21 生命の進化(3)
唐崎はゆっくりとプラットフォームの上を歩き回りながら、まるで愚かな生徒に言い聞かせる教師のような口調で語り始めた。
「晴嵐君。君は多様性を『リスクヘッジ』だと言ったね。種が分散していれば、誰かが生き残ると。確かに、それは野生動物の生存戦略としては正しい。だが、我々は人間だ。知性を持った存在だ」
唐崎は空中で明滅する二重らせんを見上げ、まるで神託を告げるかのように厳かに続けた。
「霊長の王たる我々には、この星の生物を代表して、理不尽な絶滅のサイクルから解脱する資格があるはずだ。いつまで泥の中を這いずり回り、運任せの生存競争に身を委ねているつもりかね?」
唐崎が指を弾くと、ホログラムの映像が切り替わった。
そこに映し出されたのは、飢餓に苦しむ子供たち、病に冒された人々、そして環境破壊によって住処を追われる動物たちの姿だった。
「多様性とは、裏を返せば『格差』と『不平等』の温床だ。強い個体と弱い個体、適応できる者とできない者。その差異が、差別を生み、争いを生み、悲劇を生む。君が守ろうとしているものの正体は、この終わりのない苦しみの連鎖なのだよ」
唐崎の声には、深い嘆きと、それを救済しようとする独善的な使命感が滲んでいた。
「私は、この不条理な連鎖を断ち切りたいのだ。全ての人間が、あらゆる環境に適応できる強靭な肉体と、病に冒されない完全な免疫を持てば、争いなど起きようがない」
その瞳には、狂気と紙一重の、純粋すぎる理想の光が宿っていた。
「私が目指しているのは、有史以来続いてきた凄惨な生存競争を終わらせ、真に公平で豊かな世界を実現することだ。全ての人間が等しく『強者』となれば、そこには弱者も、敗者も存在し得ないのだから」
唐崎は両手を広げ、光り輝く螺旋を背に、神々しいまでの威圧感を放った。
「これは破壊ではない。かつて生命が持っていた全ての可能性を、再び人類の手に取り戻す『再獲得』なのだ。君はそれを冒涜と呼ぶが、私にはこれこそが、知性が辿り着くべき究極の愛に見えるがね」
圧倒的な正論のように響くその言葉に、レイナが息を呑む気配がした。
現在の苦しみを否定し、完全な平等を約束する。それは、弱き者たちにとって抗いがたい福音に聞こえるだろう。
だが、朔人は動じなかった。
眼鏡の奥の瞳は、唐崎が放つ光の眩しさに幻惑されることなく、その影に潜む決定的な矛盾を見据えていた。
「……先生。あなたは今、『知性』と言いましたね」
朔人は静かに切り出した。
「ああ、その通り。我々は知性によって自然の摂理を超克すべきだ」
「ならば聞きます。あなたは、我々人類が、この地球上の生命が持つ可能性の全てを、既に解明し尽くしたと思っているのですか?」
唐崎は眉を少し上げた。
「科学は日進月歩だ。だが、私のこの設計図は、現時点での遺伝子工学の集大成であり、ほぼ全ての生命情報を網羅している」
「『ほぼ』、ですね。それが問題なんです」
朔人は一歩前へ出た。
「先生、それこそがあなたの計画の、二つ目の、そして最も致命的な過ちです」
朔人の断定的な言葉に、唐崎の表情が微かに強張った。
「過ちだと?」
「はい。第一の過ちは、あなたの言う『完全』が、あくまで『現在の知識』という狭い枠組みの中での完全さに過ぎないということです」
朔人は周囲のモニターに流れる膨大なデータを指差した。
「我々生物学者は、まだ生命の深淵のほんの入り口に立ったに過ぎません。深海には未知の代謝システムを持つ微生物がいるかもしれない。熱帯雨林の奥地には、我々の想像を超える遺伝子修復能力を持つ植物があるかもしれない。四十億年という歳月が隠し持っている『未知の可能性』は、あなたのデータベースの何千倍、何万倍もあるはずです」
朔人の声が熱を帯びる。
「あなたの計画は、現在の人類が『有用だ』と判断した遺伝子だけを選別し、それ以外を『不要』として切り捨てる行為です。それは、将来人類が発見し、学び得たかもしれない偉大な可能性の芽を、永遠に摘み取ってしまう自殺行為に等しい。一度失われた種は、二度と戻らない。あなたがやろうとしていることは、読み終わっていない図書館の本を、『自分には必要ない』と判断して片っ端から焼き払っているのと同じです」
唐崎は不快げに鼻を鳴らした。
