12 敵(2)
地下実験室の重い気密扉が閉まる音と共に、朔人は日常の世界へと戻ってきた。
だが、彼の心に重くのしかかる鉛のような事実は、消毒液の匂いと共にこびりついて離れない。
エレベーターで地上階の研究室へと戻ると、そこでは伊香立がモニターに食い入るように向かっていた。彼の背中からは、ただならぬ焦燥感と、未知の事実に対する恐怖が滲み出ている。
朔人の足音に気づき、伊香立が勢いよく振り返った。その顔色は悪い。
「先生……地下の『あれ』は、何だったんですか?」
朔人は無言で首を振り、自分のデスクへと歩み寄った。重い沈黙が、肯定よりも雄弁に事実を語っていた。
「やはり、クロでしたか」
「ああ。真っ黒だ。自然界の偶然なんて生易しいものじゃない。あれは、高度な遺伝子工学によって設計された、生きた工業製品だ」
朔人は椅子に深く腰掛け、天井を仰いだ。
「CRISPRによる編集痕、異種間の拒絶反応を抑えるための免疫抑制遺伝子の挿入……。完璧すぎる。誰が作ったにせよ、その技術力は我々の想像を遥かに超えている」
伊香立は息を呑んだ。
漠然と感じていた不安が、確信へと変わる瞬間だった。
「では、やはり人為的な……バイオテロか何かだと?」
「目的は分からない。だが、誰かが意図的にあの化け物を日本の山に放ったことだけは間違いない。そして、君がまとめたデータが、その『意図』を読み解く鍵になるはずだ」
朔人は視線を戻し、伊香立を促した。
「見せてくれ。君が電話で言っていた裏付けを」
「はい」
伊香立は緊張した面持ちで、メインモニターにデータを投影した。
日本地図上に無数の赤い点が打たれている。それは、この数週間で報告された野生動物の変死、および行方不明の発生地点だ。
伊香立がキーを叩くと、赤い点の一部が青く変わり、残りの赤色がより鮮明に輝き出した。
「まず、ノイズを除去しました。病死、事故死、あるいは通常の捕食による死。これらを除外して、今回捕獲したキメラのような『未知の捕食者』によるものと思われる被害――死体の損壊が激しいものや、死体そのものが消失しているケースだけを抽出しました」
地図上の分布が整理され、被害が特定のエリアに集中していることが浮き彫りになる。
「次に、被害者の内訳です」
画面の右側に、動物のリストが表示された。
「北海道ではエゾヒグマ。本州ではツキノワグマとイヌワシ。そして都市近郊や里山では、アライグマやハクビシンといった中型獣です」
「一見するとバラバラに見えるが……」
「ええ。ですが、環境省の生態系調査データと重ね合わせることで、先生が最初に仰っていたことが数字で証明されました」
伊香立が操作すると、各動物の名前に注釈が加えられた。
そこには、それぞれの生息域における「生態学的地位」が記されていた。
「ヒグマとイヌワシは言わずもがな、国内最強の捕食者です。そして、アライグマやハクビシンもまた、侵入した地域においては天敵がおらず、実質的な『頂点』として振る舞っている種です」
伊香立は確信を込めて告げた。
「先生の予想通りです。被害に遭っているのは、例外なくそのエリアにおける『生態系ピラミッドの頂点』に君臨する生物だけでした」
朔人は腕を組み、画面を睨みつけた。
最初に抱いた予感は、確信を通り越して、戦慄すべき事実となっていた。
「弱った個体や、老齢個体というわけではないんだな?」
「はい。むしろ、若くて力のある、群れのリーダー格や、縄張りを強く主張する個体が優先的に狙われています。逆に、彼らの餌となる草食動物や、小型の齧歯類には、目立った被害が出ていません」
「異常だ」
朔人は吐き捨てるように言った。
「生物学の鉄則に『最適採餌理論』というものがある。捕食者は、自身の生存と繁殖のために、最も効率的な餌の取り方を選択するように進化してきたという理論だ」
朔人はホワイトボードに、エネルギー効率を示すグラフを描き込んでいった。そのペンの運びは、背後から迫る破局への焦燥を理性で無理やり押し留めるように、痛々しいほど整然としていた。
「野生の捕食者にとって、狩りは常に命がけのギャンブルだ。獲物の反撃を受けて怪我をすれば、それはそのまま『死』を意味する。だからこそ、彼らは本能的にリスクを避ける。自分より弱く、病気で、逃げ足の遅い個体を選んで襲うのがセオリーだ。コストパフォーマンスの観点から見ても、同格以上の強敵に挑むのは割に合わない自殺行為だからだ」
「そうなんです。ヒグマやイヌワシといった頂点捕食者は、襲う側にとってリスクの塊です。まともな野生動物なら、まず避けて通ります」
