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34.暗闇に光る小星、再びめぐる

 夢の中は抜けるような青空だった。


 あたたかな日差しが注ぎ、柔らかな風が頬を撫でる中、私は色とりどりの花が咲き乱れる薬草畑にいた。


 隣には、あの日と同じようにセドリック様が立っている。私は遠くを眺めるその端正な横顔をじっと見つめていた。


「セドリック様」


 名前を呼んでも、あなたは応えてくれない。


 現実では触れられず、夢の中でも届かなくなって。


 ずっと我慢していた涙が、一粒だけ落ちた。


 ◆


「おはようございます、ルシア様」


 リーネの声で、いつもより少し遅く目覚めた。セドリック様は朝早く王都へ発ってしまい、二日ほど邸を空けるとのことだった。


 出発の前にせめて一目お会いしたかった、と思ったけれど仕方がない。


 ゆるゆると起きて顔を洗って、頬に残っていた涙の跡を消す。それから着替えをして、作業の邪魔にならないように髪をひとつにまとめてもらう。クララのための刺繍を今日じゅうに仕上げてしまおう、そう思って。


 ひとりで朝食をいただいたあと、いつも通り庭に散歩に出てみると、リーネとアンナが腕まくりをして庭に立っていた。珍しいと思って尋ねてみると、今から花の水やりと手入れをするのだと言った。


 思い切ってお手伝いを申し出てみたら、快く仲間に入れてくれた。アンナに教えてもらいながら、庭の井戸から水を汲み、ジョウロを満たしていく。


 ジョウロは思ったよりもずっしり重く、歯を食いしばらないと持ち上がらない。やっぱり男の人のようにはいかないわ、と思ったけれど、リーネやアンナは同じものを持っても涼しい顔をしている。私も強くなりたいと思った。


「え、新しいメイドが来るんですか?」


 休み休み、かつ見よう見まねで水を撒き、ようやくジョウロを空にした私が目を大きく開くと、アンナが頷いた。


「ええ。近いうちにとのことですよ。なんでも、王都の伯爵家で長く勤められてた方だそうで」


 ……ということは、私よりは年上だろう。


「人手が足りなかったのですか?」


「まあ、足りると言えば足りますし、もう少し余裕が欲しいと言えばそうという塩梅でして。こればかりは、セドリック様やエルンスト様が判断されることですから」


 アンナが遠慮がちに言うと、リーネが突然胸を張った。


「私、わかっちゃったんですよね」


「えっ?」


 私とアンナの目が同時にリーネの方を向く。リーネの瞳はらんらんと輝いていた。


「これって、きっとご結婚に向けてだと思うんですよね!!」


 すると、アンナがそれまで柔らかかった表情をきゅっと尖らせた。結婚という言葉が引っかかって、私の心臓も少し縮む。


「リーネ。そういうことは軽々しく口に出すものではありませんよ」


 アンナにぴしゃりと嗜められ、リーネはみるみる萎んでしまった。


「ごめんなさい……」


「わかればよろしい」


 アンナはそれ以上何も言わなかったけれど、リーネは気まずそうな顔のまま。ため息と共にエプロンからハサミを取り出し、盛りを過ぎた花をぷちんぷちんと切りはじめる。


 まだ枯れきっていないうちからなんだか可哀想だけど、次に咲く花に栄養を与えるために早めに切ってしまうのだそうだ。


 私は空のバケツを持って、ハサミを操るリーネについていって、切った花がらを受け取っていく。萎れてもまだ色を失っていない花が、バケツにどんどん溜まっていく。必要なことだとはわかっていても、やっぱり心がちょっと痛い。


「新しい人、どんな人なのかなあ……」


 花びらが落ちて半分ほどの大きさになってしまったバラの花にハサミを入れながら、リーネが独り言のようにこぼした。すぐそこに私がいることを思い出したのか、すぐに表情を正したけれど。


「一緒に働くんだものね。気になるわよね」


 リーネの顔が緩む。


「あっ、はいっ……優しい方だと嬉しいです。仲良くできたらなあって」


「そうね。私もそう思うわ」


 バラの花をいくつかバケツで受けたところにアンナがやってくる。水をたっぷりと浴び、花がらを除いて整った花々が、陽の光を受けていきいきと輝いていた。


「さあて、こんなものでいいでしょう。ルシア様、お手伝いしていただいてありがとうございました。とても助かりました」


「いえ、突然お邪魔してすみませんでした……」


 アンナの笑顔に思わず照れてしまうと、リーネが首を振る。


「そんな、とんでもないです! あとでお部屋にお茶をお持ちしますね!」


「ありがとう。楽しみに待ってるわね」


 井戸で手を洗い、部屋に戻った。


『ご結婚に向けてだと思うんですよね!』


 リーネの言葉を思い出すと、胸の奥がちくちくする。


 人手が足りているのかどうかは私には判断できないけれど、奥様を迎えるなら専属となる侍女が必要なことはわかる。母にもそういう役割の人は何人かいたし、先日伺ったノイマン侯爵夫人にもそのように見える方が常についていた。


