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ゆりかご 〜列島の生態系を侵食する、未知なる脅威へ挑む〜  作者: 久能のの


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22/25

22 遺産(1)

 朔人の宣告は、ドーム内の空気を一変させた。

 絶対的な自信に満ちていた唐崎の表情が凍りつき、その瞳から光が失われていく。彼は突きつけられた真実を拒絶するように、あるいは必死に理解しようとするように、震える唇を開いた。


「……停滞」


 唐崎は、その言葉を咀嚼するように繰り返した。

 ドームの高い天井に吸い込まれていった朔人の指摘は、しばらくの沈黙を経て、唐崎の思考回路の中で巨大な反響音となって暴れ回っていた。


 これまで彼を支えていた絶対的な自信。それらが、たった一つの単語――「停滞」という、彼が最も忌み嫌い、人類に対して投げつけ続けてきた言葉によって、足元から揺らぎ始めていた。

 彼にとって、自らの計画は「加速」であるはずだった。

 遅々として進まない自然選択のプロセスを飛び越え、遺伝子工学という翼で未来へとショートカットする偉業。そう信じて疑わなかった。

 だが、目の前の青年は、それを機能論として否定した。


「……私の理論が、停滞だと?」


 唐崎は、すがりつくように背後のホログラムを見上げた。

 青白く輝く二重らせん。四十億年の生命史が凝縮された、美しくも完璧な結晶。


「馬鹿な……。これは全ての生命の頂点だ。あらゆる環境に適応し、強靭な肉体を持つ、完成された生物だぞ? 宇宙空間ですら、君の言う通り宇宙服を着ればいい。だが、生身で耐えられる肉体があれば、システムトラブルで死ぬこともない。リスクを最小限にし、生存確率を極限まで高める。人類を強くする。その願いのどこが間違っていると言うのだ」

「人類を強くしようとすること、それ自体は間違っていません」


 朔人は静かに、しかし力強く言った。


「病に苦しまない身体、環境の変化に負けない強さ。それを願うのは、科学者として、いや、人間として当然の想いです。先生がこの設計図に込めた『人類への愛』そのものを、僕は否定しない」


 唐崎がハッとして振り返る。朔人の瞳に、軽蔑の色はなかった。そこにあったのは、道を違えてしまった恩師に対する、痛切なほどの誠実さだった。


「ですが、先生。その目的を達成するための『手段』において、あなたは二つの決定的な過ちを犯している」


 朔人は一歩前へ出て、二本の指を立てた。


「一つは『生命の選別』。そしてもう一つは、『生態系の破壊』です」


 唐崎は眉をひそめた。


「選別? 弱きを捨て、強きを残すのは自然の摂理だろう。私はそれを加速させたに過ぎない」

「いいえ、違います。自然界における淘汰は、結果論です。ある環境において、たまたま不向きだったものが消え、向きだったものが残る。そこには善悪も、優劣の意思もありません。ですが、あなたは自分の意志で『弱い』と決めつけ、切り捨てようとした」


 朔人は、周囲のモニターに映るキメラたちのデータを指し示した。


「先生は、現代の人類を『脆弱』だと嘆きました。確かに、我々は裸では冬を越せないし、猛獣には勝てない。ですが、その『弱さ』こそが、特定の環境に縛られない自由さを生んだんです。ある環境では弱点となる特徴が、別の環境では最強の武器になることもある。それが遺伝子の多様性です」


 朔人の声が熱を帯びる。


「鎌状赤血球貧血という遺伝病がありますね。貧血を引き起こす『欠陥』ですが、マラリアが蔓延する地域では、これを持つ者はマラリアにかかりにくく、生存率が高い。もし先生が『貧血は弱さだ』と断じてこの遺伝子を消去していたら、人類はマラリアという脅威に対して一つの対抗手段を失っていたことになる」


 唐崎は言葉に詰まった。生物学者として、その事例を知らないはずがない。


「……それは特殊な例だ」

「特殊ではありません。生命の歴史は、その連続なんです。何が『強さ』で何が『弱さ』かなんて、その時の環境が決めることであって、今の我々が判断できることじゃない。先生、あなたは『神』の視点に立とうとしましたが、あなたの持っている定規は『現在の地球環境』という、あまりにも短い尺度でしかない。その不完全な定規で生命を選別し、未来の可能性を間引くこと……それこそが、第一の過ちです」


