第21話:透明な壁の向こう側
目を開けても、そこには救いなどなかった。
アリステアが閉じ込められた「断絶の間」は、ゼパルの寝室と執務室に隣接する、虚無の空間だ。
正面を遮るのは、冷たく滑らかな魔法の鏡。
アリステア側からは、向こう側の情景が、リリアーナの吐息や衣擦れの音さえ聞こえるほど鮮明に透けて見えていた。
だが、向こう側から見えるのは、ただの豪奢な銀鏡でしかない。
「あぁ……今日もいい天気ですわ、ゼパル様」
リリアーナの鈴を転がすような声が、鏡のすぐ向こうで響く。
彼女は今、鏡の目の前で、ゼパルに髪を梳かしてもらっていた。
アリステアは狂ったように鏡を叩き、彼女の名前を叫んだ。
だが、拳は音もなく空を切り、声は鏡の内側で虚しく反響して消える。
リリアーナは、鏡の向こうでかつての婚約者が血の涙を流して絶叫していることなど、露ほども疑わずに微笑んでいる。
鏡に映る彼女の顔は、アリステアが五年間の婚姻生活で一度も見たことがないほど、幸福に満ち溢れていた。
自分といた時の彼女は、いつもどこか怯え、無理に口角を上げ、濁った肌を隠すように俯いていた。
だが今は違う。
瑞々しい真珠のような肌。月光を編んだような銀髪。
何より、その紫水晶の瞳が、一点の曇りもなくゼパルへの信頼と愛を湛えている。
「あぁ、本当だ。お前の髪は、今日も魔界のどの宝石よりも美しいよ、リリアーナ」
ゼパルは鏡越しに、正確にアリステアと視線を合わせた。
リリアーナを愛おしそうに抱き寄せながら、その瞳には凍りつくような冷笑が宿っている。
ゼパルは、アリステアが一番見たくないもの──自分が与えられなかった「安らぎ」を、これ見よがしに提供し続けていた。
「ゼパル様、なんだか鏡の向こうから、不思議な熱を感じますわ」
リリアーナが、ふと鏡に白い指先を触れさせた。
アリステアの顔の、ちょうど目のあたり。
アリステアは反射的に顔を寄せ、彼女の指に触れようとした。
だが、指先が触れたのは冷たいガラスの感触だけだ。
彼女が感じているのは、アリステアから溢れ出す、やり場のない執着と絶望の熱量だった。
「気のせいだよ。きっと、部屋が温まったのだろう」
ゼパルはリリアーナの肩を抱き、彼女を鏡から遠ざける。
アリステアは、自分を忘れた彼女の背中を見送ることしかできない。
彼女にとって自分は、鏡の向こうの「熱」という、正体不明のノイズにすら満たない存在。
かつて彼女を「部品」として扱った男は、今や彼女の日常を彩る「風景」の一部にさえなれず、ただ至近距離で彼女を失い続けるという、永劫の刑罰に処されていた。










