25.見えない壁のむこう、封蝋のかけら
「……なんだか、頭が痛いわ」
朝。目覚めとともに頭がずきずきと痛んだ。まるで頭の中にも心臓があるように規則的な痛みだった。経験のないことにたまらずに眉間を揉んだ私を見て、支度に来てくれたリーネが慌てた様子を見せる。
「あの、ルシア様。大丈夫ですか?」
「ええ、たぶん大丈夫だとは思うのだけど……」
実は頭が痛いだけではない。無視できるほどではあるけれど、胸の辺りがむかむかして気分が悪い。食事の量には気を付けていただいているから、食べ過ぎではないはず。
つまり、自分では原因にまったく思い当たらなかった。その後、リーネに呼ばれてやってきたエルンスト様が、私の様子を一目見ると思いもよらぬことを言った。
「おそらくお酒を召されたからですね」
「えっ……お酒ですか?」
……昨日の夕食の時、私の目は小さなグラスに注がれたブドウ酒に釘付けだった。
今までは遠くから見ているだけだった深い赤は、いざ目の前にしてみるとどこか毒々しい。助けを求めるように前を向くと、セドリック様が私の視線に気づいて微笑まれた。
『いやあ、これは本当に美味いぞ』
貴族の嗜みとして嗜好品について学ぶことや、お祝いの席などにはきっぱりと無縁だった私。とっくに成人しているとはいえ、お酒を飲むのは生まれて初めてだったのだ。
『君も遠慮するな』
そう言って、セドリック様は誘うようにグラスを傾けた。私は、思い切ってグラスに口をつけた。
『んっ……?』
ブドウから作られたというのなら甘酸っぱくて美味しいもののはず……なのに、苦くて、渋くて、少し酸っぱい。つまり、お世辞にも美味しいとは言えなかった。
涼しい顔をして飲むことは難しいと判断して、お酒を飲むのは初めてだと白状した。セドリック様は決して笑いはしなかった。
『初めて飲んだ時は、俺も君みたいに驚いたかもしれない』
つまり、セドリック様も最初は美味しくないと思っていたということ。もう一口飲む。やっぱり美味しくはないけれど、最初の一口よりは悪い印象は和らいだ気がする。
もっと深く知ることができれば、と思う。
『私も、このお酒がいつか好きになりたいです……』
互いに美味しいねと笑い合える日が来たら……そんな願いを込めて言った言葉を聞いて、セドリック様はどんな顔をしていたかしら。
思い出そうとしたけれど、強めの頭痛によって阻まれた。
「いたた……」
エルンスト様は、つい声を上げた私を見て少し表情を曇らせた。
「飲む量によっては、このように体に不調をきたすことがあるのです。受け入れられる量は人によってかなり差があって……ルシア様は……飲むのが初めてだったからかもしれませんが、あまりお強くないのかと。今後は控えられたほうが良いかもしれないですね」
「そんな……」
セドリック様と同じものを、私も好きになりたかったのに。体に合わないなら仕方がないけれど、少し悲しい。
「とにかく。朝食に柑橘水を出すよう、料理人に急ぎ頼んでおきましょう。それで少しは気分が良くなると思います。今日はお部屋でゆっくりお休みください」
「ありがとうございます……ところで、セドリック様は大丈夫なのでしょうか? 私よりも、ずっとずっとたくさん飲まれていたので……」
私はグラスに一杯だったけれど、セドリック様は大きな瓶に残っていたものを全て飲まれていたように思う。
「心配には及びません」
エルンスト様はきっぱりと言った。私を労ってくださった時とはまるで逆の表情で、どこか呆れ顔のようにも見える。
「そうなのですか?」
「ええ。あの人は酒豪揃いの魔術師団でも、五本の指に入るほどでした。酔うと少々うるさくなるくらいです。昨夜もそれなりにうるさくしてはいましたが……まあ、体のことは心配いらないでしょう」
首を傾げた。昨夜のセドリック様は確かにご機嫌ではあったけれど、うるさいとは全く思わなかった。まだ出会って日の浅い私にはわからないほどの変化ということなのだろうか。
◆
「おはよう」
その後向かった執務室はいつも通り薄暗く、私を出迎えたセドリック様も相変わらず影のように静かだった。
「体調が万全じゃないらしいのにごめんな。休んでほしい……と言いたいところだが、今日はあっちに行かないといけないから、どうしても必要で」
「構いません。私には負担のかかることではありませんので」
「はは、羨ましいことだな……」
魔力を吸われても、私には魔法回路がないので何の実感も伴わない。たまにくすぐったくなるくらい。たぶん魔力とは関係のないことだとは思う。
私からしたら、ただ愛する人に触れられているだけのことでしかないのだから。
私が胸を熱くしている一方で、セドリック様の声からはいつもの覇気が感じられない。執務室は相変わらず薄暗いから顔色までは伺えないけれど、どこかお疲れが滲んで見える。