 唐崎の表情が強張る。反論しようと口を開きかけるが、言葉が出てこない。

 朔人は間髪入れずに続けた。


「そして第二の過ち。それが『生態系の破壊』です」


 朔人は、ドームの外、分厚い岩盤の向こうに広がる四国の森、そして日本の山々を指差した。


「あなたはキメラの性能を実証するために、既存の生態系をテスト環境として利用しました。頂点捕食者と戦わせ、結果として生態系が崩壊しても構わないと考えていた。それがどれほど愚かなことか、分からないあなたではないはずだ」


 唐崎は表情ひとつ変えずに答えた。


「実証実験には、相応のフィールドが必要だ。古い種が駆逐されるのは、彼らが弱かったというだけの話。結果として優れた種が残れば、それでいい」

「いいえ、良くありません。その『フィールド』が壊れてしまえば、勝者もまた生きてはいけないからです」


 朔人は諭すように、しかし力強く続けた。ここからは、目の前の狂った科学者へ向けた言葉であると同時に、まだ見ぬ未来の読者へ向けた警告でもあった。


「生態系とは、単なる『場所』ではありません。大気、水、土壌、微生物から植物、動物に至るまで、無数の要素が絡み合い、互いに支え合うことで成立する巨大な『生命維持装置』です。どれほど強靭な肉体を持った生物でも、この装置が機能していなければ、呼吸も、摂食も、排泄物の分解さえままならない」


 唐崎は押し黙った。反論の言葉を探しているのか、視線が宙を彷徨う。


「先生、あなたは個体の『強さ』を追い求めるあまり、その個体を生かすための『土台』を軽視しすぎている。実験を急ぐあまり、あなたは試験管の中身だけでなく、実験室ごと焼き払おうとしているんだ。土台を壊せば、その上に立つ『完全な生物』も共倒れになる。それは進化ではありません。ただの心中です」


 唐崎の表情が強張る。口を開きかけるが、声が出ない。理論が間違っていたのではない。ただ、あまりにも目標――「最強の個体」の完成――に集中しすぎていたのだ。その輝かしいゴールテープを切ることだけに意識を奪われ、自分が走っているトラックが崩れかけていることに、今の今まで目を向けていなかった。


「私は……焦っていたのか」


 唐崎が呻く。背後のホログラムにノイズが走った。完璧な二重らせんの映像が、彼の一瞬の迷いと同期するように揺らぎ、不安定な明滅を繰り返す。それは論理の敗北というよりは、盲目的に突っ走ってきた情熱が、ふと足元を見た瞬間に覚えた目眩に似ていた。


「研究対象の性能を証明するために、背景となる環境を犠牲にしては本末転倒だ。先生、あなたのやったことは、科学的検証ですらない。結果を急ぐあまり安全性を無視した、ただの暴走です」


 唐崎は苦渋に満ちた顔で俯いた。


「強くなりたければ、守らなければならなかったんです。この地球の、ありとあらゆる命を。無駄に見えるものも、弱く見えるものも、全てを含み込んだこの巨大なシステムそのものを」


 唐崎は顔を上げ、朔人を見た。

 その瞳から、狂気じみた熱は完全に消え去っていた。

 そこにあるのは、長年追い求めてきた真理が、自分の足元――人間が本来持っていた「弱さ」と、それを包み込む「世界」の中にあったのだと気づいた者の、深い虚脱感と、ある種の納得だった。


 彼はゆっくりと、空中のホログラムに手を伸ばした。

 かつては絶対的な正解に見えたその光の螺旋が、今はただの、美しくも虚しいガラス細工に見えた。


「……そうか。私は、ゆりかごを揺らす手を、止めてしまうところだったのか」


 唐崎の手が下ろされる。

 それと同時に、ドーム内を満たしていた威圧的な空気が霧散していった。


「……参ったな。どうやら、進化の袋小路に入り込んでいたのは、人類の方ではなく……私の方だったようだ」


 唐崎は自嘲気味に笑い、眼鏡を外して目頭を押さえた。

 それは敗北宣言というよりも、長い研究の果てに、ようやく正しい実験結果を受け入れた科学者の、静かな安堵の表情に近かった。


「先生……」


 朔人が声をかけようとした時、唐崎は穏やかな顔で彼を見た。


「礼を言うよ、晴嵐君。君がここに来てくれてよかった。もし私一人でこの道を突き進んでいたら、私は本当に、世界を『無』に帰していただろう」


 唐崎は背筋を伸ばし、憑き物が落ちたような顔で二人の前に立った。

 そこには、世界の支配を目論んだ独裁者の影はなく、ただ真理の前に跪いた一人の老科学者の姿があった。

 論理の戦いは終わった。勝者も敗者もなく、ただ一つの「正解」だけが、静寂の中に残されていた。

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