第17話 消せない記憶
「だから、加藤さんみたいな人とは」
「わかってますって。彼女もいるって……」
「本当? 諦めたふりしてるだけじゃないの?」
「もう、福永さんったらしつこい」
仲原はどれくらい眠ったのだろうか。喉の渇きを覚え、目を覚ましたが、なかなか体が起きてくれない。漂ってくる、パンの焼けた匂い、珈琲の香りを心地よく感じながら、女達のおしゃべりを聞いていた。
「そんでね、亜里沙ったら……」
福永はそこまでいうと、少し声を落として「加藤さんとも付き合ってたみたいだよ」言った。
「えー! 知らなかった。ショックです」
「あんた、知らなかったの? ほんと、アンテナ低すぎって。それにしても、男は見る目が無いよね。あんな、亜里沙みたいな女、外面だけじゃないの。昨日なんか、仲原ッピにつきまとってたしね。きっと加藤さんとも遊びだったんだろうね」
自分が仲原ッピと呼ばれている。もうちょっとましなあだ名は無いのかと、布団の中で苦笑した。最初遠くの方から聞こえてきた話し声が、はっきりと耳に届く。仲原は、いつ布団から出ていいものか、タイミングを計っていた。
「そんなぁ。何がショックって、加藤さんが浮気するって所がショック。聞かなきゃ良かったです!」
「だって、もう好きじゃないんでしょ。だったらいいじゃん」
「そんなに、念を押さないでくださいって!」
「大体、あんなホルモン撒き散らしの女と出来てる、加藤なんて信じられへんわ」
口悪く言う福永をくすくす笑いながら、ミサは言った。
「それを言うならフェロモンです」
2人は大きな声で笑って、食事を続けた。正直、仲原にとって、2人の会話の内容はどうでも良かった。それより、食器のカチカチいう音、トースターがチンッと知らせる音、ポットの湯が沸騰する音。仲原はそれらの音を感じた。
小さい頃に病気で死んだ母。まもなくやってきた義母。義母と父の間で生まれた妹。いろんな光景が頭に浮かんでは、それらの記憶をかき消した。
仲原はやっと、布団から起きだすと「おはようございます」とバカ丁寧に2人に挨拶した。
「やだ、先生!」
ミサは洗面所の方から、大判のバスタオルを持ってくると、パンツ姿の仲原に渡した。
「あの、昨日はご迷惑を……」
「ほーんと、パンツ脱ぐって大騒ぎして、大変だったのよ」
「うそっ」
腰にバスタオルを巻きながら、驚いた仲原の顔を見ると、満足した様子で、ふふふんと、福永はいたずらっぽく笑った。横でミサも笑いをこらえていたが、あまりにも仲原が気の毒なので「福永さんの嘘ですよ」とかばった。
「どう? 朝ごはん食べられる?」
「あの、水を」
「あ、はいはい」
福永は自分の家の様に、コップを取り出し、氷と水を入れて差し出した。
「ありがとうございます」
仲原は一気に水を飲み干すと、洗面所を使っていいかミサに聞いた。
「あ、先生。そこにお客さん用の使い捨ての歯ブラシがあるから使って下さい」
「あんたん家、何でも揃ってんのね」福永が感心していると「お母さん、お父さんと喧嘩すると、すぐ泊まりにくるから……」とミサは苦い顔をして言った。
洗面所には、化粧品のボトルが行儀良く並んでいる。そして、ところどころに女の子らしく雑貨が飾られていた。仲原は、その中に飾られていた小さな小瓶に惹かれた。小瓶の中には青く着色された砂が半分入っていて、小さなヨットが砂の上にチョコンと置かれている。こんな小さな瓶の中にヨットが入ったもんだ、そう言えば昔流行ったな、と思い出した。
「お兄ちゃん、こんな大きいお船、どうやってこの中に入ったの?」
不意に妹の顔が浮かんだ。長い髪を左右に結び、まん丸の目で口をとがらせて真剣に聞く姿を。多分、初めての家族旅行だった。ドライブインに置いてある、瓶に入っている船のお土産を、妹は見入っていた。小さな瓶の口から、どうして船の模型が入ったのか真剣に考えている。妹は小学生になったばかりだったと思う。
「亜美も瓶にすいこまれちゃうぞー!」
「やだー怖い」
仲原はそっと目を閉じ、溢れてくる涙をザザッと洗い流した。
「先生、珈琲? それとも」
「あ、水で」
食卓の上には焼けたばかりのパン、目玉焼き、ベーコン、レタスが置かれている。横で、福永とミサがおしゃべりの続きをしている。美味しい珈琲店をみつけただの、あそこのケーキは美味しいだの、横で聞きながら黙々と食べた。ここにいる自分を不思議に思いながらも、何か安らげる雰囲気を感じていた。
「ご馳走様でした」
「早っ! おかわりならあるよ」
