27.真夜中のお茶会、翳る月明かり
夜もすっかり更けた頃。
布団の中で目を閉じていると誰かが部屋に入ってきて、ランプの明かりを落としていった。
いつもならとっくに眠った後の出来事。だけど今日の私は、足音が聞こえなくなるのを合図に起き上がった。ゆっくりと窓際に進み、音を立てないように気をつけてカーテンを開く。
「……きれい」
漆黒の空には満ちた月が浮かび、ところどころに雲が浮かぶのが見える。暗くざわめく私の心とはうらはらに、今日は明るくて風のない静かな夜だった。
耳を澄ませば優しく囁くような鳥の鳴き声がして、眼下では月明かりを浴びたお花が私を誘う。お庭に出てみたくなるのを、ぐっと堪えた。
私は指を組んで、目を閉じた。空に散らばる星のなかで一番明るいものに祈る。
何者かに攫われた子供たちが早く無事に見つけてもらえますように。魔獣のことも含めて早く事態が解決して、セドリック様にも落ち着いていただけますように。
「セドリック様……」
彼の笑顔が浮かんだ瞬間、胸が針を刺したように痛む。今の騒ぎが落ち着いたら、ご結婚についてさらに深く、具体的に考えるようになるのではないかと。付箋に几帳面に書かれた文字が、まぶたの裏に焼き付いている。
たまらなくなって目を開いた。けれど、星は私の黒い気持ちなんて知らないように輝いている。
私はその輝きに向かって、再びすがるように指を組んでいた。けれど……ずっとセドリック様のそばにいたい、とは願えなかった。
星に願うだけなら、誰にも咎められないとわかっている。この気持ちを空に向けてだとしても外に出してしまったら、自分を抑えられなくなってしまいそうだから。
祈りかけた指を解いて、心に再びしっかりと蓋をして。布団に戻ろうとカーテンを閉じようとした時だった。
突然、ノックの音がした。心臓が飛び跳ねる。驚きと恐怖でカーテンを握りしめてしまいながら、反射的に声を上げていた。
「は、はい……どなたでしょうか……?」
そう声にしてしまってから、黙って布団に戻った方が良かったことに気がついたけれど、時すでに遅し。
アンナか、エルンスト様か、でなければ。人攫いという言葉が頭をよぎる。まさか、邸の中にまで入り込むとは考えづらいけど。私は今更ながら息を殺し、じっとドアに注目する。
「やっぱり、起きてるんだな」
心臓が再び跳ねた。ドアの向こうから、確かにセドリック様の声がしたからだ。私は慌てて寝衣と髪を整えながら、ドアのそばに近づいた。
「……すみません、なかなか眠れなくて。その」
素直に白状すると、ドアの向こうがしんと静かになる。
「……悪いが、少しだけ待っててくれないか?」
「わ、わかりました」
そっとドアを開いたけれど、廊下にセドリック様の姿はすでになかった。そして、しばらく経った後。今度はノックではなく、小さく声をかけられた。
「入るぞ」
「ど、どうぞ」
落ち着けなくて部屋をうろうろしていた足を止めると、ゆっくりとドアが開いた。セドリック様は片手には青白く光る魔石ランプを提げ、もう片手にトレイに乗せた茶器一式を携えて現れた。
「お、お茶ですか?」
「ああ、茶だよ。一緒に飲もう」
思ってもいなかったことが起こって、きっと目が白黒しているであろう私に、セドリック様は机の上にランプとトレイを下ろしながら笑って答える。
「あの、ところでこれはどなたが淹れてくださるのですか?」
メイドを呼ぶためのベルを視界の隅に入れたけれど、今は真夜中。セドリック様も私のことをじっと見ているだけで、ベルに手を伸ばす様子はない。
けれど、私はお茶の淹れ方を知らない。というより、こんな時間に部屋でふたりでいるところを知られたらどう思われるか。
様々な感情が混ざり合い、頭の中が忙しい。挙動にも困惑がにじんでしまっていたのだろうか。セドリック様は面白いものを見つけたみたいに小さく噴き出した。
「俺にだって茶くらい淹れられるが」
「……そうなのですか!?」
主人が魔道具のためにお茶を淹れるなんて、聞いたことがない。いや、普通の魔道具はきっとお茶を飲まないとは思うけれど、これもお手入れのようなものなのでしょうか?
