第3話:悪魔ゼパルの誘惑
屋根裏の闇は、もはや単なる暗闇ではなかった。
それはリリアーナの絶望を吸い込んで重く濁り、粘り気のある沈黙となって彼女を押し潰している。
床に落ちた一滴の黒い涙が、波紋のように闇を揺らした。
不意に、部屋の隅にある濃い影が、意志を持っているかのように立ち上がる。
リリアーナは、その存在に気づきながらも、悲鳴を上げることさえ忘れていた。
影の中から現れたのは、夜の闇よりも深い漆黒の外套を纏った男だった。
月明かりのない暗闇だというのに、彼の琥珀色の瞳だけは、獲物を見つけた獣のように鋭く、美しく発光している。
「あぁ……素晴らしい。これほどまでに純度の高い、煮詰められた絶望は数百年ぶりだ」
男は音もなくリリアーナに近づくと、その細い顎を冷たい指先で掬い上げた。
リリアーナは、蛇に睨まれた小鳥のように身を竦ませる。
男の端正な顔が、彼女の頬に寄せられた。
彼は、彼女の頬を伝う一筋の涙を、愛おしそうに指先で受け止める。
そして、猟奇的なまでの恍惚を浮かべながら、それをゆっくりと舌で舐めとった。
「甘い。甘すぎて、胸が焼けるようだ。お前はどれほどの歳月、この情念を熟成させてきたのだ?」
男の声は、深い森の奥で響く鐘の音のように、リリアーナの脳髄に直接染み込んできた。
「……貴方は……だれ……?」
掠れた声で問いかけるリリアーナに対し、男は優雅に、けれど不吉な笑みを深めた。
「私の名はゼパル。お前の絶望の香りに惹かれてやってきた、通りすがりの美食家だ」
ゼパルと名乗った男は、リリアーナを包み込むように、その外套を広げた。
「リリアーナ。お前を苦しめるその醜い記憶を、すべて私に売らないか」
「記憶を……売る……?」
「そうだ。お前を裏切った王子との思い出、お前を蔑む家族の視線、そして今、お前を蝕んでいるこの裂けるような痛み。そのすべてを、私が美味として骨の髄まで貪ってやろう」
ゼパルの琥珀色の瞳が、彼女の魂を見透かすように燃え上がった。
「代わりに、お前をこの世で最も尊い存在に変えてやる。お前の中に溜まったあの男の毒を、私の魔力で極上の光へと精製し、誰もが平伏す美貌を与えよう」
リリアーナは、その言葉の意味を必死に理解しようとした。
思い出を消す。苦しみを消す。
あんなに愛していたアリステアの笑顔も、彼のために捧げた五年間の努力も、すべて無かったことにする。
それは、自らの存在そのものを否定する行為かもしれない。
だが、今の彼女には、守るべき過去など欠片も残っていなかった。
あるのは、ただ、この凍えるような孤独から、一秒でも早く逃げ出したいという渇望だけだ。
「……お願い……助けて……」
リリアーナは、震える手でゼパルの黒い衣を掴んだ。
「この苦しみを消してくれるなら……私は、なんだって差し出すわ……」
「契約は成立だ、愛しいリリアーナ」
ゼパルは、狂おしいほどの喜びを瞳に湛え、彼女の額にそっと唇を寄せた。
リリアーナの意識は、冷たくて甘い闇の底へと、ゆっくりと沈んでいった。










