第2話:アドラー公爵邸の屋根裏部屋
雨に濡れ、泥にまみれた体でリリアーナが実家であるアドラー公爵邸に辿り着いたとき、門を開けた使用人たちは一様に嫌悪の表情を浮かべた。
かつては王家の婚約者として、一族の希望と謳われた高貴な令嬢。
しかし、目の前にいるのは、誰かも分からぬほどに痩せこけ、生気を失った老婆のような女だ。
広間に引きずり出されたリリアーナを待っていたのは、実の父であるアドラー公爵の、氷よりも冷たい視線だった。
「よくもまあ、その面下げて戻ってこれたものだ」
公爵はソファに深く腰掛けたまま、娘を人間としてではなく、壊れた置物のように見下した。
「王家との繋がりこそが、我が公爵家の生命線だった。それを貴様のような醜女が台無しにしおって。リリアーナ、貴様は我が家の恥だ。もはや粗大ゴミ以下の存在だな」
リリアーナは、震える手で床を掴んだ。
「お父様、聞いてください……私は、アリステア様の毒を吸い取って……」
「黙れ」
背後から、兄のヘンリックが容赦なくリリアーナの背中を蹴りつけた。
小さな悲鳴とともに、リリアーナは冷たい大理石の床に顔を打ちつける。
「お前の言い訳など、誰が聞くか。美しさも保てない無能な女が。お前がその姿になったのは、お前の自己管理がなっていなかったからだ。公爵家に泥を塗った罪、その身で償え」
ヘンリックは、リリアーナの細くなった腕を乱暴に掴み、上階へと引きずり始めた。
「痛い……離してください、お兄様……」
「うるさい。お前に相応しい部屋を用意してやった」
連れて行かれたのは、屋敷の最上階、窓一つない狭い屋根裏部屋だった。
埃が舞い、カビの臭いが充満するその部屋には、簡素なベッドと錆びた水差ししかない。
ヘンリックは彼女を部屋の奥へと放り投げた。
「ここがお前の終の棲家だ。鏡を見る必要もないだろう。自分の醜さに絶望して死ぬのが、お前にできる唯一の親孝行だ」
重い鉄の扉が閉まり、鍵のかかる冷酷な音が響いた。
それから、地獄のような日々が始まった。
食事は一日に一度、カビの生えた硬いパンと、泥の混じったようなスープだけが扉の隙間から差し入れられた。
窓のない暗闇の中で、リリアーナは時間の感覚さえ失っていった。
鏡を取り上げられ、自分が今どんな顔をしているのかさえ分からない。
ただ、自らの肌に触れるたび、その荒れた感触に涙が溢れた。
なぜ。
暗闇の中、彼女は何度も自問した。
なぜ私は、あんなにもアリステア様を愛してしまったのか。
自分の美貌を、健康を、青春のすべてを、一滴残らず彼に注ぎ込んでしまったのか。
私が彼を光り輝かせたのに。
私が彼を「太陽」にしたのに。
どうして誰も、私の献身に気づいてくれないのか。
どうして、私だけがこんな暗闇の中で死ななければならないのか。
愛していた記憶は、鋭い刃となって彼女の心を切り刻んだ。
献身は後悔へ。
後悔は、行き場のない真っ黒な憎悪へと変わっていく。
リリアーナの瞳から、最後の一滴の光が消えた。
彼女の心を満たしたのは、世界を呪い、自らを呪う、煮詰められた純粋な「絶望」だった。
「……誰か……助けて……」
掠れた声で呟きながら、リリアーナは黒い涙を流した。
その涙が床に落ちた瞬間。
屋根裏部屋の隅、光さえ届かないはずの影が、生き物のように蠢き始めた。










