第7話:公爵の計算と誤算
屋敷の廊下を揺らすような、けたたましい足音が近づいてくる。
「何事だ! 騒々しい!」
怒鳴り散らしながら部屋へ飛び込んできたのは、アドラー公爵、リリアーナの父であった。
彼は床でのたうち回る長男ヘンリックの無様な姿を一瞥したが、その安否を問う言葉は口にしない。
公爵の視線は、磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、部屋の真ん中に立つ銀髪の美女へと固定された。
かつての、毒に蝕まれ土気色をしていた「役立たずの娘」の面影はどこにもない。
そこにいたのは、月の雫を浴びたような銀糸の髪をなびかせ、紫水晶の瞳を冷ややかに輝かせる、神々しいまでの美姫であった。
さらに、彼女の周囲には、公爵ですら気圧されるほどの濃密な魔力が渦巻いている。
公爵の脳内には、娘への愛情など微塵もなかった。
あるのは、損得勘定という名の冷徹な算盤の音だけだ。
これほどの美貌、そしてこの魔力。
アリステア王子以上の高位貴族、あるいは国境を越えた帝国の皇帝にさえ、今の彼女なら法外な値で売れる。
没落しかけていた公爵家を立て直すための、最高級の「資産」がそこにあった。
「おお……おお、私の愛しいリリアーナ! よくぞ、よくぞ目覚めてくれた!」
公爵はヘンリックの呻き声を踏みつけるようにして歩み寄り、顔中に偽りの慈愛を張りつかせた。
両手を広げ、感動に震える父親を演じながら、彼はその薄汚れた手でリリアーナの肩を抱こうとする。
「リリアーナ、その魔力と美貌……やはりお前は私のアドラー家の最高傑作だ! 王太子など捨てておけ、私がもっとふさわしい玉座を用意してやろう」
だが、公爵の指先が彼女のドレスに触れるよりも早く。
ふわりと、リリアーナの身体が柳の枝のようにしなり、公爵の手を鮮やかにすり抜けた。
彼女は流れるような動作でゼパルの背後へと隠れ、その外套の端を指先でつまむ。
紫水晶の瞳に宿ったのは、恐怖ではなく、ただ純粋な「忌避」の色であった。
「ゼパル様。……この方は、どなたでしょうか」
鈴を転がすような、けれど氷のように冷淡な声が、公爵の動きを凍りつかせた。
リリアーナは、自らを父と称する男を、汚物に満ちた溝でも見るような視線で見つめている。
「とても浅ましい……。何かしら、腐った果実のような、ひどく鼻を突く匂いがしますわ。近づかないでいただけます?」
公爵の顔から、貼り付けたばかりの笑顔が剥がれ落ちた。
恩着せがましく「育ててやった」と語る暇さえ、彼女は与えない。
リリアーナにとって、目の前の男は「愛すべき父」でも「憎むべき仇」でもない。
ただ、生理的に受け付けない、正体不明の不快な異物でしかなかった。
ゼパルは、リリアーナのその徹底した拒絶に、狂おしいほどの愉悦を感じて肩を揺らした。
彼は彼女の細い肩を引き寄せ、琥珀色の瞳で公爵を射抜く。
「おやおや、アドラー公爵。お前の娘は、どうやら不法侵入者の異臭にひどく敏感なようだ。お前の浅ましい計算高さが、彼女には腐敗臭として届いているようだが?」
計算、という言葉に公爵の眉がぴくりと跳ねる。
自分の内心をすべて見透かされているという恐怖と、手中に収めたはずの「資産」が自分の指の間から零れ落ちていく焦燥。
公爵が何かを言い返そうと口を開くが、その喉からは、言葉ではなく、ヒュウヒュウという情けない空気が漏れるだけだった。
リリアーナの世界において、彼はすでに「父親」という椅子を剥奪され、排除されるべき「異臭」へと成り下がっていた。










