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41.死の淵で、君が灯してくれた光

 俺は小さな船に乗せられ、黒い川を渡っているところだった。


 ここがどこなのかはなんとなく察している。


 よく晴れた空に輝く白い河原に、この世とあの世を分ける黒い川。死の淵と呼ばれる場所だ。来たのはこれが初めてではない。魔力を失うきっかけになった怪我をした時もここに来て、船着場までは連れて行かれている。


 漕ぎ手のいない船は、広い川の向こう岸を目指して勝手に進んでいく。歩くほどの速度で、確実に。


 聞こえるのは船が水を滑りながら進む音のみで、澄んだ青空に鳥の一羽もいない。進むごとに風が少しずつ冷たくなっていき、世界の果てに向かっているのを予感させる。


 俺は漣立つ黒い水面を見下ろした。ここにも生物の気配はない。


「確かに、いつか船に乗ってみたいとは思ってたけどさ」


 父から贈られ、今も自室の棚に飾っている船の模型のことを思い出す。少年の時から抱いていた望みは、暗い水面に吸いこまれていった。


 ため息をつき、進行方向を向くように座り直す。


 胸の辺りに風が染みるのは、ここにあった魔力核が粉々に砕けてしまったからだろうと思う。


 飛竜に一撃を放ったあと跳ね返った魔力が、体内にあった魔石クズを直撃、さらに強い反応が起こってしまったというところだろうな、と冷静に分析する。


 普段ならそんな失敗はしないが、術式を組み立てている途中で何度も意識を飛ばしかけたので、どこかに粗があったのだろう。いや。


 反動を何とかするための術式を入れるのを忘れがちなのを思い出し……ああもう、まったく。魔法に失敗して死ぬなんて、魔術師失格だ。『ああしておけば良かった』はいくらでも頭に浮かぶが、反省に意味はない。


 唯一の救いは、辺りを見回しても他に船は見当たらないことだ。この空間の仕組みはよくわからないが、あの場にいた人間は守れた……と信じておこう。俺ひとりの命と、その他の全員の命。天秤にかけるまでもない。


 心配せずとも、エルが後のことはちゃんとしてくれるだろう。最初から最後まで苦労をかけて申し訳ない。ちゃんと礼が言えなかったのが悔やまれる。


 あとは最初で最後の船旅を楽しむだけだと思ったが、景色が全く変わらないせいか……最初で最後の恋のことばかり思い出してしまう。


「ルシア……」


 懐を探ったが、ブドウの刺繍が施された手巾は入っていない。あれだけはあの世に持っていきたかったのに、残念に思う。


 ああ、もう触れられずとも、せめてもう一度会いたかった。


 自分の非道をきちんと詫びて、今までの感謝を述べて、告白をして、振られて、それで終わりにしたかった。


 彼女が魔道具の役目から解放されて、笑って旅立つのを見送りたかった。


 ……そう思った途端、船が何かにぶつかったように急に止まった。


「うわあっ!?」


 大した速度も出ていなかったのに、船は大きく跳ねた。慣性で上半身が前に傾ぎ、内臓を持っていかれそうな感覚に吐き気を覚えた。頭を掻いて、唸りながら顔を上げると……なんと舳先にルシアが立っている。


「なんで!?」


 驚きで声を裏返した俺に、ルシアはゆったりと微笑んだ。薄い水色のドレスに身を包み、全身に淡い光を帯びた彼女は幻にしてははっきりしていて、現実にしては神々しい。


 雨空のような灰色の髪が今は銀色に輝いていて、天使とか、女神とか、そんな例えが頭に浮かぶ。あまりの美しさに圧倒され、腰が抜けたようになった俺をルシアはまっすぐに見つめ、口を開いた。


「セドリック様。あなたの気持ちは確かに受け取りました」


「えっ?」


 俺、何か言ったっけ? ああ、もしかして書類のことか? きっとそうだ。エルがきちんと伝えてくれたのだ。良かったと胸を撫で下ろしたが、大きな疑問が浮かぶ。


 ……だとしたら、ルシアはなぜ俺のところにいる?


