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29.揺れる紫水晶、落ちていく心

「……立ち話もなんなので、中へ」


 侯爵様自らの案内で、白の広間を出た。磨き上げられた石の廊下を進む。


 待ち構えていたかのように分厚いドアが開く。この部屋も天井が高かった。豪奢な照明器具が権力の証かのように煌々と輝き、壁には歴代当主のものと思われる肖像画が並び、この家の長い歴史を物語っている。


 中では何人かの使用人の方が待機していて、私たちのために椅子を引いてくださった。


 侯爵様の背後の壁には紋章旗が堂々と掲げられている。紫紺の生地に銀糸で描かれた狼が、こちらをじろりと睨みつけていた。


 侯爵様とセドリック様の間に渡る空気は、ぴんと張り詰めている。私はそのどちらも見ないようにと、テーブルの上に飾られた花に目線を置き、頭を締め上げられるような緊張に耐えていた。


 侯爵様の合図で使用人の方が礼と共に部屋を辞し、私たち三人だけになったのを確認すると、侯爵様がようやく口を開いた。


「セドリック、そこの女性とはどういう関係なのか、説明しろ」


 燭台の火が揺れた。セドリック様は一度だけ瞬きをすると、引き結んでいた唇をゆっくりと開いた。


「……契約を結び、魔力を提供してもらっています。彼女は灰色の髪をしていて自分で魔法は使えませんが、魔力の量は多く、私の魔法回路とも相性も良い。おかげで魔術師団の業務にも復帰でき、いざという時に領民を守る力を得ることもできました」


 目の前の台本を読むようにすらすらと説明したセドリック様に、侯爵様は今にも噛みついてきそうな鋭い眼差しを向けた。


「なるほど」


 とおっしゃいつつも、その表情はとうてい納得しているようには見えない。


 セドリック様も私と同じことを思ったのか、喉が何かを飲み込むように動き、太腿の上でじっと握られていた拳がぴくりと反応した。


 侯爵様は、セドリック様にふと生まれた一瞬の隙をかち割るように言い放った。


「……お前は我が家の恥だ」


「恥……だと?」


 今度はセドリック様が侯爵様を睨みつけるように見る。おふたりの間に、紫色の火花が散っている。


「そうだ。お前は恥でしかない。怪我と後遺症については気の毒だったと思う。しかし、お前を助けるためでもあった縁談を蹴り続けた挙句、よりによって……」


 侯爵様の視線が、今度は刃物のように私に突き刺さる。侯爵様がここまで怒っているのは、きっと私が灰色の髪だからだ。


「女性を金で買うとは、聞いて呆れる」


「それは……それが一番いいと思ったから……」


「バカなことを言うな。魔力の授受は命のやり取りでもある。本来は対等な立場の者同士で行われるべきだ。そのために人間を買うなど、生贄を使っているのと同じではないのか」


「それは……」


 言い淀んだセドリック様を無視して、侯爵様は私の方を見た。明らかに丸くなった表情に、私は戸惑った。


「ルシア嬢。愚息に道具呼ばわりされたあげく、身分まで失うことになったと聞く。本当に申し訳ないことをした。元の家に戻れるよう私が口添えをしたいと思うが、どうか?」


「えっ……」


 今度こそ灰色の髪に触れられるとばかり思っていたのに、思ってもいなかったほうに事態が転がろうとしている。喉の奥が凍りつく。


 私の思いははっきりしている。


――あの家に帰らされるのは嫌だと。


 父に理不尽に怒鳴られ、ぶたれ、母には『あなたのせいで私は』と呪文のように繰り返される。ひとり暗い部屋で空腹と寒さに耐え、きょうだいたちは当たり前のように愛されているのを、他人のように見ているだけ。


 確かに私は道具としてお金で買われたけれど、ノイマン子爵邸での暮らしは暖かかった。


 読み書きが苦手な私に、根気強く仕事を教えてくださったエルンスト様。


 私の髪を楽しそうに触りながら、将来の夢を語ってくれるリーネ。


 まるでお母さんのように、優しく手をとって刺繍を教えてくれたアンナ。


 毎朝ふたりで囲む食卓、私のために作られた湯気立つ料理。


 あそこには知らなかった幸せが当たり前にあって。私にも温かい血が通っていたと知った。


 陽の光の下で、無能でも厄介者でもなく、ひとりの人間として扱ってもらえた。


 なにより、真ん中にはいつも笑顔のあなたがいるから。私のことを必要としてくださった。私はそれに応えたい。その一心だった。


 だめだ。どんなに抑えようとしても、飲み込もうとしても、気持ちは溢れてくる。やっぱり私は、セドリック様のそばにいることを諦められないのか。


 言葉にできない想いは、涙となって頬を伝っていく。泣いて縋るなんて、みっともないことだとわかっているのに。


「ルシア嬢……」


 セドリック様の結婚に邪魔なはずなのに。私の名前を呼ぶ侯爵様の声は、どうしてかひどく優しい。


 その柔らかさが、まるで今際の際にかけられた情けのようで。


「父上!!」


 セドリック様が立ち上がり、絶叫じみた声をあげる。しかし侯爵様は視線を私からそちらに移しただけでまったく動じず、それどころか、表情を再び鋭利なものに変えた。


「……何だ?」


 セドリック様は声を荒らげ、捲し立てるように言った。


「俺はもう成人し、この家からも独立している。自分のやり方を父上にとやかく口出しされる筋合いはない。きっかけは確かに間違っていたし、彼女は灰色の髪をしているが、そんなことは関係ない。俺は彼女を生涯大切にすると約束した。父上に何を言われようが離すつもりはない」


