第9章:安土からの招待状
天正十年(1582年)春。佐野の地に、激震が走った。
尾張より訪れた織田の使者が携えていたのは、今や天下の九割を掌中に収めつつある覇者・織田信長からの直筆の書状であった。
『佐野の地に、算盤を弾く奇妙な武者がおると聞く。安土へ参れ。その理、余に見せてみよ』
当主・佐野宗綱は顔を曇らせ、激しく反対した。
「罠かもしれぬ。信長公は、己の意に従わぬ者を根こそぎ断つ苛烈なお方。房綱殿いや叔父上、行けば二度と生きて戻れませぬぞ」
しかし、房綱の瞳には、恐怖など微塵もなかった。そこにあるのは、圧倒的な知的好奇心と、ある種の「勝機」の光。
「殿、これは佐野を売るための旅ではございませぬ。佐野という家の価値を、天下という大市場に『上場』させるための、これとない好機にござる。なお、出立にあたり、あの銀板をお貸しいただきたい」
五層七重の絢爛豪華な天守がそびえる、安土城。
その最上階の奥で、房綱はついに一人の男と対峙した。
織田信長――。
その男の全身から放たれる、命そのものを削り取るような鋭い威圧感は、これまで出会ったどの怪物とも異なっていた。
「佐野房綱か。貴様の領内では、紙切れが金に変わるというな。余の『楽市楽座』を嘲笑うかのような不遜な企て、説明せよ」
信長の鷹のような鋭い眼光が、房綱の脳天を射抜く。
房綱は深く頭を下げた後、おもむろに懐から一冊の帳面と、例の春日岡から出土した「銀板」を取り出し、漆の床へと滑らせた。
「信長様。楽市楽座は、人の流れを解き放つ大いなる策。なれど、流れる『血(金銀)』そのものが日ノ本から不足しては、天下という巨体は動きませぬ。拙者が佐野で行っているのは、血の巡りを速め、澱みをなくすための『仕組み』にございます」
房綱は、安土城の膨大な建築費用、天下を維持するための兵糧の最新相場、そして信長が進める鉄砲の大量配備に必要な「弾薬の調達コスト」を、その場で淀みなく数字で弾き出してみせた。
「ほう……余の天下を、数字で測るか」
信長がわずかに口角を上げた。
「信長様が築こうとされるのは、黄金による絶対の統治。なれど、黄金には限りがございます。拙者が佐野で試みておりますのは、人の『信』を形にする試み。信があれば、黄金がなくとも国は動き、兵は戦えます。
……信長様、異国ではすでに海を越えた投資によって、一国の主すら凌ぐ富が動いております。佐野は、その『未来』の窓口となりたいのです」
信長はしばらく沈黙し、房綱が差し出した銀板を細い指で拾い上げた。奇妙な歯車と星の紋章をじっと見つめる。
「……随風の言った通りよ。貴様は武士の皮を被った、稀代の『商い人』よな」
信長はつまらなそうに、しかしどこか満足げに銀板を房綱に投げ返した。
「良いだろう。その銀板の意地に免じて、此度は生かして帰す。だが、もし佐野の計算が余の天下の邪魔になると判断すれば、その時は唐沢山ごと灰にしてくれるわ。立ち去れ」
命拾いをした房綱であったが、安土を去る際、城下の喧騒の中で再びあの托鉢僧・随風に出会った。
「房綱殿、合格ですな。しかし、信長公の『理』はあまりに強大すぎ、ゆえにあまりに脆い。……空を見なされ。星の配置が変わろうとしております」
随風が指し示した昼の日中の空。そこには不気味に赤く輝く火星があった。それは、わずか数ヶ月後に迫る「本能寺」の変局を予感させる、血の輝きであった。
安土での交渉を終えた房綱は、信長の信任を得て、ただちに次の盤面へと配置された。
この年の四月、織田信長から関東管領に相当する大役を命じられた重臣・滝川一益が上野国・厩橋城に入国する。房綱は一益の要請を受け、すぐさまその陣頭へ同行・伺候した。
房綱が持ち込んだ「佐野の算盤」と「情報の網」は、一益にとって関東統治の計り知れない武器となった。
房綱は、武田遺領の混迷に揺れる関東の諸勢力――常陸の太田資正・梶原政景父子や、房総の里見氏らと、新参の織田氏との間を敏捷に飛び回り、外交と軍事の両面で一益を支える影の主導者となっていく。
「兄上、見ておいでですか」
上野の陣から、遠く唐沢山の空を仰ぎ、房綱は呟いた。
「俺たちの天明の火は、まだ消えちゃいない。天下の算盤は、これから俺たちが弾くのです」
懐の銀板が、じわりと熱を帯びた。
春日岡から吹き荒れる風が、関東平野を、そして引き裂かれんとする時代の境界を、激しく駆け抜けていく。




