13 敵(3)
夜が深まり、研究室の窓ガラスには自分の疲れた顔と、背後で点滅するサーバーのLEDだけが映り込んでいた。
伊香立は充血した目をこすりながら、膨大な代謝産物解析のデータと格闘していた。
朔人の仮説が正しければ、あのキメラには何らかの「弱点」あるいは「必須条件」があるはずだ。
地下の隔離室で眠る個体から採取した血液、尿、そして胃の内容物。それら全ての成分をガスクロマトグラフィー質量分析計にかけ、既知の物質ライブラリと照合する。
地味で根気のいる作業だが、これこそが科学捜査の基本だ。
「……先生、出ました」
数時間の沈黙を破り、伊香立が声を上げた。
ソファで仮眠を取っていた朔人が、弾かれたように起き上がり、デスクに近づいてくる。
「何が見つかった?」
「行動原理の裏付けと、奇妙な『偏食』の証拠です」
伊香立は二つのウィンドウを並べて表示した。
「まず、胃の内容物分析からです。キメラの胃からは、現地に生息するツキノワグマやイヌワシの肉片が検出されました。やはり彼らは、現地の生物を捕食してエネルギーを得ています」
「ふむ。そこまでは予想通りだが」
「ええ。ですが、妙なんです。捕食された獲物の量が、彼らの巨体や運動量を支えるにしては少なすぎるんです」
伊香立はデータを指差した。
「彼らは獲物を殺しても、その全てを食べるわけじゃありません。心臓や肝臓といった栄養価の高い内臓と、大腿部の筋肉の一部だけを綺麗に平らげ、残りの肉は手つかずで放置しています。空腹を満たすためなら骨まで齧りそうなものですが、彼らは必要なカロリーを摂取した瞬間に食事を止めている。まるで、燃料タンクが満タンになったら給油ノズルを戻す機械のように」
「……なるほど。彼らにとって食事は快楽ではなく、あくまで『補給』というわけか。野生動物のような執着がない。プログラムされた兵器らしい振る舞いだ」
朔人は腕を組み、画面上の数値を睨んだ。
「で、もう一つは?」
「はい。こちらが本命です。血液中から、極めて特異なアルカロイド反応が出ました」
伊香立はもう一つのウィンドウを最大化した。
そこに表示されていたのは、複雑なベンゼン環を持つ化学構造式だった。
「構造はニコチンやモルヒネに近いですが、既知のどの毒物とも一致しません。ただ、代謝経路を逆算すると、恐ろしいことが分かりました。この物質は、キメラにとっての『毒』ではありません。むしろ『生命維持装置』です」
「生命維持装置?」
「ええ。彼らの無理やり継ぎ接ぎされた代謝システムは、この特殊なアルカロイドを触媒にしないと機能不全を起こし、数日で多臓器不全に陥るように設計されているんです。つまり、定期的に摂取しなければ死んでしまう」
朔人の目が鋭く光った。
意図的な欠陥。
それは、兵器が暴走したり、敵の手に渡ったりした際の安全装置として、管理者がよく使う手口だ。
「完全な依存状態にあるわけか。で、その物質の供給源は?」
「ここからが重要です」
伊香立はキーボードを叩き、植物データベースの検索結果を表示した。
「この特異なアルカロイドを含有する植物を検索しました。日本国内に自生する二十万種以上の植物データと照合した結果、該当したのはたった一種です」
モニターに、一枚の植物の写真が表示された。
暗い紫色の葉を持ち、地味な白い花をつける、見たことのない野草だった。
「通称『シコクビユ』。古い文献にのみ記述がある、ヒユ科の古代植物です」
「聞いたことがないな」
「無理もありません。環境省のレッドリストでも絶滅危惧種IA類、実質的には野生絶滅に近い状態とされていますから」
伊香立は画面に表示された成分分析のデータをタップし、その植物の特異な生態プロファイルを表示させた。
「この植物は極めて偏屈な性質を持っています。通常、好石灰植物といっても、石灰岩地帯『でしか』育たないわけではありません。他の土壌でも、競争相手がいなければ生育自体は可能なものが多い。ですが、このシコクビユは特殊なんです。極めて強いアルカリ性土壌への依存性を持っていて、それ以外の環境では発芽すらしない、完全な偏食家です」
伊香立は地図上のデータを呼び出した。
「自生地は名前の通り、四国山脈の深部。それも、カルスト地形が発達した特定の渓谷沿いに限定されています。土壌のpH、湿度、日照条件。すべてが揃わないと枯れてしまうため、他の地域への移植や栽培は極めて困難です」
研究室の空気が凍りついた。
朔人は、以前伊香立が作成した「被害分布マップ」と、今の「シコクビユの自生地」を見比べた。
