第6話:不敬な害虫への審判
床に這いつくばったヘンリックは、自身の肺から絞り出されたような喘ぎ声を漏らしながら、信じられないものを見る目でリリアーナを見上げた。
視界の先に立つ女は、かつて自分が面白半分に蹴り飛ばし、泥水を啜らせていた「出来損ないの妹」と同じ顔をしている。
だが、その瞳に宿る光は、深淵から掬い上げたような冷ややかな紫水晶の輝きに満ちていた。
そこには怯えも、縋るような哀願も、一滴すら混じっていない。
「リリアーナ……貴様、何の真似だ……」
ヘンリックは屈辱と恐怖を、使い慣れた「怒り」という感情で塗りつぶそうと立ち上がった。
相手は女だ。記憶を失っていようが、奇跡的に美貌を取り戻していようが、力の差は明白だ。
彼は顔を真っ赤に染め、乱暴な手つきでリリアーナの細い手首を掴もうと、大きな右手を振り上げた。
その指が、彼女の白磁のような肌に触れる。
──誰もがそう確信した、次の瞬間だった。
リリアーナの周囲の空気が、キィィィィィ、と鼓膜を劈くような高周波を立てて圧縮された。
それは、彼女の無意識が発した拒絶の防壁。
ヘンリックの指が彼女に触れる直前、目に見えない強固な断絶が、暴力的なまでの力で彼の腕を弾き返した。
バキィッ、という乾いた破壊音が、静まり返った屋根裏部屋に響き渡る。
リリアーナ自身は、指一本動かしていない。
ただ、彼女の中に宿った膨大な、そして純粋すぎる魔力が、ヘンリックという不浄な存在を「排除すべき害虫」と見なしただけだった。
「ぎ、ああああああああああああああっ!!」
ヘンリックは自身の右手を抱え、その場に崩れ落ちた。
彼の手首は、ありえない方向に折れ曲がっている。
自分の骨が砕ける音を聞き、激痛にのたうち回る男を、リリアーナは微塵の動揺もなく見下ろしていた。
彼女は自分の足元で悶絶する男を、まるで道端に転がっている汚物に不意に触れそうになった通行人のように、わずかに眉をひそめて眺めている。
「……汚らわしい」
その声は、かつてヘンリックが、アリステアが、彼女に浴びせ続けてきた蔑みと同じ温度を持っていた。
だが、今のリリアーナから発せられるそれは、憎しみという熱さえ持たない、純粋な生理的拒絶だった。
彼女は、実の兄である男がどれほど痛みに叫ぼうとも、その存在を自分と同じ「人間」として認識していないのだ。
「ゼパル様。この方は、一体何者なのですか? 初対面の私にいきなり乱暴を働こうとするなんて、よほど教育の行き届いていない家系の方なのでしょうか」
リリアーナは、背後の影から愉悦を隠そうともせずに微笑んでいるゼパルの胸へと身を寄せた。
彼女の問いかけは、ヘンリックという男のアイデンティティを、その根底から否定するものだった。
兄として妹を虐げていた時間は、今の彼女にとって「存在しなかった空白」に過ぎない。
廊下からは、異変を聞きつけたアドラー公爵の騒がしい足音が近づいてくる。
だが、これから始まるのは再会の喜びなどではなく、自分たちが作り上げた「都合のいい供物」が、自分たちを認識すらしないという、絶望的な断絶の幕開けだった。