「だが今回、奴らはその『まともな判断』を放棄している。リスク度外視で、あえて最強の相手に戦いを挑んでいる」
朔人はグラフに大きなバツ印を書き込んだ。キュッ、という乾いた音が静かな部屋に響く。
「伊香立君。これは生存競争じゃないかもしれない。もっと冷徹で、機械的な……『性能試験』のようなものではないだろうか」
「性能試験、ですか?」
「ああ。例えば、軍需産業が新型の戦車や戦闘機を開発したとして、その性能をどうやって証明する? 張り子の標的を撃っても意味がない。実戦で脅威となりうる、強力な仮想敵機と戦わせるはずだ」
朔人は不等号を指先で強く叩いた。
「犯人は、人工的に作り出した怪物――キメラの戦闘能力を測定したがっている。机上の計算で弾き出した筋力や敏捷性が、本当に自然界の予測不可能な環境で通用するかどうか。それを確かめるには、自然界における『現行の最強兵器』とぶつけるのが一番手っ取り早い」
伊香立が息を呑んだ。
「……つまり、ヒグマやイヌワシは、テストのための標的にされたと?」
「そうだとしたら、辻褄が合う。キメラが勝てば、その機体は合格。負ければ、設計ミスとして廃棄し、次のロットで改良する。……そうやって『破壊試験』と『実弾演習』を繰り返してデータを集めているとは考えられないか? 山で死んでいった熊たちは、単にテストに合格するための『踏み台』として消費されたに過ぎない」
朔人の脳裏に、地下で見たキメラのDNA配列が蘇る。
必要な機能だけを継ぎ接ぎされた、効率的すぎる殺戮生物。あれは、自然界で生きるために生まれた生命ではない。この「実証実験」で高得点を叩き出すためだけに生み出された、生きた工業製品だったのだ。
「……ですが先生、もしこれが生物兵器の運用試験だとしたら、致命的な欠陥がありませんか?」
「欠陥?」
「ええ。敵意のある強い相手しか襲わないというのは、裏を返せば『敵意を見せない相手』や『弱い相手』は見逃してしまう可能性があるということです。兵器である以上、ターゲットが民間人だろうと無抵抗だろうと、命令されれば排除できなければ意味がない。これでは、使い物になりません」
「……その通りだ。リスクを冒してまで強敵を選ぶという行動原理は、兵器としての効率性を無視している。やはり、これは単なる兵器開発ではない。もっと別の……『強さ』そのものを証明しなくてはならない理由があるのか」
「強さの証明……? そんな自己満足のために、これだけの命を奪ったと言うんですか? 悪趣味すぎる。自然界を、自分専用の闘技場か何かだと思っている」
「ああ。まさに『神の視点』だ。生命を交換可能なパーツとしか思っていない人間にしか、こんな発想はできない」
朔人は手にしたマーカーを握りしめた。その手が、恐怖や焦燥で小刻みに震えているのが自分でも分かった。
怒りよりも先に、底知れぬ恐怖が込み上げてくる。
「計算され尽くした破壊」が、今この瞬間も進行していることへの戦慄。
「犯人の目的は、究極の『生物兵器』か、あるいは『最強生物』を設計することかもしれない。そのために、自らが作ったプロトタイプを野に放ち、強さを証明させようとしている。……この実験が完了した時、そこにはもう元の生態系は残っていない」
「先生、もし仮説が正しいとして、この実験はいつ終わるんですか?」
「終わらないさ。満足のいくデータが取れるまではな。だが、一つだけ確かなことがある」
朔人はホワイトボードを指の背で叩いた。
「このテストは、まだ完了していないということだ。被害マップを見てくれ。被害は広がっているが、まだら模様だ」
朔人は地図上の空白地帯を指でなぞった。
「奴らは組織的に動いている。回収部隊がいるのか、あるいは自律的に移動しているのかは分からないが、この『侵略』を指揮する拠点か、あるいは補給線のようなものがあるはずだ」
朔人は鋭い眼光で伊香立を見た。
「伊香立君、キメラの行動ログをもう一度洗ってくれ。特に、奴らは『何を食べているか』だ。あれだけの代謝を維持するには、普通の食事だけじゃ足りないはずだ。何か、奴らの行動を縛る『弱点』あるいは『必須条件』があるはずだ」
「……分かりました。やってみます」
伊香立は青ざめた顔を引き締め、再びキーボードに向かった。
未知の恐怖に震えながらも、彼もまた科学者としての矜持を持っていた。
朔人は窓の外、広がる夜の闇を見つめた。
この静かな夜の向こう側で、今も日本の生態系が、何者かの手によって静かに、しかし確実に殺され、書き換えられている。
見えない敵の正体。その巨大な悪意の輪郭が、ようやくおぼろげに見え始めていた。




