第6.5話 「名前が残る場所」
その夜、夢見太郎は眠れなかった。
寮のベッドに横になっても、目を閉じるたびに浮かぶのは、あの“痕跡”だった。
見たはずのない名前。
聞いたことのない声。
それなのに、なぜか“知っている”感覚。
「……エルナ・ルミナ」
小さく呟く。
その瞬間。
胸の奥が、わずかに軋んだ。
まるで。
“思い出してはいけないもの”に触れたみたいに。
「なんなんだよ……」
答えは出ない。
ただ、違和感だけが増えていく。
翌日。
パークはいつも通り、夢と笑顔で溢れていた。
子どもたちの笑い声、キャストたちの明るい声、軽快な音楽。
何も変わっていない。
――はずなのに。
「……」
太郎は気づく。
“足りない”。
何が、とは言えない。
でも確実に、何かが抜け落ちている。
「おい、夢見」
背後から声がした。
振り返ると、早乙女だった。
「顔、死んでるわよ」
「……寝不足です」
適当に答える。
だが。
早乙女は、じっと太郎の目を見る。
「……見たのね」
心臓が、跳ねる。
「何のことですか」
「とぼけるならいいけど」
視線を外さない。
「“消えたやつ”でしょ」
空気が、わずかに冷える。
否定できなかった。
沈黙が、答えになる。
早乙女は、ため息をついた。
「最悪ね」
ぼそりと呟く。
「……何がですか」
早乙女は少しだけ迷ってから、言った。
「“名前を覚えた時点でアウト”なのよ」
その言葉が、刺さる。
「忘れなさい」
即答だった。
「無理です」
太郎も、即答していた。
早乙女の眉が、わずかに動く。
「……どうして」
その問いに、うまく答えられない。
ただ。
「……放っておけない」
それだけは、はっきりしていた。
その日の業務中。
太郎は何度も、“違和感”に足を止めた。
案内看板。
マップ。
キャストの説明。
どこを見ても、“何かが削られている”。
まるで。
最初から存在しなかったかのように、綺麗に。
だが。
完全ではない。
ふとした瞬間に、“ノイズ”のように現れる。
例えば――
花壇のプレート。
『ルミナガーデン』と書かれていた文字が、一瞬だけ見えた。
瞬きをすると。
それは『ドリームガーデン』に変わっている。
「……今の……」
近くにいた同僚、真壁陸に声をかける。
「真壁さん、ここって……」
「ああ?何もねーよ」
あっさりと返される。
その反応が、逆に怖かった。
夕方。
パレードが始まる。
音楽が鳴り響き、キャラクターたちが笑顔を振りまく。
その中に。
リュミエラ・スノウがいた。
完璧な笑顔。
完璧な仕草。
だが。
ほんの一瞬だけ。
動きが止まる。
視線が、太郎に向く。
その目は。
“姫”のものじゃなかった。
何かを探すような。
失くしたものを思い出しかけているような。
その瞬間。
口が、わずかに動く。
『……エ……ル……』
聞こえないはずの距離。
なのに。
確かに、そう言った。
次の瞬間には、もう元に戻っている。
完璧な、夢の姫に。
「……やっぱり」
確信に変わる。
これは偶然じゃない。
パレードが終わる。
音楽が遠ざかり、歓声が散っていく。
太郎は、気づけば裏通路に立っていた。
人気のない通路。
キャストしか通らない、照明の落ちた場所。
奥に、人影があった。
白いドレス。
リュミエラ・スノウだった。
「……あの」
思わず声をかける。
彼女は、ゆっくりと振り返った。
その顔は――笑っていなかった。
初めて見る、“役じゃない表情”。
「……あなた」
小さく、呟く。
「さっき……見てた?」
何を、とは言わない。
でも、分かる。
「……はい」
答えてしまう。
少しだけ、沈黙。
リュミエラは、自分の手を見つめる。
「ねえ」
静かな声。
「この名前、綺麗だと思う?」
唐突な問い。
「え……?」
「リュミエラ・スノウ」
ゆっくりと、自分の名前をなぞるように言う。
「光で、白くて、完璧で……」
少しだけ笑う。
でもその笑みは、どこか歪んでいた。
「ねえ、どう思う?」
太郎は答えに詰まる。
“正解”が分からない。
「……似合ってると思います」
無難な答え。
その瞬間。
リュミエラの表情が、ほんの一瞬だけ崩れた。
「……そっか」
小さく頷く。
そして。
ぽつりと、こぼす。
『その名前で呼ばれるたびに、少しずつ私じゃなくなるの』
空気が止まる。
「……え?」
聞き返す。
リュミエラは、はっとしたように顔を上げる。
まるで、自分が何を言ったのか分からないように。
「……今、私……」
混乱している。
そして。
ゆっくりと、太郎を見る。
「……エルナ、って誰?」
その問い。
完全に“初めて聞いた人間の声”だった。
だが。
次の瞬間。
彼女の目が、揺れる。
呼吸が浅くなる。
「……ちがう……」
小さく、呟く。
「……それ……知ってる……」
頭を押さえる。
苦しそうに。
「……思い出しちゃ……ダメ……」
その顔は。
“知らない”と“思い出しかけている”が、同時に存在していた。
そして。
一瞬だけ。
別の表情になる。
優しくて。
どこか懐かしくて。
“リュミエラじゃない誰か”。
だがそれは、すぐに消える。
「……ごめんなさい」
完璧な笑顔に戻る。
「今の、忘れて」
そう言って。
彼女は歩き去った。
何事もなかったかのように。
ただ。
その背中だけが。
少しだけ、“軽くなっている”ように見えた。
夜。
閉園後。
太郎は、一人でパークを歩いていた。
無意識だった。
足が、導かれるように動く。
辿り着いたのは――
誰もいないはずの、小さな広場。
そこに。
“あるはずのないもの”があった。
古びたプレート。
削られた文字。
指でなぞる。
うっすらと。
確かに残っている。
――ELNA LUMINA
「……ここに、いたんだな」
その瞬間。
風が、吹いた。
いや。
違う。
“誰かが、息をした”。
「……たろう……」
背後から、声がする。
ゆっくりと、振り返る。
誰もいない。
それでも。
確かに、いる。
「……エルナ?」
呼びかけた瞬間。
空気が、わずかに歪んだ。
それはまだ。
形にならない“何か”。
でも。
確かに。
そこに、“存在しようとしている”。
そして――
背後で、別の気配がした。
振り向かなくても分かる。
低く、静かな声が落ちる。
「……触れたな」
グリム・ノクスだった。




