第12話 「選ばなかった代償」
差し出された手を、太郎は見つめていた。
ミックーの手。完璧で、迷いのない手。
その先にあるのは、安定した世界。壊れない物語。誰も疑問を持たない、完成された夢。
けれど。
視線を動かす。
リュミエラは膝をついたまま、必死に自分を保とうとしている。体の輪郭がわずかに揺らぎ、光が滲む。それでも消えまいと、歯を食いしばっている。
その向こうで、エルナは立っていた。はっきりとした形を持ち、強い目でこちらを見ている。その存在は不安定なのに、意思だけは揺らいでいない。
どちらも、本物に見えた。
どちらも、消えてほしくなかった。
「……選べるわけ、ないだろ」
絞り出すように言う。
ミックーの笑顔は変わらない。
「選ばないっていうのも、選択だよ」
静かな声だった。
その瞬間、空の亀裂が大きく走る。世界が軋む音が響く。
太郎は歯を食いしばる。
「……どっちも守る」
言ってしまってから、それがどれだけ無茶か分かる。
それでも、言わずにはいられなかった。
「ふたりとも消さない。ここも壊さない」
沈黙。
ミックーが、初めて小さく息を吐いた。
「一番ダメなやつだね」
その言葉と同時に、世界が一段深く歪む。
リュミエラの体が揺れる。
「……っ!」
彼女が顔を上げる。目の奥に、はっきりとした恐怖があった。
「……来る」
その声と同時に、エルナの存在が強くなる。
空気が変わる。重さが増す。
『……もう止まらない』
エルナが一歩踏み出す。
その動きに呼応するように、リュミエラの体が崩れかける。
「……やめて」
リュミエラが手を伸ばす。
「来ないで……!」
『それ、わたしの場所』
エルナは止まらない。
『返して』
「違う……!」
リュミエラが叫ぶ。
「これは……わたしの……!」
言葉が途切れる。
“わたしの何か”が言えない。
その隙間に、エルナが踏み込む。
『名前、借りてるだけでしょ』
その一言が、深く突き刺さる。
リュミエラの表情が崩れる。
「……違う」
否定する。
けれど、その声は弱い。
『じゃあ証明して』
エルナは、まっすぐに言う。
『その名前がなくても、あなたは“あなた”って言える?』
沈黙。
答えが出ない。
その瞬間、リュミエラの体がさらに薄くなる。
「……いや」
震える声。
「……消えたくない」
その言葉は、本物だった。
作られた笑顔ではない、初めての“自分の声”。
エルナが、ほんの少しだけ目を細める。
『……同じだ』
小さく呟く。
『わたしも消えたくなかった』
その言葉が重なった瞬間、二人の存在がぶつかる。
光が弾ける。
空間が歪む。
互いに引き寄せ合い、押し返し合う。
融合ではない。
拒絶でもない。
“存在の取り合い”。
「やめろ……!」
太郎が踏み出す。
だが、足が止まる。見えない壁のようなものに阻まれる。
ミックーの声が後ろから届く。
「触れないよ。もうその段階じゃない」
振り返る。
「どういう意味だよ!」
「選ばなかったから」
淡々と告げる。
「均衡が崩れた。今はもう、どっちかが残るまで止まらない」
「ふざけんな……!」
太郎は再び前を見る。
二人の姿が重なり、歪み、引き裂かれる。
リュミエラが叫ぶ。
「……いやああああ!」
エルナも叫ぶ。
『返せえええ!』
声が重なる。
世界が悲鳴を上げる。
そのとき。
太郎の頭に、ひとつの考えが走る。
“選ばない”じゃない。
“別の選び方”があるんじゃないか。
「……名前」
小さく呟く。
ミックーがわずかに反応する。
「……なんだって?」
太郎は前を見たまま言う。
「名前が原因なんだろ……!」
リュミエラの言葉がよぎる。
『その名前で呼ばれるたびに、少しずつ私じゃなくなるの』
なら。
その“枠”ごと壊せばいい。
「おい!」
太郎は叫ぶ。
「リュミエラ!エルナ!」
二人の動きが一瞬だけ止まる。
「どっちも、その名前やめろ!」
沈黙。
理解が追いつかない空白。
「その名前があるから、奪い合ってるんだろ!」
必死に続ける。
「なら捨てろ!両方とも!」
ミックーの表情が、初めてはっきりと歪む。
「……それは」
太郎は構わず叫ぶ。
「自分で決めろ!どっちでもない“自分の名前”!」
世界が一瞬だけ静止する。
エルナとリュミエラが、同時にこちらを見る。
その目は、同じだった。
迷いと、恐怖と、そして――
わずかな希望。
次の瞬間、衝突がさらに激しくなる。
だが、それはさっきまでと違っていた。
“奪う力”ではなく、“離れようとする力”が混ざり始めている。
ミックーが低く呟く。
「……やめろ」
初めての焦り。
「それは設計外だ」
太郎は歯を食いしばる。
「知るかよ……!」
光が爆発する。
名前が、剥がれ落ちるように消えていく。
物語が、きしむ。
世界が、悲鳴を上げる。
それでも。
二人は、まだ消えていなかった。