 瞬きを繰り返すことしかできない俺に、揺れる足元をものともせずに、ルシアはこちらに近づいてきた。危なげなく俺の目の前までたどり着き、恭しく膝立ちになった。


 顔を上げると彼女の晴れた空の青の瞳に、俺の惚けた顔が映り込んでいるのが何となくわかった。


「だから、私の気持ちも、受け取ってくださいますか?」


 小さな音を立て船が揺れると、俺の体は温もりに包まれた。


 今までは俺の腕の中で固まっていただけのルシアが、その細い腕で、俺を確かに抱きしめている。


 眩暈がする。別に船酔いではない。確かに彼女の匂いがするからだ。小さな胸からは鼓動の音も、息遣いも確かに感じる。夢なのか現なのか、全くわからない。


「セドリック様」


 澄んだ声が鼓膜を揺らす。


「あなたのそばで、あなたを支え、寄り添って。あなたの欲しがるものを、与えたい」


 ルシアの瞳は俺を捕まえたまま静かに輝いた。


「……私はあなただけの魔道具であり続けたいのです」


 胸が高鳴る。もう、夢でも幻でもなんでもよかった。君のそばにいられるなら、それでいい。


 彼女の瞳が近づいてくる。徐々に吐息が混ざり、唇を塞がれる。


 魔道具と、魔術師。


 それはこれからも変わらずとも、これはもう『儀式』ではない。俺たちは愛を確かめ合うように、唇を重ねたまま抱きしめあった。


 体の中に流れてくるものは今までと変わらない。単に魔力の相性がいいだけだと思っていたが、違ったのだ。


 君の魔力がずっとあたたかかったのは。


――俺は、ずっと愛されていたからなのか。


 口付けを終えるとルシアは姿を消してしまったが、代わりに最初は静かだった胸が、熱を帯びている。


 君が灯してくれた光が、確かに輝いている。


 消えかけていた鼓動が、もう一度動き出した。


「帰ろう」


 俺の声に応えるように止まっていた船はくるりと向きを変え、静かに進み始めた。



 ◆



「なあ……ルシア」


 セドリック様は、私の名を呼ぶとひときわ深い呼吸をした。それから、蕾が開くかのようにゆっくりと目を覚ました。


「俺は、君を離さなくていいのか……?」


 紫色の瞳から涙が一筋伝い、何かを探すように指が動いている。


 その場にいた全員が言葉を失い、部屋は静寂に包まれた。


 私もまた、頷いて答えるのが精一杯だった。


 セドリック様は、何かを探すように視線をゆっくりと右往左往させ、ぼんやりとつぶやいた。


「誰もいない……? やっぱり、俺、死んでる?」


 セドリック様の瞼がゆっくり落ちていく。目にたっぷりと溜まっている涙がポロポロとこぼれ、私が落とした涙を洗い流していった。


「バカ!! 生きてる!! 起きろ!!」


 私の横でエルンスト様が叫ぶと、セドリック様はぼんやりと微笑んだ。


「なんだ、お前か……ルシアかと思ったのに……残念」


「は!? 悪かったな!!」


 エルンスト様は背中を向けると、くそッ! と足を鳴らす。荒っぽさに驚いたけれど、銀色の瞳はわずかに潤んでいる。


「あのっ、私はちゃんとここにいます」


「わかってる……なあ、ルシア」


「はいっ」


 セドリック様は手を伸ばし、私の髪の先をいじりながら、小さな声でねだるように言った。


「……もう少しだけ、くれないか?」


「えっ……!? はい、わ、わかりました……」


 これは、どちらの意味なのだろう? 体温が上がるのを感じながら、もう一度口付けを落として、今度は逃げるように離れる。セドリック様が笑ってくださったのが心の底から嬉しかったけれど。


 後ろをそっと振り返ると、部屋の中にいた皆様がさっと目を逸らす。やっぱり視線を浴びていたみたいだ。恥ずかしい。


「……そんな余裕があるなら、もう心配いらないな」


 エルンスト様がすっかり乱れた髪を束ね直しながら、呆れたように言った。


 ◆


 セドリック様が目覚めたとの知らせは、あっという間に駆け巡ったらしい。


 魔術師団の方だけではなく、王太子殿下も面会に来られるとのことで、部屋の中が一気に慌ただしくなる。


「ごめん……話の続きは帰ってからでいいか?」


「……だそうなので、ルシア様。我々は先に邸に戻りましょうか」


「そうですね」


 セドリック様にいったん別れを告げ、エルンスト様とともにこそっと部屋を出ると、目の前に知っている人物が立っていた。


「ああ、君たちも来てくれていたのか」


 セドリック様とよく似た声に、黒の髪に紫の瞳。私は膝を折って挨拶をする。


「侯爵様……」


 私に続いてエルンスト様が深々と一礼したのに笑顔で答えた侯爵様は、私に柔らかな笑顔を向けられた。


「お守りは、役に立ったか?」


 侯爵様の視線は、私の胸元で輝くブローチのところで止まっている。ここに至るまでの経緯を思い出し、私は改めて深く頭を下げた。


「ありがとうございました!! この品のおかげで、セドリック様に会わせていただくことができました」


「それは良かった」


 ノイマン家の家紋があしらわれたこのブローチがなければ、門前払いされていたかもしれなかった。


「……ルシア」


「はいっ」


「また近いうちに会おう」


 お話ししたいことがあったけれど、足止めをしては申し訳ないのでここでお別れした。


「もしかすると、そのブローチはセドリック様がお生まれになった時にあつらえたものなのでは」


 エルンスト様が眼鏡を押し上げ、縁を光らせながら言った。


 私はその言葉に促されてもう一度、ブローチを胸から外した。初めて裏をよく観察すると、二十五年前の日付と共にセドリック様のお名前が小さくも確かに刻まれていた。家紋にばかり気を取られていて、全く気が付かなかった。


「では、これは本来はセドリック様のものなのでしょうか?」


 男の方がつけるにしては、デザインが優しすぎる気もするのだけど。そんなかすかな疑問を抱いた私の隣で、一緒に目を細めていたエルンスト様が頷いた。


「……男子の誕生の際に、誕生石や守護石をあしらった家紋入りの宝飾品をあつらえるのはよくあることだと聞いたことがあります……本人が成人した際に授けるもの、それと将来、伴侶になった方に授けるための……」


 伴侶という言葉が突然のしかかり、体が急に熱くなる。エルンスト様は、私を横目でじいっと見ていた。


「つまり、侯爵様はそんなに大切なものを私にくださったの!?」


 もしかすると、あの時にはすでに……?


 嘘でしょう? 侯爵様に真相を確かめたくて振り返ったけれど、当然、扉はもう閉まっている。


 扉の向こうに飛び込みたい気持ちを、ぐっと我慢する。だって……侯爵様は、私のお義父様になったのだ。きっとすぐに会うことになる。慌てなくても、大丈夫。


「さて、今度こそ帰りましょうか」


「そうですね。早く皆さんにセドリック様が目を覚まされたと知らせないと!」


「ええ、知らせなければなりませんね」


 足取り軽く最初に通った扉を抜け、杖を構えたエルンスト様とともに、天窓から注ぐ光に照らされた転送の魔法陣の上に並ぶ。目を閉じて開けば、もうお邸だ。


 私はセドリック様の妻になった。だから、セドリック様が帰ってこられるまで、皆さんと一緒に家を守る役目を果たそう。

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