第21話 モルヒネ嫌い
「私が何もしていない、ってどういうことだ」
ナースステーション中に、高津と仲原の声が響いた。一瞬、何が起きたのかわからなかったミサは、入り口のところで呆然と2人のやりとりを眺めていた。
高津の声は益々大きく響き、仲原もまた、高津を見据えている。
「じゃぁ聞きますが、彼にとっての治療って何なんですか?」
「何だ、私の治療が間違ってるとでもいいたいのか! 研修医の分際で」
高津の高圧的な態度にミサはぎょっとしたが、仲原は全く動じなかった。むしろ、高津を軽蔑するような眼で、あざ笑うかのような表情をした。
それには、高津も黙っていなかった。バンッとある患者のカルテを、机の上に乱暴におき、見ろ、という様に検査データーのページを開けた。
「このデータが表す意味くらい、君にもわかるだろ」
高津と仲原は、谷山忠治のことで言い争っている様だ。
2人の怒声は、隣の休憩室にも聞こえた様で、師長と亜里沙、数人が出てきて様子を伺っている。高津と仲原は周囲に気をとめる様子もなく続けた。
「谷山さんのモヒの事で怒ってんのね、高津」
ミサの横で亜里沙がヒソヒソ言った。
谷山忠治 56歳。白血病の再々発。今回は全身状態の悪化で入院してきていた。毎日続く高熱、痛みの訴え、息苦しさにナース達は頭を悩ませていた。
数日前のカンファレンスでも、谷山のことが議題にあがっていた。師長に主任、恵、亜里沙、ミサ、福永、他のチーム員も交じっての話し合いになった。
「先生、谷山さんの熱の事ですけども。今の解熱剤、全く効かないように思うんですが」
最初に口火を切ったのは恵だった。
「腫瘍熱だって言ってるだろ。基本は冷やす事だ。君たちは、何年看護やってんだ。」
亜里沙が援護射撃を打つ。
「冷やしてます! それに、熱だけじゃなくて、痛み止めも全く効かなくて、本当に苦しがってるんです」
「しょうがないだろ。君たちは何でもかんでも感情的になって、やれ、苦しがってるだの痛がってるだの。全体的にみて判断しなければいけない事くらいわかってくれ。まして、今は抗ガン剤の治療中だし、その結果を見てだね」
「でも、先生、家族の方が。何とかしてやってくれ、って。今の状態何とかならないもんですか?」
「じゃあ、君たちに何かできるのか?」
高津はお決まりの言葉を口にした。ナースごときに意見を言われたくない、そんな表情で。
「モルヒネの使用はどうですか」
そう提案したのは福永だった。
高津は首を横にふり、馬鹿げてるという風にため息をついた。
「モルヒネを使うという事は、病気に負けたという事だ。今、抗ガン剤の治療中だというのに、じゃあ何か。彼の、谷山忠治の治療は無意味だと言いたいのか? 現に腫瘍マーカーの数値は減ってきているし、血液データを見ても、彼の状態が改善しているのは明らかだ」
これ以上、論ずる必要はないという態度で席を立った。高津が動くと、ツンと鼻をさす整髪剤のにおいがたちこめた。それは、高津の嫌味な部分をより引き立てている。ナース達は皆、スマートそうに振舞う高津を怪訝そうな顔でみつめる。
と、その時。あまりに高慢な高津の態度に腹をたてた福永が、去ろうとする高津に向かって食いついた。
「先生! ご家族の方と話していただけませんか! 私たち、毎日家族の方に言われてるんです。何とかしてくれって。このままじゃ、谷山さんだってかわいそうです」
高津はぱっと振り返り、ヒステリックに叫んだ。
「そこを、きちんと説明するのがナースの仕事だろ! いちいち神経質な家族に付き合う程、医者は暇じゃない!」
ツカツカと高津の革靴が嫌味に音をたて去っていった。
高津が去ったあと、ナース達の不満が爆発した。
「まぁー、何、あの態度。今に始まったことじゃないけど」
「そうそう、何であんなにモルヒネ嫌いなんだろうね」
「ほんと! 何ていうかさ、あの考え方。絶対おかしいよね。モルヒネを使う事が最終段階だなんて。昭和の時代かってーの」
「自分の家族が痛がってたら、どうするんだろうね?」
「ほーんと」
ミサも高津の態度には疑問があった。がん性疼痛では、WHO(世界保健機構)の3段階除痛ラダーが世界標準の有効な治療法になっている。そこで示されている通り、モルヒネはガン性疼痛で主力な薬である。にも関わらず、モルヒネの使用を頑なに拒み続ける高津の態度は、自分の治療法を信じ続ける医者の傲慢さを感じた。
第一、谷山の苦しがる様子といったら、ナースでも目を覆いたくなる様だ。家族にとってみたら、地獄の苦しみだろう。
あまりに、悲惨な彼の姿に、福永が仲原に相談したのだった。
仲原はもちろん使うべきだと、すぐに対処した。それが、高津の気に障ったのだった。気に障ったというか、逆鱗に触れたとでも言ったほうが良いか。
高津と仲原。2人のにらみ合いは続いた。
差し出されたカルテの検査データを見ず、仲原はこう言った。
「こんなデータが、何になるんです?」
高津は頭に血が昇ったような形相で、赤黒く顔を染めている。
仲原はお構いなしに続けた。
「現に、谷山さんは、痛がって、苦しんでいるんです。それを何とかするのが医者の仕事ではないんですか? 検査データが良くなったところで、患者は救われませんよ」
「私に意見する気か」
「カンファレンスです。話し合いです」
「知識の無い人間が麻薬を使って、呼吸抑制がきて死期を早めることにもなりかねんぞ。そうなったら、君はどう責任をとるんだ」
「先生は、責任をとりたくないから、苦しがっている人間を見放すようなことをしているんですね。第一、モルヒネで死期は早まりません!」
仲原は笑みを浮かべているようにもみえた。
「好きにしろ! しかし私にも考えがある」
高津の頭からは、機関車のようにどす黒い煙を吐いているようだった。2人の話を聞いていたナース達は、仲原の歯に絹きせぬ物言いに爽快感を感じていたが、同時に仲原の処遇に対して不安を感じていた。
(このままで、高津が黙っている訳がない)
ミサは不安げに仲原の顔を見つめた。