「未知への配慮か。学術的には正しい態度かもしれんが、政治的決断としては弱すぎる。見つかるかどうかも分からない可能性のために、現在進行形の苦しみを放置しろと言うのか?」
「いいえ。放置などしません」
朔人は即座に否定した。
「だからこそ、我々には『知性』があるんじゃないですか。そして、ここからが私が致命的だと述べた、第二の過ちです」
朔人は唐崎の目を真っ直ぐに見つめ、彼が最も誇りとする「再構築」の概念そのものを否定しにかかった。
「先生。あなたは先ほど、鳥のように飛び、魚のように泳ぐために、肉体を改造する必要があると言いました。ですが、それは本当に『進化』なのでしょうか?」
「何が言いたい?」
「考えてもみてください。人類は、翼を持たずに空を飛びました。エラを持たずに深海へ潜りました。どうやって? 鳥を観察し、流体力学を学び、飛行機を作ったからです。魚を研究し、潜水艦を作ったからです」
朔人は自らのこめかみを指先でトントンと叩いた。
「我々は、他の生命の形を模倣し、その原理を理解し、道具として外部化することで、肉体の限界を超えてきた。それこそが、人類という種が選んだ、独自の、そして最強の進化戦略です」
ドーム内の空気が変わった。
レイナがハッとしたように顔を上げる。彼女もまた、朔人の言葉の中に、人間としての誇りの在り処を見つけたのだ。
朔人は畳み掛けるように続けた。
「あなたの理論には、致命的な欠陥がある。もし生命の『パーツ』を統合することだけが進化だと言うのなら、人類は永遠に宇宙へは行けなかったことになる」
唐崎の動きが止まった。
「……どういう意味だ?」
「簡単なことです。四十億年の地球の歴史において、生身で宇宙空間へ飛び出し、月面を歩いた動物はいません。つまり、あなたの愛する『生命の設計図』のどこを探しても、真空に耐え、無重力で生きるための遺伝子は存在しないのです」
朔人は空中に浮かぶ光の螺旋を指差した。
「過去の生物のパーツをいくら集めても、そこには『地球の外』へ行くための翼はない。あなたの論理に従えば、人類は永遠にこの星の重力圏に縛り付けられたままです。ですが現実は違う。我々はロケットを作り、宇宙服という殻を纏って、星の海へと漕ぎ出した。遺伝子に頼らず、知性によって不可能を可能にしたんです」
朔人の言葉は、ドームの静寂に深く染み渡った。
「他の生物の遺伝子を無理やり取り込んで、肉体そのものを変える必要なんてない。そんなことをすれば、我々はただの『器用貧乏な動物』に戻ってしまう。生命の可能性を取り込むのに、破壊も改造も必要ないんです。理解し、学び、知恵として継承する。それさえあれば、我々はどんな環境にも適応できる」
朔人は、光り輝く「原初の生命」のホログラムを改めて見上げた。
「その設計図は素晴らしい。ですが、それは『着る』ものではなく、『読む』ものです。そこから学び、新たな技術や薬を生み出すことこそが、科学者の仕事でしょう。それを自らの肉体に埋め込もうなどと……」
朔人は一度言葉を切り、哀れみすら込めて恩師に引導を渡した。
「先生、あなたのやっていることは、進化ではありません。その誇るべき知性を放棄し、過去の遺産のやり繰りだけで満足しようとする、最も原始的で、最も愚かな『停滞』です」
「……停滞、だと?」
唐崎の声が震えた。
それは怒りか、あるいは図星を突かれた動揺か。
「私が……この私が、進化を止めていると言うのか……!」
「そうです。あなたは神になろうとして、思考を止めた。未来を創ると言いながら、過去の生物のパッチワークに逃げ込んだだけだ」
朔人の言葉は、物理的な攻撃よりも鋭い論理の刃となって、唐崎のプライドを深々と突き刺した。
「多様性を認めず、未知を恐れ、全てを自分の理解できる範囲に押し込めようとする。それは知性の敗北です。科学者としてのあなたは、もう死んでいる」
ドーム内に、決定的な亀裂が走った。
それは床や壁の話ではない。唐崎宗介という男が築き上げてきた、完璧な理論の城壁に入った、修復不可能なヒビの音だった。
絶対的な自信に満ちていた唐崎の表情が、初めて崩れた。
そこに見えたのは、自分の信じてきた世界が、かつての教え子の言葉によって音を立てて崩れ去っていく様を呆然と見つめる、一人の老人の姿だった。




