24.黒衣の魔術師の独白Ⅳ
夜もすっかり深くなった頃。俺はようやく自室に引っ込んで、月明かりを頼りに椅子に腰掛け一息ついた。机上の魔石ランプに魔力を流し、揺れる灯りをぼんやりと見つめた。
いや、揺れているのは明かりではなく俺の頭のほうか? 目を細めてどちらなのかを見極めようとするが、よくわからなかった。
まだ布団に入るほどの時間でもないかと、読みかけの本を開きかけて……やっぱり止める。表紙の文字が滲んで見えたので、どうせ頭に入らないと判断した。
ああ、別に病にかかったわけではない、単に酒を飲みすぎただけだ。夕飯の時に、来客用に取ってあったとっておきのブドウ酒を空けてしまったのだ。
俺にとって、ルシアから贈り物をもらえたことは、そうしたくなるくらい嬉しい出来事だった。
ガウンのポケットを探り、手巾を取り出した。明かりの下に置いて、隅に刺された小さなブドウを見つめ、触れる。
改めてよく見ると、濃さの違う糸を何色か使って、実の艶や、葉脈などがきちんと表現されていた。確かに形こそいびつだが、とても丁寧に刺されているのが素人目にもよくわかる仕上がりだ。
かつて母親が節目ごとに作って持たせてくれたものに比べると、ずっと拙いが、それは単に刺繍の技術や込められた加護に限った話。
「……きっと、めちゃくちゃ頑張ってくれたんだよな」
この手巾からは、魔力の代わりに傷薬の匂いがかすかに香る。確かアンナが好んで使っているもので、俺も子供の頃に同じ薬で手当てしてもらったことがある。
目を閉じると、応接室の椅子に腰掛け、慣れない手つきで懸命に刺繍を刺すルシアの姿が容易に想像できた。きっと途中で何回も針で手を刺して、その度に傷薬を塗ってもらったのだろう。
俺に贈るために、傷つきながらも最後まで頑張ってくれたのだ。
そう思うだけで、胸が、なんなら全身が、燃えるように熱くなる。
こんなに尊い贈り物があるか?
受け取った瞬間にみっともなく騒ぎたくなるのを必死に耐えたが、ルシアと一緒だった夕食の席ではひたすら酒をあおるしかなかった。酔っ払ってさえいれば、多少浮かれていても不自然ではないだろうと思ったからだ。
夕食の時のことをさらに思い出す。
ルシアも「お付き合いします」と言ってブドウ酒をちびっと飲んだ。美味いだろう? と言おうとしたが、ルシアは明らかに渋い顔をしていたので、いったん喉の奥に引っ込めた。
『……ん、どうした?』
『果汁とは味が全然違うのですね……すみません』
ルシアはそう言って、中身のほとんど減っていないグラスを置くと、申し訳なさそうに俯いてしまった。なんでも、酒を飲むのは生まれて初めてだったらしい。
俺より五つ年下とはいえ、とっくに成人しているのに……という驚きの後に、彼女の育ってきた境遇を思い出して暗い気持ちが襲ってきた。
一緒に飲もうと気楽に誘ったのは、大人の女性の嗜みとして、あるいは祝いの席などで、当然飲んだことがあると思い込んでいたからだ。悪いことをしてしまったと思った。
『大丈夫か? 残してもいいんだぞ』
俺はそう言ったが、ルシアはなぜかブドウ酒をもうひと口飲んで、わずかに顔を歪ませた。やはり、初めての味に戸惑っているのだろう。青い瞳がさざ波立つように潤んでいた。
『セドリック様は、これがお好きなのですよね?』
おずおずと尋ねてきた彼女に、俺は頷いて答える。
『ああ、まあな……けど、初めて飲んだ時は、俺も君みたいに驚いたかもしれない』
俺は最初から割と抵抗なく飲めたのだが、そう言っておいた。するとルシアは頬をほんのり赤くして、ほっと安心したように微笑んでくれた。
『私も、このお酒がいつか好きになりたいです……』
ぴきり、と理性にヒビが入る音がした。
「あああああっ……」
意識が薄暗い部屋に戻ってくる。たまらなくなって、頭をガリガリと掻いた。ランプの灯りが俺の鼓動に合わせるようにぐらぐらと揺れて見える。
君のことが欲しいという心を、やっとの思いで封じたばかりなのに。
しかしいくら堅く防御しても、ルシアはそれこそ子リスのようにすばしっこく懐の中に入り込んできて、俺を澄んだ瞳で見つめて甘やかに笑う。
まるで、俺を一心に好いているかのように。
……いかん!! ついつい浮かれ上がる自分を心の中で引っ叩く。
改めて言い聞かせる。俺は魔術師で、ルシアは魔道具。最初に互いの関係をそう定義し、彼女を金を払って買ったのは自分。
選ばれたくなってしまった俺と、最初から選ぶことのできないルシアが噛み合うことは、どう足掻いたってない。
俺だって、目の前の人間の指先に自分の生き死にがかかっているなら、本心はどうあろうが笑ってみせるはずだ。
