28.北へと向かう旅、黒狼との対峙
「……私、お父様にお会いします」
翌朝、私はセドリック様の私室に伺って、そう告げた。
「こちらの事情に巻き込んで本当に申し訳ない。感謝する」
私の決意を聞いて深々と頭を下げたセドリック様に、私も同じようにして応えた。
「日程は、追って伝える。おそらく、ごく近いうちになるとは思うが」
「わかりました」
さっそくご実家に連絡を取るとおっしゃったセドリック様をお部屋に残し、私はひとりで応接室へと向かった。今日も変わらず使用人の方々が、忙しく働いている気配がする。
活気に満ちた、いつも通りの朝。だけど、私の心は荒涼としてざわついていた。
『父上の推薦』と書かれたあの釣書が頭から消えないからだった。きっとあの方が、いずれセドリック様の隣に立つことになるのだろう。
あなたの隣に別の誰かがいることを想像したら、本当は悲しくて、泣き叫びたくなる。
だけど、私は隠れない。足掻かない。
叶うことのない恋に、とどめを刺してもらおう。
そうすれば、楽になれるかもしれないから。
◆
翌日の朝食後。いつもならすぐにお仕事に出かけられるはずのセドリック様は、席から立つことはなかった。代わりにエルンスト様とアンナがやってきて、セドリック様の後ろに立つ。
私が背筋を伸ばすと、セドリック様が口を開く。出てきたのは、想像通りの言葉だった。
「ノイマン侯領への訪問は明日になった。本当に急なことですまない」
「わかりました」
私はセドリック様をまっすぐに見つめた。もう覚悟はできている。
セドリック様は応接室のテーブルにアルメラ王国の地図を広げ、ある地点を指差した。
「さて。この地図には記されていないが……ここが、この邸がある場所だ」
私が頷くと、長い指がそのまますっと北をめがけて滑っていき、山脈と大きな湖を超えた先にある『ノイマン侯領』と書かれた文字の上で止まった。周りにある他の領地に比べると、はるかに大きいのがわかる。
「ここからノイマン侯領まで馬車を使うと、途中で一泊して丸二日かかる。山越えをしないといけないのと、湖を迂回しないといけないからだ……しかし直線距離だとそう離れていないので、今回は転移魔法で移動することにした。というわけで、エルは補助を頼む」
「ああ。任された」
後ろに控えられていたエルンスト様が頷いた。セドリック様もそちらを見て頷いた後、話を続ける。
「というわけで、移動は一瞬で済む。しかし、この距離を一日で往復するのは君の体に負担がかかるから、あちらで一泊せざるを得ない。どうかこらえてほしい」
さすがにご挨拶だけで終わるとも思っていなかったけれど、敵視されているかもしれない人のもとで一晩を過ごさなければならないとは。手にびっしょりとかいた汗をハンカチで拭って、私はセドリック様の方を向く。
「わかりました」
「それと、君の世話係としてアンナに同行してもらうことにした」
セドリック様に名前を呼ばれたアンナがぺこりとお辞儀をした。
いつも私のお世話をしてくれているリーネはまだメイドとしての経験が浅く、今回の仕事を任せるのは荷が重いと判断したとのことだ。
「わかりました。アンナ、よろしくお願いします」
「ええ。精一杯務めさせていただきますね」
アンナがそばにいてくれるなら少しは安心だ。緊張がほんの少しだけ緩んでほっと息をついた私に、セドリック様はいつも通り優しく笑いかけてくる。
「……君のことは俺が守るから」
「ありがとうございます。ですが、ご心配には及びません」
セドリック様の笑みがわずかに曇ったけれど、私は自分の胸の痛みごと見ないふりをして、打ち合わせを続けた。
◆
「ルシア様、おはようございます」
「おはよう。リーネ」
出発の日の朝。少し早く起きて窓辺に立っていた私の元に、リーネが神妙な面持ちで訪れた。
窓の外には、すっきりと晴れた空が広がっている。私の心も今は同じくらいに澄んで、静かだった。私は空色のドレスを選び、着付けてもらった。