それはいつも通り『儀式』をして魔力をお渡しした後も変わらない。セドリック様の立ち姿は、なんだか萎れてしまった花瓶のお花のようにさえ見えた。
本当にどうされたのかしら。私のようにお酒にあたられたのでないのなら、お仕事がお忙しいか、何か心に障ることがあるのか。
「……何か、心配なことがあるのですか?」
「ああ、いや、そういうわけじゃなくて」
目を丸くしたセドリック様はいったん言葉を切り、唇を噛む。やがて何かを決意したように言った。
「申し訳ないが、君に折り入って頼みたいことがあって……」
「は、はい! 何なりとおっしゃってください」
セドリック様の助けになるならと迷わず頷いたけれど、私の答えを聞いた紫水晶の瞳は、なぜか気まずそうに泳ぎ出す。カーテンが開かれ、朝陽が差す執務室の中に、妙な沈黙が落ちる。
「セドリック様?」
私が呼びかけると、何かを飲み込んだように、セドリック様の喉が大きく動いた。やっぱり、なんだか様子がおかしい。
「……えっと……そうだ、エルが今日も書類整理を手伝って欲しいと言っていた。頼めるか?」
「はい、わかりました……?」
確かに本当なら、今日はお仕事の予定になっていた。だけど、先ほどお会いした時には休むようにとおっしゃっていたのに。
私は疑問に思いながらも頷いた。
◆
いつも通り朝食をご一緒したあとは、セドリック様は魔術師団の制服を着て玄関とは逆、一階の奥への部屋へと入っていった。
私はお見送りのためにその後ろをついていく。
そこは儀式のために用意された部屋だという。今は転送魔法のために使われているらしく、壁や床、天井にそのための魔法陣が刻まれているらしい。
王宮や魔術師団の呼び出しに応じるときだけではなく、手紙や書類、物品のやり取りに使われたりする。
とても便利だけど、法律で規制があったり、魔力をたくさん使うなどの理由で基本的には急ぎの用事にしか使われないそうだ。
「じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
閉まったドアに礼をする。セドリック様は今日もこの転送部屋から王都にある魔術師団の本部へ向かわれ、夕方まで戻られないそうだ。
その後、日課の散歩を終えた私は、主人のいない執務室のドアをノックした。
中ではエルンスト様が、ご自分の机で静かにお仕事をされていた。私の姿に気づき、顔を上げられ、肩をすくめられた。
「お手伝いにあがりました」
「申し訳ありません。今日は休んでいただくつもりだったのですが……」
「大丈夫です。柑橘水をいただいたら、すっかり良くなって。お散歩もいつも通りできたんですよ」
よく冷やした水に、酸味の強い柑橘の薄切りを浮かべ、ハーブの葉を何種類か手で叩いて入れる。最後に蜂蜜を加え、ほのかに甘くする。この邸の料理人、ジェリーの秘蔵のレシピだそう。
これを飲むとまるで魔法のように胸がすっきりして、お食事もいつも通りいただくことができた。調子がよくなったのなら、お仕事を休む理由もない。
「よかった。では、お願いしましょうか……しかし、どうしたものか。今日はそのつもりではなかったので、用意ができておらず……どこから手をつけてもらおうか」
エルンスト様が椅子から立ち上がり、執務室の隅に積み上がった未整理の書類箱の方に向かおうとしたその時、どこからか「エルンストさーん!?」という悲鳴に近い声が聞こえてきた。遠いので確信はできないけれど、リーネの声のような気がする。エルンスト様は踵を返して窓辺に立った。
「全く、どうしたんだ。騒々しいな……ヘビでも出たのか? ああそうだ」
「はい」
エルンスト様が指差したのはセドリック様の執務机。全く同じ書類箱が二つ並んでいる。
「少し様子を見て来るので、その間にそこの……右側の箱の中を仕分けておいていただけますか?」
「はい! わかりました」
エルンスト様は急足で部屋から出て行った。私はエルンスト様が先ほど立っていた場所から見て、『右』の箱を手にとる。
意外なことに私でも難なく持てる重さだったので、箱ごと作業台に運んでから作業をすることにした。
「あら?」
蓋を開けると中に入っていたのは、セドリック様に宛てて送られた大きな封筒だった。手を入れ、少し下まで探ってみると、箱の中身は全て似たような大きさの封筒だと思われた。
私は一番上にあったものを手に取り、裏を確認する。封蝋はすでに割られている。差出人に心当たりはない。
手紙ではなく書類……だと思う。お手紙なら机の脇にある文箱に入れられるだろうところ、これは書類箱なわけだから。
封筒に入ったままのものをどう扱うかは、まだ教えていただいていない。単に差出人ごとに分ければいいのか、それとも中をあらためて、内容によって分ける?
