第19話 庭園の主
私が薄暗く古びた回廊を進んでいると、わずかにカビ臭さが鼻をついた。
もっとも回廊自体は古びてはいるが、この建物が完成したのはつい最近のことだ。
建造に半世紀近い時をかければ、必然的に旧時代の遺物と見紛うような場所が生まれてしまうのも当然のことだろう。
しかし私は、このような場所が嫌いではなかった。
歴史の年輪が刻まれた厳粛な雰囲気が、心を引き締めてくれる。
ただ、この建物の存在意義に関しては、少々疑問に思う部分が無い訳でもない。
ワルダヴァオトゥ神教の威信をかけて作り上げられた荘厳な大聖堂宮殿──。
その規模はあまりにも巨大であり、そして華麗でもある。
天に届こうかというほどに高くそびえ立つ塔が幾つも乱立した聖堂の壁面には、美しい彫像が数え切れぬほど彫り込まれていた。
そんな優美なだけで機能的とは言いがたい所が、まるで絵本の中に出てくるお城であるかのようだ。
いや、実際にここは、ワルダヴァオトゥ神教国の頂点に立つデミアルゴス大教皇猊下の住まう宮殿だとも言えるし、ワルダヴァオトゥ神の威光を示す象徴としては、相応しいのかもしれない。
だが、私にはやはり大きな無駄があるような気がしてならないのだ。
これだけの建築物を建造するのに、一体どれだけの巨費が投じられたのだろうか。
おそらくは、小国の年間予算に匹敵するくらいの金額が動いているはずだ。
それほどの資金があるのならば、もっと別の使い道があったのではないかと思う。
例えば人々の生活に直結する運河や、街道の整備などだ。
それに、このように豪奢な大聖堂によって、神の威光を示す必要など無いのではないかとも思うのだ。
神の威光は常に私達の側にある。
例えば世界を照らす陽光や、大地を潤す雨の恵み……。
それらの自然の営みが、どれ1つ欠けても私達の生命活動は困難になる。
その全てが偉大なる神の創造物であり、私達はその恩恵によって生かされているという訳だ。
だから巨大な大聖堂を建造して神の威光を形で示さずとも、我等が生きていること自体が既に神の威光を指し示す物だと言える。
そんな神の威光を示す最大の功労者が、奇跡の体現者たる聖女の存在だ。
彼女の行う奇跡によって、救いをもたらされた者は数知れず、それが故に我等がワルダヴァオトゥ神はこの世界で最も多くの人々からの信仰を得ている。
事実、他の紛い物の神とは違い、ワルダヴァオトゥ神は確かに存在しており、聖女を通して我等に救いを与えてくれていることは紛れもない事実なのだ。
それが私にとっての誇りでもある。
そんなことを想いつつ長い回廊を進んでいくと、回廊の先にようやく外の景色が見えてきた。
いや、外とは言っても中庭ではあるのだが……。
そこに目的の人物がいるはずだ。
回廊を抜け、私は目を細める。
薄暗い場所から急に陽光の下に出たのだから当然だけれど、極彩色の奔流が目に飛び込んできた所為でもある。
中庭一面には、色取り取りの花が咲き乱れていた。
降雨量が少なく、しかも昼夜の寒暖の差が激しいこのエルの地で、多種多様な花が自然の状態でこれだけ同時に咲き乱れることはまず無い。
いや、人の手を加えてさえも困難なことだろう。
その困難なことを成し遂げたのは、この中庭に築かれた庭園の主とも言うべき聖女の持つ奇跡の力だと人は言う。
しかしこれは、懇切丁寧に花の世話をしてきた者の、努力の賜だと私は思っている。
この庭園の主は聖女などと呼ばれているが、私が見る限り、何処にでもいる普通の娘にしか見えないからだ。
徐々に光に慣れてきた私の目は、庭園の中央に目当ての人物の姿を捉えた。
それは一心不乱に、庭園の手入れをしている1人の少女であった。
いや、彼女と私はもう20年近い付き合いがあるので、既に少女と呼べるような年齢ではないが、小柄な体格の所為か、やはり10代半ばの少女にしか見えない。
それはともかく、どうやら彼女は、私の存在にはまだ気づいてはいないようだった。
だから私は「何処まで気づかれずに近づけるのだろうか?」と思い立ち、あえて彼女には声を掛けず、その背後に忍び寄った。
接近10m――まだ気づかれていない。
5m――まだ大丈夫。
1m――……何故、気づいてくれないのだろう?
30cm――お願いだから気づいて!