そうだ、ルシアはいつ刺されるのかわからない戦場にいるようなものだ。嬉しくて笑っているのか、生きるために笑っているのか、心が読めない俺には判別がつかない。
ルシアは、ずっと理不尽に痛めつけられていた。だからせめてここでは何にも怯えずに、誰の顔色も窺わずに、当たり前のことを当たり前として受け取って、生きて欲しいと願っている。
自分を支えてくれることに対して当然の敬意は払うが、『愛しはしない』と決めたのに。他でもない彼女が容赦なく心を揺さぶってくる。もう、俺にどうしろというのだ。
「ほんと、無理だって……」
俺の場合は、彼女への愛さえあればいい、彼女だけを愛し抜けばいいという簡単な話ではないと思うのだ。拒むことができない愛など、ルシアにとってただの暴力でしかない。
好きだ、いやダメだ、が、頭の中で激しくせめぎ合っている。
だが彼女を想うほどに血がグラグラと煮え、心が大声で叫びだす。欲しい、欲しい、と。
ああ、明日は儀式の日だというのに、こんな気持ちのまま、一体どんな顔をしてルシアに向き合えばいいのか…………
「相変わらずの百面相だな」
「ひっ」
いつの間にか部屋に入り込んで来たらしいエルが、俺の目の前に影のように立っていた。別にノックはいらないと言ってあるが、入るのなら声を上げるなりなんなり、もう少し主張をしてほしい。幽霊より気配が薄いって何なんだよ。
今にもはだけさせそうだった寝衣をさっと元に戻す。
部屋が暗くてよかったと思った。今さらヤツに見られて見られて困るものなど何もないが、恥を晒せばバツが悪いことには変わりない。
「な、なんだ?」
「お前、調子に乗って飲みすぎてただろう」
目を凝らすと、エルは水差しの乗ったトレイを持っていた。どこか優雅な手つきで水差しを置いた。
「き、気が利くな……」
喉が渇いていたのでちょうどよかった。動揺を悟られないようにそっと目の前の水差しを開け、念の為に匂いを嗅ぐ。今回は変な薬ではなさそうだ。安心して一杯注いで飲む。まあ、中身はまごうことなき水だった。
「大丈夫か?」
「あのくらい、どうってことないが」
なぜか心配そうに言われたので、首を横に振る。さすがに酒豪を名乗れるほどではないが、弱いというわけでもない。ブドウ酒ひと瓶を一度に空けたところで、特に不具合は起こらない。お前もよく知っているだろうと思うのだが。
「……そうじゃない。返事はしなくていいのか? と言いたかった」
エルの銀色の目は、俺が机の端に追いやった手紙に向いている。アルヴェン伯爵からの要求が止んだと思ったら、今度は別の問題が発生してしまったのだ。
「あー……」
……すっかり酔いが覚めた。体が温かいうちにさっさと寝ておけばよかったと思う。
途端に頭が痛みだしたのは別に酒が響いたからではない。中に書いてあったことを思い出したからだ。
俺はもうひと口水を飲み込んだ。頭痛は治らない。
「……急ぎの用ではない。いくら俺がお飾りの領主と言っても、呼び付けられてほいほい行けるほど暇じゃないのは知ってるだろう。冬に向けてやらなきゃいけないことはいくらでもある。それに、人攫いの件で魔術師団が本気で動くことになりそうだから、そっちにもいつ呼ばれるかわからない……」
「そうか。まあ、親子の問題に口を挟むつもりはないが……」
そう遠慮がちに言ったエルの目線の先、深紫の封蝋に捺されているのは……北の空に明るく輝く天標星を、静かに見上げる狼の横顔。
それは、俺が生まれ育った家の紋章。手紙の差出人は、ハロルド・ノイマン侯爵。その性格を表したような力強くも整った筆跡は、まさしく俺の父親が自らが綴ったものだ。
いつもの様子伺いの手紙だと思い気軽に開けたのだが、今回はそうではなかった。中には余計な修辞は一切なく、用件が簡潔に記されているだけだった。
『そなたの近況について、確認したき儀あり……』
何のことだ? と思ったのも一瞬、すぐにその真意に思い当たった。
……つまり、ルシアの存在が辺境に住む父親の耳に入ったのだ。
もちろん返事はするべきものと思っているが、酔っていない時に書くとして……今後を思うと気が重くなる。
父親は仕事で忙しいことには理解はあるが、それを理由に逃げたり隠れたりすることは決して許さない人だ。
なにより……人を物のように扱うことも、筋の通らない振る舞いも。父親はたとえ相手が使用人であっても、仕事人として敬意を払い、自らに仕えてくれることに感謝し、大切に扱う人だった。
……まあ、たぶん無事では済まない。
自らの行いを振り返ると、時報の鐘のように繰り返し響く頭痛が、さらに酷さを増したようだった。