「まあ、まずは座るんだ」
「はい」
セドリック様は椅子を引いて、立ちっぱなしだった私を着席させる。それからガウンのポケットから時計を出して、時間を確認しているようだ。しばらく文字盤を見つめた後、再び私に目を合わせられた。
「よし、もういいな……しかし、そんなに驚くか。これでも学生寮や官舎で暮らしてた時は、身の回りのことはほとんど自分でやってたんだぞ」
ポットに被せていた布のカバーを取り、伏せてあったカップをひっくり返しながら、セドリック様は小さく胸を張った。片手でポットを持ち上げると、ふたつのカップに均等に注ぎ入れる。
それは無骨でありながらも、どこか優雅さを帯びた手つきだった。意外な一面に見惚れているうちに、部屋の中をほのかに甘い香りが満たしていく。初めて嗅ぐ……けれど、とてもいい香りだ。
湯気立つカップを恭しく目の前に出された。魔石ランプの青い灯りが、水面で揺れている。色はいつも飲んでいるものよりかなり薄いようだ。
「さあ、冷めないうちにどうぞ。まあ、味はあんまり期待しないでくれ。別にまずいってことはないと思うが、俺はしょせんずぶの素人なので」
「ありがとうございます。い、いただきます……」
笑顔に促されて、畏れ多いと思いながらもカップに口をつけた。
微かな苦味の後に、ふわりと花が開いたような香りがする。今まで飲んだことのないものだったけれど、まるで氷が溶けるように自然とこわばっていた気持ちがほぐれていく。普段いただくものとは違い、後味を残さないかなりさっぱりとした味わいだ。
ああ。眠れない夜にふさわしいものを選んで持ってきてくださったのだと、勘の悪い私にでもわかった。ほっとついた息が温かい。胸の奥も同じように、ゆるやかにほどけていく。
セドリック様が手ずから淹れたお茶をいただけるなんて。なんて幸せなことなのだろう。
「ありがとうございます、とても美味しいです」
セドリック様は満足そうに笑うと、自分のカップに口をつけた。「まあ、及第点だな」と小さくつぶやいてから、私の方を見た。
「……よかった。まずは昼間のことを謝らせてくれ。君の前でするべき話じゃなかった。申し訳なかった」
「いいえ、厚かましく居座っていた私が悪いのです」
聞いてはいけないかもしれないと思った時に、席を外すこともできた。そのうえ余計な口を挟んで、詳細を話さざるを得ない状況を作り出したのはほかでもない私。
「いいや、そんなことはない。悪いのは俺だ。なんというか、子供たちの話を、自分に当てはめてしまったのではないか?」
まるで心の中を手に取られているような気がして、ドキッとした。もしかすると魔術師の方は、心が読めるのかもしれない。私は恐る恐る答えた。
「はい……魔力だけがある、とは、まるで私のことのようだと思いました」
「……確かに君にも色付きの子供たちと同じように利用価値とやらはある。むしろ、悪いことを考えている奴らにとっては価値が高いかもしれない。けれど、君のことは俺やエルが守る。安心してくれ」
「……ありがとうございます」
「もちろん子供たちのことも、無事に助け出したいと思っている。こちらに関しては少し状況が厳しいが、できる限りのことはしたい」
私は何も言っていないのに、心の中で子供たちを案じていたことにも触れられた。だったら、釣書を見てしまったこともいずれ見抜かれてしまうのだろうか。
急に喉が干上がるような心地がして、お茶を口に含む。もうだいぶ冷めてしまっている。飲み干してしまいたいと思ったけれど、ぐっと堪えた。
「セドリック様こそ、大丈夫でしょうか」
「……え、俺?」
的外れだったのか、明らかに戸惑われている。
「はい。最近はとてもお忙しくされているので、お疲れが出てしまわないかと……魔力は私が差し上げられますが……あの」
「ありがとう。大丈夫だ」
言葉だけを拾えばその通りだけれど、その声にはどこか力がなく、耳にわずかに引っ掛かる。
セドリック様と出会ってまだふた月にも満たないとはいえ、日々顔を合わせ、言葉を交わしているうちに声が染み付いている。これは、魔力が切れたとおっしゃった時の声によく似ている。
「……なにか、心配なことがあるのですか?」
いけない、と思いながらも止められず、つい一歩踏み込んでしまう。セドリック様の肩がわずかに跳ね、顔から薄く貼り付けたような笑顔が消え、私から気まずそうに目を逸らした。
「もしかして、君にはお見通しってことか……」
セドリック様は、カップの中身を一気に飲み干した。
「セドリック様?」
「君に頼みたいことがある、と今朝言ったが、覚えているだろうか?」
「ええ、お仕事をお願いされましたよね……」
……今度は私が目を逸らしそうになったけれど、ランプの灯りに輝く紫色の瞳に捕まって叶わなかった。
今度こそ釣書の箱のことを言われるのかもしれない。噛みつかれてできた傷からは、まだ血が滲み出ている。
しかし、セドリック様は首を小さく横に振り、表情を正して言った。
「あの時、頼みたかったのは仕事じゃなかった。今ここに来たのも、君に折り入って頼みたいことがあったからだ」
「……え?」
「その、あのな、頼みというのはだな」
珍しく言い淀まれたセドリック様。湯浴みのあとに乾かしただけなのであろう長い前髪が、端正なお顔に暗い影を落としていた。小さく呟いたきり静かに俯いていたけれど、やがて思い詰めたように口を開いた。
……その先に続いたのは、私が想像もしていなかった言葉だった。
「近いうちに、俺の父に会ってほしい」
「セドリック様の、お父様に……?」
「ああ。辺境に住んでいるのだが、君の存在が耳に入ったらしい。本当は俺だけでなんとかしようとしたのだが、君に会わせろと言って聞かない。だから……」
セドリック様は昼間と同じく険しい顔をしている。セドリック様のお父様……たしかノイマン侯爵が、私との面会を求める理由が、好意的でないことは明らかだった。
瞼の裏に焼き付いている文字……釣書につけられた付箋書きの中には、『父上からの推薦』というものもあった。セドリック様はすでに独立されているとはいえ、父親の言葉は決して無視することのできない重いものに変わりない。
私はじっと考えた。ノイマン侯爵が私に会いたい理由はひとつしかないだろう。息子の相手にと望まれている方がいるということはきっと、付き従っている私のことを邪魔だと思っていて、除きたいはずで。
「私……」
どう答えるべきかはわかっているのに、その先が言えない。
目の前にいても、あなたは遠い。いつ露と消えるのかわからない幻と同じ。
明るかった月が次第に翳り、窓の外は濃い闇に包まれてしまった。私の行く末を、静かに暗示してくるようだった。