福永は母親のようにそう言ったが、仲原は胃を抑えてもう入らないという素振りをした。
「昨日、随分飲んでたからね。仕方ないか」
「あの、ずぼんは」
「あんまり、汚いから夜に洗濯して干したの。まだ、もうちょっと乾いてないかな。乾くまで休んでったら? 仕事、いいんでしょ」
「休みですけど」
「ちょっと私ら、出かけてくるから、寝ててもかまへんよ」
福永は、まるで自分の家の様に言った。
2人は洗面所でもキャーキャーと何やらしているし、出てきたと思ったら、着替えるからあっち行ってて等と指示し、騒がしく準備を終えると、仲原を部屋に残したまま出て行った。
仲原は、やはり重たい頭を抑えつつ、もう一度布団に潜り込んだ。
生きてたら、こんな風に女友達と遊びに行ったり、恋をしたりするんだろうな。仲原は、拭えない妹の影を想った。
「ここ! ここ!」
福永は美味しいと評判の珈琲店の看板を見つけると、ミサに左折する様に指示した。
「ここねー、何か豆を選べるらしいよ、それに、JAZZもかかってて。ま、とにかく入ろ入ろ!」
「福永さん珈琲に詳しいの?」
「うーん、キリマンジャロにブルーマウンテン、んー」
2人が店内に入ると、休日らしく賑わっていた。店内に広がる珈琲の香りとJAZZのリズムが飛び込んできて、高揚していくのがわかる。福永は、正解だったでしょ、という様な表情でミサに目くばせすると、マスターが声をかけた。
「いらっしゃい。今、ここしか空いてないから」
2人はマスターに促され、カウンターの席に座った。結局、あまり豆の種類も知らない福永とミサはマスターのお勧めを飲むこととなった。
頭にバンダナを巻き、髭を蓄えた、赤いエプロン姿の店主はどこか洒落ていた。表に停めてあった、というか飾ってあったハーレーもこの店主のものだろう。いつもやかましい位の福永も音楽に聞き入っている様子だ。
店主が入れてくれたその珈琲は、すっきりとした苦味、酸味もきつすぎず、まろやかな舌触りで、ミサも福永も満足した。「美味しいねー」と口々に言い雰囲気を楽しんだ。
「オールド、アメリカンっちゅう感じやね、マスター」
福永は例のごとく、マスターに話かけている。本当に、この人の人懐っこい性格がうらやましかった。ミサは横で、福永とマスターの会話を楽しみながら、珈琲を味わった。
カランカランと店のドアが開いた。
「あ、いらっしゃい恭子ちゃん!」
入ってきた人物は常連らしく、マスターは親しそうに声をかけると、今空いたカウンターの席に案内した。
「ちょっと片付けるから」
マスターは慌てて皿やコップを片付け、布巾で机を拭いたが、女性は座ろうともせず「もう1人来るので……」と付け足した。
「あっ、そう。良かった、仲直りしたんだ」
マスターが大きな声を出したので、数人の客がマスターと今、入ってきた客をチラチラと見た。ミサもその1人だった。
「お、お、お」
「何? 何? むせたの? どうしたの」
「お、おみ、おみ」
ミサははっきり覚えていた。恭子と呼ばれる女性の顔。今店内に入ってきた女。
(お宮!)
「マスター、ちょっとお水ちょうだい。 この子むせたみたい」
「ちがっちがっ」
ミサは、無理やり福永にお水を飲まされ、はっはっと息をきらした。
カランカランと店のドアが開いて、すぐに次の客が入ってきた。
マスターは恭子の顔を怪訝そうに覗き込み「今日は2人?」と聞いた。
「あー、加藤さん! 昨日はどうもお疲れ様でした。例の彼女さん?」
あれだけ、悪口を言っていたくせに、福永は愛想良く、今入ってきた加藤に話しかけた。加藤は「参ったなぁ」といいつつ笑みを浮かべながら照れくさそうにした。ミサは、やめて、やめてと福永の服の裾を引っ張ったが、福永は一向にお構いなしで話を続けた。
女性がこちらの方を見た。肩まであるストレートの黒髪、グレーのコートに白いスカート、ブーツ姿。こちらを向かって会釈をすると、加藤と一緒に奥の2人掛けの席へと消えた。
「お綺麗な人やね」
福永は皮肉っぽく言った。
「あの人ね」
「何、何、知ってんの?」
福永は好奇心いっぱいの目で、ミサの答えを期待したが「いや、知らない」とミサが言うと、なーんだと眉をひそめた。
やっぱり、言える訳ないか。福永が口が軽いという訳ではない。酔った勢いで加藤や、仲原に余計な事を言ってしまう可能性はある。いろいろ考えたあげく、ミサは口をつぐんだ。
1つ、ミサが驚いたことがあった。加藤と彼女が一緒に並んでも、嫉妬を感じなかったという事。少しずつ、自分の感情が違うところに行っているのだと、その時ミサは気付いていなかった。




