


「父子家庭で金も無いのに、一体洗濯だって誰がやると思ってんだ!」


 ――そうか。また忘れてるんだ。酒を飲んでいい気になり、機嫌よく軽口を叩いたことなんて、この男の頭にはこれっぽっちも残っていないのだ。

 じゃあ、何のために俺は小六になってすぐ、言われるがまま坊主にさせられたんだよ。意味が分からねえ。

 俺は親父に言われた言葉をそのまま心の中で反復した。


 ふざけんな! バカヤロウ!


 小学校の高学年になり、俺は同級生よりも頭一つ分、背が高くなっていた。足もクラスで一番速かったし、体育の授業でソフトボールをやれば、校庭のフェンスを越えるホームランばかり打っていた。

 ユニフォームを着て偉そうにしている野球部の奴らより、俺の方が何倍も運動神経がよかったし、ソフトも上手かった。

 だから野球だって俺の方が上手いはずだ。


 だけど目の前で酒に酔って虚ろな目をしている父親には、何を言っても無駄だった。自分の都合のいいことしか言わない。酒を飲んで上機嫌な時だけは、上っ面のいいことばっかり並べて人をその気にさせる。

 もう、うんざりだった。


 そんな親父は、俺が高三になった頃、家へ全く帰ってこなくなった。

 なんなんだよ、マジで。


 胸の奥に消えないモヤモヤを、大人になるまで抱え続けた俺は心に誓った。

 絶対に、俺は自分の子供にこんな思いをさせない。お年玉を勝手に使ったりしないし、子供が「やりたい」と言った好きな野球を、自分の手で目一杯させてやるんだ。


◇◇◇


 俺に待望の子供が生まれた。

 性別が分かった瞬間、ガッツポーズをした。男の子だ。

 この子に、俺が味わえなかった野球の本当の楽しさを教えてやる。それが俺の使命だと思った。


 まだ小さな息子の手を引き、休みの日には欠かさず公園へ連れて行った。プラスチック製のおもちゃのバットを持たせ、俺が優しく投げたボールを打たせる。芯に当たってカコンと軽い音が響くたび、親子で泥だらけになって走り回ってケラケラと笑い合った。

 家の中でも、スポンジのボールを使ってキャッチの練習を繰り返した。その甲斐あって、小学校に上がった息子は「ドッジボールが天才的に上手い」と学校で評判になった。


「上級生のボールを受けたよ」


 と目を輝かせて話す息子の姿が、自分のことのように鼻が高かった。


「お父さん、僕、野球に誘われたんだけど」


 小二の春、息子がそう言った時は、胸の奥が熱くなった。


 地元の少年野球チームに入部させた。部員がギリギリしかいない弱小チームだったため、息子は早い段階から試合に使ってもらえた。

 しかし、現実は甘くなかった。

 監督やコーチの息子たちが、実力に関係なく優先されて良い打順やポジションに就く。うちの息子は、どれだけ真面目に練習しても万年ライトで八番。いわゆる「ライパチ君」の扱いだった。

 息子の冷遇される姿を見るのは、かつて理不尽に野球を奪われた自分を見ているようで、胸がキリキリと痛んだ。


 それなら、親の俺が環境を変えてやるまでだ。

 俺は他の親が嫌がる子供たちの用具運びの車出しを率先して引き受け、週末には誰よりも早くグラウンドへ行って泥だらけになりながら草刈りをした。監督やコーチに文句を言わせないため、チームのために身を粉にして働いた。


 そして、息子が小六になったある日の練習試合。ついにその時が来た。

 監督やコーチの息子たちが揃いも揃ってノーコンでストライクが入らず、挙げ句の果てに「肘が痛い」などと言い出したのだ。マウンドに立てる人間がいなくなり、ベンチがパニックになる中、急遽うちの息子が投手をさせてもらえることになった。


 結果は、味方の手痛いエラーが重なって点をもぎ取られ、試合には負けてしまった。

 だけど、息子はたった一人で最後までマウンドを守り、見事に完投した。監督やコーチの身内のお坊ちゃんたちが投げるより、遥かに締まった、いい試合だった。


 あったりまえだろ。

 こっちはな、休みの日には毎朝早くからキャッチボールして、手が腫れるまでノックを浴びせてんだよ。お前らの息子みたいに、涼しい部屋でゲームしたりぐうたら過ごしてる奴らとは、積んできた時間が違うんだわ。


 泥だらけのユニフォームでマウンドから戻ってきた息子の姿を見つめながら、俺はバックネット裏で、胸がすくような思いだった。


 練習試合では、ほとんど息子が投げるようになった。四球を出さないし、低学年の打者が相手でも丁寧に投げるので、試合が大きく崩れることはない。


 ところが、小学生最後の公式試合はまたしても監督やコーチの息子が投げて試合にならず、圧倒的な大差で負けた。


 は? これまで息子を投げさせてた意味は? うちの息子の方が試合圧倒的に作れてたろ?


 俺は苦笑いを浮かべる妻の顔を見て、俯いたまま言葉が出なかった。

 だけど徐々に胸の奥から複雑な感情が湧き上がる。


 ふざけんな!バカヤロウ!

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