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37.雨の中の抱擁、白い鳥の報せ

 私はセドリック様の後を追って階段を上がり、足音を立てないように気をつけて廊下を歩く。執務室から、エルンスト様の声が聞こえてきた。


 私は、開いたままになっていたドアにそっと近づいた。


「捜索に加わるというならまだしも、戦闘要員って……」


「まあ、俺はそっちの方が得意だからだろう」


 戦闘、という言葉にどきりとし、耳を澄ませる。セドリック様の声はすでに落ち着いている。しかし、エルンスト様は何だか慌てられているようだ。


「俺がお前の代わりに行く。魔力が足りないヤツを行かせられない。万が一、お前の身に何かあったら……」


 魔力が足りない? 誰かからもらっているのではないの? 声をあげそうになるのを堪えて、話を聞くことにじっと集中する。


「ほんとお前は過保護だな。呼ばれたのは俺だけじゃないから心配いらない」


「そうかもしれないが」


「お前はひとりでも動けるから、ここを守っていてくれ。それこそ、万が一のことがあってはいけない」


 ここで会話が途切れる。私は必死で息をころす。


「……違うな?」


「まあ、容疑者がアレだからな。お前は別に疑われてはないだろうが、念のため。俺にはお前を守る義務もある。まあ、今は大人しくしていてくれ」


 話が全くわからないわ……私は思い切って身を乗り出し、部屋の中を覗き見た。セドリック様が、支度を整えている姿が見えた。


 あちこちに金の装飾が施された魔術師団の制服に身を包み、机に並べた小瓶を、肩掛け鞄に手際よく詰めている。魔法の道具だろう。


「で、転移魔法の起動は?」


「十四分後だ」


「……じゃあ、一服くらいはできるか」


 セドリック様は机の上にあったパイプを手に取った。おそらくガラスか水晶でできたパイプに、慣れた手つきで小瓶の中身を詰めて、口にくわえた。


 顔をしかめ、大きく息をされる姿は何だか苦しそうだ。お煙草を吸うなんて知らなかった。そばにいて、匂いを感じたことは一度もない。


 氷のように透き通ったパイプの先には、炎の赤い色ではなく薄い青色の光が灯っている。普通のものではない? 気になるけれど、これ以上身を乗り出せば見つかってしまう。


「……せめて、今回だけでもルシア様に助けてもらったほうがいい」


 しばらくパイプの灯りを見ていると、エルンスト様の口から、唐突に自分の名前が出た。


 どきりとする。覗いているのがばれた……わけではないようだ。おふたりは向かい合ったまま。セドリック様は小さく首を横に振った。


「……ダメだ」


「今は意地を張っている場合じゃないだろう」


「そうだな、つまらない意地だ……けど、ダメなもんはダメだ」


「セドリック……」


 パイプを口から離したセドリック様は何度か咳き込んで、険しい顔で言う。


「俺は二度と『儀式』なんかしたくない。最初から何もかも間違ってた、だから」


 私を買ったのが間違いだった……ということ? 背筋を冷たいものが滑り落ちていく。セドリック様の言葉は続く。


「俺はルシアを手放して、きちんと筋を通す。そうしないといけない。正しくあるために」


 それは、『結婚は考えられない』と言われた時点で確定していた未来。


 覚悟はしていたのに、いざ胸がまるで刃物を立てられたように痛む。


 その先にも何か言葉が続いたけれど、もはや遠くて聞こえない。血を流しすぎたように体から力が抜け、まっすぐ立っていられなくなった。ふらついて、かかとを強く鳴らしてしまう。


「……おい、誰かいるのか?」


 壁を支えにしてなんとか立った私は、逃げ出せずに見つかってしまった。


「る、ルシア!? いつからここに……今の話、聞いて……?」


「すみません。心配、だったので、すみません」


 大きく目を開いたセドリック様を前に、手足が情けなく震えはじめた。彼の元を離れ、自分の足で歩いていこうという決意は、決意と呼ぶにはあまりにも薄っぺらだったということを思い知る。