 力強い言葉に、私の心の中で小さな灯りが揺れる。


 しかし侯爵様は動じず、呆れたようなため息をついた。嫌な予感がした私は目を固く閉じ、身構える。


「……そこまで言うならルシア嬢を娶るのが筋だろう」


「え?」


 私とセドリック様の声が重なった。


 侯爵様の口から出てきたのは予想もしていなかった言葉だった。私のことが、邪魔なのではないの? 思わず横にいるセドリック様を見る。目を、口を丸く開き、まるで魔法にかけられて石になってしまったかのように、微動だにしない。


「なぜそうしない?」


 再び侯爵様に問われたセドリック様の瞳が、不規則に揺れはじめる。


「それは、彼女の髪が……灰色だから……父上にも、誰にも理解されないかもと思った……割り切った関係でなければならないと」


 いつもなら澄んでいてまっすぐに通る声が、今は明らかに震えている。


「……私がいつ彼女の髪の色に触れたか?」


「あっ……」


 セドリック様は私と目が合った途端に口ごもり、気まずそうに顔を逸らしてしまった。


 侯爵様は、何も答えないセドリック様に対して語気をやや強めた。


「つまりお前は、自分の保身のためという理由で、ルシア嬢を半端な関係のままで一生そばに置き続け、魔力だけをかすめ取ろうとしていたということだな?」

 

 部屋の中を、ひゅうと冷たい風が渡るような心地がした。


「違う」


 セドリック様は首を激しく横に振った。


「だから何が!」


 侯爵様が声を張り上げ、セドリック様をさらに追い詰めていく。


「違う……そうじゃない……俺は……」


 紫水晶の瞳は、あてもなく泳ぎ続けている。


「今ここではっきりさせろ」


 ぎりり、と歯を食いしばる音が聞こえ、私の視線はうろたえるセドリック様の横顔へと向く。一瞬だけ目が合ったけれど、すぐに逸らされた。


 私はセドリック様の唇が開くまでの間を、固唾を飲んで見守った。


「ルシアとの結婚は考えられない……!」


 数秒の後、冴えた刃物のようにきっぱりと放たれた一言に、心臓を握りつぶされた。


 応接間に時が止まったような冷たい沈黙が落ち、代わりに、激しい風の音が染み込んできた。がたがたと窓が揺れている。


「そうか……」


 侯爵様は、今度は私を試すように見た。


 涙が止まった代わりに、今度は手が震え出して止まらない。だけど今、言うべきことはわかっている。私は溺れそうになりながら、息を深く吸う。


「……私は、セドリック様のお心に従うつもりです」


 視界が次第に黒くなっていくなか、それだけを吐き出すので精一杯だった私に、侯爵様は静かに言った。


「息子と二人で話をしたい。すまないが、席を外してもらえるか?」


 ◆


 私はすぐに別室に案内され、ひとりにされた。


 幾筋もあった涙の跡を手探りで拭い、すっかり乾いた喉を癒そうと、出されたお茶に遠慮なく口をつける。


 なぜか慣れた味がしたので、一気に張り詰めていたものが破れていく。


「……ああ、ここで飲まれているお茶だったのね」


 つい、つぶやいてしまう。いつも邸で振る舞われているお茶と同じ味だった。


 カップの水面に映る自分の顔と目が合った。まるで殴られたあとのように、酷い顔をしている。


 胸が痛くなって、カップを置いて、ソファーの背もたれに身を預けた。


 届かないとわかっていたけれど。


 執務室で、応接室で、花畑で、私の部屋で、あなたの部屋で。ふたりきりの時間をたくさん過ごした。あなたはいつでも気さくで、とびきり優しくて。私はそんなあなたが大好きだったの。


――ずっとそばにいてほしい。


 抱きしめられた時の温もりを思い出すと目頭がまた熱くなる。


 けれど、短い間にたくさん積み上がった甘い記憶は、ひびだらけになってしまった。


 そう。『ずっと』なんてどこにもない。セドリック様はいずれ、ふさわしい方と、または『この人は』と思った方とご結婚される。ふさわしい身分の方がお相手ならば、魔力をもらうことだってできるだろう。


 そう。私は魔道具、そして『繋ぎ』でしかなかった。


 お茶がすっかり冷め切る頃、セドリック様がやってきた。まるで雨に打たれたような表情をしていて、糸が切れたように私の向かいに座った。


 手を伸ばせば届きそうな距離にいるのに、触れることはできない。そして、俯いたまま目を合わせてくださらない。


 膝の上に置いた手を、震えるほどにぎゅっと握りしめている。


 しばしの沈黙のあと、ようやくセドリック様と目が合った。


 その瞳は、初めて夜会でお会いした日のような、底知れない深い紫色をしていた。


 乾いた唇がかすかに動いている。口の中で、言葉を編んでいるのだろうか。


 泣き腫らした目の痛みに耐え、私は真っ直ぐにセドリック様を見た。何を言われても受け止める。私はそう決めていた。


「アルヴェン家には戻らなくていい。これからも今まで通り、その……うちで暮らして……いいから」

 

 普段なら聞き逃してしまいそうな小さな声が、静かな部屋の中ではよく通った。


 これからも、今まで通り……。


 その言葉は、私がなによりも望んだことなのに、ちっとも心に響かなかった。力が抜けたのは安心したから? 違う気もする。わからない。何もわからない。


 セドリック様は黙りこくった私を見て、息を整えた。


「ごめんな……」


 叶わないとわかっている恋は、とどめを刺されるどころか、まだ息をしている。


 だけど、私を流れる血は静かに凍えていく。

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