第9話:認識の断絶という名の処刑
急激に老いさらばえ、枯れ木のようになった指先で、公爵は必死にリリアーナのドレスの裾を掴もうとした。
床を這いずるその姿には、かつての傲慢な貴族の面影は微塵もない。
「待て……行かないでくれ、リリアーナ! お前を育ててやった恩を忘れたのか! この親不孝者が、実の父を捨てて悪魔に魂を売るというのか!」
枯れた喉から絞り出された叫びは、屋根裏の湿った空気に虚しく響く。
彼は、自分に残された唯一のカードである「血縁」と「恩義」を盾に、娘を引き留めようと必死だった。
その醜い足掻きに対し、リリアーナは立ち止まり、静かに視線を落とした。
紫水晶の瞳が、困惑に揺れる。
彼女は、自身のドレスを汚さんとするその汚れた手を見つめ、それから公爵の顔をじっと見つめ返した。
その瞳には、かつて向けられていたような恐怖も、冷遇への恨みも、欠片ほども存在しなかった。
ただ、初対面の無礼な狂人に絡まれた際の、純粋な戸惑いだけがあった。
「恩、とは一体何のことでしょうか」
リリアーナの声は、鈴を転がすように清らかで、それゆえに鋭利な刃物のように公爵の胸を裂いた。
「先ほどから私の父を自称されていますが、貴方は何か重大な誤解をなさっているようですわ」
彼女は、ゼパルが脳内に刻んだ「偽りの黄金の記憶」をなぞるように、穏やかに微笑んだ。
「私の父は、あたたかな陽だまりのような方ですわ。私が幼い頃から、いつも優しい言葉をかけ、惜しみない愛を注いでくださる……とても高貴で、清廉な方。貴方のように、娘を暗く汚い場所に閉じ込めたり、暴力に訴えるような、そんな浅ましいお方ではありません」
リリアーナの言葉には、一寸の迷いもなかった。
ゼパルによって上書きされた彼女の世界において、アドラー公爵という男は、最初から存在していなかったのだ。
彼女の愛した「理想の父」の椅子は、すでに別の架空のイメージで埋め尽くされている。
「な……何を……。何を言っている! 私はアドラー公爵だ! お前の、実の父親だぞ!」
公爵は泡を飛ばして絶叫した。
だが、リリアーナは悲しそうに首を振るだけだった。
「いいえ。貴方は、私の大切な家族を騙る不届きな詐欺師か、あるいは精神を病んだ気の毒な方なのでしょう。ゼパル様、こんな方のお相手をするのは、もう終わりにいたしましょう。私の思い出が、この方の汚れた言葉で濁ってしまいそうですわ」
リリアーナは、公爵の手を優雅に、けれど断固として振り払った。
彼女にとって、目の前の男は「かつての加害者」ですらない。
名前も知らない、薄汚れた、排除されるべき「他人」でしかなかった。
公爵は、掴もうとしたその手が空を切り、床に叩きつけられた衝撃で、自身のアイデンティティが音を立てて崩壊していくのを感じた。
「ああ……あああああ……っ!」
憎まれることさえ許されない。
復讐されることさえ叶わない。
ただ、自分という人間が、最も搾取し、屈服させてきたはずの娘の記憶から、塵のように消え去った。
公爵は、目の前が真っ暗になるのを感じながら、のたうち回る。
リリアーナは、彼の絶望した顔を二度と見ることなく、ゼパルの差し出した手を取った。
彼女の中にある「幸福な家族の記憶」を守るために、彼女は現実の家族を、その意識から完全に追放したのだ。