「ルシア、その、今のは……」


 私の名を呼んだセドリック様の声もまた、明らかに震えている。どんなお顔をされているのかは見られない。なぜなら私の顔を見せられないから。涙が止まらないから。


 私は震える両足に鞭を打って、その場から逃げ出した。転びそうになりながら階段を駆け下り、廊下を走る。


「えっ、ルシア様!? ちょっと、お外に出るのはだめですよ!!」


 リーネの制止を振り切って、裏口から庭に飛び出した。


 今にも落ちてきそうなほどに厚い灰色の雲から、激しい雨が降り注いでいる。地面はどろどろにぬかるみ、雨粒に叩かれて植物は葉を震わせている。


 息が上がるまで走ったところで、足元に目を落とした。水溜まりの中に、しわくちゃになった鴇色の花びらが所在なく浮いている。


 目の前には、この庭で一番立派なバラの木があった。今はもう花期を終えたけど、美しい鴇色のバラを咲かせる木だ。


 セドリック様が私の髪に飾ってくれた、思い出の花。


 なんだかたまらなくなって、水溜まりの花びらを拾い上げた。枯れて、土にまみれた花びらを、かつての自分と重ね合わせた。


 無能と呼ばれて、踏まれて蹴られ、薄暗い部屋に閉じ込められて、いなかったことにされた。生まれたことを誰にも喜ばれなかった。


 けれど、セドリック様が私の手を取ってくれた。まさか道具と呼ばれて買われた先で、生まれて初めて人として大切にされて、生きる喜びを知るなんて、思いもしなかった。


 私は、ただ純粋に与えられた恩に報いたかった。道具として求められれば、役に立てればそれでよかった。


 愛しているのだと気づいた後も、その気持ちに変わりはなかった。いいえ、変えてはいけないと思った。


 だって私は灰色だから。あなたの隣に立つことはできない。


 欲しがらないことにも、心を殺すのにも慣れていたはずだった。だけど、あなたへの想いだけはどんどん膨れ上がっていって。


 大きくて暖かな手、まるで少年のような屈託のない笑顔、私の名前を呼ぶ声、全部大好きだった。


 手に入らないと分かっていても、どうしても欲しかった。


 きらきらと輝く紫の瞳に、私だけを映して欲しかった。


「……ルシア。中に入ろう。風邪を引く」


 いつのまにか、セドリック様が私の背後に傘も差さずに立っていた。伸ばされた手を取らず、首を横に振った。


「……お急ぎなんですよね? 私のことはいいので、早く行ってください」


 なんとか強がって笑顔を繕って、それが崩れる前に背を向ける。雨が降っていて良かったと思う。涙が隠れるから。


「そんなわけにはいかない……」


「私は、セドリック様のお心に従います。邪魔もしません」


「ルシア……」


「自分の立場はわきまえています。役目を終えたというのなら、どこへでも消えます。もちろん秘密は守ります。だから……」


 次の瞬間、石につまづいたみたいに体が傾いて、雨の音が急に小さくなる。動けない。身がすくんでではない。私は、温かいものに包まれている。


「ごめん」


 すぐそこに紫水晶の瞳があって、私をまっすぐに見つめている。


「少しだけ、耐えてくれ」


 セドリック様はそうささやくと、私に回した腕に力を込めた。まるで愛する人にするように、雨雲と同じ色の私の髪を撫でる。


 優しい手つきに目が回りそうなほど混乱する。なぜ、どうして。あなたの本心が、わからない。


「俺に君を縛る権利なんかない……だけど」


 続いたつぶやきは、小さくなった雨音よりも、分厚い服越しの心音よりも、さらに微かなもの。


「どこにも行かないでほしい」


 けれどこれは、私の望みが引き寄せた、幻聴だと思う。だって、私を手放すと言った人がそんなことを言うはずがないのだから。


 その証拠に、久しぶりの温もりも、すぐに激しい雨に流れていった。


 ◆


「ご迷惑をおかけしました……」


「いいえ、迷惑だなんて。風邪を召されなければ良いのですが」


 邸に連れ帰られた私を、アンナとリーネ、クララが待ち構えていた。お風呂に入れられ、服を変えて。


 セドリック様はその間に、儀式部屋から飛び立っていったそうだ。


「温かい飲み物をお持ちしますね」


 メイドたちは、濡れた服やタオルを片付けると言って、部屋を出て行った。