「髪はどういたしますか?」
いつもの質問に、私は少しだけ迷って答えた。
「……結い上げてくれるかしら。形はお任せするわ」
「あっ、はい」
リーネは小さく驚いたけれど、手は淡々と動いている。髪をきっちりと結ってもらい、耳飾りをつけて、渡された鏡をのぞいた。
鏡に映ったのは、隙なく整った髪に、綺麗なドレスを纏った私の姿。髪の色はどうしようもないけれど、これなら侯爵様にお会いするにも失礼には当たらないはず。小さく頷いた。
「あの、ルシア様、大丈夫ですか? 顔色がよくないです……その」
肩に乗せられたリーネの手こそ、なんだか不安そうにひんやりと冷たかった。年上なのに情けなくて申し訳ないと思いながら、私はなんとかリーネを安心させようと笑顔を作った。
「初めて行くところだから、少し緊張してるだけよ。顔色は……うまく隠してくれる……?」
精一杯の強がりを、リーネも微笑んで受け止めてくれる。
「……はい。かしこまりました。めいっぱい綺麗にしますね」
頬紅をいつもより少し広めに、口紅もほんの少しだけ鮮やかなものを施してもらう。
セドリック様は準備で忙しいとのことだったので、この日の朝食はひとりで部屋でとった。今日も私の体のことを思って用意された優しい食事。緊張で喉を通りにくかったけれど、なんとか全ていただくことができた。
それからリーネに着替えなどを詰めたトランクを持ってもらい、一階へと降りていく。
「おはよう」
「おはようございます」
支度を終えたらしいセドリック様が廊下に立たれていた。相変わらず黒のお召し物を纏われていたけれど、今日は光を吸うような一段濃い黒だ。
そのうえ、普段は身につけられない装飾付きのマントを羽織り、髪もきっちりと整えている。見慣れているはずの魔術師章がより輝いて見える。
「お気をつけていってらっしゃいませ。無事のお帰りを祈ってます」
「ありがとう。行ってくるわね」
「ああ、行ってくるよ」
リーネと挨拶を交わし、魔法の儀式のために用意してある部屋に入る。魔術師団の用事で出かけられるセドリック様を見送るためにドアの前に立ったことはあっても、中に入るのは初めてだった。
仮にベッドと机を運び込んだら、それだけいっぱいになってしまいそうな広さ。窓はなく、四隅に設置された魔石ランプの灯りにぼんやりと照らされている。
そんな中、エルンスト様が石筆を片手に床と向かい合っていた。私たちが入ったのに気付いた様子を見せた後、立ち上がられた。
「行けそうか?」
セドリック様が尋ねると、エルンスト様は腰に手を当てて得意げな顔をする。
「ああ。魔法陣の調整は今終わった。あちらの承認があればすぐに飛べる。アンナと荷物は一時間後で」
「ありがとう。留守は任せたぞ」
「ああ、任された。お前もくれぐれもヘマをしないように」
エルンスト様はいつも通りだけど、セドリック様は、目をやや伏せながら頷いた。
ドアが閉まる音がしたのを最後に、部屋の中はしんと静まり返る。この部屋は木の匂いがいちだんと濃い。
「緊張してるか?」
「す、少し」
唇を塞がれる。これは今回の魔法に必要な魔力をお渡しするためで、昨日打ち合わせした通りだ。驚かない。ときめきも、ない。
……これで、最後になるかもしれない。
そんな思いがふと頭をよぎり、胸の奥が内側から掴まれたみたいに痛む。なんとか耐えなければと思う私は、次に放たれたセドリック様の囁きで大きく揺れた。
「ちょっと失礼……」
大きな手で腰を抱き寄せられてしまい、悲鳴に近い声が出てしまう。
「あっ、あのっ」
「ごめんな。着地の時にふらついて転ぶといけないから、いいというまで俺に身を委ねていてくれ」
「はい……」
私は言われるがまま、セドリック様の広い胸に顔を寄せた。抱きしめられているような格好なので、どうしても心臓の音が聞こえてしまう。なぜか鼓動が早いように思う。男の方は体が大きいから、そんなもの?