 やはり、セドリック様のご結婚が、現実のものになりつつあるのだ。


 ……つまり、別れの時が近づいているということ。


 ゆっくりと血が冷たくなっていく。だけど飲み込まれるわけにはいかない。首を横に振って、机の上に置いたままだった刺繍枠を手に取った。


 今は、クララのための刺繍を完成させることだけを考えよう。


 ◆



 セドリック様が屋敷に戻られたのは、翌日の夕方だった。


 陽が落ちて夜の気配が迫る中、真っ黒な馬車が邸の敷地に入ってきた。私は自分の部屋の窓からそれを見つけ、出迎えるために急いで部屋を出る。


 下に降りる頃には玄関前に馬車が止められ、使用人の皆様が出迎えのために並んでいた。私は、はやる胸を押さえながらその列の少し後ろに立った。


 馬車の扉が開き、セドリック様が降りてきた。


「ただいま」


 続けて、セドリック様の手に誘われて誰かが降りてくる。


 スカートを履いているのが見えた。女性だ。


 きっとご結婚相手を連れてこられたのだ、と覚悟した私は、俯いて目を閉じた。


「ルシアお嬢様……!」


「えっ……?」


 顔を上げる。


 優しげな丸い茶色の瞳。顎のあたりの長さで切り揃えられた、私よりも少し濃い灰色の髪。


 アルヴェン家にいたとき、私にたったひとり心を寄せてくれた人。


「クララ!?」


 確信した瞬間、勝手に足が動く。私は勢いのままにその胸に飛び込んだ。


「ねえ、本当にクララなの?」


 ぬくもりに触れてもなお信じられない私に、クララはにっこりと笑ってくれた。


「ええ、お久しぶりです。お元気そうで嬉しいです。それに、とてもお綺麗になられて」


「そのっ、クララも元気そうで嬉しい……。けど、どうしてここに……」


 だって、クララはアルヴェン家のメイドで、ここにいるはずがない。混乱でうまく舌が回らない。


「ノイマン子爵にお声がけいただいて、こちらで働かせていただくことになったんです」


「セドリック様が……?」


 ドアの脇ですっかり闇に溶け込んでいたセドリック様は、大きな肩をぴくりと動かす。


「あー、人手が足りないとアンナから申し出があったからな……うん。それにこれから忙しくなりそうだから。うん。彼女もちょうど新しい職を探していたところらしくて。いやあ。ちょうどよかった。前の王都出張の時に、彼女と街でばったり会って。うん」


 セドリック様は気まずそうにして、こちらに目を合わせてくださらない。


「エル! 急ぎの報告がある、行くぞ」


「うわっ、ちょっと待て!!」


 そう言ってエルンスト様の腕を引っ張ると、そのまま逃げるように執務室へと消えてしまった。


 ◆


「長旅お疲れさま……」


「ありがとうございます」


 応接間に、ふたり分の夕食が並ぶ。今日はクララと夕食を共にしていいことになった。まさかクララと一緒に食卓を囲むことがあるなんて思わなかった私はとても緊張していて、クララも同じような面持ちで、私の目の前に座っている。


「私は使用人なのに」と、クララはひたすら恐縮していた。私も、まだ気持ちが落ち着かなくてなかなか上手く話せない。


 なかなか会話が弾まない食事を終えた後、クララを部屋に招いた。


「すごい。とても素敵なお部屋ですね」


「ええ。ここでは本当によくしていただいているの」


 ふた月ほどを過ごした客間はすっかり様変わりしている。カーテンや寝具を明るい色のものに取り替えてくださったり、鏡台を置いてくださったり。


 けれど、あくまでここは『客間』なのだ。私の部屋をきちんと用意するという話は、セドリック様が多忙だったこともあり延び延びになっていた。


 けれど、仮住まいのままでよかったと思う。私はあくまで客人で、魔道具で、まもなくお払い箱になる身だ。いつでも出ていけるよう、そろそろ片付けを始めた方がいいのはわかっていても、名残惜しくてなかなか手をつけられない。


 クララはしきりに目線を動かしていたけれど、お茶を飲むと落ち着いたのか、これまでの経緯を話し始めた。


「お嬢様が家を出られた後、ずっと悩んでいたんです。旦那様はじめご家族は、何事もないようにお幸せそうでした」


「そうでしょうね……」


「その様子を見ているのが苦しくて。勤め先を変えたかったのですが、私には次の職場のあてなんてありません。そうしたら、街でノイマン子爵にばったりお会いしまして。偶然ってあるのですね」