私が真後ろに立っても、彼女は気づいてくれなかった。
それどころか、音程の外れた鼻歌を漏らしてすらいた。
自分以外の人間がこの場に存在する可能性を、完全に失念しているらしい。
いずれにしても、こんなお互いの呼吸音さえ聞こえそうな密着状態で無視されるのは、たとえ相手が意図していなかったにしても、ある種の精神攻撃に等しいのではないだろうか。
だから私はささやかな復讐を決意する。
いや、復讐抜きでも、これだけ無防備な姿を目の前に晒されると、誰だってそこにつけ込んで悪戯をしてみたくもなるというものだ。
さて、どうしてくれよう。
私は声に出して笑ってしまいそうになるのを必死で耐えつつ、彼女の後頭部に「スコン」と軽く手刀を叩き込む。
その瞬間、彼女の身体はビクンと跳ねるように震えた。
その勢いたるや、釣り上げられた魚の如し。
そんな彼女の反応を見ただけでも、私はもう我慢の限界寸前だった。
が、どうにか吹き出しそうになるのをこらえて、努めて厳かな声音をつくり、
「ソフィア様、こんな所で何をなされているのですかっ!?
もう礼拝の時間です。
今すぐ支度をしても完全に遅刻ですよっ!!」
と、告げる。
すると、彼女──ソフィアは、
「は、はわっ、礼拝!?
ご、ゴメンなさいっ!!」
慌てて振り返り、しどろもどろになりながらも弁明を始めた。
「わ、忘れていた訳ではないんですよ!?
ただ、うっかりしていただけで。
って、そういうのを忘れていたのだ、と言われたら返す言葉もありませんが。
あの、ついお花の世話に夢中になってしまって……、いえ、お花達には罪はありません。
全て私が悪いんです! 私はどうなってもかまいませんから、どうかこの子達には罰を与えないで下さい!?」
……何故か花の弁護まで始めちゃったし。
ソフィアはかなりの混乱状態にあるようだ。
それを見て、私はもう本当に限界だった。
「あはははは……っ!
ソフィったらおかしすぎるよ……。
弁解はまず相手が誰なのか、確認してからにしたらどうだ?
大体、今日のこの時間に礼拝の予定なんかあったのか?」
「…………あ!」
私に指摘されて、ソフィアは目の前にいるのが誰なのか、ようやく気づいたようだ。
ソフィアの顔が驚きから笑顔に変わり、嬉しそうに私に抱きついて来た。
「久し振りね……イヴ」
「ああ……」
私も微笑みながら、彼女の身体を軽く抱きしめ返す。
子供の頃は想像もしなかったが、私とソフィアは今や親友同士といえる間柄になっていた。
私にはソフィアに命を救われたという、返しきれない大きな恩がある。
だからソフィアの為にできることは、可能な限りして来たつもりだ。
とは言っても、別にソフィアに媚びへつらい、奴隷のように付き従ってきた訳ではない。
私はソフィアが何を望んでいるかをよく考え、その結果それまでのソフィアを苛めているも同然の態度をさほど変えないようにした。
今まで通りソフィアが失敗すれば怒鳴って責めたし、仕事が遅ければ皮肉を言ったりもした。
それは彼女が特別扱いを望んでいなかったからだ。
ソフィアが聖女と呼ばれるようになってから、その扱いはそれまでとは一変していた。
彼女の奇跡を受けた者は勿論、神父様や孤児院の仲間達でさえ、彼女を敬うような態度で接していた。
だけどソフィアにとっては、それが不本意であるようだった。
彼女が私達に望んでいたのは、家族の関係だ。
その家族から、まるで信仰の対象であるかの如き特別扱いを受けても、嬉しいはずがない。
そもそも、そんなのは家族とは呼べない。
だから、私はあえて態度を変えなかった。
勿論以前と比べれば、ソフィアを叱るにしても彼女を傷つけるような言葉はひかえたし、以前は彼女を無視しがちだったけれど、それを改めて会話をするようにもなったけれど……。
要するに家族として対等の関係を築くことを心掛けたのだ。
まあ、そんな聖女に対しての遠慮の無さを「無礼だ」と、非難する人もいたけれど、それは甘んじて受け入れた。
私はソフィアに対してもっと酷いことをしてきたのだから、それくらいはなんともなかった。
そうしている内にいつしか私は、ソフィアにとって最も気の許せる友人となっていたらしい。
ソフィアを虐げてきた私なんかが友人だなんて、酷くおこがましいことであるような気もするけれど、彼女がそれを望んでいるのならば私は拒めない。
それに、私も恩を返す為の義務感で、ソフィアの友人を演じている訳ではない。
もしそんなことの為ならば、それはソフィアの私に対する友情と信頼を裏切っているも同然の行為だ。
それは私自身が絶対に許さない。
私は心の底からソフィアを友達だと思っている。
そう思えないのならば、私は正直にそれなりの付き合い方をしていただろう。
だけどソフィアは、癒やしの奇跡以外の特技はこれと言って何も無いけれど、しかし真面目に付き合ってみると、人間的にはとても魅力的な娘だった。
明るくて屈託が無く、誰とでもすぐ親しくなれるし、努力家でどんな苦手なことでも克服しようとする向上心がある。
そして私が想像できないような、広い視野で物事を見ている。
まあ、かなり抜けている部分もあり、大きな失敗も多いけれど、それにさえ目をつむれば、まさに聖女として相応しい人格者だと言えるだろう。
私はソフィアの友人であることを誇りに思うし、友人としてできることは全てしてあげるつもりだ。
それがきっと、恩を返すことにも繋がるのだと思っている。