顔を上げると、セドリック様と目が合った。びっくりしてまた声を上げそうになったのを飲み込んだ。
「息は止めなくていいが、目は閉じていたほうがいいかもしれない。詠唱をしないので、きっと混乱すると思う」
「は、はい」
言いつけられた通り、ぎゅっと目を閉じた。瞼が今までにないほど熱く、妙に息苦しい。このままだと、体が焦げてしまいそう。
「では」
目を閉じているのもあって、何が起こっているのかはわからない。しかし、腰に回された手にいきなり強い力が入った。
また悲鳴を上げそうになった次の瞬間、ぐるりと天地が逆になった。体が急に重くなる。まるで地面に押し付けられているような苦痛に耐えきれず、セドリック様の体にしがみついてうめいてしまう。
お腹の中を混ぜっ返されたみたいで、今にも吐いてしまいそうだ。
「もう着いてるぞ。まっすぐ立てるか?」
セドリック様はやはり慣れているのか、何ともない様子だった。ようやく息を吸うと、先ほどまでの木の匂いが嘘のように消えていることに気がつく。そればかりではなく、靴裏からじわじわと冷たさが染みてくる。
目を開いたけれど、どうしても焦点が定まらない。私たちは寄り添ったままで白い石の床の上に立っていることがかろうじてわかっただけだった。
「大丈夫です……」
ようやく、セドリック様から体を離せるほどの余裕が生まれた。
床には傷ひとつないだけではなく、壁もまた磨き上げられたばかりのように白い。天井は天に向かって突き抜けるように高く、上方に設られた窓から陽の光が弱々しく注いでいた。
それから、後ろを振り返って……息を呑む。濃灰色の騎士服に身を包んだ男性が整列していたからだ。
「出迎え、感謝する」
セドリック様は騎士たちに硬い声で告げ、目礼した。私も膝を軽く折って挨拶をする。けれど、まるで私のことなど見えていないように、騎士たちは微動だにしない。
重いドアが開く音が、耳が痛くなるほどの静寂を破る。
それを合図に、壁のように動かなかった騎士たちの列が、音もなくふたつに割れる。しかし、視線はこちらを制したまま揺れることはない。
再び訪れた静寂の向こうから、ゆったりとした靴音を鳴らしながら進んできたのは、壮年の男性。引き締まった長身を、黒を基調とした品の良いお召し物で包んでいる。
目元や口元には確かにしわが刻まれているけれど、ところどころに虹色を帯びた黒髪と深い紫の瞳は、セドリック様と全く同じ。
私はつい、目の前の人物と隣に立つセドリック様と見比べた。まるで鏡で写したかのように、おふたりはそっくりだった。
「来たか」
声もよく似ているけれど、帯びているものが明らかに違う。そこには息子との再会の喜びのようなものは一切含まれておらず、それどころかなんの感情も載っていないように聞こえた。
歳を重ねられたからこその揺るぎなさだけが確かだった。
私は、まっすぐに前を見る。
この方が……セドリック様のお父様、ハロルド・ノイマン様。アルメラ王国の最北部、隣国に接し、いまだに魔獣が跋扈する暗黒地帯にも程近い広大な土地を治めている方。
ノイマン侯爵は、まずセドリック様を刃物のような目つきで刺した。
そして視線は鋭さをそのままに、ゆっくりと隣に立つ私へと移った。
セドリック様にそっくりなのに、怖い。やはり逃げ出したくなる。けれど踏ん張って。
私は真正面から受け止め、膝を深く折った。
「ノイマン侯爵様、お初にお目にかかります……ルシアと申します」
ゆっくりと顔を上げる。しかし、侯爵様は私を一瞥しただけで何も仰らず、再びセドリック様へと視線を戻した。
「……さて、セドリックよ。これは一体どういうことなのか説明してもらおう」
セドリック様は、侯爵様を睨みつけるように見つめたまま微動だにしない。しかし、下ろした手は今にも音を立てそうなくらいに強く握りしめられていた。
再び、白の広間は息が詰まるほどの静けさに包まれた。