北海道、本州、九州。全国に散らばるキメラたち。
だが、彼らの命を繋ぐ「鍵」は、四国の一点にしかない。
「……そういうことか」
朔人は静かに、しかし底知れぬ悪意に触れたような戦慄と共に呟いた。
「犯人がこの希少な植物を選んだ理由が分かったよ。これは『見えない首輪』だ」
「首輪、ですか?」
「ああ。ジオ・フェンスだよ。キメラたちは全国へ派遣されるが、シコクビユのエキスが切れれば死ぬ。つまり、彼らは自生地である四国、あるいはそのエキスを精製・供給できる『飼い主』の元へ定期的に戻らざるを得ない」
朔人はモニター上の植物を指先で弾いた。
「もし万が一、キメラが制御不能になり脱走しても、この植物がない場所では長く生きられない。生態系に定着して繁殖することもない。犯人は、地理的な制約を利用して、生物兵器を完璧に管理下に置いているんだ。……合理的すぎて反吐が出る」
「先生、ということは……」
「拠点は四国だ。それも、このシコクビユが自生している石灰岩の谷間。犯人はそこに研究所かプラントを構え、そこでキメラを生産し、植物から抽出した安定剤と共に全国へ送り込んでいる」
被害が点在する地図の中で、その場所だけが他とは決定的に異なる意味を持っていた。単なる被害報告地点の一つではない。全ての悪意が吹き出してくる「源泉」だったのだ。
朔人は四国の山間部にあるその一点を指で強く叩いた。
「見つけたぞ。ここだ。ここに、生態系を書き換えようとしている『創造主』がいる」
見えない敵の正体、そしてその本拠地が、地理的な座標として特定された瞬間だった。
朔人は伊香立に向き直り、矢継ぎ早に指示を出した。
「伊香立君、このシコクビユの自生地の座標を詳細に割り出してくれ。それと、周辺の地形図、過去の航空写真、廃道や廃村の記録もだ。人が隠れ住める場所を探すんだ」
「はい! すぐにやります」
伊香立の指がキーボードの上を走る。
朔人はスマートフォンを取り出し、連絡先リストを開いた。
ここからは、研究室の中だけでは終わらない。
敵の本拠地に乗り込むには、学術調査の枠を超えた準備が必要だ。
朔人の指が、ある人物の名前の上で止まる。
ジャーナリスト、レイナ・クロフォード。
かつて、環境保護に関する取材の一環で朔人の論文に目を留め、接触してきた女性だ。その際に見せた鋭すぎる視点と、真実のためなら危険も厭わない行動力には舌を巻いた。
朔人はスマートフォンの画面に表示された「レイナ・クロフォード」という名前を、祈るような、あるいは恐れるような眼差しで見つめていた。指先が通話ボタンの上で凍りついたまま、数秒、数十秒という時間が、研究室の静寂の中に溶けていく。
迷いがあった。彼女は民間人だ。いくら腕が立つとはいえ、相手は国家規模の隠蔽工作すら可能な、正体不明の武装組織である。一歩間違えれば、彼女を死地へと送り込むことになるかもしれない。
だが、と朔人は奥歯を噛み締めた。
自分と伊香立だけでは、もはや手詰まりだった。
研究室にある最新鋭のシーケンサーを使えば、採取した血液からDNAを読み解くことはできる。質量分析計で未知の化学物質を特定することもできる。しかし、それらはあくまで「結果」の解析に過ぎない。
今必要なのは、その「原因」がどこから来て、どこへ消えたのかという「動線」を追う力だ。
闇に紛れて国境を越える輸送ルート、偽装された登記簿の裏にある組織の実態、そして警戒厳重な敵地へ潜入し、生きて帰ってくるためのサバイバル能力。
それらは、象牙の塔に籠もる生物学者には逆立ちしても手に入らないスキルだ。
「……彼女しか、いない」
朔人の脳裏に、かつて彼女が発表したルポルタージュ記事が蘇る。
東南アジアのメコン川流域で暗躍する、希少動物の密輸シンジケート。彼女はその組織に単身で潜入し、現地のブローカーになりすまして証拠映像を撮り、国際的な摘発へと繋げたのだ。その時、彼女が潜り抜けた修羅場は、今の状況よりも遥かに混沌としていたはずだ。
相手が「組織」というシステムで攻めてくるなら、こちらもそのシステムの裏をかける「プロ」の力を借りなければ、土俵に立つことさえできない。
これは論文のための調査ではない。生存をかけた戦争なのだ。
「……賭けだな」
朔人は迷いを断ち切るように、強く通話ボタンを押し込んだ。
呼び出し音が、静かな研究室に響き渡る。それは、彼らが観察者という安全な椅子を蹴り飛ばし、泥沼の当事者として戦場へ足を踏み入れる合図でもあった。