 クララはどこかイタズラっぽく、くすくすと笑った。


 本当。よりによってクララにたまたま声をかけるなんて。そんな奇跡のような偶然があるのかしら。


 だってセドリック様は、クララのことを知らないはずだもの。と思ったところで……自分が言ったことを思い出す。


 アルヴェン家を離れたあの日、黒塗りの馬車の中で。


『心残りがあったとしたら、メイドのクララと離れなければならなかったことくらいでしょうか』


 私は確かにそう言った。だけど、クララのことを口に出したのは、本当にその一度だけだ。


 ……まさか、あんな些細な一言を覚えていてくださったのだろうか。


 鼓動が自然と速くなり、久々に体が熱を帯びてくる。カップを持ち上げようとした手に、うまく力が入らない。


 もしかして、クララを探して、それで。いいえ、そんなはずないんだもの。私はもうすぐここを離れる身なのだから。


「お嬢様? 大丈夫ですか?」


 クララの声で、はっとする。


「……大丈夫。そうだわ、クララに渡したいものがあったの」


 私は机の引き出しに大切にしまっていた包みを取り出し、クララに渡した。クララは包みに目を寄せ、不思議そうに瞬きを繰り返している。


 中身はもちろん、昨日完成させたばかりの新しい作品だ。


「これは?」


「……魔法がこもってないからお守りにはならないけれど、クララのことを思って刺繍をしたの。受け取ってくれると嬉しいわ」


 遠いところにいるクララを想いながら、星の模様を刺した。あなたがいたから、両親からどんな扱いを受けても心を踏み抜かれずに済んだ。私にとっては、暗闇に輝く星のような人だったのだ。


 クララはゆっくりと包みを開いて、現れた星を何度も撫でて、声を振るわせた。


「これをお嬢様が? すごいです。とても素敵……私なんかに……嬉しい」


 気づけば木の実のような茶色の瞳から、ポロポロと涙がこぼれている。


 どちらかともなく自然と抱きしめあって、改めて再会を喜んだ。


「こんなに喜んでくれるなんて私も嬉しいわ。ありがとう」


 私を包むクララの腕に力がこもる。


「お嬢様が幸せになれて本当に嬉しい……」


 クララがすすりあげながら耳元で囁いた声が、胸の中に甘く染み渡っていく。


 そうね、私はとても幸せ。


 じめじめとして薄暗い部屋の外に、明るい世界があったことを知った、それだけで幸せ。それに、何もできない私ではなくなったことが嬉しい。ここでの暮らしは、私のことをこれからもずっと支えてくれるだろう。


 クララも、セドリック様のところに来られたならきっと大丈夫。働く方のことをとても大切にしてくださるから、クララは幸せに生きていけるだろう。


 抱きしめる腕に力がこもる。これで安心できる。


 ここを離れる日が来ても、きっと明るく生きていけるはず。


 ◆


 クララが使用人が暮らす区画に案内されるのを見送ったのと入れ替えになるように、目の前にセドリック様が現れた。セドリック様のお部屋はこの奥にあるから、たまたま通りがかったのだと思う。


「あっ……」


 月明かりに照らされているだけの薄暗い廊下で向かい合う。お顔を見るのは二日ぶりだった。


「どうした?」


 私に呼びかけたセドリック様の声はあくまで柔らかい。だけど、どこか突き放してくるような色をしていた。


「あの、クララのことですが……」


 だから思い切って尋ねようとしたものの、肝心なところは飲み込んだ。『もしかして、私のためでしょうか』だなんて、やっぱり怖くて聞けない。何を思い上がっているのかと言われてしまいそうで。


 セドリック様は私をまっすぐに見つめた。何もかもを見透かしてしまいそうな、とても静かな瞳だった。


「……卑怯なことをしてすまない」


「……えっ、どういうことですか?」


 突然の強い言葉に心臓が震えて、それを声に伝えないようにするので必死だった。セドリック様は硬い表情を崩さずに、だけど目は少し迷っているようにも見える。


「なんでもない。その、明日も朝早くて。約束を守れない。ひとりにしてごめん」


 約束って? と思ったけれど、ここに来たばかりの時、ひとりで食事をするのは嫌だとお願いしたことを思い出した。


 ……もう、気にされなくてもいいのに。


「……わかりました。どうかお気をつけて……」


「ああ……。あまり夜更かしはするなよ」


「はい……」


 セドリック様は下ろした手を固く握ったままで言った。そして暗い廊下の先へと消えていく。決して振り返ることなく。


 今までならきっと、髪を撫でて、微笑んでくださったのに。たまらず唇を噛んだ。


 やはり、触れられない。あなたに温もりを残せない。


 ならば、せめて笑わなければ。


 けれど、さっきの私はちゃんと笑えていただろうか。

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