第18話 はじまり
しばらく、仲原はふかふかの布団でごろごろ過ごした。他人の家だ、勝手にいろんな物を使う訳にはいかない。自分が寝たせいで、少し酒臭い布団を臭い、どうしようもない男だなぁ、なんて今更ながらに思った。
ガチャガチャとドアの開く音がした。2人が戻ってきた。仲原は、慌ててベランダに干してあるズボンを取りに布団を出た。いつまでも、パンツ姿でいるのも申し訳ない。
「ひゃぁ〜〜〜〜〜!ミ、ミサ……」
ベランダへ出ようとした所で、背後からミサの母親らしき中年の女性の叫び声が聞こえた。
仲原は落ちているタオルを慌てて腰に巻くと、叫び声の主を見た。
片手には玄関に置いてあった箒、腰を後方にずらしながら威嚇している。ふくよかな顔はいかにも、お母さんという容貌で、どことなくミサに似ていた。
今日は驚かされることばかりだ。仲原が言い訳を考えていると、ミサの母親はヒステリックに叫んだ。
「ミ、ミサ、いるの? ちょっと出てきなさい」
「あの、友達と出かけてます」
ミサの母親は、仲原の口調に、少し安心したのか持っていた箒をようやく降ろした。2、3度自分を落ち着かせるように深呼吸をし、目の前にいるパンツ男に説教をしだした。
「ちょっと、あんた、座んなさい!」
仲原が、その場に正座をせざるをいけなくなった所で、やっと2人が戻ってきた。
ミサと福永はのん気におしゃべりをしながら、ドタバタと階段をあがる。「あれ? あれれ?」鍵が開いているので、ミサは不思議に思い部屋に入った。
丁度、ミサの母親が仲原に説教しているところだった。
「あんたね、付き合うなら、付き合う前に挨拶に来るのが普通でしょ! それが、まぁ、そんな格好で。私だったからいいものの。お父さんだったら、あんた間違いなく殺されるわよ」
「お母さん!」
玄関を開けて飛び込んできた光景は、腰を手にあて、怒るおばさんと、タオルを巻いたパンツ男の構図。驚いているミサと仲原の横で福永が大笑いした。
「あら、そうだったの。それはごめんなさい」
福永に事情を聞いた母親は、少し罰が悪そうに頭を下げた。
仲原は乾いたずぼんをやっと穿き「こちらこそ、お嬢さんの部屋にやっかいになってすみません」と丁寧に応対した。
「て事は、もしかして、あなたお医者さん?」
「まだ、研修医ですけど」
先ほどまで、目尻を吊り上げていた母親の表情がぱっと変化し、何か偉い人をみつめるような視線を送った。
「本当にごめんなさいね。ふつつかな娘ですけども」
「ちょっとお母さん!」
母親の脳裏には「医者の嫁」という字が浮かんだに違いない。先ほどとは別人のように、取り入る様に話をすすめた。ミサは口をとがらせて怒っているし、福永は興味津々で状況を見守っている。
「あなた、お付き合いしている人いるの? ミサなんかどう? この娘は純情でいい子よ」
「もっ、お母さん!」
単刀直入すぎる問いに、仲原は思わず苦笑した。
ミサの母親もそれ以上は何も言わず、ふと思い出したように玄関に置いたというか、慌てて落としたスーパーの袋を取りに行った。
「今日はね、すき焼きでもしようと思って。こんなに、大勢いるんだったら、もうちょっとお肉買ってくるわね。真ちゃんもいるんだったら、お酒も用意しないと」
「おばちゃん、そんなに気を使わないでください」
福永は何度か面識のある母親にそう言った。ミサの母親は、福永のことを真ちゃんと呼んでいる。ミサから、何度ともなく福永の話を聞いているからだろう。自分の娘の見方になってくれている福永を親しげに呼んだ。
「あ、それと、先生! あなたも休みだったら、一緒に食べる?」
「いや、昨日も泊めて頂いたのに」
「何、帰るの?」
ミサの母親は牛肉のパックをとりだしながら言った。
「……」
牛肉に目がくらんだ訳ではない。しかし、すき焼きは捨てがたい。何て仲原が思っていると
「先生、いつもインスタント物ばっかりでしょ。お母さんに甘えたら?」
福永が代弁してくれた。
「じゃぁ、あのよろしくお願いします」
「そう」母親の目が爛々と輝いた。「もっと、お肉買って来なくちゃね。あ、それと、ミサ!
押入れにお父さんのスウェットがあるから、先生に出してあげなさい」
「え? そんなのいつの間にしまったのよ」
ミサは驚きながら、母親の指差す通り、押入れの一角をみると、上下のスウェットが出てきた。どこまで、用意がいいんだろう。ミサは呆れながら、他にも何か隠されていないか、押入れの中を見渡した。
「何やってんのよ」
「お母さんが、何か隠してないかって!」
「まぁ失礼な子ね」
仲原は、口げんかを始めた2人の様子を目を細めて眺めた。よくある母娘の光景。
結局、晩ご飯までもご馳走になることとなった。
「先生に、お風呂入れてあげなさい」
母親は、娘の婿を扱うようにそう言った。
清潔なバスタブにつかりながら仲原は思った。家族とはこういうもんなんだろう。湯気で曇った浴室なんて久しぶりだ。心の中に何か満たされるものが湧き上がってきたのを感じた。
自分が必要としているのは、家族なんだと。今まで味わったことのない感情。その先にミサの顔を重ねた。ここからは入ってはいけない、こんな感情を持ってはいけない、そう感じながらも健気なミサの姿を思い浮かべた。ミサを好きなのか、ミサを取り巻く環境に憧れてしまったのか、それとも妹の影をミサに重ねてしまったのか、わからない。ただ、この前から、気になっていたミサの存在が、仲原の中でどんどん大きくなっていく。
「ふつつか者の娘か……」
仲原は大きく息を吸い込んだ。
「せんせ」
ミサは恐る恐る、仲原に声をかけた。「あの、タオル置いときますから」
ミサの声は仲原に良いタイミングで届き、仲原は感情を抑えられなくなった。タオルを置くと、すぐに脱衣場から逃げようとしているミサに、思わず声をかけた。
「さっき、お母さんが言ってたことだけど」
ドアの向うに写る影に話しかける。仲原の声は、浴室に響きエコーがかっている。
「あ、ごめんなさい。お母さん熱血だから」ミサは見えもしないのに、浴室のドアに背を向け話を続けた。
しばらく、間が空き、仲原は意を決した様に口を開いた。
「俺、気になってた」
仲原は言った。
「え? 何が?」
「お前」
相変わらず短い仲原の言葉。しかし、ミサはその意図を理解している様子で、それからは何も言わず慌てて去っていく音がした。途中、ドンッという鈍い音と、いたっという声が聞こえ、困っているだろう、ミサの表情を想像しながら微笑んだ。
自分から声をかけたのは初めてだ。廻り始めた歯車の音を遠くで聞いた。