 待っていなきゃと思うのに、体が温まったからか急に眠気に襲われる。今朝は夜明けと共に目覚めたせいだろう。ソファーに腰掛けたままで、少しうたた寝をする。


 目覚めると昼食の時間だった。リーネが呼びに来てくれたけれど、食欲がなかった。申し訳ないと思いながら断った。


 昼食の代わりに、エルンスト様がお茶とお菓子を持って入ってきた。


「何があったのかだけ、説明させてください」


 今朝早く、王都のあちこちに魔獣が同時に出現した。魔術師団が総動員で対処している間に、今度は王城の敷地内に魔獣が大量に現れたそうだ。


 術者の姿が見えないままの召喚魔法はあらゆる手を打っても止まらず、王城内の魔獣の数は増え続けた。王城を守るため、魔術師団に正所属している魔術師が集められることになった……とのことだった。


 私には難しい話で、全てを理解することはできなかったけれど。


 セドリック様が戦いに呼ばれたということだけをなんとか理解した。


 頷くことしかできない私に、エルンスト様は淡々と続ける。


「魔獣の数こそ多いですが、等級は高くないと報告されています。とはいえ、場所が場所なだけに、国中から精鋭が呼ばれることになりましたが……まあ、問題なく片付くはずです」


 しかし、胸の辺りが嫌に冷えたままだ。エルンスト様が執務室で発した『魔力が足りない』という言葉が引っかかっている。


 私とセドリック様の間の『儀式』がなくなって、もうかれこれ半月ほど経っている。しかし、セドリック様はここに押しかけてきた父を追い返したときのように、魔力が切れて倒れたりすることはなく、一見普通に過ごされていた。


 だから、すでに代わりの誰かに……結婚を考えている方に、魔力をもらっているものだとばかり思っていたけれど。エルンスト様の口振りではどうやら違うようだ。


「大丈夫なのでしょうか」


「心配はいりません。セドリック様はああ見えて、相当お強いです。かつてはアルメラ王国一とも目されていました」


 エルンスト様は穏やかな口調で言うと、私を安心させるように淡く笑う。私も一度だけ魔法を見たことがあるから、お強いのはちゃんと分かっている。


「そうではなく、魔力が足りないと、おっしゃられていましたよね」


「そこも聞かれていたのですね」


 エルンスト様はしまったという表情の後で大きなため息をついた。それから意を決したように、ずれた眼鏡を押し上げる。


「……セドリック様が、パイプを吸われているのをご覧になったことはありますか?」


 先ほどの透明なパイプのことを指しているのだと気がつき、私は頷く。さらにエルンスト様は続けた。


「あれは魔石クズから魔力を得るための道具です。生きた人間から得られるものと違って、一度に多くは取り込めないですが……とにかく、ルシア様がご心配されるようなことにはならないかと」


「……そうですか。やはり、私はもう必要ないのですね」


 私が肩を落とすと、エルンスト様が銀色の瞳を明らかに揺らした。図星と言わんばかりだった。


「私の口からはここまでしか申し上げられません。ルシア様の今後については、本人からきちんと説明するとのことですので」


「わかりました……」


 否定をされなかったことで、心が軋みながらも鎮まった。とにかく、セドリック様が無事に戻られるのを待とう。


 きちんとお礼とお別れを言って、ここを出ていこう。


 そう思ったときだった。


 なおもやまない雨の中、鳥の鳴き声が近づいてくる。通信魔法だ。同じことを思ったのか、エルンスト様が立ち上がり、窓辺に移動される。


 ガラスをすり抜けてきた鳥は、真っ白で青い瞳をしていた。


「何だ? 魔術師団からじゃないのか?」


 どこから来たのかわからない白い鳥は、部屋の中をくるりと飛ぶと、エルンスト様の肩に行儀よく止まって優雅に頭を下げた。そして、耳元で鳴き始める。


 不規則に揺れる歌が何だか不穏なものに聞こえたけれど、これはあくまで暗号だと自分に言い聞かせる。


 きっと、中身は無事に終わったという知らせのはず。だって、セドリック様はお強いのだから……私はそう信じ、エルンスト様を見つめた。


「……は?」


 エルンスト様は呆気に取られたような声を上げ、目を大きく開いて固まってしまった。しかし、指先だけは激しい動揺を示すように震えていた。

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