どうしていいのかわからずに困った私は、まずは何が入っているのかを確認しようと封筒に手を入れて……驚いた。ただの書類とは思えない上質な紙に触れたからだ。
なぜか湧き上がってきた嫌な予感を飲み込みながら、紙を引っ張り出した。
最初の二行が目に入った瞬間、私は呆然とした。
女性の名前、年齢……肖像はどうやら魔法で刻印されているらしく、私には見ることができないけれど。
いくら物知らずの私にも、何なのかははっきりとわかった。
「……これ、釣書だわ」
そう呟くと同時に、何かが木の葉のようにはらりと私の足元に落ちた。
釣書の裏に貼られていたのであろう付箋書きだと気づき、恐る恐る拾い上げる。そこにはもうすっかり見慣れた、力強くも整った筆跡でこう記されていた。
魔力量は申し分ないと思われる
冬の社交期までに対応を再検討したい
父上からの推薦
血の気が引き、手が震えだす。たまらなくなって、箱からもうひとつ封筒を出して開ける。裏にはまた同じ筆跡の付箋が貼ってある。
魔力量は多いが、相性が懸念か
確か以前会った。話した印象は悪くない
魔術師団長からの紹介
几帳面に記された日付は、どちらも私がここに来てから届いたものだ。
私は黒い感情に突き動かされるように全ての封筒の中身を、貼り付けられた付箋書きを見てしまった。けれど、その先はどうしたらいいのかわからなくて、作業台の椅子にぼんやりと座っているしかなかった。
……この箱の中身は、あの日の再現だと思った。
初めてセドリック様にお会いした日、夜会で見た光景。今も頭にはっきりと描くことができる。
どの令嬢も今にも燃え上がりそうなほどに鮮やかな色の髪を光魔法で彩って、まるで朝露を纏ったように煌めかせていた。さらに絢爛なドレスで着飾って、花と見紛うような美しさとなった彼女たちが、競うようにホールを進んでいった。
あの時、壁のシミでいるしかなかった私。艶やかな花に囲まれて表情を硬くしたあなたのことを、人の心を考えない、高慢で冷たい人物なのだろうと思っていた。
とにかく、自分とは一生関わることのない人物として眺めていた。
けれど、付箋書きを見てしまった今ならわかる。あの険しい表情は、自分のそばに置く女性のことを真剣に見定めていたからなのだと。
セドリック様はどなたからの縁談も受け入れていないのではない……きっとまだ、出会えていないだけなんだと思う。今も妻となる方を真面目に探しておられる。
道具のはずの私のこともあなたはとても大切にしてくださる。なら、人間として、心から愛した方のことはどうだろう?
私であればよかった。と夢を見ずにはいられない。
けれど現実は物語のようにはいかず、痛くて冷たいものだ。自分の髪色が目に入って、全身から力が抜けていく。今にも雨が降り出しそうな空と同じ灰色は、貴族の資格を持たぬと蔑まれる色。
たとえ口付けをされても、抱きしめられても、あなたは壁の向こう、私の触れられない遠いところにいる。
それなのに私は、愚かにもあなたのことが欲しいと思っている。
一度胸の奥に落ちた黒いシミは、心の中に広く、深く、根を張るように広がっていく。心を容赦なく締め上げてくる。
目の前には、封筒から剥がれたのであろう封蝋のかけらが落ちている。
……苦しい。
ああ。私の心も、いっそこんなふうに割れて壊れてしまえばいいのに。




